山南敬助とは新選組副長・総長である。
概要
天保4年(1833年)、陸奥国仙台にて、仙台藩士の子に生まれる。諱は知信。山南のよみは従来「やまなみ」とされたが、同時代史料に「三男」などと書かれたものがあるため、「さんなん」であるとする説もある。
江戸に赴き小野派一刀流や北辰一刀流を学ぶ。近藤勇との勝負に敗れ、弟子入りする。
文久3年(1863年)に浪士組の一員として近藤らと上京。京都に残り壬生浪士組に加わった。9月には芹沢鴨暗殺に参加している。
文久4年(1864年)1月頃、岩木升屋という呉服店に乱入した浪士と闘った際怪我を負い、第一線から身を引く。
切腹の理由については諸説あり、永倉新八は『新撰組顛末記』の中で「山南が伊東甲子太郎と意気投合したことが近藤の嫌疑を受け、脱走したのを沖田総司が大津まで追いかけて連れ戻し、法令に背いたため切腹させることになった」「自分と伊東はもう一度逃げることを進めたが、既に切腹を覚悟していたため受け付けなかった」としている。
新選組を題材とする作品では温厚篤実な人物として描かれる事が多い。また何故か眼鏡をかけている事がある。
関連項目
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