山口尚芳(1839~1894)とは、幕末から明治時代初頭にかけて活躍した人物である。
概要
佐賀藩士。というか一般的には、岩倉使節団の有名人たちに紛れてなんか帽子持って突っ立ってる誰かよくわからない人、として逆に知名度の高い人物である。通称は範蔵、治喜人と名乗る。
武雄の出身で15歳の頃、長崎で蘭学を、英語伝習所(済美館)で英語を学び、帰郷後には佐賀藩の翻訳兼練兵掛となる、上京すると岩倉具視に接近し、薩長同盟の成立に紛争し、江戸開城時には小松帯刀とともに先登入城したそうだ。
明治政府でも要職を歴任していく。明治4年(1871年)には外務少輔となり、岩倉使節団の全権副使となって木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった人物と肩を並べ、あの写真に写ることとなる。
明治7年(1874年)、江藤新平の起こした佐賀の乱では、武雄も鎮圧のために士族団を出兵させ、山口尚芳もまた騒擾鎮撫の兵を率いて佐賀に入城して鎮圧に努めた。この際、出兵を拒否し続ける武雄に対し、武雄領主・鍋島茂昌への諫言、乱後に武雄を赦免させるために奔走、といった具合に、山口尚芳は蔭に日向にあちこちを駆けずり回ったのであった。
明治8年(1875年)に元老院議員、明治14年(1881年)に初代会計検査院長に就任し、元老院・参事院の議員を務め、明治23年(1890年)には貴族院議員に抜擢された。決して派手な功績はなかったものの、維新後の新政府を支えていった、そのような人物であった。
関連項目
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