島津忠久(1146?~1227)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
源頼朝のご落胤…ということはなく父は下級官人の惟宗広言、または広言は養父で本来の父は惟宗忠康とされる。母は比企能員の姉・丹後局であり、源頼朝の乳母・比企尼につながる系譜である。
もともとは近衛家の家司だったらしく近衛家領島津荘を苗字としており、母親の縁を頼って鎌倉に下り、早い段階から源頼朝に仕えたのだが、平家追討戦には名前が見えない。しかし1185年に伊勢国の平家没官領を得ており、実は比企氏の下で従軍してたのでは…?疑惑もある。
源頼朝から薩摩・大隅・日向守護に任じられたが比企氏の乱に連座し、収公された。とは言ったものの以降も幕府で重用され、源実朝の学問所番を任じられており、和田合戦の勲功として甲斐国波加利新荘を拝領したほか、このころには守護の座に戻っている。さらに承久の乱では嫡男・島津忠義(島津忠時)の活躍で信濃国太田荘を拝領し、旧比企氏領だった越前国守護職をも手に入れた(もともと弟の津々見忠季がついていた若狭守護職にも彼の戦死によって忠義が守護職に就いている)。
また島津忠久は左兵衛尉、左衛門尉、検非違使、豊後守と武官のキャリアコースをたどったが、幕府では陰陽道関係の職務に係ることが多く、文官として活動した。
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