川相昌弘は、かつて巨人と中日に所属していたバント職人である。中日ドラゴンズでコーチ・二軍監督を務め、2011年からは読売ジャイアンツに復帰し二軍監督を務める。愛称は「ジイ」「バントの神様」。右投右打。
概要
経歴
1964年 岡山県生まれ。高校時代は投手として活躍し、甲子園出場を2度果たす。その実力がスカウトの目にとまる。
1982年 ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け、翌年入団。入団直後に野手へ転向した。
1985年 6月13日のヤクルト戦、阿井英二郎投手からプロで初めての犠打(送りバント)を決める。
1989年 本格的にスタメン定着し、自身初となる二桁犠打(32回)を達成。このころから、犠打の快感に目覚める。シーズン終了後、守備の良さが評価されゴールデングラブ賞を初受賞。
1990年 通算100犠打達成。更に同シーズンで58犠打を決め、(当時の)シーズン最多犠打記録を更新。
1991年 バントは絶好調。66犠打を記録し、自身の持つシーズン最多犠打記録を更新。一方で打撃はさっぱりせず(.251)、やや不本意なシーズンでもあった。
1992年 通算200犠打達成。ゴールデングラブ賞を逃す。翌年受賞。
1995年 通算300犠打達成。ゴールデングラブ賞を逃す。翌年受賞。
1997年 通算400犠打達成。ゴールデングラブ賞を逃す。以降、ヤクルトの名遊撃手:宮本慎也の台頭によりゴールデングラブ賞は受賞できず。
1999年 二岡智宏の台頭もあって、出場機会が大幅に減る。犠打数もこの頃から顕著に減少。
2003年 通算512犠打を達成し、世界記録を更新。同年に引退表明、及び巨人コーチ就任内定も、突如の原監督辞任劇により撤回。巨人を退団し、現役続行。
2004年 中日ドラゴンズに入団。同球団の守備要員や代打(バント)要員として3年間活躍した。
2006年 引退表明。同年10月15日に公式戦最後の犠打を決め、通算犠打記録を533とした。以後は中日の一軍内野守備・走塁コーチに就任し、選手たちの指導に当たる。
2010年 中日の二軍監督に就任。同年9月28日、中日からの退団が球団から発表。同年10月25日、8年ぶりに巨人に復帰し二軍監督へ就任することが発表された。
豆知識
- バント職人として有名だが、守備にも定評があり、ゴールデングラブ賞を6回受賞している。
- ちなみに巨人入団当初はその守備力の高さから、内野だけでなく外野を守ることもあった。
- 1990年頃からスイッチヒッターに挑戦するが、思った成果が上げられず結局右打ちに戻している。
- 1993,94年とチーム内首位打者を記録したことがあるが、1993年は打率.290と3割に満たなかった。
- 盗塁があまり得意ではなく、1993年には盗塁失敗率が80%オーバーと、かなり暴走していた模様。
- 2001年、川相の持つシーズン犠打記録を、ヤクルトの宮本慎也が67犠打を決めて日本記録更新。
宮本空気嫁 - 2003年、8月20日の試合で通算512犠打を記録し、MLBのエディ・コリンズ選手の記録を更新した。 …しかしこの犠打を決めた時、川相の右足が実は打席から出ていた。
- 2006年の引退セレモニーinナゴヤドームで、(24年間の選手生活を振り返りつつ) 「特にこのドラゴンズの3年は、僕にとってホントに、素晴らしい3年でした」と発言している。 …(巨人に対する)本音なのか、(中日ファンに対する)リップサービスなのか、真意は不明。
- 見かけによらず熱くなりやすく、2007年のCS優勝時のブログにて乱闘について「興奮した」と記すほど。
- ( ´w`)<井端はいいバッター、ナンチテ
- [ー。ー]つ<<< ´w`) 川相さん帰りますよ
関連動画
| 巨人時代(~2001年頃まで) |
応援歌(中日時代) |
| 驚異の守備力(このとき40歳) |
現役最後の送りバント |
| 引退セレモニー(中日) |
コーチ就任後の川相 |
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関連項目
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読み:カワイマサヒロ
初版作成日: 09/07/19 18:23 ◆ 最終更新日: 10/10/25 23:55
編集内容についての説明/コメント: 巨人復帰追記
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