平教経(?~1185)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
概要
平教盛と藤原資憲の娘との間に生まれた、平教盛の次男。平通盛は同母兄で、元の名前は平国盛。通称能登殿。
『平家物語』では源義経のライバルとして獅子奮迅の活躍をするが、実は史実ではいつ死んだかもはっきりしていない、そんな武将である。
伯耆守、民部権大輔、越前守を歴任後、1179年11月に能登守となる。
1181年9月に北陸道追討軍の副将軍となるが、生き延びることとなる。その後『吾妻鏡』では1184年2月の一ノ谷の戦いで甲斐源氏の安田義定に討たれたとされるが、『玉葉』では生存しているとされ、『醍醐寺雑事記』では壇ノ浦の戦いでの自害者とされるため、古くから見解が分かれていた。近年では生存説の方がとられるようだ。
このように史実ではいつ死んだかもはっきりしていないのだが、『平家物語』では1183年閏10月の水島の戦い以降、一門きっての勇将として活躍する。まず水島の戦いでは味方の船を綱でつなぎ、その上に板を敷き詰めるという戦法で勝利。その後瀬戸内で源氏に寝返った勢力を攻略していく。一ノ谷の戦いでは平宗盛から難所の防衛を依頼されるが、戦果をあげることなく屋島へ落ち延びた。
1185年の屋島の戦いでは「王城一のつよ弓」と評された弓矢で、源義経をかばった佐藤継信を射止めるも、童の菊王丸が討ち死にし撤退。そして3月の壇ノ浦での戦いの活躍が極めて有名な場面となっている。矢を射つくした後に刀と長刀をもって駆け巡り、平知盛の制止を振り切り源義経との決戦に挑み、すんでのところで八艘飛びによって逃げられる。そして覚悟を決めた平教経は、武装を解き、捕らえた敵を両脇に挟み「死途の山のともをせよ」と言い放って海に身を投じた。享年は26歳とも27歳ともいわれている。
そのため下関市の赤間神宮の平家一門の墓標には平教経の墓もあるが、徳島県の祖谷に落人伝説が伝わり、平国盛の末裔という阿佐家に平家の赤旗が伝わっている。
関連項目
- 0
- 0pt