平時忠(1130~1189)とは、平安時代末期に活躍した公家である。
概要
桓武平氏のうち京都に残った高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は平時信、母は令子内親王(二条大宮)家の半女。姉妹には平清盛の妻・平時子、後白河院の皇后になった平滋子(建春門院)らがいる。妻は藤原顕時の娘で安徳天皇乳母の藤原領子。通称平関白。
「一門にあらざらむ人はみな人非人なる」、つまり「平家にあらずんば人にあらず」の一言でおなじみのあのひとである。
1147年に左衛門尉、1157年に兵部権大輔、1159年に刑部大輔、1160年に右少弁を兼ねる。1161年に後白河院の皇子・憲仁親王(高倉天皇)の立太子をめぐる陰謀に加担して解官された上、1162年には国家に対する呪詛を行ったとして1165年まで出雲に配流された。
帰京後は本位に復帰し、1167年には参議、1168年には従三位に達し公卿に連なる。右衛門尉・検非違使別当を兼任したうえ、権中納言に至ったが、1169年に藤原成親と共謀して不実の上奏をしたとして再度出雲国に流される。しかしこの時は1170年に召し返されて本位に復帰。1172年には平徳子が中宮になり中宮権大夫となった。1178年には中宮大夫、1183年には権大納言にまで至る。
日記を家業とする中流貴族・院近臣にすぎなかった彼がここまで立身出生したのは、姉妹が平清盛、後白河院の妃となって外戚政治の枢要であったことが影響しており、たびたび策謀に加わりながらも、中央政権に復帰しているのもそのためである。ついには国を傾けた楊貴妃の兄である楊国忠にまでたとえられている。
こうして「平家にあらざらむ人はみな人非人なる」と発言し、平家専横のシンボルとなる時忠であるが、彼は上を見るとわかるように元は武官で軍事・警察権に関わってきた人物であり、検非違使別当時代には自ら強盗の手を斬り「悪別当」と『百錬抄』に伝えられるほど豪胆な人物だったと思われる。
平清盛没後、平時子と平宗盛を補佐し一門の意思決定をした。しかし壇ノ浦の戦いで源氏方の捕虜となった彼は三種の神器回収に協力し、帰洛後には源義経を娘婿として平家関連の押収文書を取り戻し、死罪を免れ能登に配流され、そのまま能登で一生を終えた。能登には彼の子孫を名乗る時国家が残っている。
関連項目
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