徐福(じょふく)という名前の人物は中国史上に多くいたと思われるが、特に有名なものは以下の2名とされる。
三国志の時代に劉備に仕えた軍師・徐庶の本名とされる名前。詳しくは徐庶の記事を参照のこと。
ここでは1の徐福について書く。
この項目では、徐福と同じく始皇帝に仕えた方士である盧生(ろせい)についてもあわせて紹介する。
概要
徐福は司馬遷の記した『史記』の「秦始皇本紀」「淮南衡山列伝」に登場する。紀元前220年頃(紀元前3世紀)建国した秦王朝の時代に生きていた人物で、斉(現在の山東地方に存在した国)に住んでいたという。
この斉とその北にある燕(現在の遼東地方に存在した国)にかけて、東の広大な海に面した国では、古くから神遷(しんせん)思想が盛んであった。
神遷とは海上の島に住む仙人のことである。斉と燕の国では、中国の戦国時代である斉の威王(いおう)、燕の昭王(しょうおう)の時代から、東方の海にいる「蓬莱(ほうらい)」「方丈(ほうじょう)」「嬴州(えいしゅう)」の「三神山」を探すことが盛んとなっていた。
「三神山」では、鳥や動物は全て白色をしており、金銀でつくられた宮殿が林立し、不死の薬が存在する。三神山はそこまで遠くはないが、船で近づくと水に溺れるか、風が吹いて船が流されるため、だれも近づけない。そのように言い伝えられてきた。
おそらくは、徐福はそうした神遷に近づくための道を修める方士(ほうし)の一人であったと考えられる。
方士とは、本来は医術や占い、天文の術を扱うものを含むが、秦の時代では不老不死の術を説く一派が中心であり、怪しげな人物が多かったといわれる。
秦王朝は中国で最初の統一王朝であり、中国で初めて「皇帝」と名乗った始皇帝が支配したことで知られる。始皇帝は不老不死とそれをもたらす薬に多大な興味を示していた。
※始皇帝は辰砂(硫化水銀。もちろん人体に悪い毒であるが、霊薬と信じられていた時代もあった)を常用していたという説もある。ただし、始皇帝の時代には辰砂が霊薬であると信じられていたかはかなり疑問が持たれるところであり、始皇帝が常用していたという説に強い根拠はない。
そんな始皇帝が紀元前219年、二度目の巡幸(皇帝が家臣や兵をともなって、視察や神々への祈りのために各地を回ること)の時、中国の東にある琅邪(ロウヤ)の地に来た。生まれてはじめて海を見た始皇帝は、琅邪の地が気に入り、3か月も滞在する。
「東方の海の先にあります「三神山」である「蓬莱」「方丈」「嬴州」に仙人が住んでいると聞いています。そこに身を清め、汚れのない少年少女とともに、仙人に会うことをお許しください」。
不老不死の薬が手に入るかもしれないと考えた始皇帝は、徐福に数千人の少年少女をつれて、東に向けて出港させ、仙人を探させ、不老不死の薬を求めさせることにした。
だが、徐福をどうしていたのか、始皇帝のところには報告しなかった。
7年後の、紀元前212年、始皇帝に仕えていた方士の一人である盧生(ロセイ、後述)の咸陽からの逃亡事件が起きた後に、始皇帝は徐福を思い出したらしく、「徐福は巨万の費用を費やしただけで、不死の薬を手にいれなかったということだ」と語っている。
それから、さらに、2年後の紀元前210年、始皇帝は第五回の巡幸の時、再び、琅邪についた時に徐福を連れてこさせる。徐福が使った費用はかなりの額にのぼっていた。
※始皇帝はこの年、この巡幸の時に死去し、すでに体調は思わしくなかったと思われる。また、随分と気長な話であり、始皇帝が短気な独裁者であるというイメージには修正が必要かもしれない。
「蓬莱山の薬は入手できるのですが、出港したものの、いつも大鮫(おおざめ)に阻まれて到達できないのです。弓の名手を同行させてください。大鮫を連弩(連発式の弩)で射止めましょう」
たまたま、人間に似た海の神と戦う夢を見ていた始皇帝は、徐福の話を信じて、漁師にクジラ取りの道具を用意させ、連弩を持って、みずから船に乗る。始皇帝は、大鮫を発見すると、連弩で射て大鮫を射殺した。
以上が「秦始皇本紀」における徐福の記述であり、徐福がその後どうなったか分からないが、『史記』の「淮南衡山列伝」では、徐福から約100年後後に、淮南(ワイナン)王・劉安の臣下であり、伍被(ゴヒ)が徐福に関する別の伝承について語っている。
伍被によると、徐福は、始皇帝の使者として、東の海にいる仙人の島に不死の薬を求めてたずねて帰った後で、いつわってこのように語ったという。
「私は東の海で大神に会い、(始皇帝の)使者であることを告げました。そこで、長寿の仙薬を求めたのですが、『お前たちの王(始皇帝)の供物が少ないから渡せない』とおっしゃって、私を蓬莱山に連れていかれました。そこには霊芝(れいし)に囲まれた宮殿がありました。銅の色をして龍の形をした天まで光輝く天界の使者がいらっしゃっていました。私が海の神に献上品をお聞きしたところ、『良家の少年少女と様々な宝物を献上するように』ということでした」
始皇帝はとても喜び、今度は成功させるためにと、少年少女三千人と五穀の種子、宝物を徐福に与え、送り出した。
その後、結局徐福は帰って来ず、広い平野と沼のある島にたどりついて、王となったとしている。これを語った伍被はどうやってそれを知ったんだろうか…
日中の徐福伝説
さて、徐福は東の果てにある「蓬莱」を目指したとされているが、中国大陸の東には東シナ海が横たわり、その先にあるのは日本である。このため、徐福は日本に辿り着き、そこで王国を築く、つまり日本人の祖となったという伝説がある。これは日本でも中国でも知られる伝説である。
もちろん、日本に到達する前に遭難してしまったかもしれないし、到達した先が朝鮮半島や台湾だったかもしれないし、単に始皇帝を騙してどこかに雲隠れしただけかもしれない。しかし、もしこの日本到達が事実であれば、『魏志倭人伝』(3世紀成立)よりも古い、最古の日本に関する記述になるかもしれないのだ。
中国の近現代の歴史学界では、正史とされている『史記』の記述でありながら、その記述が簡潔すぎるということから実在を疑われていたという。しかし1982年、研究者が江蘇省にある「徐阜村」という集落が、かつて「徐福村」であったことを発見、調べてみるとそこは徐氏の末裔が住む村であったことがわかり、徐福の存在が実在のものであった可能性が高くなった。この「徐氏の末裔」とかも自称してるだけかもしれないし、村おこしの話題作りに捏造したものかもしれないが、いずれにせよこの発見で徐福に関する研究や論争が闊達になったことは事実のようである。
一方の到達地とされる日本では、紀元前3世紀の史料などまったくないため、徐福が実際に来たかどうかすらわかっていない。しかし日本各地に徐福が来たという伝説の残る地が多数あり、北は青森、南は鹿児島、さらには八丈島にも徐福伝説が残っている。浦島太郎伝説といい勝負である。
また、日本には「秦(はた)」という苗字があるが、これの由来のひとつに徐福末裔説がある(ほかにも始皇帝末裔・朝鮮王家末裔など諸説ある)。
盧生
徐福と同じように、始皇帝に仕えて不老不死の薬を探した方士として盧生という人物がいる。
紀元前215年、始皇帝が、四度目の巡幸の時に、かつての燕の国があった渤海(ボッカイ)に面した碣石(ケツセキ)の地を訪れた時、盧生は始皇帝に謁見して、渤海の彼方にいる羨門高(セイモンコウ)という名の仙人がいると説いた。その仙人に、不老不死の薬を譲り渡してもらおうということである。
始皇帝からの支援を受けて、盧生は渤海に行くことになった。始皇帝はまた、韓終(カンシュウ)、侯公、石生という方士にも仙人を探させ、不老不死の薬を求めるようにさせた。
盧生は、始皇帝が巡幸からもどり、都である咸陽(カンヨウ)に着いた時に、海に住む鬼神から手にいれたと称する書物を献上する。
『禄図書(ろくとしょ)』という名のその書物は、いわゆる預言書であった。どこまで信じたか分からないが、始皇帝が『禄図書』を読むと、「亡秦者胡也」(秦を亡ぼすものは胡である)と記されていた。
そこで、始皇帝は「胡」すなわち、北の匈奴への侵攻を決め、将軍の蒙恬(モウテン)に匈奴への攻撃を命じたと伝えられる。
もっとも、始皇帝は翌年には「胡」とは呼ばれない南方の「百越」の国を攻めていることから、きっかけの一つにはなったかもしれないが、元々から匈奴への侵攻は構想にいれていたという説が有力であることはおさえておきたい。
結局、盧生は始皇帝に召し抱えられることになり、秦の学者であり、始皇帝の顧問ともいえる学者である「博士」の一人に命じられることになった。それから、盧生は始皇帝に仕える方士の代表的な存在となったようである。
紀元前212年、盧生は、相変わらず不老不死を求める始皇帝にこのような話を語った。
「私たちは不老不死の薬を探していますが、見つけることができないままです。どうやら、鬼神がさまたげているようです。方術では『王は時おり、こっそり外出してみつからないようして悪鬼をしりぞけろ。悪鬼がしりぞければ、真人(しんじん)が来る。王の居場所を臣下が知れば、神霊にさしさわりがある』といいます。
真人は、水に入ってもぬれず、火に入っても焼けず、天地とともに永遠に生きるものです。主上(始皇帝)は天下を統一されたものの、無欲平穏の境地には達せられておりません。
どうか、主上がおいでになる宮殿を臣下に知られないようにしてください。そうすれば、不老不死の薬は手に入るでしょう」
海を探しても仙人に会うことができないことが分かった盧生は、いにしえから伝わる真人の降臨を願って、そこから不老不死の薬を手にいれようとしたらしい。あるいは、元々から伝わっている真人の話にすりかえて、不老不死の薬が見つからないことで、罰せられないように時間稼ぎをしようとしたのかもしれない。
不老不死の薬を手にいれることに焦る始皇帝は、この盧生の言葉にまどわされた。
「真人がしたわしい。これからは、わしは自分のことを(皇帝の自称である)『朕』と呼ばずに、『真人』と自称するようにしよう」
と言い、悪鬼をさけるため、宮殿を改築し、咸陽城の周囲200里にある宮殿や楼閣あわせて270棟を、壁で目隠しした通路でつなぎ、休憩所や始皇帝を楽しませる音楽や美女を各所に配置して、持ち場から移動しないようにさせて、始皇帝の居場所が分からないようにさせた。
さらに、法令まで変えて、皇帝の外出の時に居場所を教えたものは死刑と定めた。
始皇帝の言葉を、丞相(じょうしょう、宰相のこと)である李斯(リシ)に漏らした側近がいた。訊問したが、誰も自白しなかったため、その時、近くにいた側近全てが処刑された。
あまりの始皇帝の傾倒ぶりに、盧生は、真人が訪れなかった時のことを恐れるようになった。方術にききめがなければ、秦の法律では死刑である。
「始皇帝は、生まれつき強情でわがままだ。天下を統一し、全てが思い通りになり、いにしえより自分よりすぐれたものはいないと思っている。法律に厳しい役人ばかりを信任しており、70人もいる顧問の博士たちは、発言が採用されたことはない。丞相や大臣たちはみな始皇帝の決めたことのいいなりだ。
始皇帝は刑罰で人をしばり、臣下は始皇帝をおそれ、保身のためもあって、諫める忠臣はいない。始皇帝はみずからのあやまちを耳にすることもなく、日々、おごりたかぶり、臣下たちは始皇帝をおそれて、おべっかを言って、従うばかりである。
このままでは死刑になってしまう。星をうらない、気を読む術者が300人もいるが、始皇帝に追従し、失政のきざしがあっても、諫めるものもいない。天下のことはあらゆることを始皇帝だけが決定している。
始皇帝は、はかりで書類の重さをはかり、毎日の仕事のノルマを決めている。ノルマが終わるまでは休もうとしない。これだけ権勢を求めるものに仙薬を求めてやることなどできはしない」
と、自分たちが散々いかさまで資金と地位を得て、都合が悪くなったら逃亡を正当化するために自分たちに都合のいい理屈を述べ、始皇帝が仕事熱心なのを巧みに悪口へすりかえて、はじめから存在しないあてもない不老不死の薬を手にいれない理屈をこねあげた上で、侯生とともに咸陽から逃亡した。
盧生たちの逃亡と、散々に自分をだました上で、さらなる自分への悪口を聞いた始皇帝は激怒して語った。
「わしが天下の書物を没収して、役に立たないものは全て焼き去った(始皇帝は前年に「焚書(ふんしょ)」を行っている)。そして、文学と法術の人物を大勢、召し抱えたのは、太平の世をおこそうとするためだ。
そのため、方士たちに不老不死の薬を探させようとしたのに、韓衆(韓終と同一人物か?)は逃亡して報告しようともしない。徐福は巨万の費用を費やしただけで、不死の薬を手にいれられなかった。方士たちがただずる賢いだけの詐欺師であると日々、報告が行われている。
盧生たちを尊重して、非常によく待遇してきたのに、わしを誹謗(ひぼう)して、わしの不徳を天下に知らしめようとした。諸生(秦に仕えた学者)の咸陽にいるものは、わしが調査させたところ、流言を行って民をまどわしているということである」
そこで、始皇帝は臣下に命じて、咸陽にいる学者たちを調査させる。
その結果、あやしげな方士と政治批判を行っていた「諸生」(学者)たちが大勢とらえられる。始皇帝は、罪をのがれようと彼らが、次から次へと他人を告発したことを知って、60名余を生き埋めにした。
この中には、多くの孔子の教えに従う儒学者も含まれていたため、「坑儒(こうじゅ)」と呼ばれるようになる。これは、始皇帝の行った有名な言論弾圧事件である。
この時、始皇帝の長子である扶蘇(フソ)が始皇帝を諫めて、始皇帝によって、北で軍を率いていた蒙恬のところに追いやられる。このことが後に秦王朝の滅亡につながることになる。
盧生たちのその後は不明であり、生き埋めにされた460名余に含まれていたか、それとも別に処刑されたか、うまく逃れたかは不明である。
盧生のようなただのいかさま師によって秦王朝が滅びたとすれば、かなりの影響力を持った人物であったということになる。
当時の神仙術について
徐福が生きた(中国の)戦国時代や秦代においては、神仙が存在すると信じ、神遷思想とともに、仙人になるための神仙術が求められた。
神仙術は、中国の戦国時代の中期である斉の威王や宣王(せんおう)、燕の昭王の時代から、燕の国の人である宋毋忌(ソウムイ)や羨門高(盧生が探すといった人物)ら方仙道を行い、死体だけを残して、仙人になる術を伝授していた。
「死体が残って本人はどこにいったか分からない」という本当であることも、嘘であることも証明されない、いかにも怪しげな術であるが、燕の国や斉の国の方士や怪しげな人物たちは争って、その術を伝授された。
斉の威王や宣王、燕の昭王は彼らに命じて、神仙が住むという東方の海にいる「蓬莱」「方丈」「嬴州」の「三神山」を探させ、不老不死の薬を求めさせていた。
「三神山」では、鳥や動物は全て白色をしており、金銀でつくられた宮殿が林立し、不死の薬が存在すると、伝えられてきた。
本文に記した通り、始皇帝もこれを信じて、徐福や盧生に不老不死の薬を求めたが、得られずに死去している。
さらに、後世の前漢時代では、方士たちの神仙術は変化し、「丹砂(硫化水銀)」を錬金術で黄金に変え、その黄金で飲食器をつくり、寿命を益す。そうすれば、海中の仙人たちと会うことができて、祭りを行えば、不死になる。
というはなはだ回りくどい考えのもとに神仙術は行われるようになった。
これは、当時の一流の学者である劉向ですら、多大な費用をかけて行い、前漢の宣帝(せんてい)から罪をえている。
さらに、前漢末期や後漢初期になって、「金丹」という硫化水銀を含む薬を服用して不老不死をめざす神仙術が生まれた。
このため、後世、多くの皇帝や貴族がこの薬を服用し、中毒死をしたり、中毒で苦しむことになっている。中国の代表的な名君である唐の太宗・李世民も金丹の服用で中毒死したという説もある。
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徐福が生きていた秦代については、記述は少ないが、その後、徐福たちが求めた「不老不死の薬」が中国の医学である「漢方」と迷信的な呪術である「神仙術」と関係しつつ、どのような形で発展していき、どのような形で服用されるようになったかが細かく分かる。
秦代では見つけられなかった不老不死の薬は、その後、服用されるようになったが、有毒な物質を含まれていたため、魏晋南北朝時代や唐の時代では、皇帝や貴族、文人たちの間でも、多くの中毒者が発生した。その歴史が分かる。
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