概要
文政4年(1821年)11月28日、関白・鷹司政通の子に生まれ、のち徳大寺実堅(さねみ)の養子になる。徳大寺家は藤原北家閑院流で、家格は清華家に属す。西園寺公望の実父。
安政4年(1857年)、議奏に就任。
安政5年(1858年)、通商条約の勅許を得るため上京した堀田正睦との交渉を行う。徳大寺自身は攘夷派だったが、幕府寄りの態度をとった東坊城聡長と間違われて大原重徳に暗殺されかかるという珍事に見舞われる。3月24日には堀田に対し「今度の条約、とても御許容遊ばされ難く思し召し候」という孝明天皇の意志を伝え、事実上の勅許拒否を通達した。その後安政の大獄により謹慎するが間もなく復帰。以後は公武合体派に転向。内大臣、右大臣、国事御用掛などを務める。
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