徳川忠長(1606~1633)とは、江戸時代の大名であり、徳川家光の弟である。
概要
徳川家光の弟で、幼少期に彼と後継者争いをさせられたことで、以後の人生に暗い影を落とした人物。駿河大納言。
徳川秀忠と正室の江(崇源院)の間に生まれ、この夫妻に兄の徳川家光より溺愛されたことから後継者争いに巻き込まれ、春日局によって徳川家康の調停を仰ぐことになった、という逸話のみで大変有名である。しかしこの件に関しては、徳川家光の幼少期に関する同時代史料があまりなく、最近では史料の精査による研究の進展もあって、家光の出自から何まで見直しが進んでいるようだ。
とはいえ、この采配で完全に将来に望みは絶たれ、彼が撃ち落とした鴨の肉を江(崇源院)が徳川秀忠に差し出したところ、「兄の城に鉄砲を撃つとはもってのほかだ」と温厚な秀忠が怒った逸話が残っている。
こうしていまいち処遇に困る人物となったのだが、元和4年(1618年)に甲斐の国主となり、一門大名として取り立てられる。そして元和6年(1620年)には元服して徳川忠長となり、従四位下・中将、かつ参議という官位を与えられ、以後甲府宰相と称された。
さらに、寛永元年(1624年)には駿河・遠江領国が与えられ、50万石近い領地を差配することとtなった。少なくとも徳川秀忠体制の頃は彼はまだ重視されていたのである。
寛永3年(1626年)には上洛して従二位・権大納言に昇進。以後駿河大納言と称される。徳川忠長の領国支配もかなり優秀と評され、このままいけば特に何もなく、彼の人生は終わったかもしれなかった。
しかし、同年に江(崇源院)が亡くなった。さらに寛永8年(1631年)についに徳川秀忠が彼に甲府蟄居を命じる。明けて寛永9年(1632年)にその徳川秀忠も亡くなると、もはや彼を守るものは誰もいなくなってしまった。
結果、徳川家光に高崎幽閉を命じられる。この背景には土井利勝などが噛んだ徳川忠長の謀反があったともいわれるが、真相は不明である。ともあれ、高崎への幽閉で家臣団は解体。安藤重長のもとで1年近く幽閉生活を送ったが、ついには死の宣告ともいうべき措置をされて死期を悟った徳川忠長は、寛永10年(1633年)に自害した。
補足
時折登場していたが、家光世代が定着した近年のシリーズ作品でも見かけることはない。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 112 | 智才 | 74 | 政才 | 144 | 魅力 | 75 | 野望 | 66 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 44 | 智謀 | 28 | 政治 | 47 | 野望 | 86 | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
関連項目
- 1
- 0pt