「志賀親次」(しが・ちかつぐ 1568?~1660)とは、豊後の戦国武将、大友家臣である。
鬼武蔵の異名を誇った新納忠元や島津義弘の軍を寡兵で撃退した事から、島津義弘より「楠木正成の再来」と称えられたゲリラ戦の天才。名は「志賀親善」とも。洗礼名はドン=パウロ。
キリスト教との出会い
大友家の一族・志賀氏の北志賀家当主であり岡城主、志賀親度の子に生まれた。
12、3歳の頃、大友義統の奥方の侍女でキリシタンのイザベル(洗礼名)と言う娘が志賀家の屋敷に追われてきた。この時、イザベルが十字を切る姿を目撃したことをきっかけに、志賀親次はキリスト教について教えてもらう。やがて自分もキリシタンになりたいと考え始めた親次は、神仏への崇拝をやめ、キリストや聖母マリアの像を集めて礼拝して、洗礼を受けられるように祈った。
生粋の仏教徒だった父・志賀親度の目を盗んで教会に出入りを始めたが、祖母にあたる大友宗麟の妻・奈多夫人に見つかってしまう(奈多家は神主の家系のため、宗麟のキリスト教政策とは強く対立していた)。これ以降は父より厳重に監視された為、教会側からの要望と大友宗麟の調停により、洗礼はしばらく延期と言うことになった。
洗礼をうける
父・志賀親度が南郡衆の筆頭であったことと、母が大友宗麟の娘であった事から宗麟には重用され、黒木家永の猫尾城攻めに参加した際は自慢の武勇を振るっている。
やがて父より志賀家の家督を譲り受けると(親度もその父・志賀親守がまだ若い時に家督を譲られている)、長年夢見てきた洗礼を強行しようと考え始めた。
大友家の重臣一同が府内城に集まった際に、監視の目を盗んで夜の教会を訪れた親次は、大友家から許可を得ぬままに洗礼を受けてドン=パウロの洗礼名を得た。
しかしこれに信心深い仏教徒である父・親度は激怒。宗麟より家督を譲られ新たに当主となっていた大友義統に対して、親次に厳罰を与えるように要求した。義統からは棄教命令が出たが、親次は祖父・志賀親守に家督を返還するとして、キリスト教を捨てる道を選ぶことは無かった。
※この時、父・志賀親度も、志賀親次の洗礼を停められなかった事について大友義統より叱責をうけている。
天正の楠木正成
耳川の戦いの大敗で大友家は衰退し、やがて逆に勢いに乗った島津家の軍勢が北上を開始する。島津義弘率いる豊後侵攻軍が志賀親次の居城・岡城に迫ると、父・志賀親度や別系統の南志賀家は大友家を裏切って島津側に寝返ってしまった。窮地を迎えた親次だったが、義弘とその先鋒の新納忠元の軍を城に篭って迎え撃つ。寡兵ながらゲリラ戦を駆使して敵勢を退け続け、豊臣秀吉の九州征伐軍が上陸するまで時間を稼いだ。島津軍が撤兵すると、裏切った父・親度を自害に追い込み、南志賀家も滅ぼした。
この時の志賀親次の勇戦を、島津義弘が「楠木正成の再来」と評したことから「天正の楠木正成」「今楠木」と呼ばれるようになり、豊臣秀吉からもその武勇を絶賛された。
その後は大友義統にしたがって文禄の役に参加して、朝鮮半島に渡海したものの大友義統が豊臣秀吉の命を待たずに撤兵した事ために大友家が改易されてしまう。所領を失った親次は、豊臣秀吉に仕えた後、1000石で福島正則に仕え、小早川秀秋、福島正則と主家を変えていった後、最後は毛利輝元に仕え、93歳の長命で天寿を全うした。
改易の真相
朝鮮半島に渡海した後、明軍20万が小西行長のところに押し寄せてきた際に、小西行長は近隣の日本軍に救援を求めた。
その尽くが断られたものの、大友義統のみ小西行長の救援要請に判断を下せず、黒田長政の意見を聞くため陣地に相談に赴いた。
そして大友義統が不在の時に事件は起こった。
小西行長の軍が明軍に撃破されたとの誤報が大友義統のいない大友軍の陣に届き、退却の意見が出たが、吉弘統幸と田原親家は退却に反対した為、情報の錯綜と混乱が陣地内に広がり、一部がパニック状態となって黒田長政の陣になだれ込むと勝手に退却を始めてしまった。
※この時、誤報をばらまいた主犯格の中には従軍していた志賀親次が含まれている場合があるが、大友家改易後に主犯格に含まれているものは志賀親次含めて罰せられてはいない為(改易により所領はうしなったが)、豊臣秀吉による陰謀論も唱えられている。
最終的に勝てなかったところもまた「天正の楠木正成」といったところか。
様々な新説
「親善」の別名や、墓に親次のフリガナが「ちかよし」と書かれていることなどから、本当の読みは「しが・ちかよし」だった可能性も高まっている。
後述するように父は志賀親度とされているが、実夫は一般に祖父とされている志賀親守で、兄の親度の養子になったともされる。
さらに、かつては大友家改易の後は京都を目指して以降消息不明とされており、その影響で例えばゲーム「信長の野望」シリーズでは2020年代になっても「1607年没」という設定にされている。だが実際には毛利輝元・福島正則などに仕え、93歳で往生したことが分かっており、こうした新説が今後影響を与えるかもしれない。
※その他「志賀親次」の詳細についてはWikipeidiaの該当記事参照の事。
関連動画
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング九州編に武勇5位で登場。
▼ニコニコ歴史戦略ゲーム企画「その時歴戦が動いた」企画動画
補足
同僚の立花宗茂と比べると流石に霞んでしまうが、それでも一線級の知勇兼備の将。耳川以降の衰えた大友家にとって生命線となる一人。親父は弱いが彼の元服までは許してあげてほしい。
なお、彼の晩年が明らかになったのはごく最近になってからである。それまでは関ヶ原の合戦後間もなく歴史史料からその名が消えてしまったことから、信長の野望シリーズでは寿命が短めに設定されている。アップデートで修正されることに期待したい。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 82 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 66 | 政治 | 35 | 野望 | 23 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 164(A) | 智才 | 132(B) | 政才 | 70(C) | 魅力 | 62 | 野望 | 40 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 86 | 智謀 | 77 | 政治 | 41 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 61 | 戦闘 | 78 | 智謀 | 71 | 政治 | 29 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 73 | 智謀 | 66 | 政治 | 8 | 野望 | 8 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 74 | 知略 | 66 | 政治 | 9 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 68 | 知略 | 63 | 政治 | 9 | 教養 | 46 | ||||||||
革新 | 統率 | 80 | 武勇 | 84 | 知略 | 71 | 政治 | 11 | ||||||||
天道 | 統率 | 80 | 武勇 | 84 | 知略 | 71 | 政治 | 11 | ||||||||
創造 | 統率 | 79 | 武勇 | 80 | 知略 | 70 | 政治 | 26 | ||||||||
大志 | 統率 | 80 | 武勇 | 89 | 知略 | 83 | 内政 | 30 | 外政 | 46 |
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関連コミュニティ
関連項目
- 今楠木/天正の楠木
- 楠木正成
- ドン=パウロ
- 志賀親守
- 志賀親度
- 大友三家
- 大友宗麟
- 大友義統
- 朝倉一玄
- 島津義弘
- 新納忠元
- 福島正則
- 小早川秀秋
- 細川忠興
- 豊臣秀吉
- 戦国時代の人物の一覧
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