愛姫(陽徳院)単語

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愛姫(めごひ1568年~1653年)とは、田村の一粒種であり、伊達政宗の妻であり、必殺の懐を携えた貞女であり、実家滅亡後に遺言で復を成し遂げた耐の女性である。号は陽徳院。通称は田村御前など。

周辺諸国との関係

1568年三にて出生。は三田村清顕、相馬顕胤北御前。
「めご」とは東北方言でかわいらしい様を示す「めごい、めんこい」から来ている。

田村氏は坂上田村麻呂の子孫を称し、現在福島県田村町周辺を支配した。
小勢ながら代々政略・軍略に優れた領が多く、大の脅威に対して結んでは離れを繰り返しながら着実に勢拡大を続け、ついに戦国大名化するに至った屈強な勢である。

田村顕(愛姫)治世に勃発した天文の乱に際しては伊達稙宗に組し、伊達晴宗に転じた蘆名盛氏と対立して相馬顕胤北を嫡男・清顕のに貰い受けている。
乱の終結後も名の侵攻を許さず、また常陸佐竹羽介入を企むと、一転して共闘しこれを追い払った。

その後は再び干を交えた両国だったが、今度は名が佐竹と結んで周囲の人領を支配したため窮地に陥る。
督を継いだ清顕は縦横尽に兵を繰り出し、包囲網を次々と打ち破った。
ところが名領との間に位置する畠山を味方につけた際、わずかに失策を犯してしまう。
伊達方の八丁を調略したため、それまで友好関係にあった伊達輝宗名方として参戦したのである。
名盛に協した伊達実元を奪還し、両軍は畠山領二本まで攻め寄せた。

清顕はすかさず宗へ和を申し入れるが、にべもなくはねつけられてしまった。
その後義の隠居などを条件にようやく停戦が成り(この時督を継いだのが畠山義継である)、清顕は連合の脅威を排するためにも伊達と確実に結ぶことを思案するようになっていく。

また宗の方も田村の一人を迎えることで兄弟姉妹が治める周辺諸の安泰を図り、また夫人が相馬の出であることから相馬対策にも利用できると判断し、ここに互いの利が一致した。

そして1579年、いずれ産まれる次男に田村を継がしめんと約定が交わされ、愛姫伊達政宗へ輿入れした。

愛姫の悲しみ

かくして形の上では夫婦となった両人であったが、政宗は数え歳13、愛姫は同12歳と幼く、また田村より随行した女たちによる囲い込みもあってしばらく距離を置く日々が続いた。
この頃から近侍として片倉喜多が付けられている。

清顕の尽によって伊達相馬が和に至るなど両の関係は良好であったが、何年経とうと二人の間に子はできなかった。
やがて若くして督を譲られた伊達政宗田村との共闘戦略継続したが戦況は芳しからず、年が過ぎる内に宗が横死して羽に混乱が巻き起こってしまう。
そして後継不在のまま1586年清顕が病する。

すると田村中は「政宗を頼りとせよ」との遺言に従う伊達、夫人の実家を頼る相馬に別れて対立し始めた。
相馬の陰謀がさらなる不和を生み出した結果、伊達に出仕する田村女が全員誅殺されてしまう。
※一説には女が政宗を殺しようとしたとも伝えられている。
殺された女には愛姫も含まれており、その悲しみはわずかなすれ違いをさらに助長したことだろう。

この隙を狙って相馬義胤は三を企図したが、方の伊達を撃ちかけられ撤退する。
一連の騒動はやがて佐竹名の参戦によって大規模な合戦へと発展(山合戦)、これをしのぎきった政宗が裁定を下し、清顕甥の田村宗顕督を預かることでようやく決着した。

1590年豊臣秀吉の命によって小田原を果たさなかった羽周辺の人領らが所領収となる。
田村は清顕の遺言をにした政宗が領有を承認された。
しかしながら小田原を差し止めていたのは当の政宗であり、加えて秀吉に献じてとりなすよう依頼した進物も握りつぶされていたことが判明する。
田村乗っ取りの謀略だと判断した宗顕は激怒し、名を縊定顕とめてに隠棲した。

子は産めずは殺され実家易と、愛姫にとって時流に翻弄され続けた前半生であった。

伊達田村の不和について考察
一例として「」の扱い方が挙げられるか。
多くの大名にとってはめでたい食べ物であり、新年祝いの席などで饗されることはごく普通のことであった。
伊達においても正月として記録が残っている。
田村にとっては捨て子になっていた「坂上田村麻呂の落胤」を救った生き物であり、もし料理などすれば祟りがあると伝承されてきた。
新年々のめでたい席で汁に苦い顔をする田村出身の面々を伊達中の者がどのように思うか。
政略・軍略はともかく、文化的に相容れない要因が一つあったといえる。
※上記は単なる推測であるため色を灰色とした。

夫婦和解へ

同1590年豊臣秀吉の人質として京都の聚楽第に移る。
下人秀吉相手に命懸けの田舎芝居で立ち回る政宗を、愛姫はやがて深く理解するようになっていく。
夫人を手篭めにしようと迫る秀吉に対し、懐ばせる決死の覚悟を示して見事に退かせたとも伝わる。

羽で大崎葛西が発生するとの情勢をすぐさま知らせ、手紙には「下は未だ定まるところを知らず、殿儀に従って去就をお決め下さい。私のことはご懸念なさいますな、懐を常に携えています。誓って辱めは受けません」としたためている。

また、この頃の心を表した句として以下のような歌を詠んでいる。
二世まで ちぎる心は まことにて 今は生死を へだつものかは」
大意:あの世まで添い遂げると心から誓っておりますので、現世で生死が二人を隔てたとてなんだというのでしょうか
死地を行ったり来たりの夫へ、もしもの時は殉じて運命を共にするという励である。

政宗はのちに愛姫へ対面した際、三間も下がってし「さすがは田村将軍のお血筋よ」と慇懃に誉めそやした。
もちろんこれは下人に一杯食わせた者同士の諧謔であろう。二人とも大いに笑いあったに違いない。

1594年待望の初子・五郎いろはひめ)を聚楽第伊達屋敷にて産む。側室に先を越され、入より15年も経た上の慶事であった。
政宗は懐妊の報せを聞いて喜び、以降男子名前しか考えていなかったため、次子への願掛けの意味も込めてそのまま名付けたという。

1595年秀次事件。聚楽第が破却され伏見伊達屋敷に移る。

年不詳であるが、長年側仕えを勤めた喜多が政宗の勘気を被り、許への居を命じられる。

1600年虎菊丸(伊達忠宗)を産む。心から待ち望んだ嫡男の誕生である。

1603年京都伏見から江戸伊達屋敷に移ったのち、卯丸(伊達宗綱)を産む。

1606年五郎松平忠輝す。

1609年丸出生。齢42の高齢出産もあってか、丸は7歳で折してしまった。

1610年片倉喜多が隠棲の地・白石にて死去。その遺領は縊定顕の子が継ぐことになり、片倉定広を名乗った。
定顕子を片倉領に住まわせたのは愛姫の口利きであったと言われている。

1614年忠の居高田を築するために総奉行として越後へ出向していた政宗から30首、和歌300首をまとめた随筆が贈られる(伊達陰)

1616年忠易に伴い離縁された五郎江戸屋敷に一時引き取り、仙台へ送る。

1619年北が仙台にて死去。死にに会うことはわなかった。

晩年

幕府の定めにより、依然江戸に留め置かれたままではあったが、その暮らしぶりは穏やかであったことだろう。

1636年伊達政宗遠行。
死の床につく以前から何度も通りを嘆願していたが、政宗は「老いてくたびれた姿を見せたくはない」と最期まで見舞いを許さなかった。
愛姫は「もっともである」として以降は一切口に出さず、死後は雲居師の導きによって門に入り陽徳院と号して菩提を弔った。

1631年嫡男・忠宗の側室が身ごもったことを瑞によって知り、書付に残した(想の書付)

めでたし めでたし
いろよきえだのはなを こそみる
八月十一日ひる
めでたし めでたし

色よき枝のとはが一度に咲き乱れる「三」を徴していたのかも知れない。
この啓示はしばらくのち現実のこととなる。

1650年忠宗により松島寺の一に修場・陽徳院が建設される。

1652年政宗17回忌に当たり「本当の姿を遺しておきたい」との意向により隻眼の甲冑姿をった木像が瑞寺に納められた。

1653年(承応2年1月24日江戸にて逝去。享年86。夫の命日までは、と2日間黄泉への誘いを退けた上での大往生であったという。
遺言により、他へ養子に入っていた孫・鈴木宗良を以って田村の名跡が再された。
この田村宗良こそ、想の書付を残す要因となった忠宗側室の子である。

輿入れより74年の長きを経てようやく伊達田村の約定が果たされたことになる。

戒名:陽徳院殿寿尼大

遺品の硯には政宗幼少時の手習いの書が大切にしまわれていたという。

補足

戦国大戦における愛姫概要

「やっと、方に会える」

Ver2.0より伊達で参戦。1コストで1/5の隊。魅兵持ちで、初の兵持ち女性武将となった。

計略の「壅塞の術」は、敵をに戻れなくする計略。士気2でこれ…鍋島直茂董白の反省を踏まえて士気5だからセガ自重してるかと思ったらそんなことはかったぜ!
ただまあ、効果時間は統率5と言う事で向こうの生殺与奪よりは短い。後伊達の場合は計略が少ないので(義義姫は減るが)、ショットガンの集中火等を当てるサポートメインになるだろう。


信長の野望」(PCシリーズにおける愛姫力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀  - 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 知略 政治
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治

伊達政宗正室として登場するのみ。

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愛姫(陽徳院)

30 ななしのよっしん
2014/09/19(金) 00:14:39 ID: fT6ViTNZbb
>>28
ていうか三御前って愛姫のことだろ
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31 ななしのよっしん
2014/10/01(水) 16:18:16 ID: y8PDz6vd4N
>>30
なんか、一部では別の人らしいとか、実は輿入れしてから死してた愛姫影武者が三御前って説もあるとか。
本当のところは、資料が少なすぎてよくわからんが。

フィクションなら、愛姫とその影武者の三御前の美少女コンビキャラにしてどっちも出すってのもアリかもしらん。
無双エディットでは毎回、愛姫と三つくってるわ……
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32 ななしのよっしん
2014/10/03(金) 22:47:24 ID: 8S0FQjDA0A
出産年齢だけど
五郎(26歳)、忠宗(32歳)、宗綱(35歳)、丸(42歳)
晩婚化が進んだ今の時代に当てはめても周囲は「あら、いつまでも仲が良いようで」って反応になること請け合いだww
若い頃を考慮すると出来にくい体質っぽいのにね
ちなみに愛姫が宗綱を妊娠しているのと同時期に側室のお山の方が宗信を身籠っているが、そっちはそっちで15かそれ以下だったとか…
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33 ななしのよっしん
2014/10/25(土) 16:48:30 ID: pKD0v1UR4R
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34 ななしのよっしん
2015/03/20(金) 23:04:13 ID: c/Ttj+BkPP
秘書っぽいのは人質の時に冷静に物事を見据えた手紙を夫に送ってたりするから?
普段はクールビューティー本質可愛い系でもいいじゃない
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35 ななしのよっしん
2015/04/07(火) 09:05:16 ID: tRC7b2HftK
DQNネームに使われ率高いせいか若干風評被害が…
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36 ななしのよっしん
2015/07/30(木) 18:18:22 ID: EQHAarozqL
>>徳幕府の定めにより、依然江戸に留め置かれたままではあったが

ひょっとして政宗と仙台城で暮らした時間って僅かだったのか?
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37 ななしのよっしん
2020/10/07(水) 12:42:45 ID: KPqyKaeJy6
耐えび慮り思いやる、武将の奥さんのお手本みたいな人だね
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38 ななしのよっしん
2023/11/09(木) 23:44:25 ID: M3zy/C0EUU
実子の忠宗が伊達、宗綱は15歳で、丸は7歳で亡くなったから田村の再は孫になるけど、なんとか生前に田村の再を見届けられてよかったね

でも政宗が愛姫の実子が継ぐまでの間の名代扱いだった従兄弟田村宗顕から州仕置で田村領を乗っ取る形(後の葛西大崎で領地替えになるけど)になって田村として再も存続もさせなかった事に対してはどう思ってたんだろうね
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39 ななしのよっしん
2024/03/20(水) 22:23:46 ID: M3zy/C0EUU
それと出身地の三町、三歴史を調べたけど、大崎葛西から生氏→加藤氏→松下氏→200年以上秋田氏が支配してたにもかかわらず、歴代の領ど扱われず、田村氏として坂上田村麻呂、三田村氏、田村清顕、愛姫の方を押し出してるんだなーと
町の観光協会にも愛姫アニメリンクがあるが、歴代だった生氏、加藤氏、松下氏、秋田氏関連の物は一切なし
愛姫伊達政宗いで長年田村領に居たとか治めたわけでもないのに、実際治めた方々との扱いの差が凄いのなんのって・・・
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