単語記事: 戦国時代

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「時は戦・・・」

戦国時代とは、

  1. 春秋戦国時代の後のほう、下克上によって滅び、に分裂した後のことと一般にはされる。
    春秋戦国時代
  2. 1から命名された日本の時代区分の一つ。時代区分としては室町時代安土桃山時代と被ったりかぶらなかったりする。
  3. 2から更に、業界の覇権を持つ者がはっきりと確定せず、大小の勢が入り乱れた状態を喩する言葉。有が3つだと三国志と呼ばれる。

概要

統一政権が存在しない、または衰弱・消滅した状態で、複数勢が戦闘を断続的に繰り返し覇権を争っている時代を言う。
単に戦国時代と言えば日本歴史上の戦国時代すことが多いが、中国歴史上の戦国時代すこともある。

日本の戦国時代

明確に時代区分を出来るわけではないが、15世紀後半からから16世紀にかけてのこととされる。始まりも終わりも諸説色々。以下に各説を挙げていく。

始まりの説

  1. 1455年:関東に限れば較的有意義な考え。室町時代関東を統治した鎌倉方の機構が崩壊し、以後関東は戦乱の時代に突入する。
  2. 1467年:応仁の乱が始まった年。かなり一般的な説。乱の終わりには、京都の荒と幕府権威の失墜、守護領制の崩壊と戦火の全的拡大という一般に想像される戦国時代の要素が大体そろうため。但し、最近の研究で、畿内や近畿周辺では、大名達も幕府の動員令に従っていることや地方でもしばらく幕府の裁定が認められていることから、畿内や近畿周辺では、応仁の乱後も幕府や将軍は一定の実権や権威を保っていることが分かっており、そのため下の1493年の説が較的有な説となっている。
  3. 1493年:明応の政変が起こった年。足利将軍細川氏を中心とする配下によって立させられた事件。近年の日本史学会ではこちらが基本。足利将軍が二流に分かれたことで、幕府奉公衆も二分し、足利将軍軍事的基盤は崩壊、以後、足利将軍は何者かの武背景にしなければ、将軍位に付けない状況になる。
  4. 1494年:北条早雲伊勢討ち入りの年。明応の政変の説が出る前は割と言われた。本来、武を持たない人間が、幕府(堀越方)を滅ぼすという下克上徴の事件と言えるため。ただし、近年は、早雲伊勢討ち入りは明応の政変と連動しており、早雲自身の意思だけではなかったと言う説が有

終わりの説

  1. 1568年:信長の年。以後、下が信長の元に帰していくその徴の年。但し、まだ信長肩する戦国大名は全にいる。織豊時代あるいは安土桃山時代の始まりとも。
  2. 1573年:義昭追放、室町幕府崩壊の年。以後、中央政治から足利氏は消え、織田信長下統一の筋は決定的となる。織豊時代あるいは安土桃山時代始まりとも。
  3. 1587年:豊臣秀吉による関東羽への惣事令が出された年。定へ諸々の政策はあったが、全の政策の施行をした初のもの。これは地方の大名への大義名分となり、これによって、諸大名の帰順や北条氏やいくつかの大名は取りつぶしが起こった。とはいえ、例外も多い。
  4. 1590年:北条征伐、小田原の日。これ以前に、州の伊達政宗秀吉に帰順しており、武を以って豊臣氏に逆らいうる大大名はいなくなったから。
  5. 1590年:州仕置の年。北条氏滅亡以後も、関東州には豊臣氏に反抗しているものがおり、これらの定をもって、定とする考え。
  6. 1591年:九戸政の乱鎮圧の年。州仕置以後も、豊臣氏の政策に反発するものがおり、州では、葛西大崎仙北など一が多発していた。これらの鎮圧のために兵を出し、最終的に九戸政の乱鎮圧を以って、一は収束した。これをもって下統一とみなす考え。
  7. 1600年:関が原の戦いの年。下統一後も、豊臣政権の基盤は磐石ではなく、秀吉死後、結局下は家康に帰することとなった。この年の戦いによってそれは決定的となった、即ち戦の世が終了したとする考え。
  8. 1603年:徳川家康征夷大将軍就任、及び江戸幕府開府の年。これによって二年の太が始まったため。
  9. 1615年:大坂豊臣氏滅亡の年。元和偃武の始まり。
  10. 1638年:天草の乱鎮圧の年。この乱は、当該地域の浪人が多数参加しており、単なる農民反乱ではなく、戦空気が残っていた中での勃発のため。以後、大平八郎の乱まで幕府軍が公式に出動をすることはなかった。

なぜ、このように始まりや終わりに諸説あるかといえば、他の時代区分にべ、戦国時代があいまいであるからということにつきる。日本の時代区分は飛鳥時代から江戸時代までは、政治の中心地によって名づけられており、それ以後は、天皇の在位によって区分されている。ところが、戦国時代は「政治の中心地がない時代」が定義であり、従って人によって基準にばらつきがでるのである(にたようなのに「幕末」がある)。

戦国時代はその性質上、様々な英雄が出現しまた各人の人気も高いが、果たして歴史上価値のある人物を
挙げるとするならば織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康の三名にまで絞られるだろう。
逆を言えば、その他の武将や大名はどんなに人気があったとしてもテストに出る事はい。
先生が戦オタだったりした場合はその限りではないが、やはり入試には出ない。
入試の問題を作った人が戦オタだったりした場合もまた、その限りではないが、やはり配点は低い。
しかしまあ、出る時は出るので、勉強はしておくに越した事はいだろう。

戦国時代の流れ

応仁の乱直前

戦国時代の始まりの一端は、室町幕府六代将足利義教嘉吉の乱によって赤松に討たれたこと。彼は将軍への権集中を進めており、その過程でままならぬなら、大名やもう一つの足利鎌倉方ですら滅ぼしている。しかしそうしてできた将軍への権集中は彼の死によって崩壊し、それによって幕府内部も混乱に陥る。強大な権がなくなり権隙が生じたためであり、如何に幕府が混乱していたかは彼の死後一箇ぐらいは赤松征伐軍が編成されなかったのを見れば分かる。また混乱と同時に、彼の亡き後の隙を埋めるように大名間の政争が始まっていった。大を持ったおじいさんが死んだ後の遺族を想像すればよろし。

しかも、彼の死後七代将軍には彼の息子足利義勝が就いたが、十歳の幼君である上、一年立たずに死亡した。

その後の将軍足利義政である。彼は初期においては大名の争いに介入するなど意欲がみられたが、次第に近臣たちや有大名の政治介入に嫌気が差してきたようであり、建築宴に入り浸りになる。何しろが飢餓者で埋まり、そのことで天皇からもどうにか対策せいと言われたのに視したほどである。んで、近臣の専横がひどくなります。

それに合わせて、大名たちの争いがひどくなってくる。まず、赤松討伐の第一功労者ら顔の山名持豊(宗全)がかつての山名氏の繁栄を気付こうと勢し始める。また管領細川勝元がこれに対抗し、赤松討伐の武功をもつ宗全に対し、赤松などとやらかす。ついでにこれを止めるべき他の管領畠山や斯波もお争いを始めるわ、各地の大名も似たような状況になるわで大変。そしてこれに先の両者が絡んでくる。

こうして、争いの土壌は形成されていったが、それでもまだ彼らは妥協し合うなどの余地があった。というか彼らは宗全の婿が勝元であったし、本来協しあっていたのである。それを更にややこしくしたのは義政自身だった。彼は妻日野富子との間に子供ができないといって、義尋を還俗させ義視と名乗らせ、将軍補としてしまうのである。この時彼は28であり、か若いような気もするが最彼にとって政治なんてどうでもよく、飲みながら建築に明け暮れたかったのだろう。文化人である。

が、この翌年に富子が男子を産む。これが問題とならないがない。しかも、富子はだいぶ気の強い女であり、義視が細川政元の後見を受けていたのでだったらと、山名持豊に義尚支援を頼みに行く。でも、義政は知らぬ顔して文化事業に明け暮れた。優柔不断とも言う。しかも彼の側近は大名によって追放されており、どうにも政治が動かない状況になる。

応仁の乱とその影響

そうこうしてるうちに、終に京都は上御霊神社畠山の武衝突が始まった。これをきっかけに守護達が京都へ集結。およそ三十万弱の兵が十年以上戦い続ける応仁の乱が始まったのである。これに参加した大名は西は九州北部から西は駿河までに至り、影を受けた地域は州からの果てまで日本に及んだ。そして京都となる。「先の大戦(おおいくさ)で全て焼けてしまいました。」そんな中でも義政は宴と建築にふけっていたらしい。最執念すら感じる。

最初に述べた通り、六代将軍は足利義教臣に殺されており、その点で赤松下克上の先をうったといえるのだが、この時には、これまでの戦いとは較にならないほど足軽傭兵が活躍した。と同時に両者が、味方を増やすために格を視して役職につけた上、下克上潮と相混じり各地で守護大名が守護代やその下の地位のものに脅かされ始めた。例として、越前では斯波氏が、朝倉に、加賀では冨樫一向宗にといったように。但し、この当時族や農民商人たちの生産室町時代を通じて増大しており、それまでの既得権益者との利益の歪みを正しただけとも言える。

ついでに言うなら、とかした京都を捨て地方に落ちていく文化人が地方の文化を活気づけたことは見落とせない。それによって土佐一条氏や地方に小京都と呼ばれる都市ができていった。全く流石は文化人義政。でも応仁の乱で各地のお争いが触発されたため、文化ついでに争いの種も地方にかれている。

その後

応仁の乱は、乱のたる原因である細川勝元と山名宗全が死んだことと西軍ので合った大内氏の帰により自然に立ち消えとなる。義尚が将軍となるも、後には義視系統と義政系統の将軍が交互に就任する。暫くは、近畿地方ぐらいは支配下に収めていた幕府であったが、明応の政変によって全にその権威を失う。その後の近畿では細川政元細川澄元→細川高国大内義興細川晴元三好長慶といった感じで勢争いが繰り広げられ、三好なきあとは松永久秀三好三人衆の政争が続きさしたる勢も現れないまま信長を待つことになる。

また、関東応仁の乱より十年く似たような闘いが既に始まっており、これに北条が食い込む形で関東戦国時代となる。
州は中央から遠く、為にその影を他の地方ほど受けなかったが、文の乱(洞の乱)の後、争いは化していく。 その頂点は伊達政宗
中国地方大内一極から大内対尼子、毛利対尼子、毛利一極支配、毛利織田と変遷していく。中国地方の東側は山名赤松宇喜多別所などの中規模の勢が覇を競った。
四国細川氏没落以後、三好氏が支配し、三好氏没落以後は大友毛利といった大勢に影されながら土佐の長宗我部氏の統一へと向かう。
九州では、初めは大内対他勢であったが、少弐氏没落以後安定するも、大内氏滅亡以後、毛利大友となり毛利氏撤退後は、大友氏が北九州を支配したが、の戦いでその勢威を失い、島津氏、龍造寺氏との三つとなる。さらに、龍造寺隆信沖田畷の戦いで討ち取られると、龍造寺氏はその勢いを失い、島津氏が九州統一をすが、その前で豊臣秀吉九州征伐となった。

もはや日の本の情勢複雑怪奇なこれらによって、階級間の流動は活発化していき、ついに行き着いた先が農民が関となる世界であった。

ちなみに、鎌倉以来、多くの御人がその領地を守らんと頑っていたが、結局頼の時代から明治維新までを通して同じ地を支配し続けたのは島津氏、相良氏、相馬氏の三のみである。守護、持大名格に限ると島津氏のみとなってしまう。それ程までにこの戦国時代日本の支配者層を変化させたのだ。

三英傑

織田信長

どこかのTV番組で「日本人の好きな偉人第一位」に選ばれた名人
その数々の偉業はしばしば三時代の英雄曹操べられる事もある。
の大名、織田信秀のもとに生まれ、別名を「尾のうつけ」とも。
最初からを持っていたが、柄は守護代のそのまた下であり、守護代織田信友、守護斯波氏を倒し
この時代の特色の一つでもある下克上を果たす。
後々将軍である足利義昭を追放し、さらにスケールの大きな「下克上」を果たすことになる。

さて、信長が桶狭間で今川義元を破ったというのは今更書くほどでもない有名な話である。
彼はこれ以降、下人へのを駆け上がっていく。
周辺諸を次々と下し、足利義昭を確保、上。権威を手に入れ、その後も下布武として
による平和め続けた。

彼が評価される理由の一つに、その先見性、合理性がある。
例えば「第六天魔王」の名前の由来になった比叡山焼き討ち。
科学などい当時、民衆に留まらず大名公家にまで大きく帰依を受けていた宗教の総本山
それがたとえどんな理由であれ攻撃し下してしまうと言うのが一体どれほどの事か、想像が出来るだろうか。
なお、これを知った武田信玄信長抗議手紙を出しているが、その返信の際の信長の自称が
第六天魔王」である。

日本の半分を領有し並ぶものが居ない程の英雄になったが、西攻略へ向かう途上、
寺へ立ち寄り宿泊していた所、臣の明智光秀に謀反を起こされ敢えい最後を遂げる。

豊臣秀吉

信長が本寺で明智光秀に討たれた後、光秀を倒し信長の後継となったのが豊臣秀吉である。
信長の小者として仕え、最下級から関の地位まで上りつめるのだが、これは世界で見ても非常にしい。
なお、権者になりはしたものの信長の後を継ぐ形であるため、上の者を倒してを手に入れる、という
下克上」には当てはまらない。

信長定事業を継いだ秀吉は、多少の障もあったものの、順調に各地を定していき、
ついには関下人となる。
ここに日本は再びの統一を見せ、平和が訪れたかに見えたが・・・・

秀吉の行った下事業として有名なのが、「太検地」と「狩」である。
これにより日本全域で石単位の統一が行われ、農民は一を起こすための武器を奪われた。
そしてもう一つ、朝鮮出兵」が行われている。
緒戦は破の進撃で、朝鮮のうちと全羅以外のを全て制圧したものの、点と線による表面的な支配に過ぎなかった。そのため各地で「義兵」と呼ばれる義勇軍が抵抗し、全羅朝鮮軍もまた攻勢を強めた結果、日本軍は守勢にまわることになる。更に明の援軍が来ると戦局は全に転換した。
その膨大な戦費は豊臣政権を崩壊させる一因となった。

徳川家康

最後、戦の世を生き延び遂に幕府を作り上げたのが徳川家康である。
豊臣政権を支える五大老として選ばれるも、最終的には豊臣氏を追い落としている辺り、「下克上」と言えるかも知れない。

幼少時を今川に人質として過ごし、独立後は織田信長豊臣秀吉に同盟、臣従する形で手腕を発揮する。
前田利家の死後、関が原ので敵を尽く排除し征夷大将軍に就任、幕府を作る。
積み重ねた功によりナンバー2となり、前任が居なくなった後をつぐのは秀吉と共通しているが、その時点の
制度やスタート状況が違っていた。
家康の代で幕府が成立、将軍を徳が務める事が決められたため、家康の死後も、徳が権の座を失う事はかった。

この後、大阪の役で豊臣秀頼を一地方大名にまで没落させた家康は、元和二年(1616年)に75歳で没した。
ここに戦国時代は終わりを告げ、徳川家康江戸に築いた幕府により江戸時代が始まる事となる。

その他の大名達

時は戦
と言う事で、この時代には様々な英雄が出現したのは先も述べたとおりだ。
その中には皆大好き武田信玄や、上杉謙信、3つの矢の逸話で有名な毛利元就チートじいさん北条早雲
生まれが遅かったので乱世の中心になる事は適わなかったが、その生き様で色々とネタにされやすい
独眼竜伊達政宗などなど、大勢の魅的な人物がいる。
まあ、その辺の詳しい事は戦国時代の人物の一覧にでも任せておくとしよう。

彼等はこの乱れた世の中、自己の領を治めていた訳だが、当然の如く幕府の定めた法になぞい。
ではどうやって治めていたのか?そう、法がければ作ればいいのである。これをと言う。
これがまた領毎に良く出来ていて、例えば伊達集(じんかいしゅう)などは、条文その数なんと170条!
これは分法の中でも最大規模である。
その他武田氏の甲州法度次第、今川氏の今川仮名録などが有名である。   実はこの三つを抑えておけば十分だったり。

こうして各地域は治められていた。優れた治世の場には人が集まり、文化も発展する。
次は文化について見てみよう。

文化面

たとえ乱世と言えども、文化は常に発展し続ける。
欧州大航海時代に端を発する南蛮渡来の舶来物、それを参考とした南蛮文化。
千利休がその完成させた茶道
他に狩野や、歌舞伎の祖である阿国歌舞伎の出現などもある。
文化史と言うのはこの時代に限らず個々の繋がりが見え難いため覚え辛いが、その時代をるためには
決して欠かせない重要な物なので、テストには良く出る。
なお、これらの文化を総称して安土山文化と呼ぶ。

南蛮貿易と鉄砲伝来

地方の歴史は、交易を軸にして世界歴史と繋がっている。
同様に、世界歴史もまた、地方の歴史と繋がっているのである。
この時代、ヨーロッパはオリエントにあったイスラームの強オスマン帝国)によりオリエント以東との貿易を制限され、欧州へと閉じ込められていた。どうにかを開こうとしても、その強には全くが立たない。
そこで彼らがを付けたのがである。を渡ればまた新しいが開けるかもしれない。
これが俗に言う大航海時代の始まりであった。

さて、日本にはまずポルトガル人が辿りついた。
もっとも、彼らの船は難破し、半ば漂着するような形でのものだったのだが。
これを機に、日本の諸南蛮人との貿易が始まるようになり、この時代の戦略や戦術を大きく変えた
種子島も伝来する。
よく勘違いされがちだが、実は種子島日本最初のではない。
中国で火が発明されたのがもっと前だからである。

あ、あと、決して忘れてはならないのがキリスト教の伝来である。
どこに行っても宗教とは相手の土地を教化しようとするもので(逆に寛大な政策を取るのもまた策の一つである)、
日本にも九州をはじめとして様々な場所にキリスト教、伴連とも言うか、が広まっていった。
ちなみに、この時に日本に来たのはイエズス会とかのカトリックである。ヨーロッパではこのころ教会の汚職を糾弾するための運動が起こっており(宗教改革)、旧態依然とした教会へ抵抗するプロスタントローマカトリックの間で、大きな溝が出来てしまった。
さんざんかれて、ヨーロッパでの立場が悪くなったカトリックはこの先どうすれば良いのだろう?
「そうだ、外に版図を広げれば良いんじゃね!?
こうして航を繰り返した挙句、辿り着いたの一つが日本なのである。

なお、プロスタントカトリック突は、日本にも影しており、最終的にカトリックであるスペインポルトガルプロスタントオランダによって日本との貿易を締め出されることとなった。また、幕府の禁教令や鎖国政策もこうした欧州でのやり取りに関連してるといわれる。

戦国の多彩な文化

まずは絶画集団である狩野の説明をしよう。
その出自は室町時代にまで遡る。
元々室町幕府の御用絵師として仕えていた狩野氏は、後に時の人織田信長へ接近し、代々の権者の
加護を得て一代閥へと成長した。
ありとあらゆる種類の絵を画き、何年と画壇のトップに居た集団のため、覚えておくとテストで楽が出来る。
・・・・・・かもしれない。
彼らが何故重要かは、この画壇のトップに居座り続けた。と言う所にある。
この集団に影を受けた画も多く、今尚残っている作品は多くが宝となっている。

同じく、後世江戸文化に影を与え、現在も残っているものに歌舞伎がある。
出雲阿国が踊った舞を発祥とする歌舞伎は、江戸時代を代表する文化である。
が、果たして戦国時代にはあまり関係がい。
どちらかと言うと「江戸時代歌舞伎の発祥」なのが重要なのである。

上記の二つには共に江戸時代における文化の走りと言う共通点がある。
では戦国時代特有の文化は何なのだろうか。

茶道

初めて日本がもたらされたのは中国では唐の時代、日本安時代にまで遡る。
しかし戦国時代茶道と言えばやはり千利休の大成したわびであろう。
彼はのみならず席の間そのものを芸術として昇した。

その精を言葉で表すのは難しいが、こう言った戦文化面を知るための入門漫画として、「へうげもの」がある。
個人的にオススメしておきたい一品である。
これに限らず、戦国史などはそれを題材にした漫画を三種類も読めば大体の流れは頭に入ってくる。
全て買いえるとなると多少値はるが、今はブックオフ漫画などもあるので、読もうと思えば読めない事もない。
歴史理解への一手段として、頭の中へ入れて貰いたいと思う。

語句紹介

征夷大将軍
征夷、つまり夷(外敵)を征する大将軍の事。将軍の上に大が付くのと付かないのとじゃえらい違いがある。
形式上はあくまでも朝廷の官の一つであり、軍権のトップ天皇の代理として全に居る将軍達を揮する権限を持っている。
何故将軍の居を幕府といったり、軍人であるはずなのに内政をしたりするのか疑問に思った事はいだろうか。
たしかに、この征夷大将軍は有事の際にしか権を持たない。しかし逆を言えば、有事でさえあれば権を持っていられると言う事にもなる。
実は室町時代江戸時代などの幕府のある時代は、名戦争を続けている事になっている。
幕府の幕は幕(戦争時自る幕の事)であり、大名の使用する宿を脇本などと呼んだりするのはこのため。
内政をするのも、戦をするためにを蓄えているから、となる。


京都にいくこと。上にも二つあり、単に挨拶に行くだけの場合(上杉謙信など)と政権奪取をす場合とがある。後者の場合、将軍の後見人になると言ったような意味が強い。
下の将軍を擁し盛り立てると言うのは即ち将軍の権勢や下への大義名分を利用できると言う
事であり、利用価値は幾分にもある。
ちなみに、上の「」は中国の都「陽」から来ている。

下布武
織田信長の政策の一つ。「武下を取る」ではなく、「武下を支配する」の意。
似ているようだが、全然別物。


これは関を譲った者の意。
現在の関べて経験も功績もある前任への尊敬語である。
今では豊臣秀吉があまりにも有名であるため、ただ太と呼ぶ場合には秀吉の事をす場合が多い。

オリエント
日の出ずる所の意。つまり東の方。
世界史を勉強している時に、良くここの区分が分からないと言う人が出てくるが、何の事はい、中東である。
ヨーロッパから見て東の方にある良く分からない所と言う意味。

戦国時代の戦い

関連項目

日本歴史
戦国時代
室町時代  安土桃山時代
(織豊体制)
江戸時代

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読み:センゴクジダイ
初版作成日: 09/01/15 22:56 ◆ 最終更新日: 16/01/06 10:48
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戦国時代について語るスレ

78 : ななしのよっしん :2015/06/03(水) 17:54:41 ID: 4OWmcS3lXu
狩りの作法が制定されるまでの、非武装の女子供や仲間の死体から鼻をとったりとかか。
>>73
それもあるけど村社会が強で自前でときには武士よりも強軍事を持ってたこともあると思うぞ。日常的に狩り矢使ってたり、成人時の帯が標準装備だったりで武士の集団を返り討ちにしてたりした事例があるし、との合戦でも矢の上手さ)としてもあてにされてたり、輸送とかの兵站になってたりで
79 : ななしのよっしん :2015/06/03(水) 18:04:12 ID: 4OWmcS3lXu
書いてて思ったが北斗の拳世界なんだよな
自分たち(村単位)を自分たちで守れないなら明日を生きる資格はねぇって、日常的に村対村(村落間の共同用益の被り)、大名対村(土一)、大名対大名(領土紛争)に明け暮れてた時代
80 : ななしのよっしん :2015/06/03(水) 20:25:29 ID: F6V73QdQf8
別に自分たち自身で守る必要はなくて
者に護してもらえばいいし
揉め事を裁くのも有者の仕事

だったり土ヤクザだったり守護だったり成り上がりの大名だったり
81 : ななしのよっしん :2015/06/04(木) 00:07:28 ID: 4OWmcS3lXu
だから村単位で、あの時代最小単位=村(自分)って認識、ある村の人物が不利益を被ったと聞いて負けた村の”別の人物が”復讐として勝った村の”親族の人物を”殺すとかざらやったし
82 : ななしのよっしん :2015/06/04(木) 00:08:59 ID: 4OWmcS3lXu
というかその護する人物は兵をどっから集めるんだ、まさか親族だけで戦うわけじゃないだろう?結局自分たちも戦わなきゃいけんのよ
83 : ななしのよっしん :2015/08/16(日) 08:58:42 ID: yd11GpKk5x
>>74
歴史ってのはリアルタイムではそれがどんなに地の時代でも
喉元過ぎて時間が経てばどんな悲惨な時代でも「あの頃はよかった」って美化される物だからね
最近じゃたった70年で太平洋戦争すらそうなりつつあるし

ってことは何年も前の地の時代なんて当事者や体験者がまったくこの世にいないんだから
いくらでも美化される
実際にその時代を過ごして自分の身を持って飢えと苦痛と死の恐怖で地を体験した言者がもういないから、死人に口しだからな
実際にタイムスリップしてみたら地の極限状況でも、自分が体験しない限り人間には解らない

>>82
有名な映画の「七人の侍」に描かれていた通り、当時の村はを出し合って野武士傭兵のように雇っていたか
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
84 : ななしのよっしん :2015/10/11(日) 13:11:35 ID: IAstWUX2Mw
3英傑以外テストに出ないは言いすぎだろw
信長と関連する有名な大名ぐらい(今川義元足利義昭明智光秀)は出るぞ
85 : ななしのよっしん :2016/02/07(日) 18:06:56 ID: 4/eQ6Uqwgp
1415年:ポルトガルスペインを中心に大航海時代が始まる。
1492年:コロブスアメリカ発見。
1498年:ヴァスコ・ダ・ガマ、インドに到達。
この間、宣教師たちがアメリカアジアで宣教を開始。
1517年:ルターによる宗教改革
1534年:イエズス会設立。
1549年:フランシスコ・ザビエル来日。

つまり、ローマカトリックによる宣教は、15世紀には盛んになっており16世紀に起きた宗教改革に対抗するため宣教を始めたわけではありません。
ザビエル日本に宣教に来たのも大航海時代の流れに沿ったもので、記事にある「もともと宣教はヨーロッパにおけるプロスタントの拡大に対抗するためのカトリックの布教活動である」という記述は歴史事実明らかに反しています。』

鎖国の記事のコメント欄からの引用ですが、こちらにも当てはまるので引用させて頂きました。
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
86 : ななしのよっしん :2016/07/17(日) 19:03:53 ID: JbnbiZtxDH
ドラマとかでの四国九州征伐のスルーされっぷりは異常
87 : ななしのよっしん :2016/09/23(金) 02:06:02 ID: beuUEgAedI
日本戦国時代室町時代安土桃山時代の間にあった時代って感じだな
個人的に戦国時代の始まりは応仁の乱or明応の政変が開始
戦国時代の終わりはやっぱ1590年の小田原征伐or州仕置

んで個人的に
室町時代の終わりは1573年の義昭追放 そして安土桃山時代の始まり
安土桃山時代の終わりは1603年の家康征夷大将軍就任・江戸幕府開府or大坂の役の豊臣滅亡で終了
江戸時代安土桃山時代と少し被るかもしれんが1603年の江戸幕府開始から
だと思ってる
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