支倉常長単語

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支倉常長(1571~1622)とは、陸奥仙台士である。

概要

支倉常長は、1571年に伊達武士の子として生まれる。後に、叔父に養子入りし、大崎葛西や文慶長の役などで活躍した。彼は常長とされるが彼が生きていた時代に彼の名は六右衛門、六右衛門長経と書かれている。

この頃、欧州大航海時代から植民地支配の時代へと入っており、エスパーニャ(スペイン)やポルトガルオランダイギリスも続々とアジアに入植していた。そんな中で日本もこれらのとの接触する機会を持つようになる。

徳川家康イギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)を雇用し造技術を貰うなどしていた一方、伊達政宗エスパーニャの宣教師ルイス・ソテロとの交流があった。

この状況の中、政宗は家康からエスパーニャとの外交権をもらい、慶長遣欧使節団を派遣する。一説によると、政宗はこれを利用しエスパーニャとの通商、さらには軍事同盟による倒幕を論んでいたとされる。

、政宗はガレオンの建造を命じ、慶長十八年九月十五日(1613年10月28日)にルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として180余名が乗り込んで一路メキシコからエスパーニャ更にローマした。正遣欧少年使節がマラッカからインド洋を経て欧州に着いているので、この常長らが日本人で初めて太平洋を渡った一団である。また正の使節は喜望峰からリスボンへと入ったので、この一団は大西洋も日本人で初めて横断している。

メキシコからエスパーニャに入り、洗礼を受けローマまで行った彼らだったが、結果はかばかしくなかった。理由は日本で既にキリスト教が弾圧され始めていたこと、そしてそのことが相手にも既に知られていたこと、更に伊達政宗外交権を持っているのか疑問に思われたことである。

はるばるローマまで赴きながら交渉が失敗してしまった常長は、もう一度、大西洋から太平洋を渡り、一度、フィリピンに行き、そこから日本に帰ってきた。キリスト教も弾圧されていたことで常長は1622年失意のうちにくなった。更に、常長のキリスト教が原因で一度断絶している。そうして、常長のこと、また彼がなしたことは歴史に葬られた。

ところが、およそ250年後、常長と慶長遣欧使節団及び彼らの行跡が日のを見ることとなる。

1868年に江戸幕府が倒れ江戸時代が終わって、明治の御代となると、日本は欧列強に追いつこうと明治維新が進み始める。そんな中大重信の発案で、政府の代表が欧を視察することとなった。彼らは進んだ欧の技術や文化を見て日本とのの差に落胆をしまた劣等感を抱いたことだろう。

そんな彼らを驚かしまた元気づけた事が一つあった。何を隠そう、常長ら慶長遣欧使節団である。ヴァチカンを訪れた彼らは文書館で250年以上も前に太平洋を渡った日本人がいると聞いて驚いた。つまり、彼らはまさか日本人250年も前に自分たちが通った経路とほとんど同じ経路を取り欧州にまで外交交渉をしにきていたなどとは想像だに出来なかったのである。しかも当初、彼らはこの一団を豊の残党ではないかと思っていたらしいから、どうやら政宗の臣、仙台士らしいと聞いて二重に驚いた。欧の圧倒的なに萎縮していた彼らにとって常長の存在は非常に勇気づけられるものとなっただろう。彼らはに帰ると仙台の資料を探し出し、終に支倉常長が再び歴史に登場したのである。

彼らの業績は失敗したながら史上において非常に重要である。まず、日本人で初めて太平洋大西洋を横断したこと、更に日本欧州で初めて外交交渉を行ったこと、また伊達政宗が当時も考えていないような太平洋を挟んでの通商や外交を考えていたことなどである。今では、教科書にも常長の存在が書かれている。

スペインコリア・デル・リオにはJapon,Xapon(ハポン)姓の人が存在する。このは使節が長く滞在したであり、ハポン姓の人は町に住んだ使節の一部の子孫であると言われている。1996年には駐在スペイン大使によってイベントが行われた。

意図しないながら、彼らのことがローマ字で書かれた文章はは行がfaとかかれていることから当時の日本語においては行が両唇摩擦音であったことなどを物語ってくれるなど日本文学の一級資料と成っている。また、伊達政宗りが「 idate 」となっていたことから当時伊達政宗は「いだてまさむね」と呼ばれていたことが明らかとなっているなど、彼らの残した資料は歴史モノのまさに一級品であり、事実歴史資料としては日本初の宝に認定された。

支倉常長、彼が成したことは確かに今も残っている。

しかし、欧州との初交渉が大失敗ってあたり、日本外交ベタなのはお柄なんだね。

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支倉常長

1 ななしのよっしん
2013/03/25(月) 01:38:45 ID: 4c5+DutxhP
次の戦国大戦では間違いなく参戦するだろうと予測。個人的にはもっと評価されるべきと思う。……ただ、某パチンコのせいで二丁拳銃ぶっ放しながら、ガレオン撃しまくるウザキャライメージww
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2 ななしのよっしん
2013/06/19(水) 23:11:05 ID: 4c5+DutxhP
ついに世界的に評価されたぜ!

記事には外交下手みたいに書かれてるが、この人が謁見できたスペイン王はずいぶんとアレな人だからなぁ…伊達政宗と同じじゃないが、あと10年渡航できてたらって感じだよな
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3 ななしのよっしん
2015/02/13(金) 15:36:37 ID: ltsOXxgMYd
戦極姫ではドラだった挙句、リストラされたな
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4 ななしのよっしん
2015/06/05(金) 14:53:57 ID: 0p+RqBc7S+
すでに落しかけていたスペインローマ教皇との外交を費やさせた一方、新興国オランダイギリスとのチャンネルは独占した家康有能すぎるということだと思う。
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5 ななしのよっしん
2016/02/11(木) 11:42:00 ID: mJtLR+GqQa
その見方には同意出来ないな

「政宗はスペインローマと組んで幕府を倒そうとしていた」と言う陰謀論
かなり昔から有ったらしいけど、実際には大の建造、操技術の習得と
海外情勢の調が常長一行の的だったようだし

衰退し始めていたスペインなどに使節が送られたのも、有だったからとか
家康が英とのチャンネルを独占してたからと言うより、何処まで
当てになるかは別としてとりあえず教師たちがツテになってくれると言うから
ぐらいの理由だったのではないかと思う
実際、独占なんかしなくともヨーロッパ新興国とのパイプなんて普通に持てなかったし
何処のが有なのか、友好的なのか、本当のところはも分からなかったものね
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6 ななしのよっしん
2017/01/01(日) 17:48:56 ID: VJTZ60uXfq
地元の研究では、支倉常長のその後の疎まれっぷりや内の報われなさから、慶長遣欧使節団は失敗前提の閑職だったって説が濃厚になりつつある。
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7 ななしのよっしん
2017/09/28(木) 01:54:26 ID: 7pwQ/ZVp9C
そもそも支倉常長も実と養叔父)が他相手に起こした領地争いに巻き込まれて一時期追放処分されてた人だからな
失礼ながら政的にはいてもいなくても特に不都合はなかっただろうしね…
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8 ななしのよっしん
2018/09/17(月) 20:50:41 ID: U9GfSWn0bc
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9 ななしのよっしん
2022/02/24(木) 15:45:01 ID: WJIQMDGTQT
失敗前提とかひどい言われ方だわ
当時の使者がどれだけ重要視されていたかわからないんじゃないか
の低いを使者に立てたらそれだけで相手を侮ったことになり戦争の口実になるような時代なのに
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