斎藤鎮実(さいとう・しげざね ? ~ 1578)とは、もっと評価されるべき豊後の戦国武将である。
概要
大友家臣。立花道雪・高橋紹運らに比べるとやや知名度が低いが、彼もまた大友宗麟の下で大友全盛期を築いた名将の一人である。だが、大友の分水嶺と言える耳川の戦いにおいて討死した。
彼の妹(または娘)宋雲院は高橋紹運の妻となり、名将・立花宗茂を産んだ。つまり宗茂の伯父(または祖父)にあたる。
生涯
大友家臣・斎藤長実の子。斎藤氏は大友家中で加判衆に列する家柄であったが、父・長実は大友義鑑が嫡子・大友義鎮(宗麟)を廃嫡しようと考えた事を諌めた為に誅殺されてしまった。これらの出来事から『二階崩れの変』が発生し、義鑑が殺害されるに至る。
大友宗麟が当主となった後は父の名誉も回復され、『鎮』の一字が与えられた鎮実は重臣として活動した。生年は不明だが、宗麟(1530生)とほぼ同年代であったとされる。
北九州では小豪族の反乱が絶えず、遂には大友家重臣である高橋鑑種までもが毛利方に通じて謀叛を起こしたが、1567年に戸次鑑連(立花道雪)を大将とした討伐軍が派遣され長実も参陣、鎮圧に功を挙げている。この時、義弟となる吉弘鎮理も出陣しており、彼が高橋の家名を継いで高橋鎮種(高橋紹運)を名乗る事になる。
この一連の討伐戦のうち、筑紫惟門の反乱に対しては鎮実が総大将に任じられ、見事惟門を自害に追い込んだ。
龍造寺隆信との今山の戦い(1570年)にも参戦して、宗麟から感状を与えられるほどの活躍を見せる。
耳川の戦い
しかし宗麟は次第にキリスト教に傾倒しはじめ、日向の伊東義祐が救助を求めてきた事をきっかけに大規模な日向遠征・島津討伐を計画、日向に切支丹王国を創り上げようと夢想するようになった。
家老たちは皆反対するが、宗麟は耳を貸さなかった。鎮実も直接宗麟の説得に赴き、毛利・龍造寺を背後に置きながら島津と戦う事の無謀さを説く。が、長年の忠臣である鎮実の言葉も宗麟には届かなかった。なおこの頃、立花道雪は筑前を転戦しており、直接説得することは出来なかった。
日向遠征においては吉弘鎮信(紹運の兄)と共に本隊として従軍。鎮実と吉弘鎮信はまとまりのない大友軍の士気を高揚させる為、本陣の宗麟に出陣を促すが彼は動かなかった。宗麟の態度に二人は最早自分たちが玉砕覚悟で戦うしかないと悟る。
耳川を前にしての軍議では、田北鎮周と同調して積極策を説いた。が、ここでも大友軍はまとまれず結論を出せず、結局田北鎮周が抜け駆けで渡河を始めた事でなし崩し的に開戦してしまう。
鎮実と鎮信は先陣を切って血路を開くべく耳川の強行渡河を試みるが、大雨で増水した耳川で隊をまとめるのは至難の業だった。この激しい戦いの中で鎮実は討死する。更に釣り野伏せの罠にかかって大友軍は壊滅状態となり、退却戦の中で鎮信もまた討死した。
その後
耳川の戦いで多くの大友軍の将兵が犠牲となり、その後の衰退へ繋がるのは皆さんご存知の通り。最後にその大友家を支えるのは、斎藤鎮実と吉弘鎮信、二人の甥にあたる立花宗茂であった。
鎮実の子・斎藤統安は大友家に仕えた後、いとこの宗茂の家臣となり、以後斎藤家は柳川藩士として続く。
補足
ゲーム「信長の野望」シリーズでは未登場。大友の層が厚すぎる。なお信長の野望Onlineには登場している。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 0
- 0pt