単語記事: 新撰組

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新撰組とは、幕末に存在した客集団である。漢字は「新撰組」の他に「新選組」を当事者達も使用していたため、どちらも正しい。

平成16年(2004年)の新撰組を題材にした大河ドラマ新選組!」をはじめ、多数の小説映像作品の題材となっている。

概要

前身の壬生浪士組の成立まで

文久3年(1863年)、将軍茂の上の警護のため、幕府は参加に身分・年齢を問わない「浪士組」というものを組織した。この企画は浪士・清河八郎の献策によるものとされ、ここに近藤勇土方歳三ら試衛館のメンバーや、などが参加。総勢二名をえる一行はへ向かう。

についた清川は浪士組を尊王活動に利用しようとした(つまり幕府を出し抜いた形になる)。近藤沢らの思惑は京阪で攘夷を実践する事にあり、江戸に帰還しようとした清河に反発して袂を分かつ。帰還命令の出た浪士組は清川とともに江戸へ戻るが、近藤沢らはに残り会津の預かりとなった。彼らは壬生村に屯所を構え、総勢二十四名で「壬生浪士組」を旗揚げした。

ちなみに江戸へ戻った清川は、後に京都見廻組組頭になる佐々木只三郎ら幕府の刺客によって暗殺された。

壬生浪士組結成~芹沢一派の粛清

隊員を集めつつ、会津から中警備及び不定浪士の取り締まりを命じられる。この頃の彼らは身なりが貧しかったため、「みぼろ」などと揶揄されていた。後に商人にを出させて隊や隊旗(の旗)などを整備し始める。

八月十八日の政変にて警備を務めたことが評価され、島田魁によれば同日に「新撰組」の名を賜る。ここに新撰組、誕生である。

新撰組に名をめたころ、隊内は局長を務める二人、沢と近藤閥に分かれていた。が乱暴藉を繰り返したこともあり、近藤によってが暗殺され、は一掃される。かくして近藤勇ら試衛館メンバーが隊を握した。

池田屋事件

新撰組の名をかせたのはなんといってもこの池田屋事件であろう。

元治元年(1864年)6月5日長州の間者として活動していた古高俊太郎を捕縛し、御所焼き討ちを謀る攘夷浪士の計画を自供させた新撰組は、そのに会合場所であった籠・池田屋を突き止め、二十数名の浪士に対しわずか四人(近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助)でり込んだのである。沖田堂が途中で戦線離脱するも土方隊の合流まで持ちこたえ、浪士九名を討ち取り、四名を捕縛した。

さらに八月には禁門の変の鎮圧にも参加する。

ついに幕臣に

池田屋事件で名を上げた新撰組伊東甲子太郎を加え、総勢二名の組織へと拡大していた。これによって壬生村の屯所が手狭になったこともあり、西本願寺へ屯所を移転した。そして慶応3年(1867年)6月、ついに新撰組近藤以下全員が幕臣に取り立てられた。この間に伊藤が御陵衛士を結成して脱退したが、11月18日近藤伊東を招き寄せ、これを襲撃。伊東藤堂平助を暗殺した(油小路事件)。伊東暗殺後、御陵衛士の残党によって12月18日近藤が狙撃され重傷を負った。

その他にもこの期間中に山南敬助切腹し、武田観柳斎が刺殺されている。

落日

慶応3年(1867年)10月14日徳川慶喜による大政奉還から12月王政復古の大号令を経て、新政府と旧幕府の対立が決定的となった翌年慶応4年(1868年)1月、旧幕府軍として伏見の戦いに参加するも新政府軍の前に敗北軍艦江戸に帰還する。この戦いで古参隊士の井上源三郎山崎烝が戦死した。その後幕府の示で甲陽鎮撫隊として甲斐に向ったが、新政府軍に先に甲府を奪われ、甲州勝沼で野戦をするも敗北を喫した。その後下総流山へ移転後、近藤勇が新政府に捕らえられ、4月25日に処刑された。

沖田総司は病状の悪化によって江戸で死去。原田左之助義隊に加わり上野戦争で討死したとされる。

その後新撰組宇都宮会津と転戦。だった隊士のうち斎藤一会津まで転戦。土方歳三島田魁らは夷まで転戦した。最終的に五稜にまで至るものの、函館戦争にて土方が討たれ、降伏。まもなく五稜も陥落し、戊辰戦争は終結した。

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関連項目

新選組が登場する作品


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読み:シンセングミ
初版作成日: 12/09/27 04:04 ◆ 最終更新日: 16/07/18 18:23
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新撰組について語るスレ

118 : ななしのよっしん :2017/06/09(金) 11:05:51 ID: k4/DGSJvd0
新選組って攘夷活動を弾圧してなかったか?
119 : ななしのよっしん :2017/06/09(金) 11:51:23 ID: HNmgyxR9LN
当時の攘夷活動の実例としては、
バラバラ殺人
バラした死体を公家の屋敷に投げ込んで脅迫
・人間をリアル刺し
政と縁な奈良田舎へ押し掛けて善良な代官とその部下たちを皆殺し。部下は文字通り解体された
・商へ押しかけて強請り。の強盗も。奪い取ったは先ず遊三昧に使う
天誅と称してりは当り前
江戸中で町民相手に殺人・強盗を繰り返し、役人に追われたら薩摩島津の屋敷へ逃げ込む
・攘夷志士の内、長の倒幕な資と武器の提供者は英国の死の商人トーマス・B・グラバー
・攘夷志士の内、長をって倒幕後に下を取った人々は途端に家庭内暴力・汚職・売国オンパレード。まともな仲間下野して佐賀の乱や萩の乱を起こした

攘夷志士という数十倍の人数の殺人鬼を相手にする羽になった新撰組からは当然だが脱走者や離反者が相次ぎ、そのための掟が必要になったが、それでも団結を維持できなかった
120 : ななしのよっしん :2017/06/09(金) 11:59:22 ID: XP78omnBF5
>>117
そんなん言ったら日本どころか世界歴史なんて意味になるじゃん
主観的な歴史論になるのは人間ならどんなでもそうだし
121 : ななしのよっしん :2017/06/09(金) 12:15:13 ID: 59T7D4ezwv
>>116
凄いな「長州武士甲斐性も下への野望も関ヶ原の遺恨もなく、よって長州日本事のみを願っていた」という
少しは面くなってきた。ソース出して明してみな
122 : ななしのよっしん :2017/06/11(日) 11:11:14 ID: moXrPX90hG
ソースもなく関ヶ原復讐説やら野望説をしたがよくそんな事を書けるな
日本事を願うもなにも、日本を滅ぼす為に動いた者などいない
これは勤王・佐幕の双方に言えることだ
長州が倒幕という結論に至ったのは、一連の趨勢の最終的な結果にすぎない
何度も書くが、第二次長州征伐で軍事攻撃を受けるまで長州が倒幕を企てた拠は存在しない
それどころか、ギリギリまで恭順姿勢を示して幕府との関係修復を図ったくらいだ
新撰組近藤勇ですら「恭順しているのだから寛大処置の方が幕府にとっても得」と発言してる
それでも攻撃を加えたから長州は後に引けなくなり、薩摩どころか徳慶勝や嶽もやりすぎだと幕府(一桑会政権)を批判して後の王政復古に加わる結果になった
123 : ななしのよっしん :2017/06/21(水) 22:17:34 ID: 6dMHMyE6Wm
>>118
攘夷という的は共通なんだが倒幕か合体かという方法論の違いでな
伊藤成郎の「新選組京都で何をしたか」に土佐の田中顕が晩年、近藤勇の生を訪ねて、近藤の書簡などから尊王攘夷の志を知り「立場の違いで同志が殺しあってしまった」と涙したなんて話もある
124 : ななしのよっしん :2017/06/22(木) 08:34:30 ID: 59T7D4ezwv
幕末に活躍した勢に私利私欲なき正義ロボットがいない明なんざ明治以降の人生を追えば充分。
もう、上で上がってるよな
125 : ななしのよっしん :2017/06/24(土) 09:21:49 ID: moXrPX90hG
結局の所、幕政に口出しできる雄の増加と、それに対する幕府の悪手が重なった結果が、御一新なんだよ
126 : ななしのよっしん :2017/06/27(火) 21:16:42 ID: TH6Y50w26M
新選組人気なかったって言うより、浪人全体人気いでしょ
長州薩摩の人間に嫌われてたでしょ
127 : ななしのよっしん :2017/08/20(日) 12:42:03 ID: y2m90lAS7q
所属の浪人は嫌われてたが、西出身の士たちは若干贔屓にされてたらしい
(というか支配者の江戸関係者とか会津とか東勢がかなり嫌われていた)
ただし新選組も個人によっては人気があった
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