単語記事: 日本刀

編集
この記事では日本類について記述しています。
その他の類に関しては、「」を参照してください。

日本刀(にほんとう)とは、長のうち日本原産の物をす言葉。カタナ。

広義には、日本類を総称する。「」とは身の片側にのみがある形態のし、身の両側にのある「剣」と呼称される。

概要

日本刀が生み出した芸術であり、強兵器である。原は既に古墳時代から存在していたが、一般的にイメージされる日本刀の形となったのは安時代後期からといわれている。日本刀は武器の他、古くから武士徴・精として機したり、美術作品としても高い評価を得ている。

安時代後期~鎌倉時代の完成形とも言われており、その用いた材料や正確な製造方法はロストテクノロジーとして未だよくわかっていない。 江戸時代~現代にかけて数多くのが再現に挑戦しているものの、なかなかうまくはいかないらしい。

大東亜戦争後は、GHQにより「日本国内に存在する全ての日本刀」を処分するよう通達がなされ、武器として没収されたのち破棄・破壊されていったが、日本側の努により、"登録制の美術品"という形にすることで、全て失われるという最悪の事態は避けられた。しかし、このドサクサに紛れて、連合軍兵士神社閣などから日本刀を勝手に没収して本へ「戦利品」として持ち帰ってしまったため、数多くの名行方不明になっている。

現在インターネットで購入することも出来るが、高額な買い物になるので実物を見たほうがいいかもしれない。出来のよい無銘や、綺麗な銘入の古・業物のなどは数十万~数千万の価格で取引されているという。「なまくら」や「束」「数打ち物」と呼ばれる室町時代以降に大量生産されたなどは、10万円台~で購入することも可。なお所持については各都道府県教育委員会への登録が必須となっており、登録の日本刀を所持するのは銃刀法違反である。

現在宝・重要文化財級の日本刀は、博物館にて保管・展示されている事が多いため、興味がある人は行ってみてはどうか。(関連リンクを参照)

・・・と上で書いてあるものの、通常、宝や重要文化財は納まるところに納まっている(神社、寺院、博物館など)のが常だが、日本刀の場合は他の分類と較しても圧倒的に個人蔵が多い。理由は色々あるが、①報償として君から配下の武将に拝領する習があったこと、②GHQや進駐軍の狩りもどきがあったこと、③族(元大名)の没落によりが多数売りに出されたこと(紀州徳とか徳とかとか)などが考えられる。日本刀は他の文化財と違って研いだり油を差したり定期的に手入れをする必要があるから、たとえ手元に置きたくとも、大事にできない人の手から逃げていく。昔から「名は人を選ぶ」と言われる所以はそこにあると筆者は思っている。

日本刀の変遷

この項では、日本刀の種別を時代ごとの変遷に合わせて大雑把に述べる。

大昔に製鉄技術が伝わって以来、長く日本では反りの製作されていた。これをと言う。詳細については多くは述べないが、発想としては直(刺突体)を切断用にしたものと思えばいい。
蕨手
日本で古代より使われた直の一種。柄の部分に反りがある特徴的な形態をしている。この反りが、日本における彎の誕生の原点となったと考えられている。
反りのあるの総称。安時代中期に誕生し、以来日本のスタンダードとなった。毛抜形太刀(けぬきがたたち)、鋒両造(きっさきもろはづくり)などを経て、現在一般的に日本刀と呼ばれる形態、太刀完成する。
太刀
反りの三要素を持ち、なおかつを下にして佩用するのこと。現代まで続く日本刀の基本形はここで完成される。安時代後期に誕生し、飛び道具や長柄武器の欠点を埋める二次的な武器であった(しかし、巷で言われるような儀礼用ではなく、例えるならば右利きの人にとっての左手の役割に近い。)が時代に合わせてマイナーチェンジを繰り返しつつ日本戦場を駆け回ったことや17世紀以前の文献から太刀打など太刀の使用を示俊する言葉が散見されることからそれなりに重要な武器だった事がうかがえる。ただし、江戸時代以降、打一色になってからは本当に純な儀礼用になった。
五月人形の横に飾ってあるアレである。由来は「断ち」から。
形状は太刀と大差ないが、を上にして帯するものをしやや短めのものが多い。室町時代以降はこの打流となっていく。
時代によって形状が変遷し、元々は刺とよばれる短だったが南北朝時代における武器の長大化に乗っかって大化したのが始まり。後に戦乱期に大量生産されたり今では信じられない値段で安売りされたり幕末の頃には切っ先が長く反りが薄いものが多くなったりした。
由来は「打つ(=る)」から
一般的にイメージされる「おさんがに差す日本刀」はこれである。
武士武器(本差)の予備として持ち歩いた小振りので、するものをす。いわゆる「小太刀術」とは、この差のなかでも大きな物(55~59cm)を用いた剣術のことである。
短い方のアレである。また前述の打の予備・補助であり、取っ組み合いや、合戦場で敵の首をり落とすために使われた。
太刀
あるいは野太刀ともよばれる。定義はやや曖昧だが渡り85cm以上の大日本刀し、背負うように携帯することも多かったため背負い太刀とも呼ばれる。性質としてはというより長柄武器に近い。重量の割に柄が短いため扱いづらく、高価であったため、使い手には技術と財が要された。
少なくとも鎌倉時代初頭からその存在が確認され、南北朝時代にもっともよく使わたといわれている。
その後戦術の変化により下火になりつつも、江戸期に入るまで戦場で使われたほか、
威圧感があるため味方の戦意高揚や寺社への奉納的で作られることが少なくく、時代の要により
短く刷り上げられることも多かった。
長巻の太刀
太刀で柄の長い太刀であり、長巻と略される。南北朝時代の後半に出現し、大太刀をより扱いやすくするため身の根元から中間にかけて革や布を巻きつけ持ちやすくしたことが起と言われている。薙刀と混同されがちでは明確ではない。
(なお、漫画アニメなど影か、サブカルチャー上において大太刀などの大とともに斬馬刀と通称されることがある。)
分類上は長柄武器であるが、日本刀に含まれることがある。断面菱形または三角形の両っ直ぐな身を持ち、柄に差し込まれる茎(なかご)は身の数倍あり、かなり長い。南北の乱の後半に現れたが、古代に用いられた矛とは異なる武器であるとされている。
出現当初は2mほどの柄に短を付けた、いわば薙刀の代用と言えるものであり、あまり立たなかった。しかし応仁の乱以降は、戦闘動員数が増し、これまでの散兵戦術から密集戦術体に変化していったため、柄の長さも3mをえるようになり、戦国時代の後半から江戸初期にかけて重視されるようになった。なお、太刀や打とは製法が異なる。

五箇伝

における五大流のこと。江戸時代鑑定の規準とするために分類された。日本刀には古来要な五つの生産地があり、その土地の名前を取って○○伝と称する。

大和
大和地方の工集団による鍛法。古来日本の中心地であった大和地方は日本工発祥の地とされており、奈良時代の無銘は彼らの手によるものと考えられる。
千手院、手搔、保大和を擁す。
山城
山城地方の工集団による鍛法。発祥について当時の史料は残っていないが、山城平安京遷都によって日本の中心地となった際、工集団も移住、発生したはずとされている。
工としては、宝「三日月宗近」の三条鍛冶宗近、「鬼丸」の綱などがいる。来行、来俊ら来一山城伝の工である。
備前伝
備前地方の工集団による鍛法。中国山地は古代より良質の砂の産地であり、現代の工が使う玉鋼も、島根県のタタラ製鉄所で製造されているほどである。また、その他製作に必要な条件にも恵まれており、備前地方は長く類の巨大生産地であり続けた。特に中心地であった長船は名高く、「備前長船」は現代でもビッグネームである。また、鍛冶の為に木を切りすぎて洪水で壊滅したことでも有名である。
定、則などが有名。佐々木小次郎の「物干竿」は備前長船長の作とも伝わっている。
相州伝
五箇伝の中では最も新しい、相模地方の工集団による鍛法。相模鎌倉鎌倉幕府の中心地であり、鎌倉中期に各地の工たちが移住してきた記録が残っている。鎌倉末期には正宗五郎正宗とも)を輩出し、彼の作は、後の相州伝の基本となった。ゆえに正宗が相州伝の完成者とされている。
正宗と、その子と伝えられる正宗十哲が有名。
美濃
美濃地方の工集団による鍛法。鎌倉中期(長年間)に良質の焼土をめて九州から移住した元重に始まるとされている。特に美濃国関には多数の工がり、現在でも関市物の産地として世界的に有名である。
「関の孫六」こと兼元、「之定」こと兼定が特に有名である。

製造方法

日本刀の定義および製造は、幕末工である心子正秀の残す書物によって定義され、玉鋼(たまはがね・和鋼とも)を材料として古式に則った作法でもって作られることが現行の法律によって決まっている。よって、新しく日本刀製作しても、玉鋼(和鋼)を用いた伝統的な製法によるもの以外はすべて、日本刀としては扱われない

まずは玉鋼の精錬。
を原料として伝統的な製鉄方法「たたら吹き」で精錬される(現在の玉鋼の精錬は日立金属が取り扱っている)。

炭素量の少ない「柔らかい鋼」を背に「硬い鋼」をとして組み合わせる。だから切れ味は鋭いのに、折れにくい。

次に鍛造。
槌で打って鋼を圧着し、形を整え、鍛造効果で硬度は増す。でも背側の鋼は柔らかいから、砕けにくく、しなやか。
しかも脱効果もあって鋼の純度は上がる。

そして熱処理。
焼入れをするのだが、焼き入れ速度(鋼を冷ます速度)が速ければ速いほど、鋼は硬く・もろくなる。
だから身に泥を塗り、だけを露出させて焼き入れをする。(紋はこれで出来る)
当然先は硬くなるが、身は冷却速度が遅いのでしなやかさを保つ。

これらの製造過程を経て鍛え上げられた日本刀を切断した後に電子顕微で観察したところ、鋼に匹敵する,極めて小さな針状の結晶が絡み合い強度を高める微細な組織が観察された。

工学とか知らない人にとっては意味不明だろうが、この技術は成立年代的に考えて、オーバーテクノロジーもいいとこである(ただし一部を除けば日本独自の物ではない)。全な経験の積み重ねのみで到達したというのだからなお恐ろしい。

日本刀の威力

その威は様々な諸説があるのだが、最低拳銃で発射したガバメントの弾丸、ウォータジェット程度ではびくともしない事はトリビアの泉で判明している。最適な度であれば兜も割れる。

基本的に、漫画にあるような「人体を一両断」というのはなかなか難しい。プロの介錯人でさえ、人の首をはね損ねる場合もある。それだけ人間のというのは硬いのだ。が・・・

日本刀の中にはとんでもなく恐ろしいれ味を持つ名が多数存在する。 有名な物の一つに「童子切」と呼ばれる日本刀がある。であり、天下五剣の一振りで現在宝に定されている。
江戸時代に試し切りの達人が、罪人6人の死体を重ねて童子切を振り下ろしたところ、死体6体がバッサリと切断され、なおも勢いが止まらずに土台までが食い込んでしまったという。 
酒呑童子の首を切り落としたと言われているこの名は、東京国立博物館に保存されている。
 

現在の技術で作られた硬合製ならドアすら切れるということもつい最近になって判明し、試し切りを行った藤岡弘、は「リアル斬鉄剣」と発言した[1]。全盛期のの切れ味は、ティッシュを乗せたらスパンれてしまうくらいだったらしい。

有名な逸話としては「日本刀で首を刎ねられた者は死ぬまでられたことに気づかない」であろうか。日本刀の出来とる者の腕次第でそういうこともあるかも知れないが、基本的に一でも冷たい感触があるため気づかない事はないと思われる

海外での日本刀の評価

室町時代から戦国時代にかけて日本倭寇(海賊)が現在朝鮮半島および中国でかなりの猛威を振るったせいもあってか、中国などにおいても日本刀の存在が知られることになった。

11世紀代の大文学者、欧陽脩は『日本刀歌』なるを書いており(一説に「日本刀」というの初出とも言われる)、「玉石を泥のように切る伝説があるけど、最近、日本ってで同じぐらい凄いができたらしいよ。めっちゃ高いけど、拵えもすげー美しいし、しかも持ってるだけで悪霊を払ってくれるんだって!」などと、かなり大げさに褒め称えている。サムライソードLOVEガイジンの元祖といえる。

もっとも、欧陽脩は古文代とそれ以前の文章)復運動の中心的人物であったため、『日本刀歌』全体の趣旨は「ま、中華文明の精髄である古文>>>日本刀なんだけどね。日本人さんは教養も高くてって話だから、こっちでは散逸した古文も大量に保存しているらしいけど、法律が厳しくて逆輸入が難しいらしい。なんとかして手に入らないかなー(チラッ)」というものであるが。

大陸でののように大きいか、あるいは片の直だったようで、おまけに当時(明代)の大陸では政治上の理由で冶技術がひどく低下し日本と逆転していた。両手持ちですばやく扱うことが出来るし、自産より頑丈で切れ味するどい日本刀の使い手にはかなり難渋していた模様。次第に「倭」という名前で受け入れられることになっていった。
倭寇秀吉朝鮮出兵(文・慶長の役)により、日本種子島、それを使った軍編成が知られると、中国でも一部この編成を取り入れることになった。
時代を経て、明、清の時代には、「苗」という形で一部形を変えつつも作られていくことになる一方、日本剣術が形を変えて大陸でも劈掛拳の一部に残っているとも言われている。

また戦国時代倭寇だけでなく少なくない浪人海外傭兵として進出したこともあり、日本刀も多分にもれずあちこちへと広がっていった。もっとも、江戸時代になり鎖国になったこともあったせいか、日本人傭兵は次第に数はへっていき、日本刀秘的な武器と考えられてしまった一因のひとつともいえる。

こういったこともあり現代において、海外ではなぜか最強の武器扱いされることがあり、特にRPGではその威が絶賛されるほど。日本人より夢を見ているのは気のせいだろうか。

ただ注意してほしいのは、こうした夢を見ている理由である。

海外日本刀の取り扱いは日本に住む々が考えるような、"古来製法に基づき作られた"という形ではなく、もっと広範囲で"日本刀のような形状をした"すべてをす。

なので、ここらへんがややこしいのだが、海外でも「日本刀に模した」や「日本鍛冶の製法を一部取り入れた」など色々入り乱れており、それら全部ひっくるめて「日本刀」扱いなのである。
なので、その中には単純に鋼を磨いただけの代物から、前述にもあるように、現代の製鉄技術や加工技術もあるとかなりの切れ味をもつまである。勢い、逆まで作った人までいるみたいですね。

なので最近はこういう「日本刀」を使った犯罪、事件もわりと多くにするようになってきている。

このように日本における日本刀製造が美術品という分野で細々と作られている一方で、海外では現代技術を存分に盛り込んだものが「日本刀」扱いされて、どんどん作られているのもまた現実だったりする。なので、海外での日本刀評価や時々起こる事件を知るときはそこらへんを踏まえてみる必要もあるだろう。

日本刀の噂のあれこれ

日本刀(太刀・打刀・大太刀・長巻)は突くのが正しいのか

何が正しいかはともかく、江戸時代以前の場合は切ることの方が多かったと思われる。根拠としてまず形状から、ある程度長い部を有し片で突きを阻する反りが備えていること。
次に較的信頼性の高い「物語」「太平記」「信長記」などの軍記物や「雑兵物語」のような兵法書からは「突く」「刺す」より、「切る」「打つ(く)」という使用方法が多く散見されること、
またそれらの史料の中の「太刀打ち」「鎬を削る」「火を散らす」など切ることがな使用方法であることを示俊する表現方法が使われていることなどが挙げられる。

日本刀は引いて切るもの?刃で受けないもの?

日本刀は意識して引いて切るのが正しいだので受けてはいけないだの、そうでいだのと言われているが、実際には流によって異なるため正しいとも誤りともいえず、流を宣伝するときは「~というやり方が正しく~というやり方は間違い」と断言している場合も多く、これが誤解の原因となっている場合が多い。

日本刀(主に打刀や太刀)の実用性について

賛否両論だが、極端な意見が多い。

例えば、日本刀は首狩り用で戦闘では役に立たず儀礼用であり最新の研究では飛び道具による死者がほとんどであり、太刀による死者はほとんどいない。これに対する反論として「首を獲るのは小脇差や短の役首獲りの方法も横になった敵兵の上に乗りになり押さえつけて首を切り落とす」というもので、太刀や打のように長のある物ではこのような行為は不便であり、長を長くする必要がないのだがこれらの中程度のが発達した説明がつかない。

また、儀礼用であるのならば反りや先を付け殺傷を強化したりわざわざ硬軟の鋼材を組み合わせの上で焼き入れを行うという蛮用を考慮したりする等の明かに戦闘を考慮した構造は不自然であること。そして、飛び道具の死因が高いというのは研究鈴木哉氏の戦国時代の軍忠状の統計が元と思われる。
が、この軍忠状からわかるのは概ね死因ではなく戦場から生還できた者たちによる自己申告(=負傷原因)であり死因はほとんど不明である

かつ片方の軍勢による内訳であること、攻撃側の状況が不明であること、さらに戦の形態には平野での会戦・攻戦・上戦・奇襲など、特性が異なるにもかかわらずこの統計ではそれらすべてを一緒くたにしてしまってあるため、戦闘の全容ををあきらかにするのは不十分でありみにしてはいけないことが挙げられる。他にも鈴木氏が信頼性が高いと評した宣教師の報告や雑兵物語などにも太刀戦場での活躍が描写されているが、氏はこのことに関しては一切触れていない。

(また、氏の曲され、雑誌等の書籍に掲載・引用されることがあり更なる混乱を招いている。)

なお、時代はずれるが南北朝時代の軍忠状の統計を行った歴史学者トーマス・コンラン氏の調によると全体的に箭による負傷率が高いことからこの箭こそが南北朝時代の戦闘においてもっとも重要な兵器であるとしていながらも、殺効率は太刀薙刀も含めていることに注意)に大きく劣るとしている。

日本刀は2~3人しか斬れない?

この話の元ネタ山本著の「私の中の日本軍」が初出だとされており、著者の経験から来たものだという。
ただし、この経験というのも本文中から読み取れるのは「戦友の死体を軍で切断した際、軍に不具合を感じた。」という物のみであり単に死体を切ったときの感想である可性が高い。
また、成瀬関次の著書や時代は異なるが16世紀の日本を訪れた宣教師の報告など4人以上切った記録もあるが誇の可性もあり断定はできない。結局相は闇の中である。
また、この逸話を引き合いに出して日本刀は役に立たなかったとする意見もある。しかし結局は「近代以前の兵戦において一人の兵士が一つの兵器を使用した際の殺傷数の均値」がどの程度であるか把握していない限り意味な意見である。

日本刀の一覧

基本的にどのも「工の名前」で呼ばれる。
三日月」や「童子切」など工名とは別に名前がつくものや、「小烏丸」のように工名が冠されないもある。

実在の日本刀
架空の日本刀

日本刀に関係のある人物・キャラクター

記事量が大幅に増える可性があるため、こちらについては基本的に「ニコニコ大百科」に記事があるもののみ記載とする。

実在の人物

※「剣豪」の記事も参照されたい。

架空の人物・キャラクター

関連動画

関連静画 + お絵カキコ

関連商品

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *2004年フジテレビ番組『たけしマチャミの世界に誇る日本の技術に驚いてみませんか?SP』にて。ただし、こちらは日本刀の定義である玉鋼を材料としていないため、日本刀としては扱えない。

【スポンサーリンク】

携帯版URL:
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
ページ番号: 4491782 リビジョン番号: 2417301
読み:ニホントウ
初版作成日: 10/10/26 12:20 ◆ 最終更新日: 16/10/16 15:40
編集内容についての説明/コメント: 「日本刀に関係のある人物・キャラクター」>「実在の人物に「山田浅右衛門」を追加しました。
記事編集 / 編集履歴を閲覧

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

日本刀について語るスレ

804 : ななしのよっしん :2016/08/04(木) 19:52:25 ID: 1la9Fk8A58
>>802
古代ローマはちとわからないが
ナイトとヴァイキングが一緒に存在した時代のの製法として、
模様鍛接という二通りの手法がある。
そのうちの一つは、表面のみ鋼になったの細い棒と
何もしていないの棒を何本か用意して
それらを熱しながらねじり合わせる用に一体化させ身を成していくというモノ。古代ローマもコレと似たり寄ったりという説があるがよくわからない
805 : ななしのよっしん :2016/08/04(木) 22:28:56 ID: wc64LZEQlt
>>802
「古代ローマの技法~」って部分は、このラジオ31分ぐらいから。
イチからわかる講座』(再掲)
https://www.youtube.com/watch?v=SavcHvzmszI

古代ローマグラディエーターが使用していた日本刀と同じく
複合材を利用していた。
熱処理技術が未発達な頃は同一素材で性質を変化させることができなかったから、
違う材料を組み合わせていた・・・とのこと。
時代が下って熱処理技術が向上するにつれ、複合材を使わなくても同一素材で性質を変化させられるようになった。

他にも太刀剣、つるぎはそれぞれどう違うのか、など
このラジオは面い話が盛りだくさんだった。
806 : ななしのよっしん :2016/08/04(木) 23:42:45 ID: 9QZu9PrtE/
>>797
寛文新剣道の影を受けて直になってるけど、勤皇(復古)のそれは身幅、大切先とか
姿が長巻のそれなんだよね。ロマン現実には勝てないけど、値段はそこそこなので一振り欲しい

見掛け倒し大いに結構
807 : ななしのよっしん :2016/08/05(金) 12:27:16 ID: J+jWYjHffh
日本砥石の産地なんで研磨技術が発展したのはそのせいもあるはず
十段階くらい石変えて研ぐんだったか
808 : ななしのよっしん :2016/08/10(水) 03:15:53 ID: oAfbheYEpw
古代ローマといえば、メインに据えたファランクスに対してを有効活用した戦術で勝ってたんだよな
山岳地では不便で不利だからファランクスから戦術を切り替えたとか、長形に対して手持ちの飛び道具類で乱戦を仕掛けたとか、
日本戦国時代が一向にれず必需品であり続けた理由の一端が察せられる
809 : 日本語怪しいの台湾元兵隊 :2016/08/10(水) 23:52:49 ID: K9MwwUqLdH
>>808
あれはどちらと言うと散兵戦術の効果と思う。
ローマ人は正面からスパルタのファランクスを破ったことはない。
いずれの勝利もスパルタ軍を山岳地に誘う、地形の利でファランクスの破砕を誘発して、側面から乱戦を仕掛けるから得た物だ。
あとスパルタ人もを装備した。
810 : ななしのよっしん :2016/08/11(木) 01:50:46 ID: oAfbheYEpw
>>809
「散兵戦術を使うにあたってではなくを採用した」というのがポイント
ローマもかつてはファランクスを使っていたし、散兵戦術を採用してからも最後尾の部隊は装備なのに、散兵にはではなくあえてを装備させていた
つまり「山岳地において散兵戦術を効果的に扱うにあたって(当時の兵器では)ベストな選択だった」ということ
「散兵戦術の効果だ」というのは順序が逆で、があるからこそ、装備に据えたからこそ、散兵戦術があれだけの効果を発揮できたわけだ

>いずれの勝利もスパルタ軍を山岳地に誘う、地形の利でファランクスの破砕を誘発して、側面から乱戦を仕掛けるから得た物だ。
これらの戦術が実現できたのも、携行性に優れ機動性を阻しないというの長所があってこそ
日本はほぼ全土が山がちな地形で、ファランクスほど大規模ではないものの形を組んで活用していたわけだから、を装備し地の利を活かして側面から乱戦を仕掛ける戦術は当然に有効
そしてスパルタ兵もを装備していたのと
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
811 : 日本語怪しいの台湾元兵隊 :2016/08/11(木) 20:57:57 ID: K9MwwUqLdH
>>810
スパルタ軍では投射兵器部隊がほぼ存在しないということも影している。
そうだな、実は『君論』の作者ニッコロマキャヴェッリはローマ大好きで、著作の中でしばしばローマ式の軍制を薦める、ある戦いでスペイン兵がスイスパイク方を破った時、彼はこれから兵時代が到来することを暗示した――当然それはすぐに対策され、パイク+/の基本的なレンジ優勢は変わりなく、スペイン将軍もこれを取り入れ、テルシオ戦術を発明した。
で前線を構築し、投射兵器で相手の兵と士気を削る、逐次的にライン押しに移行するの基本戦術は冷兵器時代で東西問わず非常に有効のためだ。乱戦はまず相手の形崩した後のことだ。
ローマの軍制も基本的に歩兵同士のライン押し消耗戦対策だ、+投げ/短う+の基本武装と形は、ゲルマン人歩兵相手に有効だが、「騎兵に弱い」の弱点がある。しかしローマの野戦工事構築が強すぎるため、当時の地中エリアであまり問題にならない、逐次推進で中央アジア騎兵も工事を破れないため、時間かけば勝ってる。
日本の話に戻
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
812 : 日本語怪しいの台湾元兵隊 :2016/08/11(木) 21:15:40 ID: K9MwwUqLdH
>>sm27029138
813 : ななしのよっしん :2016/09/06(火) 18:14:56 ID: K9MwwUqLdH
http://www.sankei.com/west/news/160905/wst1609050077-n1.html
2016.9.5 22:38
パークス襲撃の際に交えた 約150年ぶりの再会 京都国立博物館で初
英国使パークスを襲撃した林田貞堅の(上)と応戦した中井。両とも所々にこぼれが残る=5日午後、京都市京都国立博物館
大政奉還から4カ後の慶応4年2月、駐日英国使のハリーパークス(1828~85年)が京都御所に向かう最中に2人の攘夷志士に襲われた事件で使用されたが確認され5日、京都国立博物館京都市東山区)が開した。10月から同館で始まる特別展「没後150年 坂本龍馬」で一般開される。
確認されたのはパークスを襲撃した京都出身の攘夷志士、林田貞堅(さだかた)の長74・3センチ)で、応戦し林田の攻撃を防いだ元薩摩士の中井ひろむ)が使用していたとともに開。約150年ぶりにまみえた両には、しいり合いを物語る多数のこぼれがある。
  JASRAC許諾番号: 9011622001Y31015