明応の政変とは、1493年(明応二年)に室町幕府で起こったクーデター事件。応仁の乱と並び、戦国時代のスタート地点に位置づけられる大事件である。
※現在のこの記事の内容はやや古い見解に基づくものとなっています。
概要
管領(室町幕府のNo.2)細川政元が、10代将軍・足利義稙を追放・廃立し、代わって11代将軍として足利義澄を就任させた事件。今で言えば軍事クーデターである。
こうして就任した義澄はほとんど政元の傀儡でしかなく、幕府の実権は細川氏に握られる事になる。
後にこの権力者の座は三好長慶、そして織田信長へと渡っていった。応仁の乱の時点では一応まだ自立していた将軍家だったが、いよいよ彼ら権力者の後ろ盾無しには存続できなくなってしまった。
一方、追放された義稙も逃走・亡命を続け、足利将軍家は二つに分裂してしまった。以降は義稙の家系と義澄の家系とにそれぞれ将軍候補が存在する状態となり、政治対立の際の御輿として担ぎ出されるようになる。これ以降の畿内情勢は乱世乱世、複雑怪奇なものと化す。
前史
応仁の乱(1467~1477)では8代将軍・足利義政の子・足利義尚(東軍)と、義政の弟・足利義視(西軍)とが将軍の地位を争ったが、結局義尚が9代将軍に就く事で決着した。ところが1489年に義尚はアル中で死去してしまう。
妥協の末、義視の子である足利義稙(当時は足利義材。本文中では義稙で統一)が10代将軍に就任した。これに不満を持ったのが、東軍大将細川勝元の息子・細川政元だった。
なおこの政元、優秀な人物であると同時に「超」が付くほどのド変人である。変人具合はここでは省略するので、その辺は本人の項目を参照。
足利義政の妻・日野富子も当初は義稙の就任を支持したが、その後関係が悪化。更に後見人の父・義視も亡くなって、義稙の立場は不安定化していた。
政変決行
足利義稙はそんな足場を固めるべく、盛んに周辺の反抗的な大名を討伐し、結果を出そうとしていた。義稙の支持者の一人で、応仁の乱以降の幕府首脳の一人である畠山政長は、畠山宗家の座を巡って対立する畠山義就の討伐[1]を要請し、義稙もこれに応えて1493年、両者は河内へ出陣した。
だが、その頃には既に細川政元が裏で日野富子や伊勢貞宗ら幕府有力者を取りまとめており、将軍不在の京都でクーデターを起こす。足利義政の異母兄弟・足利政知(堀越公方)の子、つまり義稙の従兄弟にあたる香厳院清晃を還俗させて足利義澄(はじめ義遐、次に義高)と名乗らせ、一方的に新将軍に据えてしまう。
一方出陣中の義稙は寝耳に水、畠山政長と共に抵抗しようとするが、幕閣の大部分に根回しを済ませていた政元派に寝返る者が続出して孤立無援になってしまう。遂には政長が討死し、義稙は降伏、京都龍安寺に幽閉された。
こうして足利義澄を擁立した細川政元だったが、朝廷に納める献金が不足していたため、義澄が征夷大将軍になったのは1年半後、翌年の年末までズレ込んだ。一方、後土御門天皇も自分たちが認めた将軍(義稙)が勝手に追放された事には不快感があったようで、怒りの撤退譲位も考えたが、儀式の為の資金が無かったので断念した。やっぱり世の中ゼニですね。
混乱へ
ところがこうしている間に、幽閉していた義稙が畠山家臣の力を借りて脱出し、越中に逃亡してしまった。続いて、かつて応仁の乱の西軍主力を担った西国の大大名・大内氏の下へと亡命する。義稙が生き延びた事は、後に大きな禍根を残す事となった。
1496年には日野富子も亡くなり、細川政元の権力は絶頂期を迎えた。だが義澄が成長すると対立も生じるようになり、妥協の末に義稙の弟である僧・実相院義忠が処刑されている。義忠への更なる将軍挿げ替えを未然に防ぐ目的と考えられているが、これで義稙一派と政元の関係はどん底まで悪化した。
ひとまず政元と義澄のバランスはそれなりの安定を見たが、1507年、細川家の後継者争いから政元が暗殺され、その混乱に乗じて足利義稙と大内義興が上洛してきた事で、畿内は戦乱の渦へと突入していく。
影響
この事件を機に室町幕府は衰退を重ねて、せいぜい畿内周辺にしか直接的な影響力を行使できない存在と化し、逆に各地では戦国大名の自立が進んでいく。つまり、本格的な戦国時代が始まった。
将軍権力の衰退
元々室町幕府は有力大名たちの力が強く、将軍はその統制に苦労していたが、この事件以降はいよいよ将軍の置物化が進んでいった。
ただ、完全な操り人形とは言い切れないようだ。将軍は実力者の後ろ盾で就任し、実力者は将軍権力を借りる事で正当性を確保する、という感じ。持ちつ持たれつの相互依存関係といったところだったようだ。幕府や将軍そのものを潰してしまう事は、リスクも労力も大きすぎるというのが実情だったと思われる。
ただ一方で、将軍たちの中にはそうした状況を打破し、将軍権力の回復を目指そうとした者もいた。復帰後の足利義稙、13代足利義輝、15代足利義昭などであるが……揃って悲劇的な結末を迎えている。将軍に一定の権威はあったけれども、自立するための軍事力や資金力といった面は、室町幕府滅亡まで回復する事はできなかった。
足利将軍家の分裂
足利義稙が逃亡に成功し、更に細川政元の死後に京都へと戻ってきた事で、将軍家が二つに分裂してしまった。
足利義教[06] │ ├───────┬───────┐ 足利義政[08] 足利政知[堀] 足利義視 │ │ │ │ │ │ 足利義尚[09] 足利義澄[11] 足利義稙[10] │ ‖ ├──────┐‖ 足利義晴[12] 足利義維[堺] │ │ ┌───────┤ ├───────┐ 足利義輝[13] 足利義昭[15] 足利義栄[14] 足利義助[平] │ │ │ │ 義尋 (平島公方家) [数字]室町幕府将軍 [堀]堀越公方 [堺]堺公方 [平]平島公方
更に、細川政元が後継者争いを起こして暗殺されると、細川家も同じく二つに分裂。以降、二つの将軍家と二つの細川家がそれぞれタッグを組んで、自分たちの正当性を主張するように畿内で大戦乱を繰り広げる。これを『両細川の乱』と呼ぶ。途中で将軍家と細川家のコンビが入れ替わったりと非常に目まぐるしい。ひたすらにカオス。
両細川の乱は足利義晴と細川晴元の組み合わせで終結し、一定の安定を見るが、今度は細川氏が三好長慶の下克上で実権を奪われてしまう。更に忘れた頃に義稙系の足利義栄が将軍候補として担ぎ出されて来たり…と、幕府が滅亡するまでの80年間、二つの将軍家は争いの道具に利用され続ける事になる。
織田信長にしても当初は足利義昭の後ろ盾&政権実力者というポジションであり、1573年の足利義昭追放後には京都復帰の為の交渉もしているのだが、これが(半ば義昭の暴走で)物別れに終わる。こうして延々続いた足利将軍と実力者の共存関係は終了し、織田政権の時代に移る。
1573年に義昭が追放された際、義昭の息子(のち出家して義尋と名乗る)は信長の下に人質 兼 次期将軍候補という形で預けられた。が、結局彼が将軍に就くことは無く、こちらの血筋は断絶したとも、隠し子が生き残ったとも言われる。
一方の義稙系の家は阿波平島でひっそりと生き延びる形となり、平島公方と呼ばれる。江戸時代は徳島藩蜂須賀家の客将という身分だったが、冷遇されて京都に移り住んだ。こちらは現代まで存続[2]。
山城国一揆の崩壊
山城国南部では応仁の乱のドタバタの後遺症から、1485年ごろから国人衆による惣国一揆が結成されて、守護・畠山政長による支配から抜け出していた。幕府はこれを鎮圧する事も出来たのだが、有力者である政長の力を削ぐために敢えて放置していた。
しかしその政長は政変で死亡する。その後、政変に加担した伊勢貞宗の子・伊勢貞陸が山城守護となり、国一揆はサクッと鎮圧された。
後北条氏の登場
元々は幕臣だった北条早雲(伊勢盛時)は政変当時には甥・今川氏親の客将として駿河にいた。が、同じ1493年に伊豆へと侵攻し、足利義澄の異母兄である堀越公方・足利茶々丸を討伐している。
茶々丸は義澄の実母と弟を殺害して公方位に勝手に就いた人物で(詳しくは当人の項目を参照)、義澄を擁立した細川政元たちにとっては対立将軍候補となりかねない危険な存在とも言えた。その為、このタイミングでの伊豆討入りは政元たちの意向が反映されたものではないか?とも考えられている。
やがて早雲は相模へと勢力を広げていく。後北条氏という新勢力の登場で、東国の戦乱も新たな段階に突入する。これに義稙が西国へ逃亡したことも加わり、明応の政変は京都・畿内に留まらず、日本全国に様々な影響を及ぼす事になった。
関連動画
関連項目
脚注
- *そもそも応仁の乱の原因の一つがこの両畠山の対立である。彼らは結局このまま延々と争い続けた末に衰退していく
- *江戸時代以降は鎌倉公方末裔の喜連川足利家が足利の主流として扱われているが、血筋の上ではこちらの方が将軍家の直接の子孫という事になる。
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