暗君とは、君主・統治者のうち「能力的に優れていない」または「国政を顧みない」タイプの人のこと。
ニコニコではダメ君主が有名か。対義語は名君。
暗君が生まれる理由
一般に君主制の長所としては「幼少期から指導者に帝王学を学ばせられる」「絶対的な権力を持たせることで効率の良い統治が行える」または逆に「権力が分散していても権威だけあれば代理人でも正当性が認められる」点にある。
しかし、帝王学が時代とそぐわなくなる、絶対的権力が振るえない状況となる、権力の分散のしすぎ、そもそも本人に君主たる資質がないにも関わらず血筋だけで君主とせざるを得ないなどの状況に陥ると、必ずしも本人に責がなくても「暗君」と評されやすい。
また、当然のことながら、その国家や一族を滅ぼした、あるいは滅亡への道を開いてしまった人物は、よほど努力した事跡や詰みであった情勢が知られていなければ暗君として片づけられる傾向にある。徳がない君主を打倒することを認める易姓革命的な歴史観がある中国では「国が滅んだ = 君主が暗君であったから」という志向はなお強い。
一般に暴力的な行動を取って悪政を敷いた君主は「暴君」と言われ、曖昧ながらも区別がある。暗君とはあくまで「何かをやったこと」よりも、統治能力の低さを問題にされる君主である。ただし、東晋の安帝のような障害児や阿蘇惟光のような幼君の場合は歴史的に非難されることは少ない。
「何かをやるべきで、その力を持っていたのに、できなかった」人物とでも言うべきか。
暗君の称号(中国編)
諡には上・中・下の区分があり、暴君や暗君だった場合には「戻」「厲」「霊」「昏」「野」「煬」「幽」「夷」といった悪諡が送られる事になっていた。が、同じ王朝の中でならば(基本的に)どんなに悪い皇帝でも悪諡が贈られない一方で、対立者や都合が悪い皇帝には悪諡が贈られる(隋の煬帝etc)など中立的とは言い難く、唐代以降になると無駄に長くなっていたので廟号や元号で呼ばれるのが一般的になる。
悪諡が贈られるのはまだいいほうで、廃されたりすると皇帝から諸侯に降格される、即位そのものを否定されるケースがあった。
更に「昏」という言葉には「バカ」という意味があるので、諸侯名につけるといったケースもあった。つまり、バカ侯○○ということである。「海昏侯」「東昏侯」などがあるが、宋の徽宗・欽宗親子が金に降った際には皇帝を廃された上で「昏徳公」「重昏侯」に封じられている。こんな地名があってたまるか。
中国の有名な暗君
- 【幽王】
- 西周最期の君主。寵妃である褒姒を笑わせるために、諸侯の軍を参集させる烽火を乱用。結果、本当に異民族の侵攻があったにも関わらず誰も助けに来なくなるという、イソップ童話(オオカミ少年)を地で行く逸話を残す。
- 【王莽】
- 新朝最初にして最後の君主。前漢を簒奪して新を創設したはいいが、前漢の関係者に一代で滅ぼされて結果的には簒奪失敗という形になった。奸臣の代表として上げられることが多いが、一応は帝位についたので暗君の項目に。
王莽の治世が短命に終わった理由としては、いくら高邁な理想を抱いても否定できない現実があり、従って理想をいかに現実にすり寄らせるのが重要で大変なのにも関わらず、現実を無視して儒教至上主義を強行したという点である。結果、国内だけに留まらず対外関係まで大混乱に陥ってしまい反乱が発生、滅ぼされることとなった。現代では王莽の施策は革新的なものだったと評価する声もある。成功していたら始皇帝や曹操並の評価になっていたかもしれないが、現実には失敗しているので、否定的に評価せざるをえない。また、実像よりも貶められているが歴史なんていうのは「正義が勝つ」ではなく「敗者が悪」なので仕方がないのかもしれない。
ちなみに「嘉量」につけた銘文が神崎蘭子の熊本弁になっている等、いくつかのエピソードから実は中二病にかかっていたのではないかという説も見られる。 - 【劉禅】
- 蜀漢最後の君主。その幼名「阿斗」が中国ではどうしようもない人物を指す言葉になるほどの人気のなさ。日本においては「在位40年は歴代皇帝トップクラス」「そもそも(樊城・夷陵の後の)蜀は無理ゲー」という評価が強い。なんだかんだ降伏するまで国内から内通者を出していなかったり、内部崩壊はしていなかったりなど他の暗君とは一線を画すとの評価も多い。
- 彼の記事を見ても分かる様にその評価をどうするか考えることは三国志ファンが必ず通る道である。
- 【恵帝】
- 西晋の二代目。あの司馬懿の子孫で司馬炎の息子とは思えないほどの超絶暗君。マリーアントワネットより千五百年前に「穀物がないのならば肉粥を食べればいいではないか」という言葉を吐いたという。西晋が短命王朝で終わったことや、異民族時代である五胡十六国時代の遠因となった人物。ただし、司馬炎も統一後には堕落、魏が皇族を抑圧した事によって簡単に簒奪できた教訓(これは漢の頃からそうだった)から、晋では皇族の権力を強めて各地に封じてしまい、統率力に優れた皇帝が治めなければ分裂してしまう体制にしてしまったことも考慮に入れる必要がある。ここらへんは明も同じか。
- なお、恵帝は幼少時から発達障害の兆候を示していたらしく(言動が頓珍漢なのはそのため)、重臣達からは即位に反対の声が上がっていた。そんな皇太子が廃されなかったのは賈南風を代表する賈家の支持(圧力)があったことと、恵帝の子(孫)が利発だったのでその才能に父皇帝が期待していたからである。しかしそれは大失敗であり、後に同じ失敗を後燕の慕容垂もやらかしている。
- 嵆紹の逸話があるのがある意味で救い。
- 【蕭宝巻】
- 南朝斉の第6代皇帝。内向的性格で、幼馴染の寵妃のために無茶苦茶な後宮工事を施す。反乱のさなか、衛兵に殺害され首を蝋で固められて反乱勢力の手土産にされるという屈辱的な最期を迎える。死後、諸侯に落とされ「愚かな東の侯」という意味で東昏侯の号を与えられた。
- 【宣帝(北周)】
- 北周の四代目皇帝。名君であった父親から資質を疑われて体罰を含めたスパルタ教育を受けたが、それが却って人格を歪ませたそうで、父親が死んだ時には「早く死ねばよかったのに」とボヤいたそうである。即位すると名将であった叔父など、有能な家臣を相次いで粛清、政治を顧みずに遊び惚けたことから皇后の父親である楊堅の台頭を招き、その死後に北周は滅ぼされることとなる。南北朝の最後を飾る三バカトリオの1人であるが、逸話が杖刑を加える時に色々な理由をつけて殴打数を二倍した、程度しかないのが残念なところである。
- 【後主(高緯)】
- 北朝斉の第5代皇帝。奸臣を近づけ忠臣を退けた典型的な暗君。次々に国土を失う中にあっても「まだ一生遊ぶには十分な国土がある」という奸臣の甘言(?)に納得してしまい、結果自分も含めた一族皆殺しの結果を招く。
- 【後主(陳叔宝)】
- 南朝陳の最期の皇帝。隋軍に宮廷を包囲された際も逃げ隠れするなどの醜態をさらす。亡国を招いたことやその過程で妃が殺されたにも関わらず、何ら恥じる様子もなく連行先の長安で楊堅に仕えた。あまりの情けなさに殺されることもなく天寿を全うすることができたという。
- 【徽宗 (趙佶)】
- 北宋7代目の皇帝にして、水滸伝の諸悪の根源。文人・画人としては中国史においてトップクラスに入る才人であったが、庭園を造るために南方から奇岩・大石を多大な労力を費やして運ばせる(おかげで楊志が地獄を見ることになる)、趣味人で能力はあったが倫理に問題があった童貫・蔡京らを起用して、自身の趣味と贅沢のために重税を課して民を苦しめる、などといった所行を行う。ある意味、オタクに権力を持たせたらこうなったという好例かも知れない。
- それだけならまだなんとかなったのかも知れないが、時は北方で中華王朝の領地であるべき地を占領していた遼が金に取って代わられる時代であり、金と同盟して旧地を奪還しようとしたものの宋の軍隊が予想以上に弱すぎて失敗。金に助けてもらったせいで、予想していた成果が得られなかったことから遼の残存勢力と協力して金を攻撃しようとするが明るみに出てしまい、背信に激怒した金は侵略を開始。たちどころに首都開封は陥落。北宋は滅亡し、徽宗は息子の欽宗ともども北方に連れ去られて、生涯を閉じることとなった。
- 宋は(創始者の趙匡胤の性格からか)伝統的に文官の権力が強く、軍事力が弱かったのだが、それを考えても酷い。
- 【万暦帝 (朱翊鈞)】
- 明王朝14代皇帝。10歳で即位した時には名臣である張居正の摂政によって安定した治世を送るが、張居正が亡くなって親政を開始するや否や政治を放棄。25年間も政治もせずに後宮に引きこもってニートしていたというのはインパクトとしてはかなり強い。
- 明は皇帝の独裁権が非常に強いため、有能な人物が皇帝になれば効率良く回るが、無能な人物が帝位につけば目も当てられない状態になってしまう。政界も儒教的な理想論を振りかざす連中と、現実的な政治を行う連中とで対立してしまい、張居正ほどの名臣が現われることはなかった。唯一収拾をつけることができた皇帝が政治に無関心で奢侈と貯蓄に明け暮れていたのだから、どれだけ政治が混乱していたのかはいうまでもない。
- 国家財政を回復するべく重税に重税を重ねて民間が疲弊し、反乱が続出したのはもちろんの事、秀吉の朝鮮遠征に目がいって、ヌルハチの勃興を見逃したことが明王朝の滅亡へとつながってしまう。このため正史の「明史」では「明は万暦において滅びる」と酷評している。
世界史での有名な暗君
- 【ジョン欠地王】
- 説明不要、もはや阿斗と並んで暗君の二つ名とすら思える超絶暗君。ジョン失地王とも。あまりの人気のなさにこの王以降、ジョンの名は王の名として憚れているとされるほど(実際は王族では珍しい訳ではないのだが)。近年ではリヴァプール港の整備や海軍の育成など、再評価する向きもある。なによりも前代の王がライオンハートことリチャード1世なため、比較されると同時にそのツケを支払わされたという面もある。なにしろ兄のせいで十字軍軍事費&兄の身代金という莫大な出費を抱えた状態で即位したのだから。
- 【アンゲロス王朝の皇帝全員】
- 東ローマ帝国の王朝。一部の皇帝ではなく、初代イサキオス2世から全ての皇帝が暗君という希有な王朝。華奢、売官、反乱、略奪、暴政、ビザンチン外交を地で行く浅はかな陰謀etc…。あまりのことに5代19年の短命王朝で終了する。Wikipediaにすら「歴代皇帝が全員無能」と書かれ、コーエーの往年のゲーム「蒼き狼と白き牝鹿・元朝秘史」では「アンゲロスブラザーズ」と呼ばれ、ジョン欠地王とならび全員がネタ人物である。
- 【コンスタンティノス11世】
- 東ローマ帝国最期の皇帝。ただし、彼が即位した時点では情勢はほぼ詰みであったこと、にも関わらず外交・戦闘面でイスラーム勢力を相手に奮戦したことから現在の世界史的な評価では暗君とはされていない。最後は演説の後にオスマン軍に突撃して姿を消したため、聖人として考える人や「いつか復活して帝国を復活させる」と考える人も。
- 「吾輩は猫である」で日本語で愚図な人物を指す「オタンチン」と掛けた罵倒語が作られた程度。
- 【ルイ16世】
- ブルボン朝の王。フランス革命を招き、王朝を滅ぼした上で自らはギロチンにかけられるという最期を遂げた。ただし、国政改革に手を付けようと三部会を招集したことがフランス革命の遠因であるように、必ずしも暗君とは言い難い事跡は存在する。上記のコンスタンティノス11世と並び時代が悪すぎ、遅すぎの典型的な君主。
- 【ルートヴィヒ2世】
- バイエルン王国第四代国王。女嫌いで生涯独身を通し、神話や芸術の世界に生きた夢想家というテンプレ的浪費家。通称「狂王」。廃位された挙句不可解な状況で水死するが、精神異常者だったとも、廃位の口実としてそのような鑑定がされたともいう。ワーグナーを支援し、バイロイト祝祭劇場の建築費やニーベルングの指環の上演に出資した。彼の建築したノイシュバンシュタイン城は、同時代においてはただの道楽でしかなかったが(なにせ居住にも政務にも軍事施設としても適していない)、その後貴重な観光資源として地域経済に貢献している。
- 【レオポルド二世】
- ベルギー王国第二代国王。自国の列強入りを目指して植民地獲得に乗り出した結果、悪名高いコンゴ自由国の暴政を生み出し「ヨーロッパ最悪の宗主」とまで呼ばれた人物。
- 当時のベルギー政府は植民地に興味がなかったことから、国とは無関係の私領という形でコンゴに投資した。だがその統治はノルマを守れなければ手足を切断されるなど、植民地政策が当たり前だった当時のヨーロッパ基準ですら「非人道的な残虐行為」と非難轟々であり、しまいには家族からさえ後ろ指をさされ葬儀では実情を知った国民から棺につばを吐きかけられたという嫌われようである。
- 個人としては暴力や搾取を嫌う人物であり、原住民には優しくしろという命令を出していたが、そもそも暴力的支配が行われたのは国王が課した無茶なノルマと西洋的な上から目線が原因であり、自分では悪いことをしている自覚が全くないといういわゆる自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪。
- なおコンゴ人を意図的に殺そうとしたわけではない(むしろ生きていた方が儲かる)ので定義上はジェノサイドに当たらないとされているが、起きた結果で言えばホロコーストレベルの死者と暴力であるという。
日本史、戦国までの有名な暗君
- 【後白河天皇】
- 同時代の人間からは「和漢比類少なき暗主」と揶揄されたという。現在では平家・義仲・頼朝と互角に渡りあった権謀術数に長けた天皇という評価が強く、結果的に平安時代から続いた摂関家政治にトドメをさした人物とも言われている。当代の評価と現代の評価が食い違う典型例。頼朝に「日本国第一の大天狗」と言わしめたあたり、ただの暗君ではないのだろう。
- 【藤原泰衡】
- 奥州藤原氏最期の当主。頼朝に怯えて、匿っていた義経と自身の兄弟を殺害。それでも頼朝の侵攻を防げずに亡国。最期は命乞いをした挙句に逃亡先で家臣に暗殺される。まさに暗君の役満的立ち回りだが、平家滅亡の時点で情勢的には詰みだろう。頼朝からしたら地方政権を生かしておく理由がないのだ。
- 評価が悪い理由の大半が判官贔屓によるものと思われる。
- 【北条高時】
- 鎌倉幕府第14代執権、第9代得宗。闘犬や田楽に興じ政治を顧みず、皇室を軽んじた上で新田義貞や足利尊氏らの反乱を招き最期は自害したとされる。もっとも、当代の記録では「病気がち」とされており、また遊興好きは父の悪癖であったとされることからこの評価は疑わしいとされる。
- 実際には病弱な高時に加えて改革よりも安定性を重視して補佐した側近たちにより、小氷期への変動、両統迭立、貨幣制度の浸透による御家人制の崩壊といった「新しい社会構造への変化」に対応できずに衰退していったというのが事実の可能性が高い。
- 【後醍醐天皇】
- 上記人物を打倒し、建武の新政を行うも武士たちの反感を買い騒乱の時代へ突入。日本史上前代未聞の二人の天皇が併存するという南北朝時代を招く。ただし、太平記で英雄扱いされている楠木正成の評価が上がる分、彼を使いこなせなかった主君が中傷されたという側面は存在する。明治以降は南朝正当論が幅を利かせたため中興の祖とする歴史観も戦前は存在したが、昭和軍人たちからは逆に軍人の言うことを聞かなかった天皇と揶揄されたという。このようにどの時代においても毀誉褒貶が激しい。
- 【足利義政】
- 室町幕府第8代将軍。国政を顧みないどころか、自家の跡継ぎにさえ無関心であり作庭や能に没頭。結果、応仁の乱を招き戦国時代への遠因を作った。文化面での業績は大きく、銀閣に代表される東山文化を作りあげた。
- 彼の時代は南北朝時代の後遺症から幕府の財政は崩壊寸前であり、彼も多少頑張ったようだがすぐに上記のとおりになった。
戦国時代の有名な暗君
- 【朝倉義景】
- 越前朝倉家11代目当主。今川義元に続く、織田信長のやられ役その2。若狭を占領して領土を広げたまではよかったが、地位に安住した結果、信長に滅ぼされてしまった。戦国時代に生まれてしまったことが不運としか言いようがない人物。
- 【今川氏真】
- 説明不要、戦国のファンタジスタ。ただ、言うまでもなく桶狭間での父の死である意味詰みであり、同情の余地はかなりある。高い教養もあり、江戸時代まで高家として子孫や家名を残せた点は評価すべきだろう。上記と同じく生まれた時代を間違えたタイプ。大河ドラマ「おんな城主直虎」では相変わらず武将としてはサッパリ駄目ながら、文化人としてはまさにファンタジスタな面も含めてかなりカッコよく描かれた。
- 【北畠具房】
- 伊勢国司北畠家の第9代当主。ピザデブであったことがコーエーにバレた途端、能力・グラフィックが特段にネタキャラ化してしまった悲劇の人物。一族皆殺しにあった挙句、生き恥をさらせとばかりに殺されることもなく天寿を全うした点では上述の陳の後主と似る。
- 【武田勝頼】
- 甲斐武田家第20代当主。暗君とされるのは甲陽軍鑑の歴史観によるものであり、現代の作品では信長のライバルとして強力な人物に描かれることが多い。信長の野望でも高評価である。実際先代の武田信玄の時点での判断ミスが響いているとも言えなくもないし。
- 【北条氏政】
- 後北条氏の4代目。勝頼と同様、甲陽軍鑑の被害者。しかも彼の場合、自家の味方であるハズの北条記においてさえ敬語をつけてもらえないというdisられっぷり。しかし最近では再評価が進んでいて、大河ドラマ・真田丸でも「権謀術策に長けた武将」みたいな扱いだった。
- 【一条兼定】
- 説明不要、「働きたくないでおじゃる」。もっとも、むやみに働き過ぎたことが彼の低評価につながっているのだが。コーエー作品ではどれもえげつないほどの低能力であり、暗君プレイの代表格である。
- 【宮部長房】
- 宮部継潤の息子。戦国英雄のバカ息子その1。関ヶ原において判断ミスの連続で、東軍→西軍というウルトラCな裏切りを行う。死没から400年後、信長の野望において世界のギリワンとして注目されるも、その同輩は斎藤道三・松永久秀・藤堂高虎と押しも押されぬ高スペックの武将であり、彼だけが知名度・能力共に大きく見劣りするという恥辱プレイであった。
江戸時代以降
江戸時代も中期以降、幕府同様のどの藩も財政難に苦しめられることになる。
あの手この手と財政策に腐心するが、手っ取り早いのは増税であるが余力がないのは民間も同じであり、膨れあがる年貢に耐えかねて一揆が発生。その結果、改易という事態に発展することもあった。
……が、自藩の状況が苦しいにも関わらず遊興にふける藩主がいたのも事実である。また、高直しといって実際の石高(内高)を公式の石高(表高)に直すという行為も行われた。官位や江戸城における席次などは表高によって決まるので、家格の上昇を狙っての高直しが頻繁に行われた。ただし、表高が上昇すると軍役や税などの負担も上昇するので賢い藩なら行わなかった。
高直しをするということは内高と表高の差額で余裕があった分を吸い取られるということを意味しているため、民によっては全くメリットのない行為であった。しかも、実際には分割相続によって格式が減少した分を取り返すために内高がそれ以下にも関わらず、それ以上あったと申告して認められるケースも多かった。例えば7万石の石高しかないにも関わらず、10万石と申請して認められた場合、領民は7万石分の収入しかないにも関わらず10万石相応の年貢を納めなければならないので、その分だけ地獄を見ることにもなった。このため、見栄のために高直しを行う暗君も多かった。
- 【加藤明成】
- 加藤嘉明の息子。戦国英雄のバカ息子その2。年貢にも利息をつけ、商人からも売り上げを巻き上げるというジャイアンとスネ夫が合体したような暴政を敷く。見限った家臣が幕府に報告することを恐れて徹底粛清。しかし、かえってバレてしまいあえなく改易。
- 【黒田忠之】
- 黒田長政の息子。戦国英雄のバカ息子その3。長政は彼の狭量さに気づいており、絶縁した上で百姓か商人か出家するか選べと迫ったという。後見役の栗山大膳が命がけでこれを阻止したが、長政の死後は口うるさい栗山を迫害。家臣団の対立も激化してお家騒動に発展。これも栗山が全ての責任を負うことで、加藤明成と異なり改易は免れた。
- 【真田信利】
- 沼田藩初代当主。真田信之の孫。沼田藩は真田家の分領であり、父が早世していた事から叔父に当たる真田信政が統治していた。祖父の信之が隠居すると信政が松代本家を相続、信利が沼田分領を統治することとなった。ところが信政が信之に先立ってしまい、隠居の信之は信政の子である幸道を後継者に指名。信利は長子の子である自分が本家を継ぐべきだと主張し、幕府を巻き込んだ騒動に発展した。しかし、幕府の裁定により松代本家は幸道が継ぐこととなり、その代わりに沼田分領を分離独立させることによって信利は大名として取り立てられることとなった。
本家を継げなかったトラウマからか、表高3万石のところを高直しで14万石として申告。江戸の藩邸も豪奢な物に造り替えるなどして領民は重税にあえぎ窮乏していった。 - 両国橋の改修を請け負ったものの納期に間に合わなかったことがきっかけで悪政が判明。改易という処分が下されることとなった。
- 【伊達綱宗】
- 仙台藩3代目藩主。伊達政宗の孫。政宗の数奇部分だけを引き継いでしまったかのような性格で、あまりの放蕩振りにお家騒動へと発展。結果、家督を息子に譲って隠居を余儀なくされる。
- ただし、仙台藩は朝廷を含んだ複雑な縁戚関係に加え、政宗が家康に従属してからも天下の簒奪を狙って奸計を巡らせていたという前科があることなどから、幕府から目をつけられやすい経歴があり、隠居を巡って実像以上に暗君さが喧伝されたのではという説もある。趣味では多大な功績を残しており、その遺物は現在でも仙台市博物館で見ることができる。
- 【松倉勝家】
- 島原藩松倉家2代目。父の重政は島原に着任すると禄高4万3千石でありながら10万石相応の城(島原城)を建てる、領内の石高を倍以上に見積もることによって過大な税を取り立てる、キリシタンに過酷な刑罰を追わせる、更にはキリシタンを根絶やしにするためにルソン(フィリピン)遠征を企てるといった事から司馬遼太郎に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在は少ない」と言わしめた人物である。その一方で関ヶ原や大阪の役を勝ち組として乗り切ったことや前任地の大和五条では名君として称えられているという評価できる面を持った人物でもある。
その息子である勝家も父親以上の悪党であった。凶作にも関わらず重税を取り立てる、人頭税や住宅税といったありとあらゆるものに税を設けて厳格に取り立てるといった、考えうる限りの手段で民を搾り尽くした。更には年貢が納められない農民たちから妻や娘などを人質に取り、収められなかった時には人質達に蓑を着せて火をつけ、もがき苦しませながら焼死させたともいう。やっていることが時代劇の悪役そのまんまである、というより彼の悪政ぶりが時代劇のテンプレートを作ったと見るべきだろう。
世が世なれば某越後の縮緬(ちりめん)問屋のご隠居一行や暴れん坊な上様に成敗されるところであるが時代が早すぎた。圧政に耐えかねた民衆の怒りが島原の乱となって爆発。鎮圧はされたものの悪政の責任を取らされる形で改易の上、斬首された。武士の最後の名誉である切腹すらも許されなかった事実が、どれだけ重大な罪であったかということを物語っている。 - なお、江戸時代で大名クラスが斬首刑にされたのは彼だけである……というよりも、最後といってもいいだろう。
- 【本多政利】
- 大和郡山新田藩藩主、本多忠勝の曾孫。実父の本多政勝は15万石の本多家宗家を継いでいたが本来は傍系、先代が死んだ時、その実子が幼児で本多家には「幼君が後を継いではならない」という忠勝の遺訓があったため代わりに相続したものである。このため、後継は先代の子である政長に決まっていたが、当然のことながら実子の政利に継がせたいと思っていた。
政勝が死ぬと、政利は幕閣への工作を開始。その結果、9万石を政長に、6万石を政利に分割相続させるという判定が下された。これが世に言う「9・6騒動」であったが政利は全てを継げなかったことに不満で事もあろうに、その政長を毒殺したと伝えられている。しかし、それでも9万石は継げなかった。
その後の政利は転封を繰り返すが領民や家臣への暴虐といった悪政によって改易となり、幽閉されて生涯を閉じることとなった。 - 【池田綱政】
- 岡山藩池田家4代目当主。岡山の後楽園を作った人物で、有能な家臣に任せて新田開発や河川の改修を行うなど岡山藩の財政を回復させた、といえば実績的には名君なのだが、その内実は幕府隠密の報告書や親族の日記から「生まれつきバカ」「愚か者で分別がない」「特に色を好むことには限度がなく、手当たり次第に女に手を出した」と散々な評価。実際に70人以上の子供を作っている。
遺言で「公家のコスプレで葬ってくれ」といい残すなど、のそのキャラを一言で言い表すなら「光源氏に憧れ続けた」といっても過言ではなく、四書五経といった当時の学問には目もくれず、ラノベ的な文学や源氏物語の世界に耽溺した人生を送った。その評価の割には政治がうまくいったのも父親が残した有能な家臣に丸投げしたからに他ならない。劉禅や、今川氏真、一条兼定あたりが江戸時代に生まれていたらこんな感じになっていたのだろう。
この辺りが、戦国を知る世代と知らない世代の境目で、これ以降、大名の貴族化が進むのだが、父親の池田光政が江戸時代屈指の名君と評価は高いが堅物だっただけに、コントラストがいっそう際だつことに。
磯田道史の「殿様の通信簿」において、作者が「志村ケンのバカ殿のシリーズのバカ殿に一番近い人物」と力説していたので、ネタ枠として出してみた次第である。 - 【浅野長矩】
- 「浅野内匠頭」としていわずとしれた忠臣蔵の赤穂藩藩主。忠臣蔵の影響で美化されがちではあるが、理由はどうあれ、仕事の最中に発作的に衝動を起こして上役を斬りつけるという行為は立派にDQNである。家臣達を路頭に迷わせてしまっただけではなく結果、最終的には死なせてしまった(後世に英雄として語り継がれるとは言え)のだから罪作りな人物である。
- 同時代の史書にも「実は女好き」(wikiでは否定されていたが)はともかく「神経質で民に厳しく、奥方の下女に非道を働いたので近いうちに改易されるだろう」と書かれていたのだから、忠臣蔵を鵜呑みするのも危険だろう。再評価の結果、評価が下がってしまう傾向にある人物だといえる。
- 【南部利済】
- 盛岡藩南部家12代目。父親は長男でありながら政治抗争で廃嫡された人物であり、母親は庶民出身の未亡人であったため、その治世から「利済は浮気でできた子で、南部家の血は引いていない」と噂された。
この当時の盛岡藩は加増を伴わない高直しによる負担増や凶作などによって苦しめられていた。利済も当主の座につくと藩政を立て直そうとしたが失敗、経済振興のために盛岡に遊郭を建設したことが反感を招き、重税を課す一方で贅沢に走ったことから三陸地方を中心としたエリアで一揆を起こされてしまう。その責を取る形で隠居して長男に後を譲ったものの、仲が悪かったことから圧力をかけて引退に追い込み、その弟を藩主にすることによって院政を敷いた。が、また、一揆を起こされてしまい結局は幕府に呼び出されて江戸城下で謹慎させられる羽目になった。 - 【津軽信順】
- 弘前藩津軽家10代目。この当時の弘前藩も財政難で苦しんでいた。先々代の藩主はそれなりに有能であったが、父親である先代は加増を伴わない高直しで経費が膨らみ、重税などでカバーしようとしたため一揆を起こされる有能とはいえない藩主であった。おまけに幕府内での地位を上げる手段として、信順の嫁に将軍の娘を迎えたが、その運動のために多額の現金をばらまいたため先々代の苦労が水の泡になってしまった。
その息子の信順は父親以上の暗君で、参勤交代は酒と女に入り浸って期日に遅れる、贅沢三昧で遊び惚けるなど奢侈の限りを繰り広げた。このため弘前藩の負債も莫大なものとなってしまい、これには幕府も捨ててはおけず、強制隠居をさせられる羽目になってしまった。
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