「有馬晴信」(ありま・はるのぶ 1567 ~ 1612)とは、島津家久と共に沖田畷の戦いで龍造寺隆信を破った肥前の豪族であり、岡本大八の詐欺の餌食になって命を失ったキリシタン大名。
※洗礼名は、宣教師側の史料では「ドン・プロタジオ」または「ドン・プロタシオ」だが、国内に残る話では、「ドン・ジョアン」となっている事もあるが、聞き間違えがそのまま残ったものらしい。
切支丹改宗
肥前の豪族・有馬義貞の次男に生まれ、兄・有馬義純が父より先に病死した為に家督を継いだ。
しかし祖父・有馬晴純の代には島原半島一帯を支配する大勢力であった有馬氏は、文化系の父・有馬義貞の代となると大友宗麟や龍造寺隆信そして叔父の大村純忠をいじめる西郷純堯らの圧力を受けて戦国大名から一地方の領主にまで落ちぶれていた。
叔父の大村純忠はキリスト教に救いを求めて改宗したが、有馬晴信は、父・有馬義貞同様、ポルトガルとの貿易による利益を優先する為にイエズス会巡察師ヴァリニャーノのもとで受洗してキリスト教に改宗し、大友宗麟と誼を通じて、天正遣欧少年使節を派遣した。
南蛮貿易
戦乱により肥沃とは言えない所領から安定した収入が得られず南蛮貿易に頼るしかない事もあってか、利益の為に改宗した有馬晴信朱印船の派遣回数は尋常ではなかった。貿易による利益で有馬氏の戦力を拡大した他、キリスト教に改宗したことでポルトガル商人や宣教師達の協力も得られるようになった事から、少ない兵力を豊富で充実した装備で補える程に最新装備を整えていった。
当時、南蛮貿易で入手していた主な商品としては、日本ではとれない鉄砲の火薬として重要な硝石等であり、代金として支払いに使用していたのは、
といったものであった。
※戦国時代は当時は、武田信玄が戦争に勝って得た敵領民を死ぬまで金山で働かせる等、奴隷貿易は国内でも一般的だった。
一度は、龍造寺隆信に臣従する道を選んだ有馬晴信だったが、ポルトガル商人や宣教師の協力により武装度が格段に向上すると、龍造寺隆信と敵対する道を選んだ。
再び大名へ
島津義久に支援を求めて龍造寺隆信と敵対した有馬晴信だったが、島津家中では当初、有馬晴信の援軍要請に消極的だった。
古来、武士は義をもって第一とする。
当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。
の言葉により、島津氏最強の釣り師・島津家久が派遣されることになった。
沖田畷にて龍造寺軍を迎え撃ったものの兵力では龍造寺軍に劣る有馬・島津連合軍だったが、鉄砲に精通した島津軍と、最新の鉄砲を装備していた有馬軍の連携で、龍造寺軍を島津家久の釣り野伏と挟撃に見事にはめることに成功。肥前のクマー・龍造寺隆信も討ち取るという大戦果を挙げた。
龍造寺隆信や五人揃って四天王を失った龍造寺氏が衰退する中で、有馬晴信は浦上をイエスズ会に寄進した。また、豊臣秀吉の九州征伐後は、南蛮貿易の利益の為に利用しようと考えた豊臣秀吉の計らいにより所領を安堵された。
文禄・慶長の役に参加した際は、兵員2000に対して兵船や武器の装備度は他の大名家を凌駕していたといわれ、そのあまりの充実度と質と最新ぶりには諸大名も感嘆したと言われている。
関ヶ原の戦いでは、当初は西軍として参加したが、西軍敗北の報を受けると東軍に寝返って肥後の小西行長の宇土城を攻めた功績により所領を安堵された。
岡本大八事件
その後は徳川家康の書簡をタイへ届けたり、台湾を調査したりしていた。しかし、有馬晴信の、そしてキリシタン達の運命を変える事件が発生する。
有馬晴信の朱印船がマカオに寄港した際に、マカオのポルトガル人と小競り合いが発生して朱印船の乗組員と家臣48名が殺された。
その後、マカオ事件を実質的に指揮したポルトガル側の責任者アンドレ・ペッソアが長崎に来航して徳川家康に謝罪文を送り、徳川家康は受け入れて長崎奉行長谷川藤広やイエズス会準管区長フランシスコ・パシオらに命じてアンドレ・ペッソアを召きよせようとした。
しかし、アンドレ・ペッソアは徳川家康の召還を拒否して乗船のマードレ・デ・デウス号で逃亡を図った為、部下を殺された怒りに燃える有馬晴信は、長谷川藤広に協力して旗下の軍船を多数出撃させてマードレ・デ・デウス号を包囲し、アンドレ・ペッソアは乗員を逃がした後にマードレ・デ・デウス号を爆沈させた。
と、ここで済めばよかったのだが、ここで有馬晴信に対して本多正純の家臣・岡本大八が
マードレ・デ・デウス号撃沈を、戦功として江戸幕府に奏上し、旧領の還付をお願いするのです。
しかしこれは、朱印船貿易により多大な利益を得ていて、徳川家康もキリシタン保護について文句を言い出し辛かった有馬晴信から一財産せしめようとした岡本大八による詐欺行為であり、岡本大八の言葉を信じた有馬晴信は口利きの為の賄賂を贈った。
しかし、岡本大八の悪事は幕府に露見し、キリシタンであった岡本大八は火刑に処され、賄賂を贈った責任を取らされた有馬晴信は、甲斐国に送られて同地で死を命じられた。享年46歳。
死の真相
江戸幕府より死を命ぜられた有馬晴信は、日本側の史料では、自殺を禁じるキリシタンでありながら自刃したとされているが、宣教師側の史料では、キリシタンらしく自刃を選ばず、家臣に首を落とさせたと記録している。
そのどちらであったかを知る術は無い。
その後
朱印船貿易による利益により、豊臣秀吉や徳川家康によるキリシタン弾圧政策下でも多数のキリシタンを抱えていた有馬晴信の所領島原は、有馬晴信の死後、後を継いだ有馬直純がキリスト教を棄教して幕命に従うようにキリシタン弾圧を始めた。
しかし、領民に対する弾圧に嫌気がさした有馬直純は、転封を幕府に願い出て日向国延岡に移った。島原には代わりに松倉重政が入って重税を課した上に弾圧も行い、後に島原の乱として爆発するきっかけとなった。
※その他「有馬晴信」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング九州編にて適正優秀者として登場。
※祖父・有馬晴純は総合ベスト枠で、父・有馬義貞は総合ワースト枠で登場している。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 61 | 戦闘 | 40 | 智謀 | 52 | 政治 | 67 | 野望 | 59 | ||||
天翔記 | 戦才 | 122(C) | 智才 | 134(B) | 政才 | 154(A) | 魅力 | 74 | 野望 | 62 | ||||
将星録 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 63 | 政治 | 81 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 59 | 戦闘 | 42 | 智謀 | 46 | 政治 | 68 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 50 | 智謀 | 28 | 政治 | 58 | 野望 | 78 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 49 | 知略 | 31 | 政治 | 60 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 48 | 知略 | 28 | 政治 | 59 | 教養 | 50 | ||||||
革新 | 統率 | 54 | 武勇 | 60 | 知略 | 32 | 政治 | 66 | ||||||
天道 | 統率 | 54 | 武勇 | 60 | 知略 | 32 | 政治 | 66 | ||||||
創造 | 統率 | 51 | 武勇 | 59 | 知略 | 39 | 政治 | 64 |
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関連コミュニティ
関連項目
- キリシタン大名
- ルイス・フロイス
- ヴァリニャーノ
- アルメイダ
- イエズス会
- 有馬義貞
- 有馬晴純
- 大村純忠
- 大友宗麟
- 龍造寺隆信
- 島津義久
- 島津家久
- 徳川家康
- 岡本大八
- 天正遣欧使節
- 南蛮貿易
- 沖田畷の戦い
- 戦国時代の人物の一覧
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- iM@S架空戦記シリーズ
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