単語記事: 東ローマ帝国

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東ローマ帝国395年 - 1453年)とは、東西に分割統治されたローマ帝国の東側の領域、およびその帝国である。

5世紀に西ローマ帝国が滅亡して以降は東地中またはバルカンアナトリア半島を中心に土を形成した。ローマ文化を部分的に継承していたものの、本質的にはオリエント(中近東)からの影を持つギリシア文化(ヘレニズム)圏かつキリスト教圏であり、絶えざる争乱もあって、7世紀をに古代ローマとは異なる独自の文明へと変質していった。この帝国は12世紀に至るまで全ヨーロッパの羨望の的でもあったが、同時に嫉妬と侮蔑の対でもあった。

東ローマ帝国は「中世ローマ帝国」とも呼称され、一般的にはビザンツ帝国ビザンティン帝国の名でも知られる。

基本データ
正式名称 ローマ帝国
Imperium Romanum
Βασιλεία τνωμαίων
国旗

東ローマ帝国国旗
(レオロゴ時代)

東ローマ帝国国章 (レオロゴ時代)

最大版図

最大版図
(西暦555)

公用語 ラテン語
(395年 - 629年)
ギリシア語
(629年 - 1453年)
首都 コンスタンティノポリス
(395年 - 1204年 / 1261年 - 1453年)
カイ
(1204年 - 1261年)
政治 専制君主制(ドミナートゥス)
皇帝 アルカディウス(初代)
ユスティニアヌス1世(527年 - 565年)
 ・最大版図を実現
ヘラクレイオス(610年 - 641年)
 ・帝国ギリシア
バシレイオス2世(976年 - 1025年)
 ・最盛期を現出
アレクシオス1世(1081年 - 1118年)
 ・国家を再建
ミカエル8世(1261年 - 1282年)
 ・都奪還
コンスタンティノス11世(1448年 - 1453年)
 ・最後のローマ皇帝
人口 26,000,000人(565年)
通貨 ミス
概要
 ・この国の特徴
前期 成立と再興
 ・テオドシウス朝(379年 - 457年)
 ・レオ朝(457年 - 518年)
 ・ユスティニアヌス朝(518年 - 602年)
  ・大帝のローマ復興
中期 変化と盛衰
 ・ヘラクレイオス朝(610年 - 695年 / 705年 - 711年)
  ・英雄の誕生
 ・シリア朝(717年 - 802年)
  ・その渾名は糞皇帝!
  ・参上二次元女帝
 ・アモリア朝(820年 - 867年)
 ・マケドニア朝(867年 - 1057年)
  ・全盛期
 ・ドゥーカス朝(1059年 - 1081年)
 ・コムネノス朝(1081年 - 1185年)
 ・アンゲロス☆ファミリーズ
後期 分裂と衰亡
 ・ラテン帝国とニカイア帝国(1204年 - 1261年)
 ・パレオロゴス朝(1261年 - 1453年)
  ・超内乱
滅亡
ローマであること
東ローマ帝国の歴史的意義
年表
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  関連項目

 

 

 

 

 

 

概要

ローマ帝国が東西に分割された際の、東側の帝国である。

初めの頃、東ローマ帝国は高度な文化のギリシア、交易により富のとなるシリア、穀物地帯のエジプトを所領していたことから、の基盤が西ローマ帝国よりも安定していた。そのうえ首都コンスタンティノポリスは交通・経済・文明の要衝地にあったため、中世ヨーロッパにおいては最大の貿易都市であった(また、当時の全ユーラシアにおいても常にトップ3に入るほどの巨大都市であった)。

文化面においては、キリスト教であるギリシア正教(正教会)と古典ギリシア文化に、オリエント(中近東)やペルシャの文化を融合させたビザンティン文化を持っていた。このため東ローマ帝国は、西ローマ帝国亡き後の西欧に対し、先進文明圏としての優位を保っていたのである。ホメロス物語ローマ建築の中を生き続け、イエスの教えが緋色の衣とともに然と世界、それが東ローマ帝国であった。

古代ローマ帝国政治や伝統を継承した東ローマ帝国は、6世紀には旧西ローマ領を有するばかりか、旧都ローマを奪還するに至る。文化面においても、帝国の地中における影は絶大であり、欧州一の「皇帝を戴く」であった。

が、ランゴバルド王フランク王国ると、せっかく得た旧西ローマ領は奪われてしまう。また7世紀にはササン朝ペルシャ帝国イスラム帝国により領土を蝕まれ、経済基盤の東方を失うこととなった。さらにはスラヴ人やトルコ系のブルガリアによるバルカン半島への圧迫が加わり、帝国の領土はますます縮小した。

領土の縮小と文化的影の低下に伴い、帝国は古代ローマ帝国とは全に別の存在となった。「ローマ帝国」と自称こそするものの、7世紀には住民の大半がギリシア人となり、公用語ギリシア語となっていた(629年)。また8世紀にはローマ教皇と対立し、9世紀初頭には神聖ローマ帝国(の原形)が成立したため、西欧への影は低下した。

しかし9世紀中頃からはを回復させ、10世紀からは有能皇帝が連続して現れ、政治経済軍事・文化の面で著しく発展した。そして11世紀にはギリシア正教の布教による東欧の文化圏形成、ブルガリアに対する驚異的な戦勝により、帝国は絶頂期に突入した。

しかし11世紀後半にもなると、相次ぐ内部の政争やセルジュークトルコに対する敗戦を機に、が大幅に低下した。12世紀初頭までには再びの繁栄を取り戻すも、13世紀の初めには、第4回十字軍により都を奪われる始末。亡命政権ニカイ帝国により一応奪還には成功するが、すでに東ローマ帝国は「老いた帝国」であった。14世紀からはオスマン帝国に領土を侵食され続け、1453年、ついにとどめをさされてしまった。

この国の特徴

ローマ政治に特徴があった。

面にも大きな特徴がある。

※時の皇帝大な権に反して、過去皇帝に対する批判はいつの時代も絶えなかった。皇帝の権は絶対だが、権約束されているのは「生きている」時期に限った話であるため、過去の(すなわち死んで文句も言えない)皇帝に対しては然と批評・酷評が行われた。余談だが、こうした習や上述の異教徒との妥協が、西洋諸には狡猾・卑怯に映ったのか、「ビザンツ人」という言葉はネガティブな意味となった。

ローマの始まりについては意見の分かれるところだが、上述の最終分割395年を成立とすると、実に1000もの間、存続したことになる。「帝国1000年間続く」という例は他になく(神聖ローマ帝国の出発点を800年のカールの戴冠とした場合は別だが)、この点において東ローマの特異性や魅が存分に伺えるだろう。

東ローマの出発点

ディオレティヌスが四分割統治(テトラルキア)を行う頃には、すでに「帝国の東西」という概念はあった。

しかし実際に東ローマ帝国が誕生する切っ掛けとなるのはコンスタンティヌス1世(大帝によるビザンティウム(後にコンスタンティノポリスへと名)への遷都である。コンスタンティノポリスは最初のキリスト教都市であった。東ローマ帝国が「キリスト教によるコンスタンティノポリス帝国」である以上、330年に行われたその遷都は実に大きな意味を持っている。歴史の中にはその330年を東ローマ帝国ないしビザンツ帝国の始まりと見る者もいる。

ところが「東の帝国」なるものが実際に表れるのは395年。すなわちローマ帝国が東西分割された年である。その時点をもって東西のローマ帝国つまり東ローマ帝国西ローマ帝国ができあがるのだが、もちろん双方ともに新しい国家であるわけでもないし、ましてやローマ歴史が絶えたわけでもない。両ともに列記とした「ローマ帝国」なのだ。とはいえこの時をもって東ローマ帝国が誕生したのは紛れもない事実である。

帝国の変質”という点に東ローマの出発点を見出すのであれば、それは6世紀以降となる。ユスティニアヌス1世(大帝の時代はまさにそうであろう。彼の徹底的な中央集権、独裁政治は古代ローマ帝国とは一線を画しているし、何よりそれは「古代ローマ帝国からの脱皮」に他ならない。皇帝専制を基本とする東ローマ帝国だからこそ、彼の専制的な試みは東ローマを東ローマらしくさせたといっても過言ではない。

610年からのヘラクレイオスの治世期もまたその一つである。彼の時代に帝国バルカン半島アナトリア半島を軸とし、またギリシア人とその言を中心とした国家へと大きく変貌した。東ローマ帝国ビザンツ帝国だとかビザンティン帝国だとか呼ばれるのは、この時代がな原因である。そういった意味でも7世紀は古代ローマ帝国との明確な線引きがなされた時期といえるだろう。

このが「ローマ帝国」と名乗るからには、東ローマの出発点と称して模索することは野暮かもしれない。しかしこが古代ローマ帝国とは異なる部分を含むこともまた確かである。本項ではそれらの点を考慮しつつ、帝国が東西に分割された395年を東ローマの出発点としたい

前期 成立と再興

分割前のローマ帝国395年、肥大化した領土の統治に限界を感じたローマ帝国は、最終的な西分割統治を開始した。

旧都ローマ」を所領する「西側」はその後100年ももたない。他方、「東側」はローマ帝国政治・伝統・文化を継承し、長きにわたってキリスト教(正教会)として地中世界に君臨した。名実相伴ったのかは別として、東ローマ1453年の滅亡まで、ローマの名を誇るに至ったのである。

社会背景

古代ギリシアローマ社会では戦・名誉・自治が密接に絡み合った価値観の元、ポリス社会が形成されていた(古代ローマ帝国は数々のポリスとの同盟・契約によって成り立つ帝国でもあった)。政治的発言権を持つ市民は己の都市を自ら仲間と共に防衛し、管理することに誇りを抱いていたのである。

しかし、古代ローマ帝国が経験した3世紀の危機や相次ぐ蛮族の帝国への侵入により、この名誉と自治の価値観はれていった。

  • 共同体意識を保持するための設備(たとえば共浴場や競技場)の維持が困難となったこと
  • 農村や郊外から多くの部外者が都市に流入し、雑多で精的に統一されていない大衆が出来上がったこと
  • これらの結果、市民都市政治に喜びを見出すどころか疲れを感じるようになっていったこと

相次ぐ戦乱と土地の荒はこうした社会の変質を招いた。それ故4世紀の末にはポリスの「自治と名誉の伝統」はほぼ消失した(コンスタンティノポリスにおいては競馬場とそこに集う人々の政治的発言という形で、6世紀まで続いた)。それ故、地方政治は地方議会ではなく地元の一部有者の手に渡っていく。

荒れていく社会と自治への責任感の喪失により、人々は心の支えを欲するようになった。そのすがる思いの行き着く先がキリストの教えであり、と結びつく東ローマ皇帝属することであった。この「皇帝奴隷」であることに安心感を覚える潮が、東ローマ皇帝を専制君化していく。この時代はその最初の段階であった。名誉を重んじ簡単には跪かなかった古代人と、この時代以降の東ローマ人の皇帝への伏……実に対照的である。

テオドシウス朝(379年 - 457年)

395年、東ローマ帝国は静かに成立した。

当時の多くの民は、395年を「ローマ帝国全な分裂」とは考えていなかったのである。事実、当時の東ローマと西ローマの交流は途絶えておらず、また東西に皇帝を立てることもディオレティヌスの時代から何度かあった。したがってこの“395年”は、古代ローマ帝国、および西ローマ帝国との明確な線引きが不可能な時代といえる。

このように特徴の少ない帝国の初期だが、別段何もなかったわけではない。東ローマ帝国1000年以上にわたって守り続けた「テオドシウスの」が完成したのも、当時ヨーロッパを席巻していたフン族アッティラへ献を打ち切ったのも、そして(今日のカトリックの考えである)キリスト教三位一体説が支持されたのも、すべてはこの時代である。

帝国は確かに誕生した。後の東ローマ帝国ヨーロッパ史、ひいてはキリスト教の価値観へ少なからず影を及ぼしながら、産を上げたのである。

レオ朝(457年 - 518年)

何といっても特筆すべきは「西ローマ帝国の滅亡」である。

3代(および5代)皇帝ゼノンの治世期たる476年。西ローマ側が、ドアケル率いるヘルール族の賠償を断ると、オドアケルらによるローマが始まった。オドアケルは時の西ローマ皇帝ロムルスを退位させ、位のあかしを東ローマ皇帝ゼノンへ送り返した。これはローマ皇帝が西ローマ皇帝の位をも戴く、すなわち全ローマ帝国皇帝となる権限を有することを意味する。オドアケル本人はゼノンの宗権を認めたうえで、イタリア王として振る舞うというのだ。

かくして東ローマ皇帝=全ローマ皇帝の構図が成立した。しかし西ローマ皇帝全に歴史から姿を消すわけではない。もっとも、その最後の西ローマ皇帝ユリウスにしても、480年には暗殺されている。

さて、めて東西ローマ皇帝となったゼノンではあったが、彼は488年にあろうことか自らに西ローマ皇帝位を献上したオドアケルを討伐するように、東ゴート人のテオドリックに命じた。491年にゼノンはこの世を去ってしまうが、テオドリックによって493年にはオドアケルの排除に成功する。497年、東ローマ帝国はテオドリックを王として承認し、これにより現イタリアクロアチアに当たる地域には、東ゴート王497年 - 553年)が成立することになった。

その後

ゼノン亡き後の東ローマ帝国は、ナスタシウス1世(在位:491年 - 518年)の下、着実にを向上させていった。アナトリア南東部のイサウリアの乱が鎮圧され、対ブルガール人用の防は強化され、そのうえ破綻寸前の財政まで立て直されたのである。後世の東ローマ帝国が理想に燃えることができたのも、この皇帝の尽による基盤あってのものだろう。

が回復していく一方、宗教面においては不穏な影が渦巻いていた。アナスタシウス1世とコンスタンティノポリス教は単性論1寄りのキリスト教的見解を示したが、これが三位一体説2を絶対とするローマ教会に反意を抱かれる。まもなく東ローマ帝国は破門された。これは後に神聖ローマ帝国として表れる、東西教会の分裂の第一歩である。


1 キリストは受(人間となって現れること)によってその人性が性に融合された、とする思想。ようは「キリストだけど人間らしさもある」という考え。古くはギリシアの価値観であり、ここに東ローマ帝国ギリシアらしさを見ることができよう。

2 YHWH)と子(イエス)と霊が一体となり一のとなる、という考え。

フランク王国の台頭

少し戻って、西ローマ帝国が滅亡しきってすぐの481年、舞台は西ヨーロッパ現在ベルギー辺りにいたフランク人のクロヴィス1世は、現ベルギー周辺地域、いわゆるフランドル地方を統一すると、フランク王国481年 - 987年)を建した。

フランク王国486年、現フランス北部における西ローマ帝国系の残存勢駆逐しこれを併合。すると、東ローマ帝国と繋がりを有し、またお膝元の北フランスにおいてキリスト教徒のローマガリア住民が多くいた事実から、5世紀末までに、フランク王クロヴィスが東ローマ帝国教と同じである、キリスト教アタナシウス宗した。

507年、フランク王国は西ゴート王(現スペイン・南フランス)に対し勝利、その版図をフランス西部、ピレネー山脈にまで拡大させた。フランスの原成立である。翌508年、クロヴィスはパリを都とし、東ローマ帝国からはローマ帝国の名誉執政官の位を与えられ東ローマ帝国の権威の下にフランク王の権を正統化した。

フランク王国はその後も拡大し続け、6世紀末までには現在フランスベルギードイツ中西部およびアルプス山脈一帯にまで版図を広げた。旧西ローマ帝国領域に新たに出現したこの大は、次第にイタリアや「ローマ皇帝の位」にも干渉し始め、「正統なるローマ」たる東ローマ帝国にとっての不の敵となっていく。

ユスティニアヌス朝(518年 - 602年)

518年、アナスタシウス1世が逝去すると、東ローマ帝国は農民・将軍皇帝と出世していったユスティヌスから始まるユスティニアヌスのもと、大ローマ帝国の復を開始する。

初代ユスティヌスの時代、外部ではササン朝ペルシャ帝国の脅威が、内部ではシリアアンティオキアの大地震が、それぞれ東ローマ帝国を直撃した。この混乱期にあって、彼の甥にして心、そして同じ農民出身のユスティニアヌスが頭を現すようになる。

大帝のローマ復興

さて、ローマ帝国。誉れ高きローマを名乗る以上、心の都たる「ローマ」を所領しなくては! ――後々神聖ローマ皇帝が拘泥するように、ローマを名乗るこの皇帝もまた、旧都ローマを強く欲した。思えばローマ帝国という号からするに、ローマ奪還を標榜するのは当然と言える。

が、実際はそのような理想を掲げている場合ではなかった。6世紀前半、2代目皇帝となったユスティニアヌス1世大帝、在位:527年 - 565年)は、先代から悩まされていたササン朝の脅威や、襲い来る異民族にくわえ、進む財政難に苦しんでいた。

これに追い打ちをかけるように、532年、都の市民による「ニカの乱」勃発。逃亡さえ試みたユスティニアヌスだが、その際、皇后のテオドラはこう提言する。

たとえそれによって命ながらえるとしても、いまは逃げる時ではない。皇帝たりし者が亡命者の身たることはできない相談である。私も、出会う人々が私に向かって「皇后陛下」と呼び掛けないような日々を送りたくはない。逃亡すれば身の安全が得られるとしても、果たしてそれは命と引き替えにしてよかったといえるようなものだろうか。私は古の言葉が正しいと思う。「衣は最高の死装束である

井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』 p.97-98より引用

この励ましのおかげか、大スキピオの再来とまで称された将軍リサリウスが乱を鎮圧する。情容赦の粛清の後、ユスティニアヌスは旧ローマ領の再征を見事に達成。実際に動いたのは将軍のベリサリウスやナルセスだけどね。東ゴート王を滅ぼすなどして、旧西ローマ帝国領を次々と獲得し、見事ローマ帝国の復を成し遂げる。

アヤソフィア彼の偉業は何も軍事に限った話だけではない。

どう見ても部下が有能です。本当にありがとうございました。こうして数々の(財政的に)困難な事業の実行を見ると、ユスティニアヌス、いや、皇帝の権がいかに強大であったかがうかがえる。

失われたイタリア・北アフリカ旧都ローマ」を取り戻し、帝国はほぼ全に「東ローマ」ではなく「ローマ帝国」となりえていた、かに見えた。

転落

ところが彼、ユスティニアヌスの事業は、あまりに後世の財政的負担を重くし過ぎた。急速すぎた彼の事業は財産に理を言わせ、内の倉庫は底を尽きたという。

財政的に困窮した東ローマ帝国、しかしスロー1世のもと全盛期にあったササン朝の勢いはとどまる気配を見せなかった。東ローマ帝国は反撃に出るが、不全なでは勝利をもぎ取ることはままならなかった。そこにはもはやユスティニアヌス大帝が遺した虚栄さえ、残ってはいなかったのである。帝国はそのまま急に衰退していき、568578年には悲願の末に得たイタリアがランゴバルド人に荒らされ、南部と一部都市を除き喪失。またバルカン半島はスラヴ人に侵入されてしまい、旧西ローマ帝国領域である西欧とは陸では分断された。これらを抑えるべく帝国は軍の調達を画策するが、そもそも財政難、そんな資があるわけもなかった。

防上の懸念がある程度和らぐのは5代皇帝ウリキウスの治世期、すなわち582年からだった。西方防は強化され、ササン朝との和も進み、じょじょにではあるが着実に安が訪れつつあった。

……が、それらの苦労も帝国を安堵に導くには足らなかった。ついに赤字財政が善されることがなかったのである。残念なのが軍の待遇で、マウリキウスは費削減を理由に物資の現地調達を要した。また寒く燥した地域での作戦も命じた。これらの人遣いの粗さが軍の反発を招き、後にフォカスを擁立した反乱が勃発。農民出身の二人によって一度はローマをなし得たユスティニアヌスだが、何を隠そう、これがその終焉である。

簒奪者の時代

602年、クーデターにより隊長フォカスが軍人に担がれ即位した。ところが彼は軍人であったがゆえに元老院との関係は薄く、また政治に関しても辣腕というわけではなかった。もちろん政治基盤も薄い。当然ながら反対が相次いだが、フォカスはこれをうことなく処刑していくのだった。論、市民らはこのありように暴動を起こす。

フォカスの失態はそこに限らない。先のマウリキウスササン朝のホスロー2世を援助した人物であったが、フォカスはそのマウリキウスを処刑したものだから、ホスロー2世に「支援者(=マウリキウス)の敵討ち」という東ローマ侵攻の建前を与えてしまったのである。

民衆の多くは新たな皇帝を待ち望んだ。ちょうどそのとき、カルタゴ(現チュニジア)にてある軍人が動き始める。

中期 変化と盛衰

ヘラクレイオス朝(610年 - 695年 / 705年 - 711年)

疫病のペストが流行し、いよいよ帝国は滅亡の危機していた。7世紀、東ローマ帝国ササン朝ペルシャ帝国からの圧を受け、また、北方からのアヴァール人の侵入も視できぬようになっていた。くわえて都でも駄な政争が繰り広げられ、内政においても疲弊しきっていた。

これを好機と見たササン朝の君スロー2世は、東ローマに対し挙兵。その進軍はアナトリア(現トルコ)を突破し、コンスタンティノポリスの対にまで迫る勢いを見せる。

英雄の誕生

イタリアの対にあるカルタゴ。紀元610年、そこにいたアルメニア系の軍人ヘラクレイオスイラクリオス)は、簒奪皇帝フォカスによる圧政と失態に慢ならず(あるいは好機と見て)、都に上り政権を握し、皇帝に即位した。民衆は喜んで彼を迎え入れ、陰な乱世に希望を見出した。

だが。

こうしてヘラクレイオス絶望し、カルタゴへの逃亡を企てた。

はずだったのだが、

教会と市民必死の訴えにより、なんとヘラクレイオス軍を再編し都を離れ、親征を開始した。戦いは6年にも及び、ローマ帝国がとどめを刺されるどころか、なんとササン朝首都クテシフォンへ侵攻し、勝利をおさめてしまった。実はこれがササン朝の滅亡のきっかけだったりする。

ローマ人の皇帝ヘラクレイオス万歳!」――感動の凱旋式の中で、彼は奪還した例のなる十字架を掲げたという。

帝国は再編された。ローマ人のという建前、中心となったギリシア人とギリシア語、もはやローマとは別の独自のビザンティン文化の中で、“一時的に”。

イスラーム勃興

しかし穏な日々は長続きはしなかった。今度はアラビア半島にて、歴史の新たな役者、もとい東ローマの宿敵が登場する。その名はに従えし者、「イスラーム」。ササン朝ペルシア帝国東ローマ帝国との戦によって軍を失い、大きく弱体化していたところを、イスラームはここぞとばかりにかっさらう。彼らはまた、ヘラクレイオスがやっとの思いで奪還したシリア地方を、勢いそのままにあっという間に占領した。

論、ヘラクレイオスはこれに対し挙兵。

イスラム側は「ローマ軍は補給が続かない」と見るなり、ヤムルーク北のジャービヤまで南下、あえて占領下の都市から手を離していった。そして兵ジャービヤへ一極集中させ、東ローマを誘う形となる。一方、東ローマは続々と解放されていくシリア都市を喜んで回収し、大軍をジャービヤに向けて進軍させた。餌に釣られているとも知らずに。

決戦

ローマ軍約50,000 VS イスラム軍約20,000。

数に勝る東ローマ軍の猛攻。しかしイスラム軍がこれを4日間耐えぶと、東ローマ軍は暑さに耐えきれず、内部の不統一と離散により、軍の左翼を失う。これを機にイスラム軍は回り込み、東ローマ軍の退路であるを制圧。攻勢に転ずるイスラムに対し、東ローマ軍は退却を試みるが、行きつく先は深い底だった。こうして崖っぷちに追い立たされた東ローマ軍約40,000人は、続々と底へと落とされ、戦いの敗北を決定的にした。

ヘラクレイオスは再び失意にうちひしがれた。

シリアよさらば、なんと素晴らしいを敵に渡すことか!

井上浩一著『世界歴史11 ビザンツとスラヴ 第1部』 p.47-48より

以後、東ローマ帝国は基本的にバルカンアナトリア半島のみを領土とする、古代ローマ帝国とは全に異なる帝国となってしまう。

決定的な社会の変質

エジプトシリアと領土を失ったため、必然的にアナトリア半島が新たな防衛の前線となってしまった。穀物や兵の供給であるアナトリア帝国心臓であったから、帝国はこれを守るべく各都市塞化を急いだ。

その結果、東ローマ帝国における都市風景は、最古代から続く「衆の集う浴場や競技場が印の」ポリス社会のそれとは異なり、と修院がシンボルとなる防衛重視の狭い間へと変わった。都以外の都市を「ポリス」と呼ぶことはなくなり、都市のことを塞を意味する「カストロン」と呼称するようになった。

地域も軍管区(テマ)として再編され、すぐ東または南から襲い来る外的を意識した作りになった。4世紀末の時点で加速したポリス社会の解体は決定的となり、帝国社会カストロンの社会へと変化したのである。また、地方政治は4世紀ごろには地元の議会から地元の一部有者の手に移ったと先述したが、7世紀にはそこに軍管区と皇帝直属の官僚が加わるか、あるいは官僚だけが統治する形となっていった。こうした地方都市首都への隷属化は8~9世紀において完成される。

ローマ式浴場や競馬競争といった類のイベントは庶民の娯楽ではなくなり、東ローマ帝国が自身がローマであると外アピールするための国家儀礼となった――それは東ローマ帝国の儀礼義的性格を決定づけたのだった。

混迷期

ヘラクレイオスが亡くなった641年の内に、2人の皇帝が選出されまた退位された。

とくに悲惨なのが3代皇帝ヘラロナスで、彼はマルティナの手引きにより即位したとの噂により鼻チョンパ、そしてマルティナは舌チョンパされたうえ追放されたという。(´;ω;`)ブワッ。東ローマのむなしい政争の典である。

内部で乱れ狂う一方、641年以降はシリア沿部とエジプトアレクサンドリアを取り返した。だがそれも一時的なもので、646年には再びイスラム帝国により奪い返されてしまう。650年にはシリア全に失ったあげく、翌年にはアルメニアを横取りされた。また思想の違いからか、ローマ教会とも疎遠となった。

他方、イスラム帝国は後継者を巡る内乱の渦にあり大人しかった。しかし661年、ムアーウィアの政権握によりイスラム帝国内でウマイヤが誕生すると、イスラムは息を吹き返し、再び東ローマ帝国へ圧を加え始める。

対イスラム帝国再び

成立したばかりのウマイヤイスラム帝国。662年にはアナトリア半島を、669年には東ローマ都の対にまで迫る勢いを見せた。674年にもなると、ウマイヤの攻撃はより過なものとなり、以後678年までの4年間にもわたってコンスタンティノポリスでは包囲戦が展開された。しかし一度も落ちない。丁度このとき、をかければ消えるどころか燃え広がる様で有名な「ギリシアの火」が大活躍した。

そうして一進一退の攻防が続いたが、コンスタンティノス4世の在位中(668年 - 685年)にもなると、ウマイヤの侵攻は沈静化していった。ところがこの段階ではまだ、東ローマ帝国に安らぎの時が与えられたわけではなかった。681年、帝国バルカン半島にてブルガール人に惨敗すると、東ローマブルガリア帝国の成立を認めざるを得なくなる。とはいえ、他方ではウマイヤに対し圧勝(683年)するなど、東ローマは大としての面を保ってはいたのだが……。

皇帝ユスティニアノス2世に代わると、688年、ウマイヤ将軍を仕留めたうえ、和にまで持ち込んだ。同年、東ローマバルカン半島に対し遠征を試みた。しかし693年、セバストポリスの戦いにおいてスラブ部族の反逆にあい、さらにウマイヤ敗北を喫すると、再びウマイヤによるアナトリア侵攻が活発となった。

王朝の終焉

連年の戦費による財政悪化は視できなかった。引き続きユスティニアノス2世国家再建に尽するも、重税という形で市民を苦しめてしまう。そしてあろうことか、彼は建築事業に熱中し、より財政を苦しませることに。694年、これに見かねた市民らはクーデターを起こし、ユスティニアノス2世の鼻を削いで追放した。鼻のない彼は「五体満足ではない」ため復位の権利を失った。

が、ユスティニアノス2世は「の付け鼻」を新たな鼻とし、「五体満足」を、「こそはローマ皇帝」とし復位をもした。705年、ユスティニアノス2世は敵であるはずのブルガリア帝国の後ろを得ると、時の東ローマ皇帝を打倒し、見事復位に成功した。

ユスティニアノス2世ブルガリア帝国と親密にあったから、東ローマ帝国ブルガリア方面との関係を全することができた。くわえてこの頃ランゴバルド王ローマ教会とも関係善を図り、みごと成功した。ランゴバルド、カトリックブルガリアと、どれも長年のライバルいである。

とはいえ軍事・内政の面では低調であり続けた。ウマイヤには敗北し、ユスティニアノス2世は極度の疑惑から恐怖政治を敷いた。これに北部イタリアラヴェンナが反対の意を示し、略奪行為に走るという始末。かくして711年、復讐という極めて個人的な理由で軍を動かしたとして、ユスティニアノス2世位させられ殺された。英雄に始まるこの王も、最後は見るに堪えぬものだったのである。

シリア朝(717年 - 802年)

イサウリとも。

初代皇帝レオーン3世イサウロス(在位:717年 - 741年)がウマイヤ補給艦隊を撃破すると、後のオスマン帝国を除き、イスラムによる都の包囲に終止符が打たれた。また彼の時代、皇帝の立場を危うくする帝国艦隊の分割が決定的となった。

宗教面においても大きく仕分けられた時代であった。726年には像破壊運動(イコノクラスム)が、730年には像禁止令が発された。「二次元なんぞに拝むんじゃねえ!」。論、これは布教の際に像を用いるローマ教会の痛な反対を呼ぶことになった。これにより東ローマ帝国とその宗教的姿勢(後の正教会)は西欧における支持を失ったのであるが、逆に言えば西方ローマ教会(後のカトリック)の普遍性もまた東地中においては消失したということでもある6世紀以来イタリアに侵入していたランゴバルド族が増長し、北イタリアにおける支配権が縮小の一途を辿るなど、領土的にも荒んだ時代であった。

とはいえ東方においては、東ローマ帝国は繁栄を再び取り戻しつつあった。体制の安定化が着実になされ、またライバルであるウマイヤの勢が衰えだしたことも相まって、じょじょに帝国は東地中において強大となっていく。740年、帝国ウマイヤに対し圧倒的な勝利を得ると、東方における安は明らかなものとなるのだった。

その渾名は糞皇帝!

産まれた際にアレを漏らしたことから」という渾名を持つ皇帝コンスタンティノス5世(741 - 775年)の治世期には、東ローマは北シリアアルメニアメソポタミアにおいて大勝をし続けた。こうした東方での勢圏拡大に限らず、ブルガリア帝国に対しても9度の遠征を行い何度も勝利した。また皇帝直属の中央軍を初めて編成し、皇帝は数々の戦勝から軍とさえ讃えられた。どこがうんこ

しかし、コンスタンティノス5世がレオーン3世の像破壊ウン動を推し進め、また、最後の北イタリアラヴェンナを失うと、ローマ教皇庁の自立、そして対立は抑えきれなくなった。コンスタンティノス5世は良き皇帝ではあったのだが、こうした宗教的な理由から、後世皇帝と呼ばれるのである。9世紀の修士テオフネスは次のように記述した。

この年、不信心な皇帝レオーン(三世)に、より一層不信心な息子が生まれた。反キリストの先駆けであるコンスタンティノスである。……総教のゲルマノスが洗礼を施しているときに、生まれたばかりのこの子は、恐ろしい、いやな臭いの予告をした。
すなわちコンスタンティノスはなる洗礼盤に大便をしたのである
このことは撃した人が確かだといっている。これをみて総ゲルマノスは次のように予言した。「これは、将来においてこの子のために、キリスト教徒と教会にひどい災難が降りかかるしるしである」

井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』 p.140-141より

コンスタンティノス5世は775年にブルガリア遠征中に没するが、その際、最後っ屁でウンと頑ったため、ブルガリア帝国を弱体化させることに成功する。

ローマ教会の離反

ローマ教会は古代から帝国護下にあった。だが、6世紀のアナスタシウスの単性論推しやユスティニアヌス1世による強引なローマ奪還とそれに伴う同の荒、その後の財政難から来る北イタリア防備の弱体化、そこを狙って侵入したランゴバルド族、そしてそれに対し有効打もなく放置せざるを得ない失態から、ローマ教皇とその土地は、政治的観点から、もはや東ローマ帝国を見限り、新たな護者をめるようになり始めた。

最後の決め手は、上述した、東ローマ帝国による像破壊運動であった。これによってキリスト像やマリア像を否定されたローマ教会は、精的にも東ローマ帝国を見限ることになったのである。

そんな、新たなローマ教会の守護者をめていたローマ教皇にとって、当時大化していたフランク王国は打って付けの存在であった。481年に成立し、8世紀前半には現在ドイツアルプス山脈一帯からフランスに至る巨大な領域を手中に収めていたフランク王国は、東ローマ帝国に代わり、ランゴバルド族を成敗するにはこの上なきパートナーだったのである。

756年、フランクピピン3世は見事ランゴバルド王軍を圧倒し、ランゴバルド族より奪った北イタリアの一部地域をローマ教皇へローマ教皇領として寄進。774年には国王カールによってランゴバルド王全に討滅し、ローマ教会を守護してみせた。

こうした経緯により、ローマ教会は自身の護者をフランク王国へとめるに至った。それは、ローマ教皇庁が政治的には東ローマ帝国から全に離別することを意味し、またローマ帝国とは別の勢圏に移ったことをも意味していた……。

参上二次元女帝

二次元最高(再)」

ローマ教会の避難を浴びた像破壊運動も、レオーン4世の時代には大きく緩和された。続けてレオーン4世の后エイレーネーが彼の死後に実権を握ると、787年には像崇敬が復活するに至った(なお、余談だが彼女は息子をくり抜いて位を簒奪し即位したマジキチ)。

が、エイレーネーの像崇敬政策は度が過ぎていた。像破壊将軍fireしたりするなど、二次元否定を徹底弾圧したのである。軍のを失いゆく帝国の防備が堅い訳もなく、当時ハールーン・アッ=ラシードのもと全盛期にあったアッバースイスラム帝国による侵攻もを見るようになった。

もとより息子をくり抜いてでも即位した女、この先何を犠牲にするかもわからない、ということで彼女の支持は相当低かった。エイレーネーはこれを挽回すべく税を極端に軽くしたが、それはかえって赤字財政を誘発するだけに終わった。

このころ西方ローマ教会では、教皇が「女が政権を握った時点で東ローマ皇帝は絶えた」と至極根拠が見当たらない暴論を説いた。そしてそれを建前とし、800年のクリスマスに、かねてより東ローマ帝国に代わってローマ教皇庁を守護してくれていたフランク王国の王カールを、「ローマ皇帝」として戴冠、西ローマ帝国の後継者として、神聖ローマ帝国を成立させた(当時はただ“帝国”と称した)。これをもって、東ローマ帝国の「ローマ帝国二の後継者」という権威が、西欧には通用しなくなったのである。

アモリア朝(820年 - 867年)

前王ほどではないが、この頃には像破壊運動が息を吹き返していた。

そのほか、王初期にスラヴ人による反乱が勃発。824年に乱を定するが、鎮圧による疲弊によりイスラムへの対応が遅れた。827年には北アフリカのアグラブによってシチリが、そのほかのイスラムによりクレタが、それぞれ侵攻されることになる。
これらイスラムに対し、帝国は遠征軍を送ることもあったが、完全勝利とはいかず、838年にはお膝元であるアナトリア半島に打撃を受けた。これに対する報復や、イスラムへの防、軍の再編、そして像破壊運動の強化などは、ほとんどが実を結んでいない。ミカエル3世の治世期である863年になると、東ローマ帝国はアッバースに対し攻勢に転ずるようになる。と思えば、今度はシチリがアグラブ侵略され、またアナトリアでは異端が拡大していった。

このように軍事的には二転三転としていくアモリアだったが、文化や経済の点ではむしろ帝国に発展をもたらした。例えば文化の点では、キュリロス(キリル文字の由来兄弟による聖書のスラヴ訳や正教会の布教により、初期の東欧世界の形成に成功している。経済面では、829年からの貨の大量発行を受け、地中貿易が活発となり、東地中にける東ローマ帝国の地位をある程度はカバーした。学問の分野では、都における高等教育の充実により、後のマケドニアルネサンスなる文化的躍進の種を帝国にまくことができた。このような文化圏や経済的影の拡大は、間違いなく東ローマ帝国の再に役立っただろう。

マケドニア朝(867年 - 1057年)

ギリシア、いやローマ人のは、マケドニア(867 - 1057年)のもと、9世紀にはが著しく回復した。

そもそもアルメニア系農民の子であった初代バシレイオス1世だが、彼の子孫には有能な者が多い。レオーン6世政治経済を安定化させ、コンスタンティノス7世は古代ギリシア文化を復させ、バシレイオス2世東ローマ帝国の最盛期を体現した。まさにこの時期に、東ローマ帝国政治経済軍事の点で大きく発展したといえる。また独自のビザンティン文化もさらなる跳躍を見せ、美しく開いた。

この時代に行われた東欧への正教会の布教は、以後の東欧世界の成立と形成に深く関わっている。ロシアなどがその最たる例であろう。今日ハリストス堂に、そのきを残している。

全盛期

10、11世紀にもなると、有能な軍人皇帝が連続して現れる。

彼らの下、帝国領はシリアの北、イタリアの南にまで拡大し、果たして東ローマ帝国は再度地中世界帝王として君臨した。ユスティニアヌス大帝の時代には底を尽きた倉庫も、このバシレイオス2世治世下では、財宝をしまえるだけのスペースがなくなるくらいに潤沢となり、倉庫を拡せしめたほどだという。またバシレイオス2世古代ローマからの皇帝専制体制の頂点を成し遂げ、東ローマ帝国全盛期を現出させた

コンスタンティノポリスは北のと南の地中を結び、また東のアジアと西の欧州のかけとして、十字を切るように交通の要衝として栄え、人口も30万人に達した。商業の中心地となった都には「中世のドル」と称されるの通貨「ノミスマ」が発行され、各に行き渡った。すっかりギリシア化した「ローマ人の」は、前の栄を享受する。その懐に、異教徒のが着実に迫っているにもかかわらず。

高速浪費ゲーム

バシレイオス2世の死後(1025~)、皇室ではいかにく先の財産を消費しきるかが競われていた。

1025年に即位したコンスタンティノス8世は「ひたすら宴会や戦車競走」「自ら参加の闘士競技」、そして「民族侵入を」「来賓が来てもボードゲーム」という高パフォーマンス民を震えあがらせた。次の代ロマノス3世は手当たり次第に修院を建設し庫の枯渇に貢献。またバシレイオス2世が制定した大土地所有を予防する制度を白紙に戻し、貴族独立傾向を高めさせた。

低俗なる躍進はまだ終わらない。ロマノス3世の皇后はゾエだったが、彼女には愛人ミカエルがいた。ミカエルは彼女の寵によりミカエル4世として皇帝に即位するが、その途端、手のを返すようにゾエを閉し縁を切ったのである。その無知に彼女は感動のあまり涙したことだろう。

続く13代皇帝ミカエル5世は「傀儡になんてなってやるか!」ということで宦官ヨハネスを追放。そこまではよかったのだが、民の支持を受ける皇太后のゾエにさえ挑戦してしまい、政的に敗北を喫す。彼は位され盲目にさせられた(物理的な意味で)。これを機にゾエは調子に乗ってしまい、テオドラと共に共同皇帝として即位するが、ほどなくして二人の仲は険悪となる。これを埋め合わせる形でコンスタンティノス9世が即位した。

しかしコンスタンティノス9世は官僚を増やし過ぎたために財政を悪化させ、またそのしわ寄せで帝国の軍隊を弱体化させた。一方で元皇帝のゾエとテオドラ姉妹は贅沢を極め浪費につぐ浪費を行った。またコンスタンティノス9世は商人を優遇しすぎたため経済は泥沼化し、他方でローマ・カトリック教会との相互破門を臆病な故に抑えきれず、東西教会の分裂を決定的にした。

これをうけて、「私ならできる!」ということで先ほどゾエのとして登場したテオドラが女として復位したが、残念ながら翌年にお亡くなりになった。1056年。養子のミカエル6世が後を継いだが、彼は軍隊を冷遇したため反乱にあい後に病死。ここに東ローマ帝国に最盛期をしたマケドニアが断絶した。

と、このように、バシレイオス2世の死後には、愚図で役立たずな皇帝たちが幾度となく即位を繰り返した。低俗な自称ローマ皇帝たちは、バシレイオスがせっかく蓄えた金銀財宝のたぐいを、時に野望に、時に私利私欲に使い込んだ。結果、財宝が溢れる故に増築した帝国の倉庫が、冗談でも何でもなくスッカラカンになってしまったのである。

ドゥーカス朝(1059年 - 1081年)

皇帝の醜態を見かねたのか否か、各州の貴族階級が、自らの地位向上(給料アップ)、または皇帝位の奪取のために、急速に台頭、軍事により訴えた。極めつけは市民の反乱。それはユスティニアヌス大帝治世期には抑え込めただろう、しかしこの時期の東ローマにはそんな拭いのさえかった。

多額の国債に苦しむ時代でもあった。彼ら貴族反乱軍を抑え込めないのだから、結果として彼らの要通り、彼らの地位の向上、財産上の優遇を約束してしまう。がないから鎮圧できず、給料アップ約束し……帝国は一層の矛盾に苦しんだ。負のスパイラルである。どう見ても経済破綻です。本当にありが(ry

危険は内面に限らない。

帝国全盛期には一旦影を薄くしたイスラムも、いまや遊牧騎民族トルコ人」を中心として展開していた。名はセルジュークセルジュークトルコトルコ軍は帝国領の二大半島の一つ、アジアアナトリア半島現在トルコ共和国、つまり……)に侵入を繰り返していた。これも以前のをもってすれば、何らかの対抗処置も見出せただろうが、時の東ローマには理であった。かくして1071年、マンツィケルトの戦いにて東ローマ敗北を喫し、以後、アナトリア半島トルコは抑えきれなくなっていく。長らく東ローマ帝国の兵のアナトリア半島から供給されてきたため、長期的に見てこの喪失は帝国の戦略を破局に向かわせた。

この負け戦には南イタリアに駐屯していた多くの精鋭軍も従軍し犠牲となったため、東ローマ帝国の南イタリア支配は脆弱となり、そこをノルマン人に突かれる格好となった。敗戦と同じ1071年に、帝国は南イタリア領をも失うことになる。――帝国は、基盤としていたアナトリア半島と、「ローマ帝国」の権威として重要な南イタリア全に喪失し、残る領土はほぼバルカン半島のみの一勢に転落したのだった。

コムネノス朝(1081年 - 1185年)

最盛期以降は着実に衰退していく東ローマ帝国。しかし大貴族の男アレクシオス1世が即位すると、帝国には再びの繁栄がされる。

さて、この頃帝国内では身分を高めてさらにを得ようとする貴族らが台頭していたが、アレクシオスはこれを「位の再編」という形で対応した。帝国に寄生するVIP連中から一気に位(つまり給料)を剥奪し、クーデターを起こす寸前の貴族、すなわちお金が欲しい有能な者に、位と余ったお金を分け与えるというのだ。このアレクシオスの英断は帝国の衰退を確実に止めた。というのも、財政赤字が解消されたばかりでなく、有能貴族銭欲を満たし内を安定化させたからである。

また彼は「軍事奉仕と引き換えに徴税権を与える」というプロノイア制を実施し、財政を整備した(まるで西欧の封建制)。さらに、アレクシオス貴族たちと婚姻関係を結び、血縁関係においても帝国を安定化させた。

アレクシオス1世がクーデタを起こし諸侯の承認のもと即位したという時代背景、彼が諸侯との間に婚姻関係を結び結果的に諸侯がを持つに至ったこと、そして封建制的なプロノイア制により、東ローマ皇帝は絶対的な専制君から貴族連合の長という形に変質した。それは帝国貴族連合による社会へと変わったことを意味する。それまでは「皇帝奴隷」であることを美徳としていた貴族や官僚も、この時代以降そうした意識は薄れ、貴族に至っては「皇帝の友」と意識する者さえ現れた。

東方再征服――再び黄金の帝国へ

セルジュークなど東方イスラームに対しては西欧の援助を受け、十字軍という傭兵で積極的に対抗した。ローマ教皇を通じて西欧キリスト教徒軍が集結し、アレクシオスに忠を誓い、く間に帝国の都コンスタンティノポリスの対にしてアナトリアの重要都市カイアを包囲し、東ローマ帝国へ返還した。十字軍に勢いづけられた帝国は、その後アナトリア半島の北をも奪い返し、再びの制権を得ることに成功する。

さて十字軍の中には帝国から南イタリアを奪ったノルマン人、つまりシチリア王の軍もいたが、彼らは地中アンティオキアを陥落させるや否や、なんと皇帝アレクシオス1世への忠を捨て、西の本チリアと東のアンティオキアから帝国を挟撃した。しかし驚くべきは東ローマ側の対応であり、アレクシオスは、十字軍を使ってでも倒したいはずのセルジュークと結託し、シチリア領アンティオキアを徹底的にいた。仰したシチリア王帝国領のバルカン半島へ報復するも、アレクシオスの軍を前に降伏。ここに、東ローマ帝国アンティオキア(シリア)における宗権も確定した。

東ローマ帝国の反撃と繁栄はアレクシオスの代では終わらず、2代皇帝ヨハネ2世の治世期には、依然セルジュークが占拠していたアナトリアへの親征が進められ、なんと沿海部を回復することに成功、さらには地中の大都市アンティオキアを奪還する。内政面ではヨハネ2世の善き節制と実義の官僚制により財政が安定し、外交面ではハンガリー政治的介入を阻止するに至り、バルカン半島の安寧を維持した。後世に東ローマの名君と謳われるのもうなずけよう、彼ヨハネスにより東ローマ帝国は極めてやかな時代を迎え始めるのだ。

このように有能皇帝たちの尽により、東ローマ帝国は一転しての栄を極めた。十字軍兵士として訪れた西欧の王侯貴族も一介の騎士も、東ローマ帝国の町の数々や都市の暮らしに憧憬を抱いた。まさしくこの時代、東ローマ帝国西欧の人々が殺到するの理想郷だったのである。

テオドロスプロドロモスなる人物は、この時代を以下のように詠っている。

沈むことなきローマ太陽イリオス)、世界を照らすを担う者よ。
の下にある者達のために火を掲げる者、の下にある者達のためのよ。
を放つ太陽、新しきローマよ。
くコムネノス・ドゥーカスの子、デスティス、単独統治者(モノクラトール)よ。
の下にある者達を暖め、敵対する者達を焼き尽くす者。
高く昇り、りたまえ、きたまえ、煌めきたまえ。

西方再征服――「ローマ帝国」の再建へ

コムネノ3代のマヌエル1世は、1154年、南イタリアの宿敵シチリア王のルッジェーロ2世が没した際の混乱につけ込み、翌年に南イタリアの再征を実行した。マヌエ皇帝軍は快進撃を続け、かつての西ローマ帝国の都ラヴェンナからイタリア半島の「長靴のかかと」にあたる最南端地域に至るまでの、沿アドリア海地域の8割を征する。「ローマ帝国」復活の第一歩に見えた。またマヌエバルカン半島西方セルビアをも奪還していた。地中最強にして最大の版図を誇る大帝国が、わずか数年で出来上がっていたのだ。

これに対し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世通称バルバロッサ(導の下、神聖ローマ帝国イタリア都市国家による反“ビザンツ”同盟が結成された。マヌエバルバロッサも、こそがローマ皇帝! と言わんばかりであった。東ローマ帝国の同盟であったヴェネツィア共和国も反ビザンツ同盟に立ち、当然ながらシチリア王もそちらにつく。東ローマ帝国は苦に立たされ、1156年、シチリア王グリエルモ1世の軍勢に大敗し、イタリア計画は頓挫した。

斜陽

西欧は文化的後進地域ではなくなっていた。十字軍やシチリア王アラブとの交流から来る12世ルネサンス農業と商業の活性化が、西欧文明を大きく成長させていた。思えば始祖アレクシオスからいって軍人皇帝であったコムネノや、西欧封建制的なプロノイア制、そしてマヌエ西欧趣味に、西からの影はあったように思われる。

一連のイタリア遠征は東ローマ帝国ヴェネツィア共和国の関係を破綻させた。マヌエは北西イタリアのジェノヴァやピサと通商関係を築くことで、1171年、ヴェネツィアを不要なものとし断交した。

一方帝国内では、アレクシオス1世の頃に成立した婚姻関係による貴族(コムネノス・ドゥーカス)の数が肥大化し、マヌエはこれを抑えきれなくなる。再び各地で貴族独立傾向が浮き彫りとなったのである。

皇帝への不従は内政に限らず、十字軍都市民の関係が悪化すると、帝国はジェノヴァ共和や断交したはずのヴェネツィア共和国軍事的な協をしてもらう他はなくなり、結果としてその2に貿易特権を許してしまうことに。これは都市経済の衰退を招き、東ローマ帝国衰亡の遠からぬ原因ともなった。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとの確執も拭えず、とうとうセルジュークトルコ神聖ローマ帝国が結び付き、東ローマ帝国東方から圧迫した。1176年、マヌエ皇帝軍はミュリオファロンの戦いでセルジューク軍に敗し、東方においても帝国は大幅に弱体化した。

婚姻関係による貴族の肥大化に十字軍との轢と、アレクシオスの政策のガタがここに来て顕在化したのである。

夕暮れ

1179年、マヌエは対神聖ローマ同盟としてフランス婚姻同盟を結び、フランス王女アニェス(7歳)を長男がせた。翌年にマヌエル1世が死去すると、アニェスと結婚した長男が後を継ぎ、アレクシオス2世として即位する。

が、先ヌエルの従弟にあたるアンドロニコスが先の死後反乱を起こし、アレクシオス2世と彼の摂政であり西欧優遇策を進めるマリアに矛先を向けた。かねてより皇帝イタリア優遇に嫌気がさしていた都市民はアンドロニコスの乱に同調し、都の西欧暴徒化した。結局即位3年のアレクシオス2世が殺され、アンドロニコスが次期皇帝となる。市民の半イタリア感情を利用し政権を取ったのである。

このアンドロニコス1世だが、まだ10代であった、亡きアレクシオス2世の后だったアニェスを理やり娶り、位を正当化すると、官僚貴族の腐敗に手をつけた。それはまさに、「不正をやめるか生きるのをやめるか選べ」といった形であった。効果はあったものの、王の始祖アレクシオス1世の代から続くプロノイア制が貴族の土地所有を助長し、革は失敗した

落日

苛立つアンドロニコスは恐怖政治を敷く。そして、経済の不振から再びヴェネツィア共和国と秘密裏に結びつくが、これが噂を通じて市民にばれた。さらに、恐怖政治により次々と処刑されていく貴族たちがシチリア王に救援をめ、帝国の西の玄関デュラキオン(現アルバニア)にシチリア軍を上陸させてしまい、帝国第2の都市テッサロニカ(マケドニア地方、現ギリシャ領)が落とされた。もちろん東ローマ帝国の軍隊の大部分はそちらに回された。

1185年、アンドロニコス占いを根拠にイサキオス・アンゲロスなる貴族を次期皇帝補として殺そうとする。が、市民の暴動がイサキオスを皇帝として持ち上げる。しかし軍隊は西方のシチリア軍へ向けられているため、アンドロニコス暴徒鎮圧用の軍を用意できなかった。不満の爆発という形で広がる暴動によって、あれだけ市民と同調したアンドロニコスがあっさりと、そして惨たらしく殺されたのだった。

かくして、東ローマ帝国にひと時の復を許したコムネノス王がその終わりを告げた。アンドロニコスの時代はまた、シチリア王のほか、セルビアハンガリーをも敵に回し、領土を大幅に失うなどの失敗が立つ。

アンゲロス朝(1185年 - 1204年)

19年王

コムネノ末期からの財政悪化、政治の破綻を引き継ぎ、ほぼ善できず、また皇帝無能という理由から、たったの19年しかもたなかった。

6 :世界史さん:2008/05/23() 23:44:25 0
俺ら極悪非アンゲロブラザーズ
今日未来はないのに位争いしてやるからな
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  ∧_∧  ∧_∧
 (・・∩)(∩・・)
 (つ  丿 (   ⊂)
  ( ヽノ   ヽ/ ノ
  し(_)   (_)

8 :世界史さん:2008/05/24(土) 00:27:53 0
すっごぉ~いッ!
何回も失策しながらも皇帝をやめないッ、イサキスーッ!
なんという低脳 なんという浅知恵 まるでですッ!

飛び出したのは…アレクシオス!
ぬけたァーッ、単独走ですッ!
麗だ、相変わらず麗な裏切りっぷりッ!

滅亡!
やったァー、コンスタンティノポリスを滅亡させましたァーッ!

アレクシオス「やったなイサキオス、またまたらのコンビで勝負を決めたな!」
イサキオス「うん! アレクシオス、見事だったよ、君の謀反は!!」
アレクシオス「ありがとう! だがイサキオス、君の愚策あっての滅亡さ!!」

イサキオスはアレクシオス5世によって殺される予定!
かたやアレクシオスは依然として生き続け婿の足をひっぱり続けます!
この東ローマ帝国崩壊ももこの二人あっての快挙!
まさにの汚点!! カリギュラより最悪です!!

2ちゃんねる『【東ローマが】イサキオス2世【危険な領域に】』より引用

東ローマ帝国滅亡の原因は、この王にあるといっても過言ではない。

後期 分裂と衰亡

ラテン帝国とニカイア帝国(1204年 - 1261年)

アレクシオス4世救援の見返りに資約束されていた、ヴェネツィア導の第四回十字軍アンゲロの政争がアレクシオス4世で終わっていればまだは払われたかもしれない、しかし位は最終的に市民を味方に付け反乱したアレクシオス5世に移ってしまう……これが報酬の未払に繋がり、1204年に、第四回十字軍をしてコンスタンティノポリスを陥落させた。その結果東ローマ帝国が滅亡し、コンスタンティノポリスにはフランドル(現ベルギー)伯のボードアン皇帝とする、ラテン帝国が建された。

旧東ローマ世界の分裂

東ローマ帝国領の喪失はコンスタンティノポリスに限らなかった。

帝国第2の都市テッサロニカはイタリアに、ギリシアのペロポネソス半島フランスに征され、ラテン帝国皇帝の宗下でそれぞれテッサロニカ王アカイア侯が建された。北西部を除くアナトリア半島トルコ系のルーム・セルジュークに占領され、シリアキプロス全に失われ、エーゲ海南のクレタヴェネツィア直轄領となっていた。そのほか北方の第二次ブルガリア帝国はその版図を南に拡大し続け、セルビアもまた息を吹き返していた。

それでも東ローマ帝国貴族は抵抗を続けた。現アルバニアにあたる地域にはアンゲロのエピロス専制侯が、アナトリア半島北東の沿部にはコムネノのトレビゾンド帝国が、それぞれ亡命政権として存在していた。そして、コンスタンティノポリスアナトリア西部には、ラテン帝国から亡命したコンスタンティノス・ラスカリステオドロス・ラスカリスカイ帝国を建していた。

東地中海の戦国時代

しかしラテン帝国の野望は潰えた。1205年に北方ブルガリア帝国にハドリアノポリス(アドリアノープル)の戦いで敗れ、皇帝ボードアンブルガリアに捕縛され死し、コンスタンティノポリスを巡る勢争いから最初に転落した。

これを受け、コムネノトレビゾンド帝国沿地域を西へ西へと吸収し、コンスタンティノポリスに迫る勢いを見せた。しかし同じ東ローマのラスカリスカイ帝国の介入がトレビゾンド帝国を阻み、アナトリア北東へ封じていった。
一方、バルカン半島方面のアンゲロピロス専制侯は、1215年にイタリア系のテッサロニカ王を破り、1224年以降は東ローマ帝国を旗印に、ラテン帝国コンスタンティノポリスに迫っていった。事前に後顧の憂いを断つべく、北のブルガリア帝国に挑むも敗戦し、コンスタンティノポリス奪還には至らない。
ラテン帝国コンスタンティノポリスに最も近い勢は、西のブルガリア帝国と東のニカイ帝国になる。

台頭するニカイア帝国

カイ皇帝テオドロス1世ラスカリス(在位:1204年 - 1222年)は、即位後次のようにった。

はダヴィデに対してなされたように、朕にも塗油を施された。……朕は再び故を、罪を犯したがゆえにそこから投げ落とされたあの故を取り戻すであろう

井上浩一・生沢猛夫著『世界歴史〈11〉ビザンツとスラヴ』 p.179より

初代皇帝テオドロスの下、ニカイ帝国1211年にルーム・セルジューク軍に勝利し、スルタン(イスラム圏の最高導者・皇帝)を討ち取った。1240年からは、2代皇帝ヨハネス3世の下、ニカイ帝国ブルガリア帝国・エピロス専制侯を撃破し、とうとうアジアアナトリア半島えてヨーロッパバルカン半島にまでその版図を広げた。

ニカイア帝国国章

1254年には、3代皇帝テオドロス2世貴族たちが持ち上げたに乗り即位し、在りし日のローマ帝国の慣習を印づけた。
貴族に持ち上げられたことから分かるように、ラスカリス皇帝は専制君ではなく、コムネノと同様に「貴族の長」として君臨した。軍役奉仕と引換えに免税されるプロノイア制度が貴族内でより発展していたので、ニカイ帝国社会西欧封建制さながらの貴族連合的社会であった。
従来以上にプロノイアによる免税が増えれば、当然帝国の財政にも悪影が出る。それに対しニカイ皇帝は、皇帝直轄領の経営、たとえば牧畜や農業を巧みに管理し、大きな財政黒字を生み出すことに成功した。

蒙古襲来!

残るは“元”コンスタンティノポリス1258年、皇帝テオドロス2世がこの世を去ると、まだ7歳の息子位を継ぎ、ヨハネス4世として即位した。彼の代でニカイ帝国都を奪還し、(東)ローマ帝国の復が相成ると思われた。……ところが事態は思わぬ方向に寄りする。

モンゴル帝国が襲来したのである。それにより東ヨーロッパ平原の商業路が見直され、一時的にヴェネツィアる地中経済システムが狂い、ニカイ帝国ヴェネツィアへの経済従が和らいだ。またモンゴルに土地を荒らされたルーム・セルジュークはニカイ帝国から穀物を買いあさり、これもニカイ帝国経済的回復に寄与した。さらに、モンゴル東欧進出がニカイ帝国の宿敵であるブルガリア帝国をも弱体化させてくれた。

最も狡猾なギリシア人

ルーム・セルジュークトルコ帝国に亡命していた大貴族の男、ミカエル・パレオロゴは、将軍としてモンゴル軍を破るなど卓越したを見せたため、先テオドロス2世に「皇帝への忠」と引換えに帰するようめられた。ミカエルはこれを承諾し、テオドロス2世を誓いニカイ帝国に帰する。

1258年、7歳のヨハネス4世が即位したとは先述したが、当然ながら政治取りは摂政に任されることになった。その摂政が先テオドロス2世の右腕として活躍した、ムザロンという成り上がり者であった。貴族たちはこの経歴の薄いムザロンを良しとせず、帰したミカエル・パレオロゴスに期待していた。そうしてミカエルは密かに総教と通じ、摂政ムザロンが先追悼のミサに出席しとなっていたところを襲い、殺した。ムザロンも警を怠っていたわけではないが、何せ修院の中である。人殺しを想像する方が難しい……。ムザロン摂政になってわずか10日のことであった。

ムザロン後、ミカエル貴族と総教承認の下、新たな摂政となる。幼皇帝ヨハネス4世と帝国のため、有能ミカエル摂政に選ばれたのである。ところがミカエル・パレオロゴスは摂政程度で満足する男ではなかった。彼の野心は次に共同皇帝の位をも要した。理由は、摂政は恨まれやすいとのことだったが、最後の一言が余計だった。

ムザロンのようにはなりたくない

カイ帝国摂政ミカエル・パレオロゴ

あんたのために殺しておいてそれは……。

教がやむなく承認すると、ミカエルは共同皇帝の位を得た。するとミカエルの狡猾な外交政策により、帝国は反ニカイ帝国同盟を打ち破り、コンスタンティノポリス奪還に大きく近づいた。

1261年7月、ニカイ帝国将軍が、ラテン帝国軍が方面へ出かけていることを知り、コンスタンティノポリスがやけに静かであることに気づくと、にはしごをかけ中に入ってみた。これが都奪還の間である。もちろん悪賢いミカエル・パレオロゴスはこの都奪還をヨハネス4世ではなく自らの功績として大々的に宣伝し、9月にはめて即位式を執り行い、息子アンドロニコスを共同皇帝として即位させた。そして、同年のクリスマスに、ちょうど11歳になったばかりのヨハネス4世の両を潰し、追放した。さらにミカエルは、彼の暴挙に対して破門を通告した、かつて共同皇帝の位を与えてくれた総教を監送りにし、己の位を磐石なものにした。都奪還という功績を前に、貴族市民も文句は言えなかった。

パレオロゴス朝(1261年 - 1453年)

貴族ミカエル・パレオロゴスことミカエル8世により、東ローマ帝国コンスタンティノポリスを再び自らの都とすることができた。これをもって、最後にして最長の王レオロゴが幕を開ける。

依然として前のともし火であった東ローマ帝国は、1263年にアカイアと和した。そして翌年にはエピロス専制侯とも和を結んだ。これらの成果もあってか、東ローマ帝国はペロポネソス半島における領土の回復に成功した。当時、東ローマ経済ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和が実質的にっていたが、ミカエル8世の下で、その2の介入がある程度は抑止された。

一方、1274年にはローマ教会に譲歩し、東西教会の合同を画策するも、熱心な正教徒の反対やローマ教皇の破門にあい、これといった成果は得られなかった。

最後のルネサンスとオスマン帝国の成立

の後を継いだ息子アンドロニコス2世1282年~1328年)の代で、東ローマ帝国の行く末は決定的となった。

この時代の特徴は以下の2点が挙げられるだろう。

アンドロニコス2世の高い教養により、東ローマ帝国はビザンティン文化をより磨きぬいた。今日も残るアトス山の修院などが有名である。この頃の文化的活動、とりわけモザイク画やフレスコ画の発展は優美かつ写実的で素晴らしい。後に起こるイタリアルネサンスに多大な影を与えた点では、決して視はできないだろう。

しかし政治面では衰退の一途を辿っていた。文化的に発展を促したアンドロニコス2世だが、軍衰退の放置や、ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和に対する競争の敗北など、軍事的失政も多い。またオスマン帝国による侵攻を阻止できなかった点でも、東ローマ帝国を徹底的に弱体化させたといえる。

晩年は孫のアンドロニコス位を巡る内輪揉めを起こし、東ローマを内的にも疲弊させていった。

アナトリア喪失

1328年に祖アンドロニコス2世に打ち勝ち位を得たアンドロニコス3世(ややこしい)は、翌年にはオスマン帝国へ向けて挙兵した。東ローマ帝国オスマン帝国は会戦したが、アンドロニコス3世が怪をしビビったためか軍を退却させた。これが結果として、オスマン帝国によるアナトリア半島の領有の契機となってしまう。

他方、1334年にはセルビア定し、1340年にはエピロス専制侯帝国領として併合した。

超内乱

アンドロニコス3世が世すると、長男ヨハネス5世が後を継いだ。しかし彼はまだ幼子であるため、皇太后のアンナコンスタンティノポリスヨハネス14世(またまたややこしい)が実権を握った。摂政である。

これに反対したのが先の重臣カンクゼノスであった。彼と摂政コンビが対立すると、東ローマ帝国は5年にも渡る内乱期に突入。1347年、カンクゼノスがこの内乱に勝利すると、勝者の彼はを(一応)現皇帝ヨハネス5世にがせた。そしてカンクゼノスはヨハネ6世(ああややこしい)と自称し、なんと東ローマ皇帝として即位する。何の権も持たぬヨハネス5世は、ヨハネ6世カンクゼノスに左遷されるに至った。

幼い頃に即位はしたが、や総教、他人のおっさんに実権を握られ続けたヨハネス5世。

もちろんこのまま終わるつもりは毛頭ない。ということで1352年、ヨハネス5世はセルビアと同盟して位を奪還すべく挙兵したが、もう一方のヨハネ6世カンクゼノスもまたオスマン帝国の後ろを得たため、失敗に終わった。

復讐を誓ったヨハネス5世は、今度はジェノヴァ人の協を得て、1354年にヨハネ6世カンクゼノスを打倒し、ようやく位につくことができた。このときヨハネス5世は22歳であった。

この間、東ローマ帝国ピザのピースの如く分割されていた。セルビアマケドニア、山岳地帯のエピロス、穀倉地帯のテッサリアを、オスマン帝国が残るバルカン半島の領域を侵食していったのである。1360年代には都の最終防衛線たるハドリアノポリス(アドリアノープル)も奪われた。また1370年には負債返済を困難とするためか、ヨハネス5世がヴェネツィア共和国逮捕されるという前代未聞の酷い様をした。それゆえ東ローマ帝国の権威は失墜した。

更なる内憂と介入

東ローマ帝国は未だに一息つくところまでには達していなかった。

ヨハネス5世の長男アンドロニコス4世が位を欲すると、ヨハネスに対し反乱を起こした。1373年にこれは鎮圧されるが、1376年のクーデターは成功。ヨハネス5世は位させられ、投された。これを良しとしないヨハネス5世は、今度は、かつてカンクゼノスとの位争いの際に敵であったオスマン帝国の援助を得た。こうしてヨハネス5世は復位に成功するが、その代償として東ローマ帝国オスマン帝国の属になってしまう。とうとう個人的な野心を理由に帝国を売ってしまったのである。

位を奪われた息子アンドロニコス4世はアンドロニコス4世で、またの復位の機会をうかがっていた。結局彼は復位することなくこの世を去る。だが1390年、その息子(すなわちヨハネス5世の孫)のヨハネス7世(またややこしい)がヨハネス5世から位を簒奪した。

しかし、オスマンからしてみれば、自らの傀儡となったヨハネス5世が東ローマ皇帝であった方が断然都合が良い。よってオスマン側の介入により、急遽ヨハネス7世を位させ、またまたヨハネス5世を復位させた。オスマン側はまたもヨハネス5世支援の見返りをめたため、東ローマ帝国アナトリア最後の拠点フィラルフィアを割譲してしまう。そしてコンスタンティノポリスに付属する要塞を撤去したのである。

その際のオスマン帝国のスルタン(最高導者)のはこうである。

コンスタンティノポリス門のすぐそばの要塞を撤去せよ。従わぬなら、(貴様の)息子のマヌエルのをくり抜く

「稲妻」ことオスマン帝国第4代皇帝バヤズィト1世

ヨハネス5世はあまりの心労に息絶えた。彼の治世期はまた、西欧への助をこう時代でもあった。

脱オスマン

オスマン帝国の人質にあったマヌエルは、の死を知るなりスルタンのもとを脱出した。そしてコンスタンティノポリスへ帰り、マヌエ2世として即位した。1391年、彼が40歳の頃である。彼は知識人に歓迎され、「哲人皇帝」として期待された。

だが現実は過酷なものだった。トルコ軍の一員としての従軍、都にトルコ人移住区の建設、そしてイスラム裁判官をおくという治外法権などは、すべてオスマン帝国の要である。マヌエ2世はこれらの要を一々のんでいてはまずい、ということでバヤズィト1世への臣従を破ったのだった。むろん、オスマン側はこれに激怒する。歴然たる戦差を前に、東ローマはまたも窮地に陥った。

そこでマヌエ2世ハンガリー王ジギスムント1世を味方とし、またイングランドフランス王国神聖ローマ帝国イタリア都市国家らによる、大規模な対トルコ十字軍を結成することに成功した。しかし1396年、この大軍も、ドナウ沿いの町ニコリスにおいて、バヤズィト1世の軍に大敗を喫した。これを機にオスマン側の圧はなおのこと増し、東ローマはさらに苦悩することになった。

1399年、マヌエ2世フランス王国神聖ローマ帝国イングランドを訪ね、協こうた。これほどまでに長大な路は、コンスタンティヌス大帝以来であろうか。しかし征の為に駆けた大帝とは、もはや何もかもが違う。

最大のチャンス

1402年、コンスタンティノポリスの状況は悪化し続けるがままであった。マヌエ2世帝国を離れ、西欧に対し援軍を要請している3年間、都では町をバヤズィト1世に明け渡そうかと議論されている始末であった。

かしこのとき、東ローマ帝国は最後の好機を得る。

ティムール帝国である。中央アジアから西アジアにまで拡大し続けるもう一つのイスラム帝国が、オスマンの有するアナトリア半島に矛先を向けたのだ。コンスタンティノポリスを包囲していたバヤズィト1世は、急いでアンカラへと戻り、ティムールの軍を迎え撃った(アンカラの戦い)。結果はオスマン側の敗北に終わり、バヤズィト1世はティムールの捕虜となった。

かくして急速に瓦解したオスマン帝国だが、当の東ローマ帝国はというと、その絶好の機会を活用するだけのは残されてはいなかった。一応、オスマン帝国のスルタン選出に介入し、メフメト1世を即位させることには成功した。東ローマに対し融和な政策を進めさせたが、結局は時間稼ぎにしかならなかった。1421年に新たなスルタン、ムラ2世即位すると、その関係は破局を迎えたのである。

最後の挑戦

1422年7月ムラ2世コンスタンティノポリスを大軍で包囲する。しかし落ちない。その後マヌエ2世の外交戦術によりアナトリアで反乱を誘発し、ムラ2世に軍を退却させた。

しかし翌年には再度オスマン帝国が襲来し、テッサロニキとモレアス専制領が攻撃を受けた。その際テッサロニキは失われたため、危惧したマヌエ2世は臣従と貢納払いと引き換えに、1424年に和を結んだ。

その後、ヨハネス8世がヌエ2世の後を継いだ。と同様、ヨハネス8世は西欧に協を要請し続けた。しかしこれも、西欧からの離反やオスマン側の介入により、功を奏すことはなかった。東西教会の合同により、一応の十字軍を結成、ローマ教皇やハンガリー王、ポーランド王を中心とした大軍はオスマンブルガリア派遣された。しかし藪から棒に拵えた軍隊が統一されるわけでもなく、その隙をムラ2世に突かれて崩壊、敗北した。

最後の皇帝

東ローマ帝国国旗後に最後のローマ皇帝となるコンスタンティノスは、1429年にはアカイアを一掃しギリシア中央部にまで軍を進めた。1449年にはコンスタンティノス11世ドラセス(パレオロゴだがの姓「ドラガシュ」を名乗った)として即位、ムラ2世に対し平和条約を締結した。

1451年、オスマン帝国ではメフメト2世が即位した。ローマ皇帝は彼とも和を結んだが、これは後に泡と消える。

滅亡

西暦1453年。4月の出来事だった。トルコ人らによるイスラーム国オスマン帝国」が、東ローマ帝国の都、コンスタンティノポリスを包囲した。

ローマ側の守備兵がたった7,000に対し、オスマン側の軍は総勢100,000。歴然たる戦差の下、包囲戦が開始された。

いうまでもなく戦局は劣勢にあった。が、それにもかかわらず、都は一向に陥落しない。東ローマ軍の信仰心からくる士気、歴戦から養われた戦、とりわけ都を1000年間守ってきた「テオドシウスの」の存在が、致命傷を防いでいてくれたのである。またオスマン軍は攻兵器たる大砲の精度が不全であったため、決定打とは相ならなかった。戦線は停滞し、2かもの間その状態が続いた。

これ以上の着状態は恐れたのであろう。オスマン帝国のスルタン「メフメト2世」は、ある策――「艦隊の山越え」に転じる。なんと船で山を越え意表を突くというのだ!この結果として、からの補給が絶たれた。 いかんせん信じがたい事実を前に、東ローマは今度こそ崖っぷちに立たされた。ハギア・ソフィア聖堂の内部。

――ギアソフィでは、女子供や老人が、上のに祈りをささげていた。く、帝国危機には、大天使ミカエルが降臨し、異教徒を討伐せんと戦うという。もしかなえば、帝国最大の危機は去っていくことだろう。もしかなえば、「栄ローマ」は永遠の伝説となり得ただろう。しかし所詮は、もしかなえば、である――。

5月29日、未明。メフメト2世は、先代のスルタンの経験に学び、コンスタンティノポリスへの包囲は極避け、短期決戦を選択。直属の精鋭部隊イェニチェリを中心とした10万の軍勢をもって、一斉に攻撃を開始。第一波、第二波の攻撃を退けたものの、揮を執っていたジェノヴァ人の傭兵隊長が負傷し守備側は混乱。更に、不幸にも門の一つが閂をかえ忘れられていた。そこからオスマン軍が内に侵入した結果、コンスタンティノポリスは陥落、ここに、1000年続いた「ローマ人の」が滅亡した。古代ローマ帝国から数えれば、実に約2000年歴史であった。

――最後のローマ皇帝コンスタンティノス11世は、帝国の最後の日、自ら死地に赴いたという。他に跪き命乞いをする、という手もあったかもしれない。しかし彼は、最後まで、異教徒に背中を向けなかった。そのマントを翻し、を抜いて、異教のトルコ兵の群れの中へ駆け抜けた。

が首をとるキリスト教徒はおらんのか!」

滅亡後

千年都の陥落とその余波は、西欧世界にすさまじい衝撃を与えることとなった。コンスタンティノープル陥落は、単なる一帝国の滅亡のみならず、キリスト教の権威失墜からの宗教改革運動の胎動、イタリア都市の地中交易衰退と大航海時代の準備、知識人の亡命によるイタリアルネッサンスの導火線という事態となった。同年には、百年戦争が終結しており、これと合わせて西欧世界は近世と言う時代へと突入する。

オスマン帝国は、コンスタンティノープル陥落後も抵抗を続けていたミストラを1460年陥落させ、東ローマ帝国全に滅亡させた。更に、同年コンスタンティノス11世のマス・パレオロゴスが領するモレアス専制領を下して、1461年にはコムネノス王の生き残り、トレビゾンド帝国も滅ぼし、東ローマに由来する国家を全て滅亡せしめた。これにより、ニカイ帝国がしたような地方亡命政権からの再もあり得なくなった。

然し、ローマ帝国歴史と権威は征オスマン帝国をして「ルーム・カイサリ(ローマ皇帝)」を名乗らせた。コンスタンティノープルはトルコ語コスタンティニエと称され、オスマン帝国の新首都となった。オスマン帝国はこの後、二世紀以上にわたって拡を続け、西欧にてローマを名乗るハプスブルク及び神聖ローマ帝国―と干を交え、地中東ローマ帝国に勝るとも劣らない版図を築く。

ギリシャ国旗1830年に、ギリシャオスマン帝国から独立していくが、もはやこの民が持つ意識は「ローマ人」ではなく、「ギリシャ人」であった。このしたのは、「ローマ帝国」の復ではなく、「ギリシャ」地域の回収であった。他のバルカン地域の国家も同様で、近代以降、かつての東ローマ帝国地域からローマの再はあり得なくなった。

一方、ソマス・パレオロゴスのゾエ(ゾイ)がモスクワ大公イヴァン3世にいでいたことが、後にモスクワが「第三のローマ」となるを残した。後にロシアとなるこのは、東ローマ帝国の継承を名乗って、17世紀から第一次世界大戦に到るまで、オスマン帝国と争い続けた。

ローマであること

このの正式な号は「ローマ帝国」である。

しかし多くの資料・文献においては「ビザンツ帝国」や「ビザンティン帝国」と記され、これらの呼び名が広く普及している。とはいえ、これらの名称は19世紀以降に使われだした歴史学上のものに過ぎない。中世ローマ帝国という名称についても同様。

既に述べた通り、629年には公用語ラテン語からギリシア語になった。住民もギリシア人やスラヴ系が中心となった。それゆえか、西欧、とりわけ「ローマ」を名乗った神聖ローマ帝国はこの皇帝ローマの後継とは認めず、「ギリシア(の)帝国」「ギリシア皇帝」と認識していた。また、しばしば貢納による危機の回避や異教徒との妥協からか、狡猾・卑怯という意味で「ビザンツ人」と呼ばれもした。

けれども帝国の政府や住民は、(建前でも)「ローマ人」「ローマ人の」であることをした。

多くの住民にとって、彼ら自身は「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」だった。ローマの伝統を継いだこのは、「ローマ帝国」そのものだった。そこには誇りがあった。こだわりがあった。多くの物語もあった。それを、ローマ帝国と言わずして、いったい何と言えようか。分割後の西ローマと区別するべく東と付いたが、あくまでローマ帝国という点は変わらない。帝国はまごうことなき、「ローマ人の」である。

皇帝の権威

新たな皇帝の推戴の儀式は、競馬場にて軍・元老院・市民の順番で執り行われた。皇帝となる者はまず軍隊のの上に乗り、次いで元老院と都の市民の歓呼を浴びるのである。これはローマ帝国からの伝統で、もっといえば古代ローマ末期の専制君主制(ドミナートゥス)をそのまま受け継いだしでもある。

概要で述べた通り、東ローマ皇帝とは「地上におけるの代理人」であった。これはキリスト教政治的な学によるところが大きい。

皇帝の即位式は最終的にハギアソフィ堂で行われた。このときに新皇帝コンスタンティノポリス教から冠を受け、宗教的権威という意味でも頂点に立つ。名実ともに「地上におけるの代理人」となるのだ。

元来、東ローマ帝国とは地上の帝国であるが、上の王の再現でもあった。したがって地上における皇帝とは、上の王(すなわち一の)の再現なのである。理想としては、東ローマ帝国とその皇帝は、全文明世界の盟であり、による最後の審判まで君臨する、地上の最高権にして最大の権威、といったところである。

つまり東ローマ皇帝とはキリストを演じる役割もあったということである。皇帝は最後の晩餐を模して祝宴に12人を招いたり、乞食の足を自ら洗い清めたりしたほどだ。

諸外国への対応

キリスト教世界を実現という理念は、東ローマ皇帝の態度によく表れていた。

招かれた異邦人やその高官らは、東ローマ皇帝の示した衣服に身を包んだ。待合室ではさんざん待たされ、どこまでも続いていそうな長い回廊を案内され、あげく衛兵に追い立てられるように皇帝を拝まされた。彼らは皇帝への従のしとして、3度も頭を床に付ける。

そして「面を上げよ」と許された次の間、前にいたはずの皇帝は玉座とともに上にまで移動し終えていた。見ると、皇帝の衣が紫色に変わっている。玉座の前にはライオンがいたらしく、これらは大きなえたそうだ。もちろんすべては機械仕掛けである。しかし高度な機械類のなかった当時、招かれた客はこの一連のにさぞ驚いたことだろう。これもみな、皇帝の権威付けである。

他にも「皇帝の寛大かつ一方的な譲歩」という言葉がある。

これは条約相手がキリスト教であれば、ローマ皇帝は全キリスト教徒のであるとし、相手を自らが頂点とする序列に位置付けた。ようは「俺様が一番偉い」である。いずれは全世界を支配する(という建前の)東ローマ皇帝にとっては、理論上は外国人など存在しない。各の王を、さながら長である皇帝家族としてみなしたのである。

帝位の不安定さ

徹底してキリスト教世界の王という演出を施された一方、位の安定性についてはあまり良好とはいえなかった。

皇帝の推戴には「軍と元老院と市民の承認」が必要と説明したが、まさにそれが原因で皇帝位はぐらついたのである。皇帝は軍をはじめとして推戴されるが、逆をいってしまえば軍や元老院、そして都の市民の歓迎さえあればもが皇帝となれるわけで、いってしまえばクーデターの勃発を許しやすい環境でもあった。また位の世襲化などは存在せず、これも皇帝位の不安定さに拍をかけた。

とはいえ位の不安定さは何もマイナス面ばかりではない。

ローマを一時的に成し遂げたユスティニアヌス大帝や、帝国の最盛期を現出させたバシレイオス2世は、もとや先祖を辿れば農民である。東ローマ位が不安定であったからこそ、このように良好な新陳代謝が行われたといっても過言ではない。また、位が不安定であったからこそ、代々皇帝は緊をもって統治に専念できたのである。

ただし、11世紀以降にアレクシオス1世の婚姻政策が始まると、位はある程度安定した。当然ながら良い意味での流動性は失われ、皇帝は「貴族連合の長」という役割に1段階転落した。たしかに皇帝位が安定しクーデターが減れば、治安はよくなるだろう。

しかし東ローマ帝国が強国家であったのは、ひとえに「頑丈なイデオロギーと柔軟な姿勢」の絶妙なさじ加減が理由のはずだ。かつての流動性を失うという意味では、位の安定はあまり良いことではない。

統治体制

テマ(軍管区)制

古代ローマの後期から、各属州では、行政軍事を分けた体制をとっていた(属州制)。しかし7世紀以降、イスラムなどの脅威から国家を防衛するため、属州の統治は、各地の軍管区(テマ)の令官(ストラテーゴス)に任命される、テマ制(軍管区制)という体制に変わった。ちなみに「テマ」とは本来なら属州駐屯地の軍団を意味する。

簡単にテマ制を説明すると、で武具を買える農民を免税と引き換えに兵にする、といったところである。

各地で徴収された農民兵士たちは、軽騎兵として大いに活躍し、その士気は非常に高かった。なにしろ兵として徴収されただけで免税されたうえ、そもそも家族も含め国家危機に面した時代であったのだから。

国家としても実においしい話であった。軍管区制で徴兵された農民は、みながみな武具を自で購入していたのだから、新たに政府から武器や防具を支給する必要がなかったのである。浮いた予算で好き勝手したことだろう。

8世紀には属州、もっといえば軍管区の区分は細かくなり、10世紀には外敵の脅威が薄らいだことから軍管区の行政は裁判官(クリテース)に委ねられた。マケドニアバシレイオス2世の時代になると、大土地所有者のもとに農民たちが集中し、納税の心配が減ったからか、うまく機しなくなった。結果としてテマ制が崩壊し、以後テマとは行政区域を示す用となっていく。


1 古代ローマイタリア以外の領土をす。ここでは都より離れた地方と考えてもらってよい。

プロノイア制

国家への奉仕と引き換えに土地の徴税権を得る、という制度。基本的には一代限り。土地の所有権を認めるケースもあったようだ。

成立期は11世紀のコムネノ。すでに帝国貴族連合の様相を呈していた時期である。アレクシオス1世はこの制度により帝国を統一し、反乱を予防しようと考えた。

イスラム圏のイクターにも似たこの制度だが、帝国末期のパレオロゴにもなると世襲化2が進んだ。また地方の貴族たちがこのプロノイアのうま味を知りすぎたために、東ローマの統一性は失われていった。そもそもが帝国の不統一を解消すべく考案された制度なだけに、なんとも皮な話である。


1 徴税権を地方官に与え、その税の中から一定の額を給与とした制度。

2 小泉

至高の都

東ローマ帝国首都コンスタンティノポリスコンスタンティノープル)であり、コンスタンティノポリス帝国そのものである、といっても過言ではなかった。帝国の発展にはこの都があり、帝国の生死が決されるときもまた、この都次第であった。7世紀にシリアアンティオキアや、エジプトアレクサンドリアなどの東方の大都市を失うと、帝国のこの都に対する依存度は並びないものとなる。

都本来の名は「ビザンティオン」。これが、330年の旧都ローマ」からの遷都、ならびに開都式の際に、時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世(大帝に因んで、「コンスタンティノポリス」と名されたのである。ハギア・ソフィア聖堂

コンスタンティノポリスは4~6世紀には「第二のローマ」として発展し、7世紀にはイスラムの影に低迷するも、9~11世紀には前の大都市として栄を極め続ける。このありようは、ちょうど、帝国の盛衰の時期に重なっている。

地理と貿易

都はバルカン半島の東端に位置し、北はに、南は地中に面し、ペルシャなどの東方地域と、イタリア都市などの西方地域を結ぶ懸けとなった。そのうえ都の西部を除く3方向がに囲まれているため、要なのすべては都の西部に集中して構えられたから、く間に不落の巨大都市としての信頼を勝ち得た。

そういった防衛面での安心感も相まって、文明・貿易の十字路となったコンスタンティノポリスには、各からの商人が絶えず、ヴェネツィアなどの都市はおろか、イスラム圏からの商人たちも都に足を運んだそうだ。彼ら商人はまた、世界中からこの都に集まった商品に、くぎ付けであったのだ。あの十字軍兵士も、その壮麗さにしばしばため息を漏らしていた。

コンスタンティノポリスは、東西貿易の要衝としても名高い。当時の中国から養蚕技術を輸入する代わりに、帝国特有の織物を輸出するなど、都は東西貿易路(シルクロードの一として栄えた。

ちなみに、皇帝専売のプルプラで染めた紫色織物は、営の工房製作され、贅沢品として、ときに給料として、ときに外交・取引上の高価な切り札として、帝国の内外問わず多くの者が欲するにいたった。その価値は現代の石油に匹敵したという。これは皇帝の権威を示すと同時に、都の繁栄を示唆するものでもあった。

競技場

ローマ帝国から多くの伝統と文化を引き継いだ東ローマには、当然、古代ローマから続く「奴隷の戦い」や「戦車競走」が催されていた。特に後者の競技は、パン無料支給と相まって「パンサーカス」と呼ばれるほどに都の有名行事となっていく。

大広場(アウグスタイオン)の南にある競技場(ヒポドローム)は、3305月11日首都開都式と同時に開場された。この競技場はローマの大競技場の模倣であり、観客席は10世紀までは木造、それ以後は大理石となった。この広場は3万人から5万人を収容できたという。皇帝もまた競技を楽しむべく賓席に座った。競技場は数少ない「民衆と皇帝が出会う場所」でもあった。皇帝の席はそのまま、大宮殿へと繋がっていたらしい。

ここで行われたのが「戦車競走」である。の後ろに台車を付け、人を乗せて走る競技だ。観客は党(デーモス)ごとに組織され、各々は自身の党を応援した。怒号が飛び交うその色は、ある意味では現代の競馬場と大して変わらないかもしれない。

は初め4つあったが、後に「」が「」を、「」が「」を吸収して、「」と「」の二となった。ここで特筆すべきは、「」と「」のの長官(デマルコス)は高い爵位をもち、首都の治安維持に尽したばかりかの警護にもつく市民軍の指揮官でさえあった、というところである。

また「」は皇帝の右側を、「」は皇帝の左側を占めた。皇帝は競技場に入るとまず、「」か「」に挨拶を送った。これには政治的な意味がある。というのも、「」は保守宗教的な正統を、「」は反体制と宗教異端を示していたからである。故に皇帝は、多くの場合、右寄りの「」へ挨拶を送ることが多かった。

このように競技場はたんに「パンサーカス」というだけでなく、政治的意味を強く持つ場でもあった。両者は意見の相違からしばしば乱闘となったそうだが、この騒ぎは皇帝にとっては良い知らせであった。何故なら両者の結託は皇帝権を脅かす存在となり得るからだ。後述のユスティニアヌス治世期の「ニカの乱」は、「」と「」の結託から起きた大反乱である。

難攻不落の城壁

テオドシウス2世(401~450)が建設したは、まことに頑丈なであった。

先に挙げたコンスタンティヌス1世が建てたが手狭になると、彼テオドシウスは、域を2倍に広げた上、沿いに防を造り、陸上を二重の構造にした。15メートルもある高くそびえるそのは、見る者すべてを圧倒した。

オスマントルコ大砲を使い始める以前は、この三重が崩れる原因は、地震と味方の裏切りの他はなかった。璧ならぬ完壁といって刺し違えないこのテオドシウスのは、都コンスタンティノポリスを守り続け、約1000にも及び東ローマ帝国を支え続けた。

都市の暮らし

よりも誉れ高く、と言わんばかりに壮麗さを競う、皇帝貴族たち。一方、都の市民らはどのように暮らしていたのか。

工場

ほとんどが小規模経営。また家族経営でもあった。

商工業でだったのは、工房と商店を併せもつ小さな店舗(エルガステリオン)だった。これらの店の多くは、輸入品ではなく自作の商品を並べていたのである。もちろん輸出入を行う貿易的な店舗もあったが、そういった店は工場を持たず、商業に専念していた。貿易を行う店には、専用の倉庫があったという。

コンスタンティノポリスの商工業は、多くは職人たちが土地を借りる形で成立していた。なにしろ都の土地は大半が貴族のものだったからである。工場の賃は年15~20ミスマ。安として、借りている店舗そのものを買い取る際の単価が、数100ミスマである。くとも10年ほど働いてやっと、といった具合であろうか。

腕の良い奴隷を労働させることもあり、この場合彼らは280日ほど働いてやっと自由になれた。

職人

基本的には組織化されていた。

コンスタンティノポリスにおいては、職種ごとにギルドが存在した。また、共事業や軍事戦略、生活必需品にまつわる職は、総督の統制下にあった。『総督の書』なる書物に、ギルドの規定が確認できる。こうした環境から、職人は孤独な世捨て人ではなく、世俗と密接な関係にあったことがうかがえる。

養成においても組織化されていた。

養成学校においては、まず基本的な知識と専門的な技を習得させた。そしてギルドへの加入資格があるかどうかの審を行う。合格した場合は拠として名簿を総督に提出し、それによりギルド加入への許可が下りる。ちなみに、こういった仕組みからか、東ローマ帝国においては生活必需品の投機が予防され、商品の質が維持された。


1 商工業者の間で結成された職業組合。商業ギルドや同業者(手工業)ギルドなどが存在した。コンスタンティノポリスでの織物の販売には、女性も参加していた。

商売

多くの贅沢品に恵まれていた。人々がブドウリンゴ、ナシなどの果物を買い、の味覚を楽しんだという記録が残っているくらいである。

先述した通り、プルプラで染めた織物は、皇帝の専売物であり、また権威の徴でもあった。異から来た王侯貴族はこれを非常に喜んだという。つまり政治的な価値もあったというわけだ。これを市民が買うことも(一応は)可であった。もっとも、その場合はお偉い総督様の監視の下、なのだが。

の細工品もまた有名である。ビザンティン文化を取り入れた、繊細で美しく、そしてどこか妖しげのあるの品々は、東西問わず多くの者を魅了した。今日イスタンブルの西にある町には、いまだにこの東ローマ帝国細工を手で作って販売している人々がいる。それほどまでに、後世に残しておきたい文化の一つなのであろう。

このような贅沢品を中心とした工芸品は、他へどんどん輸出され、東ローマ帝国を活気づけた。

学問と教育機関

古代ローマ帝国がそうであったように、東ローマ帝国においてもギリシア文化は重要な学問であった。テオドシウス1世(在位:379年 - 395年)がキリスト教教として以来、東ローマ帝国においてギリシア古典は異教の文化として蔑まれてきたが、学びの基盤であることに変わりはなかった。

9世紀にもなるとギリシア古典の価値は著しく上がり、コンスタンティノス7世(在位:913年 - 959年)の代には大いに復される。ギリシア語公用語となったのは629年だが、このギリシア的な文化の勃も相まって、東ローマ帝国ギリシア色彩はより一層濃くなったのである。

主な学問

古典ギリシア文化というと、ソクラテスに見られる哲学や、エウクレイデスユークリッド)の幾何学が連想されるだろう。ところが東ローマ帝国における学問とは、実のところそれらに限らない。帝国においては音楽もまた重要視され、算術・幾何学天文学と同等の扱いを受けた。こちらも、古代ギリシア音楽を参考にして編み出された、東ローマ帝国特有の教養である。

以下が東ローマ帝国における基本的、あるいは重要な学問である。

教養への意識

が子の出世を望む者は、みな一様に教養を重視した。

その実により、農民から皇帝にまで登りつめたユスティニアヌス1世を見ればお分かり頂けるであろう、東ローマ帝国はまさしく実義の社会であったのだ。だからこそ、立身出世を望む者はみな教養を重要視したのだった。地方の小貴族が高位の官職に就くことができたのも、ひとえにその教養の故である。

学校

東ローマ帝国の授業風景は現代のそれと非常に似ている。人数こそ少ないが、大学哲学講座などを想像していただければ、その風景も想像に難くないかと思われる。

初等教育

初等教育アナトリア半島の東端、シリアの一歩手前にまで普及しており、村には必ず教師がいた。子供たちは8~9歳以下の年齢から国語読み書きや聖書あるいは人の伝説・伝記などを学習する。しかし驚くべきは、この初等教育の段階で、子供たちがギリシア古典を用いて古代ギリシア語をも習得していったことである。

さてこの初等教育だが、有料でカリキラム教師が決める、というものだった。現代の々からすれば、いわゆる「私塾」のような施設だったに違いない。

中等教育

初等教育が充実する一方、中等教育の施設はコンスタンティノポリスに、しかも大半は都心部に限られていた。が子の出世を願う親御さんたちは、子供が10代に入ると中等教育を、と考えていたようである。そのため地方の貴族らは都に住む親戚に子を預け、中等教育を受けさせた。他方で貧乏な者にとって都に上らなければならないというハンデは、あまりに大変なことだった。

学生の年齢層は10~18歳ほどで、最上級生には教師(マイストル)がついた。また助手(プロクシモス)も頻繁についたようである。教師と助手に直接教えられた上級生だが、今度は下級生監督役として、授業を教えていた。どうやら教師→上級生→下級生といったに、教え、教えられる序列ができあがっていたようだ。

なお、上で挙げた文学関連の学問は、この中等教育から導入されている。

しかし面いのは、生徒の中にも現代に通ずるリベラリストがいた、という点である。すなわち、週に1度か2度ある試験をボイコットしたり、そもそも授業をサボったり、あるいは教師を悪く言ったり、などである。親近感がわいただろうか。

大学

大学はマグナウラ宮殿だけ、というように限られた地点にのみ存在した。講座は4つと少なく、故に学生の数もごく限られていた。まさにエリートを養成するための施設というわけである。設立は9世紀初頭。

ここでは初等教育、中等教育で練り上げた文法の他、哲学幾何学天文学などのギリシア古典フル活用した高度な学問が取り扱われた。初等教育や中等教育とは違い、大学営であった。もっとも10世紀末には姿を消し、1047年に法科大学として復活するが、コンスタンティノポリス教の干渉により結局はくなった。

存在した期間を王でいうならば、アモリアからマケドニアの間、といったところである。

農民の生活

農民の存在も忘れてはならない。確かに農民たちの生活は、やかな王侯貴族都市民とべ、どこか暗い印を受ける。しかし、東ローマ帝国の富は何を隠そう彼らの存在があってこそである。農民に課せられる土地税こそが、国家の最大の収入であったのだから。

ローマ帝国の東西分裂からしばらくの間は、東ローマ帝国農業は他べ先進的だった。しかし10世紀にもなると、二股の鍬1を除き大した発明が見られなかった。西ヨーロッパにおいては農業生産が躍進し、イスラム圏では漑農法2によって収穫が飛躍したのに対し、東ローマ農業には進展が見られなかったのである。課税による収入はおろか穀物の供給にまで農民に依存した東ローマ帝国にとって、この農業の遅れは国家の停滞につながった。

農業に勤しむ彼らは、村落において集団で住んでいた。放牧地の使用、納税、宗教行事への参加は共同であたるその姿は、まさに団結のある共同体である。

しばしば農民は、農的なイメージられやすい。事実、東ローマの農民は、経済的に貴族と疎遠の関係にあった。また食文化にしても、甘味料蜂蜜に限られていた。しかし、かといって不憫なだけかといわれればそうでもない。イチジクやブドウを干したり、にあたってんだりと、思いのほか情のある生活をしていたようだ。


1 くわ。よく時代劇で、農民が田畑を耕す際に用いているアレである。

2 外部から農地へ人工的にを供給する農法。

苦労

土地の大半はやせており、農民たちは少なくとも1年おきに土地を休ませなければならなかった。そのためには休閑地の土を起こさなければならなかった。しかし土の層があまりに薄すぎたため、有輪の犂1を使用できなかった。そういった理由から、シャベルで土を掘り返してから、輪の犂で耕すという、めんどくさ過ぎる労働を強いられたのである。

また干ばつや大、寒波などの自然災害も非常に厄介であった。本来ならば、レンズ豆、エンドウ豆、そら豆などはほどよく収穫できるはずであった。にもかかわらず、アナトリア半島をはじめとする多くの地域では、常に何かしらの不作に苦しめられていた。瓶の中のワインが凍るほどの気温にも襲われ、そのあまりの寒さゆえにきの種が全滅することもあったという。


1 種まきや苗の植え付ける前に、土壌を耕起する農具。プラウとも。

知恵

このように農業面はとても不安定にあったから、農民たちは安定した収入を欲した。そこで彼らは、野菜果物オリーブなどの作物や商品を、近隣の都市へ売りさばいた。東ローマ帝国では、農民にもその程度の商売の権利は確保されていたのである。

むろん田畑を疎かにしていたわけではない。

必要とあらば、井戸からんだを、自らの手を使ってわざわざ田畑に撒くまでのことをやってのけた。一家が生きていくにはどうしても一つは欠かせなかったから、どんな労苦も厭わなかったのである。

先に述べた通り、農村は強い団結によって成り立っていた。1対計2頭ので犂を引かせ、田畑を耕し、それでも足りないのであれば近所の手助けを借りて土地を肥やしていく。また納税に対しても、村落全体が共同で責任を負う。そのようにある種の連帯責任を負いながら、農民は国家に貢献していったのである。

分類

  1. 自らの農地を所有する者
  2. 土地を一定期間借りる者
  3. 隷属農民(パロイコイ)、あるいは農

ロイコイは恒久的な小作人だが、土地を離れることも許された。一方、自らの農地を所有する者でも、生活に困れば他人の農地を借りたり、パロイコイになることもあったようである。7~10世紀は小規模な農地をもつ農民が多く、それ以降はパロイコイが大多数となる。

東ローマ帝国の歴史的意義

への屈からくる正教会と、ヒューマニズム溢れる古典ギリシア融合によるビザンティン文化。
頑ななまでに「ローマ帝国としての意識」をもつ一方で、ときに貢納や外交により多くの妥協と脱皮を繰り返した点。
そして、文明の十字路にあり、東西の文化を吸収・研磨し新たな文化圏を形成、東欧の基礎を生みだした功績。

東ローマ帝国は、たとえ滅びようとも西ヨーロッパルネサンスに多大な影を与えた。
また、滅ぼした本人であるオスマン帝国でさえ魅了し、あろうことかその文化を継承させた。オスマン帝国のブルーモスク。

古今東西の多くの文明を融合させ、また少なからず後世にその遺産を残した点で、東ローマ帝国歴史的に大きな意義をもつであった。多様な文明、栄枯盛衰、喜怒哀楽のあった1000年という時の中で、「ローマ」であり続けようとし老いゆくこのから、々はたくさんのことを学べるのではないだろうか。

年表

出来事
前27年 ローマ政を開始
330 ローマ帝国コンスタンティノポリス遷都
379年 テオドシウス1世が即位、テオドシウススタート
392年 キリスト教教となる
395年 ローマ帝国の東西分裂
441年 アッティラ率いるフン族ヨーロッパに襲来
457年 テオドシウスの断絶、以後レオ
476年 西ローマ帝国が滅亡
480年 最後の西ローマ皇帝が暗殺される
491年 レオ断絶
491-518年 ナスタシウス1世による財政再建と防の強化
518年 ユスティニアヌスの成立
527年 ユスティニアヌス1世即位
ミス貨が発行される
532年 ニカの乱
533-534年 旧西ローマ領の北アフリカを奪回
535-555 イタリア奪還
542年 ペスト流行
560 ラヴ人がバルカン半島に侵入
568 ランゴバルド人がイタリア北部を中心に侵入する
584年 イベリア半島南端が陥落
602年 ユスティニアヌスが断絶し、以後フォカスによる圧政が続く(~610年)
610年 ヘラクレイオスクーデターを起こし即位、ヘラクレイオスが成立する
611年 シリアの大都市アンティオキアがササン朝ペルシャ帝国に占領される
614年 イェルサレムササン朝ペルシャ帝国に占領される
617年 エジプトペルシャ軍に占領され、穀物の供給が滞り始める
622年 ムハンマドのヒジュラ(遷)によりイスラームが勃
ヘラクレイオスが対ペルシャ遠征を開始
626年 ペルシャ連合軍によるコンスタンティノポリスの包囲
セルギオスらの尽によりこれを敗走させる
628年 ヘラクレイオスの軍がペルシャ帝国首都クテシフォンに接近
629年 ペルシャ帝国に勝利、古代ローマからの因縁が断たれる
ペルシャ軍が全占領地から撤退し、東ローマ帝国経済・食糧供給のが回復
公用語ギリシア語に替わる
636年 ヤムルークの戦いにてアラビア軍に敗北
642年 エジプトアレクサンドリアが陥落
672年 ギリシアの火が活躍
674-678年 コンスタンティノポリスウマイヤイスラム帝国に包囲される
681年 ブルガリア戦で惨敗
ブルガリア独立し、第一次ブルガリア帝国が成立する
683年 ウマイヤイスラム帝国に対し大勝する
692 税務長官が登場
693 ウマイヤイスラム帝国敗北
711年 ヘラクレイオスが断絶する
717年 シリア(イサウリ)が成立
ウマイヤ都包囲(2度
726年 像破壊運動(イコノクラスム)が始まる
730年 像禁止令を発布
740 アクロイノンの戦いにて、ウマイヤイスラム帝国に圧勝する
745-748 ペスト流行
751年 イタリアラヴェンナが陥落する
763 アンギュロスの戦いにてブルガリア軍に勝利
787 像崇敬が復活
800年 ローマ教会がフランク王国カール大帝シャルルマーニュ)を「ローマ皇帝」として即位させ、神聖ローマ帝国(の原)を誕生させる
これにより東ローマ帝国西欧への影は低下し、欧州が東西に分裂する
802年 シリアが断絶
810 アモリアが成立
813年 ブルガリア人がコンスタンティノポリスを包囲
827年 クレタがアッバースイスラム帝国に落とされる
860 キエフ・ロシアコンスタンティノポリスに攻撃
864 ブルガリア人が正教会に
867 マケドニアが成立
902年 チリを失う
911 キエフ大公国と初の条約締結
927-928年 すごく寒い。
944年 キエフ大公国と二度の条約
961年 クレタを奪還
969年 奪われていたアンティオキアを占領
970年 キエフ大公国コンスタンティノポリスを包囲
976年 バシレイオス2世即位
976-989年 バシレイオス2世の大反乱
990-994 ブルガリア
994 ファティイスラム帝国を撤退に追い込む
998 ブルガリア戦再開
999 シリア奪還
1000 西グルジアを制圧
1001 第一次ブルガリア帝国を圧し、マケドニアを獲得する
1012年 ルマン人が南イタリアへ侵入
1014年 レイディオンの戦いにて第一次ブルガリア帝国に大勝する
1018年 第一次ブルガリア帝国を滅ぼし、バルカン半島を統一する
1025年 東ローマ帝国の最盛期
イタリア南部バルカン半島アナトリア半島クリミア半島の南端、シリアの北にまで至る大帝国
12月25日バシレイオス2世死去
1032年 エデッサを占領
1043年 ミス貨の価値が低下し始める
1050年 アルメニアを併合
1054年 教会分裂(シスマ)
ローマ教会がコンスタンティノポリス教会と決別し、東ローマ帝国から独立する
1057年 マケドニア断絶
1059年 ドゥーカスの成立
1068年 ミス貨の価値が急落し始める(~1081年)
1071年 ルマン人がイタリア南部に攻勢
マンツィケルトの戦いにてセルジュークトルコに大敗を喫する
1081年 アレクシオス1世の即位により王がコムネノに代わる
1082年 ヴェネツィア共和国と条約を結ぶ
1090年 ペチャネグ人襲来(~1091年)
1095年 第一回十字軍(~1099年)
1137年 ヨハネ2世アンティオキアを奪回する
1170 ピサと条約を結ぶ
1176年 セルジュークトルコのミュリオファロンの戦いにおいて敗北する
1185 ルマン人がテサロニカを占領
クーデターによりイサキオス2世が即位、アンゲロが始まる
1204年 第四回十字軍コンスタンティノポリスを陥落させラテン帝国を建する
東ローマ帝国が一度滅亡、エピロス専制侯カイ帝国、トレビゾンド帝国などの亡命政権が各地に
1261年 カイ帝国によりコンスタンティノポリスを奪還、東ローマ帝国が復活
ミカエル8世によりパレオロゴが成立
1274年 ローマ教会との合同企画 →失敗
1299年 オスマン帝国が成立
1331年 カイアがオスマン帝国に占領される
1334年 セルビア定する
1340年 ピロス専制帝国領として併合する
1341年 テサロニカにて熱心党(ゼーロータイ)の民衆暴動が勃発
1354年 オスマン帝国ガリポリを占領、都の対に要塞が建設される
1376年 東ローマ帝国オスマン帝国の属と化す
1399年 ヌエ2世フランス王国神聖ローマ帝国イングランドにそれぞれ援軍を要請すべく欧州駆ける
1422年 オスマン帝国コンスタンティノポリスを包囲
1430年 オスマン帝国がテサロニカを攻め落とす
1453年 5月29日オスマン帝国のスルタンメフメト2世によりコンスタンティノポリスが陥落、東ローマ帝国が滅亡する
1460年 ミストラ陥落、モレアス専制領がオスマン帝国により滅亡
1461年 トレビゾンド帝国オスマン帝国により征される
1467年 モスクワ大公イヴァン3世が、ローマ帝国の継承者を自任

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東ローマ帝国について語るスレ

121 : ななしのよっしん :2016/12/07(水) 01:19:14 ID: Qc72tQJ9cs
19世紀から20世紀初頭、当時のヨーロッパを席巻していた民族義の一つ、大ギリシャ義(メガリイデア)は、コンスタンティノポリスの奪還と失われたギリシャ人の旧領回復をし、その最終標は滅亡した東ローマ帝国の再だった。

第一次大戦後パリ講和会議ギリシャしたギリシャ領は、東ローマ帝国領そのものであった。

残念ながら当時のギリシャに、それを実現するも威信もかったが。
122 : ななしのよっしん :2016/12/17(土) 21:59:02 ID: 6rkbCvxFV1
>>120
その意味でも、コンスタンティヌス1世は「東ローマ帝国の祖」と言っていい気がする。親衛隊を解体して、「親衛隊が皇帝を実排除する」という皇帝排除の手段が奪われたのも、コンスタンティヌス1世の政策によるものだし。
123 : ななしのよっしん :2016/12/24(土) 00:31:45 ID: ZV/3LBBeXd
>>121
ギリシャのあれは欲の皮突っって失敗したようなものだからな・・・
124 : ななしのよっしん :2017/01/04(水) 21:57:33 ID: yIQfJrGjlh
>>118

狡猾で卑怯ってのはあくまで当時の西洋人の偏見だから具体的にこれっていう具体例は上げられないけど、
ビザンツはお金持ちだったからそれへの嫉妬とか、
異教徒のイスラムと折り合いをつけて付き合ってるところとか、
スヴャトスラフをブルガリアにぶつけるとかいうに敵にほかの民族をけしかけて労せず安全を確保する外交というか、
素人にも結構思いつくから、こういうのが重なって狡猾で卑怯に見えたのかもしんない
素人の与太話を読むよりもこういう話が結構書いてあるジュディスヘリンさんのご本を読みなはれ、面いからマジおすすめ
125 : ななしのよっしん :2017/01/16(月) 10:34:38 ID: 0kr5ybW8Ch
>>124
そうした悪名が西欧で高まっていた所に救援要請、そしてラテン帝国へ…という流れですねやっぱ西方は根回しが得意だわ
126 : ななしのよっしん :2017/03/09(木) 01:54:54 ID: NDf66eMv5K
民の大半がギリシャ人やスラブ人になった事をよく強調されてるけど
もともとローマ帝国は多民族国家だよね?
127 : ななしのよっしん :2017/03/13(月) 00:44:38 ID: Pc19/YCuV2
ヌエル、キリストにおけるに信厚き皇帝ポルフュロゲネトス、
ローマ人のアウトクラトール、もっとも敬虔な、永遠に尊厳なるアウグストス、
イサウリア人、キリキア人、アルメニア人、ダルマティア人、
ハンガリー人、ボスニア人、クロアティア人、ラジ人、イベリア人、
ブルガリア人、セルビア人、ジキア人、ハザール人、ゴート人の征者、
偉大なるコンスタンティヌスの栄冠のの定めたる相続人、
彼の全ての権利を霊により受け継ぎし者

wikiからマヌエル1世の征称号コピペ
128 : ななしのよっしん :2017/04/10(月) 03:04:16 ID: B3P2V0cZy+
>>126
そう、だがスラヴ人のバルカン移住や帝国領がバルカンアナトリアに限られていくにしたがってギリシャ人やスラヴ人の割合が増していった
それ故特にギリシャ化し古代ローマ帝国とは雰囲気が異なるという点で臣民の人口が挙げられるのだと思う
もっとも、古代ローマ時代の時点でも東地中はヘレニズム圏としての色合いが濃かったらしいが(例えば新約聖書ギリシャ語で書かれるなど)
129 : ななしのよっしん :2017/09/17(日) 16:20:40 ID: NDf66eMv5K
そうかぁ、文化が変わったにしても一応ローマ人なのだから気にしなくてもと思ったけどそうはいかないんだね
130 : ななしのよっしん :2017/10/04(水) 01:21:45 ID: wNvjX+sVNb
うん皇帝さんかわいそう
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