夏季オリンピック | |
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東京オリンピック | |
正式名称 | |
第12回オリンピック競技大会 | |
Games of the XII Olympiad | |
基本情報 | |
開催国 | 日本 |
開催都市 | 東京市 |
開会式 | 1940年9月21日 |
閉会式 | 1940年10月6日 |
競技種目数 | 未実施 |
参加国・地域 | 未実施 |
新採用/追加競技 | |
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オリンピックテンプレートボックス |
東京オリンピック(1940年)(とうきょうOlympic1940ねん)とは、1940(昭和15,皇紀2600)年に開催される予定であった第12回夏季オリンピック(Games of the XII Olympiad)である。
概要
20世紀当時、オリンピックの開催国になる事は一流国の証左であった。1932年、ロサンゼルスオリンピックとともに次の開催国を決める「IOCロサンゼルス総会」が開かれた。この時、日本とイタリアとフィンランドが名乗りを上げた。それぞれ東京、ローマ、ヘルシンキに招致しようとしたのである。三国の戦いは1935年にオスロで開かれたIOC総会にまでもつれ込んだ。
何としても東京にオリンピックを招致したい日本は、イタリアのムッソリーニ首相に裏交渉を持ちかける。交渉は成功し、ムッソリーニ首相はローマ開催を自ら辞退した。これで日本とフィンランドの一騎打ちになった訳だが、当然ながらIOC総会から白眼視され開催は見送られた。しかし諦めきれない国内世論に押され、1936年にバイエ・ラトゥールを日本に招待。受け入れ体勢が万全である事をアピールし、おもてなしを行った。これが功を奏し、IOCベルリン総会で見事招致を勝ち取った。
国際オリンピック委員会により開催が決定され、アジア初のオリンピックに向けて準備が進められた。なお、万国博覧会を豊洲・晴海で、冬季オリンピックを札幌で開催することも決定され、皇紀2600年を祝賀するのにふさわしい一連のイベントとなるはずであった。夏季オリンピックについては、メインスタジアムを東京府荏原郡駒沢町に建設することなどが計画され、ベルリンオリンピックに続いてテレビ放送を実現すべく研究も進められていた。なお、オリンピック組織委員会の初代委員として、当時海軍次官であった山本五十六も名を連ねている。オリンピック開催に伴う来日客の増加を見越し、日本郵船は新田丸級客船3隻を建造。官民揃って準備にてんてこまいだった。
ところが1937年に支那事変が勃発。その影響によって内外から中止を求める声が大きくなり、1938年にオリンピック・万博ともに日本政府が開催を返上した。代替開催地としてフィンランドのヘルシンキがあげられたが、こちらも第二次世界大戦(冬戦争)の影響により中止された。せっかく造られた新田丸級客船も空母へ改装される事になり、戦争によって準備がおじゃんになってしまった。
返上したオリンピックに代わり、1940年6月に東亜競技大会が開催された。これは日本、満州国、中華民国(汪兆銘政権)、ハワイなどの国と地域が参加したもので、明治神宮外苑競技場などで開催された。
国名 | 都市名 | 1回目投票 |
日本 | 東京 | 36 |
フィンランド | ヘルシンキ | 27 |
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関連項目
外部リンク
- 写真週報に見る昭和の世相―幻の東京オリンピック(内閣情報局が発行していた「写真週報」を中心に招致~返上までの流れがまとめられている)
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