東方昭和伝の年表単語

トウホウショウワデンノネンピョウ
4.7千文字の記事
  • 2
  • 0pt
掲示板へ

【 東方昭和伝の年表 】

  1. 東方昭和伝第一部の年表    [ 昭和元年1926年12月昭和6年1931年6月 ]
  2. 東方昭和伝第二部の年表    [ 昭和6年4月12月 ]
  3. 東方昭和伝第三部の年表    [ 昭和6年12月昭和8年1933年5月 ]
  4. 東方昭和伝第四部の年表    [ 昭和8年4月昭和11年1936年2月 ]
  5. 東方昭和伝第五部の年表その1  [ 北一輝永田山の人物年表 ]
  6. 東方昭和伝第五部の年表その2  [ 二・二六事件時系列表 ]
  7. 東方昭和伝第六部の年表    [ 昭和11年1936年3月昭和12年1937年7月 ]
  8. 東方昭和伝第七部の年表    [ 昭和12年6月昭和13年1938年4月 ]
  9. 東方昭和伝外伝の年表    [ 明治33年(1900年)6月明治38年(1905年)9月 ]
  10. 東方昭和伝第八部の年表    [ 昭和13年3月~ ]

 

昭和歴代内閣一覧

昭和20年鈴木内閣まで。1926年12月25日までは大正。「在任期間」には、首相不在による臨時代理や新内閣組閣までの職務執行期間を含む。

政府首班
内閣
在任期間 与党・支持勢 当該動画
若槻礼次郎
(第1次)
 1926年大正15年1月30日
  ~ 1927年昭和2年4月20日 
政会 若槻内閣融恐慌 exit_nicovideo exit_nicovideo



田中義一  1927年昭和2年4月20日
  ~ 1929年昭和4年7月2日
立憲政友会 田中内閣と動乱の大陸 exit_nicovideo exit_nicovideo
作霖爆殺事件 exit_nicovideo exit_nicovideo
浜口雄幸  1929年昭和4年7月2日
  ~ 1931年昭和6年4月14日
立憲民政党 ロンドン海軍軍縮会議 exit_nicovideo exit_nicovideo
統帥権干犯問題 exit_nicovideo exit_nicovideo
若槻礼次郎
(第2次)
 1931年昭和6年4月14日
  ~ 同12月13日
立憲民政党 事変前 exit_nicovideo exit_nicovideo
満州事変(前編) exit_nicovideo exit_nicovideo
満州事変(後編) exit_nicovideo exit_nicovideo


犬養  1931年昭和6年12月13日
  ~ 1932年昭和7年5月26日
立憲政友会 最後の政党内閣 exit_nicovideo exit_nicovideo
五・一五事件 exit_nicovideo exit_nicovideo



斎藤  1932年昭和7年5月26日
  ~ 1934年昭和9年7月8日
海軍
一致
国際連盟脱退(前編) exit_nicovideo exit_nicovideo
国際連盟脱退(後編) exit_nicovideo exit_nicovideo
人事件 exit_nicovideo exit_nicovideo

岡田啓介  1934年昭和9年7月8日
  ~ 1936年昭和11年3月9日
海軍
立憲民政党
岡田内閣天皇機関説問題(前編) exit_nicovideo exit_nicovideo
岡田内閣天皇機関説問題(後編) exit_nicovideo exit_nicovideo
昭和維新への exit_nicovideo exit_nicovideo exit_nicovideo

震(前編)exit_nicovideo exit_nicovideo
震(後編)exit_nicovideo exit_nicovideo exit_nicovideo



【1】
【2】
広田  1936年昭和11年3月9日
  ~ 1937年昭和12年2月2日
官僚
一致
広田内閣と西安事件 exit_nicovideo exit_nicovideo
内閣流産 exit_nicovideo exit_nicovideo



十郎  1937年昭和12年2月2日
  ~ 同6月4日
陸軍
政党
第一次近衛内閣成立 exit_nicovideo exit_nicovideo
近衛文麿
(第1次)
 1937年昭和12年6月4日
  ~ 1939年昭和14年1月5日
貴族院火曜会)
一致
 exit_nicovideo exit_nicovideo
第二次上海事変 exit_nicovideo exit_nicovideo
爾後政府ヲ対手トセズ exit_nicovideo exit_nicovideo exit_nicovideo


旧秩序への挑戦  exit_nicovideo exit_nicovideo exit_nicovideo

平沼騏一郎  1939年昭和14年1月5日
  ~ 同8月30日
枢密院
一致
欧州情勢は複雑怪奇(前編) exit_nicovideo exit_nicovideo
欧州情勢は複雑怪奇(後編) exit_nicovideo exit_nicovideo
阿部信行  1939年昭和14年8月30日
  ~ 1940年昭和15年1月16日 
陸軍
一致
米内光政  1940年昭和15年1月16日
  ~ 同7月22日
海軍
一致
近衛文麿
(第2次)
 1940年昭和15年7月22日
  ~ 1941年昭和16年7月18日
貴族院火曜会)
大政翼賛会
近衛文麿
(第3次)
 1941年昭和16年7月18日
  ~ 同10月18日
貴族院火曜会)
大政翼賛会
東条英機  1941年昭和16年10月18日
  ~ 1944年昭和19年7月22日
陸軍
大政翼賛会
小磯  1944年昭和19年7月22日
  ~ 1945年昭和20年4月7日
陸軍
大政翼賛会
鈴木貫太郎  1945年昭和20年4月7日
  ~ 同8月17日
海軍
大政翼賛会

 

昭和衆議院総選挙結果一覧

昭和17年のいわゆる「選挙」まで。

第15回総選挙 大正13年(1924年)1月31日 定数464

立憲政友会
100
政友本党
116
政会
151
中正
42
革新
30

8

17
※中正=中正楽部 革新革新楽部 実=実業同志会 所属

 大正13年に成立した清浦内閣は官僚と貴族院議員による内閣であったので、衆議院の各政党は反発を強め、政会・政友会・革新楽部の3党は「護」を標榜して「政擁護運動」を起こし、解散総選挙に臨んだ。結果、政会が較第1党となり、加藤高明・政会総裁を首班とする3党連立内閣が発足した。
 政友会のうち清浦内閣を支持する一は、離党して「政友本党」を結成したが、選挙前より33議席減らす敗北となった。政会・政友会に対する第3極を模索したがうまく行かず、のちに鳩山一郎らは離党して政友会に復帰した。
 「護」連立は、間もなく路線対立から崩壊して政会単独内閣となった。革新楽部の多く(犬養毅ら)は政友会に合流し、ごく少数がのちに「革新党」を形成した。大正15年加藤首相が急死し、若槻礼次郎内相が後継内閣を組閣。その年の暮れ、大正天皇が崩御され、時代は昭和へと移った。

第16回総選挙 昭和3年(1928年) 2月20日 定数466

立憲政友会
217
立憲民政党
216

18
所属 小党は左から社会民衆党4 実業同志会4 革新党3 労働農民党2 日本労農党2

 昭和最初の総選挙は、男性の納税額による選挙権制限が撤されて最初の「普通選挙」となった。この選挙の前年に、政会と政友本党は合同して「立憲民政党」を結成した。これにより、政友会・民政党という戦前昭和の2大政党の構図が固まった。
 田中義一内閣の与党政友会は、鈴木三郎内相の大規模な選挙干渉によって過半数確保を狙ったが、結果は与野党わずか数議席差という伯仲だった。政友会は民政党の旧・政友本党系議員の切り崩しを行い、床次次郎(旧・政友本党総裁)ら30余名の政友会復党に成功し、かろうじて多数を得た。社会民衆党など社会主義の「無産政党」が初めて議席を得たが、政府選挙直後に三・一五事件を起こして共産主義社会主義を弾圧した。

第17回総選挙 昭和5年(1930年)2月20日 定数466

立憲政友会
174
立憲民政党
273
※小党は左から同志会6 無産政党5 革新党3 所属5

 作霖爆殺事件をめぐって昭和天皇の不を被った田中内閣が総辞職すると、政権は議会第2党・民政党浜口雄幸総裁に移った。少数与党の浜口内閣は、年明け議会の施政方針演説直後に衆議院を解散。解禁・緊縮財政軍縮などの経済外交政策を掲げた。
 政友会では内閣総辞職直後に田中総裁が急死し、後継を巡って内紛が勃発。政界の長老ではあるものの、数年前から引退表明かつ大正末年にようやく入党したばかりの犬養毅を、急遽総裁に立てるという混乱があった。
 選挙浜口首相個人の人気と万全の選挙態勢もあって民政党が圧勝。安定勢を得た内閣は、解禁・海軍軍縮などを断行した。一方で政権奪回をあせる政友会は、軍部や官僚の強硬と結託し、「統帥権干犯問題」で民政党政権を攻め立てた。

第18回総選挙 昭和7年(1932年)2月20日 定数466

立憲政友会
301
立憲民政党
146
※小党は左から無産政党5 革新党2 所属12

 浜口内閣を継いだ第2次若槻内閣が、満洲事変処理を巡る閣内不一致から総辞職すると、「政の常」により大命は議会第2党・政友会の犬養総裁に下った。解禁の即時停止に踏み切った内閣は、少数与党状態を打破すべく年明けの議会冒頭に解散を行った。
 政友会は解禁後の大不況からの脱却・気対策を強調。一方の民政党は、若槻内閣退の原因を作った安達謙三一の除名・離党問題による対立、さらに選挙中には血盟団事件で井上準之助幹事長・前蔵相が暗殺(若槻総裁も暗殺未遂)されるという大打撃をこうむった。
 結果は政友会が史上空前300議席を得る大勝となったが、わずか3カ後に五・一五事件が起こって内閣は退。政友会は鈴木三郎を後継総裁に立てて大命降下を待ったが、元老・西園寺望は海軍大将斎藤実による「挙一致内閣」を選択。結果的に、これが戦前議会第1党による内閣組織の最後となった。

第19回総選挙 昭和11年(1936年)2月20日 定数466

立憲政友会
175
立憲民政党
205

22

18

15

24
※昭=昭和会 社=社会大衆党 民同盟 所属 他は無産4 国家主義団体3

 「政の常理論により単独政権奪回を望む政友会は、斎藤内閣では閣僚を送ったものの、後継の岡田啓介内閣には参加を拒否し、方針に反して入閣した高橋是清・元首相(元総裁)らを除名処分。他方では枢密院の平沼騏一郎や陸軍との結びつきを強化し、「天皇機関説問題」で岡田内閣しく攻撃した。任期満了間近に内閣不信任案が提出され、即日衆議院は解散された。
 与党格の民政党野党政友会のしい争いとなったが、結果は民政党議会第1党の座を回復。政友会は大幅な議席減に加え鈴木総裁が落選するという、大敗北を喫した。また、社民の「社会大衆党」が18議席獲得と躍進し、軍・右に対して左が伸長した。
 これにより民政党を与党とする岡田内閣は安定に向かうと見られたが、この選挙のわずか6日後に二・二六事件が勃発。内閣は退せざるを得なくなった。

第20回総選挙 昭和12年(1937年)3月21日 定数466

立憲政友会
175
立憲民政党
179
社大
37

19

11

11

34
※社大=社会大衆党 昭=昭和会 民同盟 東=東方会 所属 

 二・二六事件後の広田内閣垣一成の内閣流産事件を経て組閣された陸軍大将十郎の内閣は、軍人と官僚・財閥人脈によって構成され、民政・政友2大政党の支持を全く得ていなかった。内閣は、政党を懲罰すると称して突如衆議院を解散。昭和12年度予算成立直後だったため、予算成立という旨味だけを食べて逃げた「食い逃げ解散」と揶揄された。結果、与党的立場の小会は合わせて40議席しか獲得できず、2大政党の圧勝に終わって内閣は退。ついに衆望を担った近衛文麿公爵の登場となる。
 この選挙でも民政党議会第1党の座を守ったが、社会大衆党に地盤を食われて議席を減らし、社大党の伸がますます顕著となった。第2党政友会では、前回選挙で落選した鈴木総裁の後継争いが深刻なものとなっており、ひとりの総裁を立てられず4人の総裁代行による合議状態に陥っていた。そして2年後には、正統派(久原房之助・鳩山一郎)と革新中島知久)とに大分裂してしまう。
 なお、この選挙が結果的に、戦前最後の民主的に実施された総選挙となった。

第21回総選挙 昭和17年(1942年)4月30日 定数466

翼賛政治体制協議会推薦
381
推薦
85
翼賛政治体制協議会大政翼賛会選挙組織

 近衛公爵を中心とする「新体制運動」の流に抗えず、もしくは積極的な迎合により、昭和15年中に社会大衆党民同盟・政友会両は次々解党。最後まで抵抗した民政党8月に解党し、いずれも「大政翼賛会」に合流した。これにより、議会制度開始以来の複数政党による議会は、形の上では崩壊した。
 戦時を理由に延長されていた議員任期が終わって実施された、戦中一のこの選挙は「選挙」と称され、翼賛政治体制協議会推薦補者は政府や軍部から多大な援助を受け、非推薦補者は様々な妨を被った。しかしながら斎藤隆夫や鳩山一郎芦田均、西尾末広、三木武夫など非推薦当選も、全体の2割を占める結果となった。彼らの多くが戦後自民党社会党の中核を担うこととなる。
 また他方、賛会推薦当選した議員たちも、結局はもとの所属政党単位で活動することが多く、戦後政党復活の足がかりとなった。

 


 

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 2
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

ニンジャスレイヤー (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: 新星
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

東方昭和伝の年表

1 記事主
2010/01/07(木) 23:27:28 ID: uaeeCIyC7i
一応完成
👍
高評価
0
👎
低評価
0

急上昇ワード改