【 東方昭和伝の年表 】
- 東方昭和伝第一部の年表 [ 昭和元年(1926年)12月~昭和6年(1931年)6月 ]
- 東方昭和伝第二部の年表 [ 昭和6年4月~12月 ]
- 東方昭和伝第三部の年表 [ 昭和6年12月~昭和8年(1933年)5月 ]
- 東方昭和伝第四部の年表 [ 昭和8年4月~昭和11年(1936年)2月 ]
- 東方昭和伝第五部の年表その1 [ 北一輝と永田鉄山の人物年表 ]
- 東方昭和伝第五部の年表その2 [ 二・二六事件の時系列表 ]
- 東方昭和伝第六部の年表 [ 昭和11年(1936年)3月~昭和12年(1937年)7月 ]
- 東方昭和伝第七部の年表 [ 昭和12年6月~昭和13年(1938年)4月 ]
- 東方昭和伝外伝の年表 [ 明治33年(1900年)6月~明治38年(1905年)9月 ]
- 東方昭和伝第八部の年表 [ 昭和13年3月~ ]
昭和歴代内閣一覧
※昭和20年鈴木内閣まで。1926年12月25日までは大正。「在任期間」には、首相不在による臨時代理や新内閣組閣までの職務執行期間を含む。
昭和衆議院総選挙結果一覧
第15回総選挙 大正13年(1924年)1月31日 定数464
立憲政友会 100 |
政友本党 116 |
憲政会 151 |
中正 42 |
革新 30 |
実 8 |
無 17 |
※中正=中正倶楽部 革新=革新倶楽部 実=実業同志会 無=無所属 |
大正13年に成立した清浦奎吾内閣は官僚と貴族院議員による超然内閣であったので、衆議院の各政党は反発を強め、憲政会・政友会・革新倶楽部の3党は「護憲三派」を標榜して「憲政擁護運動」を起こし、解散総選挙に臨んだ。結果、憲政会が比較第1党となり、加藤高明・憲政会総裁を首班とする3党連立内閣が発足した。
政友会のうち清浦内閣を支持する一派は、離党して「政友本党」を結成したが、選挙前より33議席減らす敗北となった。憲政会・政友会に対する第3極を模索したがうまく行かず、のちに鳩山一郎らは離党して政友会に復帰した。
「護憲三派」連立は、間もなく路線対立から崩壊して憲政会単独内閣となった。革新倶楽部の多く(犬養毅ら)は政友会に合流し、ごく少数がのちに「革新党」を形成した。大正15年に加藤首相が急死し、若槻礼次郎内相が後継内閣を組閣。その年の暮れ、大正天皇が崩御され、時代は昭和へと移った。
第16回総選挙 昭和3年(1928年) 2月20日 定数466
立憲政友会 217 |
立憲民政党 216 |
無 18 |
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※無=無所属 小党は左から社会民衆党4 実業同志会4 革新党3 労働農民党2 日本労農党2 |
昭和最初の総選挙は、男性の納税額による選挙権制限が撤廃されて最初の「普通選挙」となった。この選挙の前年に、憲政会と政友本党は合同して「立憲民政党」を結成した。これにより、政友会・民政党という戦前昭和の2大政党の構図が固まった。
田中義一内閣の与党政友会は、鈴木喜三郎内相の大規模な選挙干渉によって過半数確保を狙ったが、結果は与野党わずか数議席差という伯仲だった。政友会は民政党の旧・政友本党系議員の切り崩しを行い、床次竹次郎(旧・政友本党総裁)ら30余名の政友会復党に成功し、かろうじて多数を得た。社会民衆党など社会主義勢力の「無産政党」が初めて議席を得たが、政府は選挙直後に三・一五事件を起こして共産主義・社会主義を弾圧した。
第17回総選挙 昭和5年(1930年)2月20日 定数466
立憲政友会 174 |
立憲民政党 273 |
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※小党は左から国民同志会6 無産政党5 革新党3 無所属5 |
張作霖爆殺事件をめぐって昭和天皇の不興を被った田中内閣が総辞職すると、政権は議会第2党・民政党の浜口雄幸総裁に移った。少数与党の浜口内閣は、年明け議会の施政方針演説直後に衆議院を解散。金解禁・緊縮財政・軍縮などの経済・外交政策を掲げた。
政友会では内閣総辞職直後に田中総裁が急死し、後継を巡って内紛が勃発。政界の長老ではあるものの、数年前から引退表明かつ大正末年にようやく入党したばかりの犬養毅を、急遽総裁に立てるという混乱があった。
選挙は浜口首相個人の人気と万全の選挙態勢もあって民政党が圧勝。安定勢力を得た内閣は、金解禁・海軍軍縮などを断行した。一方で政権奪回をあせる政友会は、軍部や官僚の強硬派と結託し、「統帥権干犯問題」で民政党政権を攻め立てた。
第18回総選挙 昭和7年(1932年)2月20日 定数466
立憲政友会 301 |
立憲民政党 146 |
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※小党は左から無産政党5 革新党2 無所属12 |
浜口内閣を継いだ第2次若槻内閣が、満洲事変処理を巡る閣内不一致から総辞職すると、「憲政の常道」により大命は議会第2党・政友会の犬養総裁に下った。金解禁の即時停止に踏み切った内閣は、少数与党状態を打破すべく年明けの議会冒頭に解散を行った。
政友会は金解禁後の大不況からの脱却・景気対策を強調。一方の民政党は、若槻内閣退陣の原因を作った安達謙三一派の除名・離党問題による対立、さらに選挙中には血盟団事件で井上準之助幹事長・前蔵相が暗殺(若槻総裁も暗殺未遂)されるという大打撃をこうむった。
結果は政友会が史上空前の300議席を得る大勝となったが、わずか3カ月後に五・一五事件が起こって内閣は退陣。政友会は鈴木喜三郎を後継総裁に立てて大命降下を待ったが、元老・西園寺公望は海軍大将・斎藤実による「挙国一致内閣」を選択。結果的に、これが戦前の議会第1党による内閣組織の最後となった。
第19回総選挙 昭和11年(1936年)2月20日 定数466
立憲政友会 175 |
立憲民政党 205 |
昭 22 |
社 18 |
国 15 |
無 24 |
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※昭=昭和会 社=社会大衆党 国=国民同盟 無=無所属 他は無産諸派4 国家主義団体3 |
「憲政の常道」理論により単独政権奪回を望む政友会は、斎藤内閣では閣僚を送ったものの、後継の岡田啓介内閣には参加を拒否し、方針に反して入閣した高橋是清・元首相(元総裁)らを除名処分。他方では枢密院の平沼騏一郎や陸軍皇道派との結びつきを強化し、「天皇機関説問題」で岡田内閣を激しく攻撃した。任期満了間近に内閣不信任案が提出され、即日衆議院は解散された。
与党格の民政党と野党政友会の激しい争いとなったが、結果は民政党が議会第1党の座を回復。政友会は大幅な議席減に加え鈴木総裁が落選するという、大敗北を喫した。また、社民勢力の「社会大衆党」が18議席獲得と躍進し、親軍・右派に対して左派勢力が伸長した。
これにより民政党を与党とする岡田内閣は安定に向かうと見られたが、この選挙のわずか6日後に二・二六事件が勃発。内閣は退陣せざるを得なくなった。
第20回総選挙 昭和12年(1937年)3月21日 定数466
立憲政友会 175 |
立憲民政党 179 |
社大 37 |
昭 19 |
国 11 |
東 11 |
無 34 |
※社大=社会大衆党 昭=昭和会 国=国民同盟 東=東方会 無=無所属 |
二・二六事件後の広田内閣、宇垣一成の内閣流産事件を経て組閣された陸軍大将・林銑十郎の内閣は、軍人と官僚・財閥人脈によって構成され、民政・政友2大政党の支持を全く得ていなかった。林内閣は、政党を懲罰すると称して突如衆議院を解散。昭和12年度予算成立直後だったため、予算成立という旨味だけを食べて逃げた「食い逃げ解散」と揶揄された。結果、与党的立場の小会派は合わせて40議席しか獲得できず、2大政党の圧勝に終わって林内閣は退陣。ついに衆望を担った近衛文麿公爵の登場となる。
この選挙でも民政党は議会第1党の座を守ったが、社会大衆党に地盤を食われて議席を減らし、社大党の伸張がますます顕著となった。第2党政友会では、前回選挙で落選した鈴木総裁の後継争いが深刻なものとなっており、ひとりの総裁を立てられず4人の総裁代行による合議状態に陥っていた。そして2年後には、正統派(久原房之助・鳩山一郎)と革新派(中島知久平)とに大分裂してしまう。
なお、この選挙が結果的に、戦前最後の民主的に実施された総選挙となった。
第21回総選挙 昭和17年(1942年)4月30日 定数466
翼賛政治体制協議会推薦 381 |
非推薦 85 |
※翼賛政治体制協議会は大政翼賛会の選挙組織 |
近衛公爵を中心とする「新体制運動」の激流に抗えず、もしくは積極的な迎合により、昭和15年中に社会大衆党・国民同盟・政友会両派は次々解党。最後まで抵抗した民政党も8月に解党し、いずれも「大政翼賛会」に合流した。これにより、議会制度開始以来の複数政党による議会は、形の上では崩壊した。
戦時を理由に延長されていた議員任期が終わって実施された、戦中唯一のこの選挙は「翼賛選挙」と称され、翼賛政治体制協議会の推薦候補者は政府や軍部から多大な援助を受け、非推薦候補者は様々な妨害を被った。しかしながら斎藤隆夫や鳩山一郎、芦田均、西尾末広、三木武夫など非推薦の当選も、全体の2割を占める結果となった。彼らの多くが戦後、自民党・社会党の中核を担うこととなる。
また他方、翼賛会推薦で当選した議員たちも、結局はもとの所属政党単位で活動することが多く、戦後の政党復活の足がかりとなった。
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