【 東方昭和伝外伝 それぞれの日露戦争 】 [ 明治33年6月 ~ ]
≪ 主なできごと ≫ 北清事変 露清密約 裕仁親王御誕生 対露同志会結成 日英同盟 日露戦争
出演
≪ 役名・肩書き・演者 肩書きは作中の現職 ≫
- 迪宮裕仁親王 (皇太子嘉仁親王第一皇子 のちの昭和天皇) ・・・ 東風谷早苗
- 西園寺公望 (侯爵 立憲政友会総裁) ・・・ 西行寺幽々子
- 近衛篤麿 (公爵 貴族院議長 学習院院長) ・・・ 神綺
- 近衛文麿 (篤麿の長男) ・・・ アリス(東方project)(ロリス)
- 犬養 毅 (憲政本党代議士) ・・・ 犬走椛
- 高橋是清 (日本銀行副総裁 横浜正金銀行副頭取) ・・・ 秋穣子
- 森 恪 (三井物産社員) ・・・ 封獣ぬえ
- 幣原喜重郎 (釜山領事) ・・・ パチュリー・ノーレッジ
- 松岡洋右 (明治法律学校学生) ・・・ 因幡てゐ
- 広田弘毅 (東京帝国大学学生) ・・・ ルナサ・プリズムリバー
- 吉田 茂 (学習院高等科学生) ・・・ 博麗霊夢
- 田中義一 (陸軍大尉 旧制陸軍士官学校8期) ・・・ 多々良小傘
- 石原莞爾 (仙台陸軍幼年学校生徒 陸軍士官学校21期) ・・・ 風見幽香
- 鈴木貫太郎 (海軍中佐 海軍兵学校14期) ・・・ 八雲紫
- 永野修身 (海軍中尉 海軍兵学校28期) ・・・ チルノ
- 米内光政 (海軍中尉 海軍兵学校29期) ・・・ 上白沢慧音
- 山本五十六 (高野五十六) (海軍少尉 海軍兵学校32期) ・・・ 藤原妹紅
用語解説
北清事変 (ほくしんじへん 義和団の乱・義和団事件)
清朝の光緒26年(明治33年・西暦1900年)6月に起こった、清国と欧米日列強8ヶ国との戦争。
19世紀末、中国の山東省にあらわれた北斗神拳“義和拳”なる拳法の一派の武術家たちがやがて秘密結社化し、キリスト教の排斥と『扶清滅洋』すなわち「清朝を扶(たす)けて洋(西洋列強)を滅ぼす」のスローガンを掲げて勢力を拡大。当初は弾圧の態度を示していた清国政府だったが、宮廷の反西洋派は最高実力者・西太后に義和団を使って外国勢力を排除するよう働きかけ、続々と北京・天津に集結する義和団(20万人?)と、天津・大沽における事実上の開戦などもあって、6月21日ついに欧州列強と米国および日本に対し宣戦を布告した。
数では圧倒的に勝る清国軍と義和団だったが、装備の差は明白で戦闘自体は列強連合軍の優位に推移。開戦20日後には天津が陥落。北京も8月14日に総攻撃を受け陥落し、清朝宮廷は遠く西安まで逃亡した。しかし列強(日・英・仏・米・独・露・伊・墺)側の足並みも乱れており、総司令官は英国の将軍だったが地理的要因から日本とロシアが大兵力を動員することとなり、両国の主導権争い、特にロシアの功名心が露骨に示された。このことは戦況のわりに進撃の遅れをもたらし、北京城内で包囲された各国公使や居留民・キリスト教徒らが過酷な籠城戦を強いられたとして批判される(籠城戦については、実質的指揮を執った日本の柴五郎中佐の活躍が伝わる)。
6月21日の宣戦布告に関し、李鴻章(両広総督)をはじめとする中国南部の地方総督らは「政府が義和団に脅迫されて発せられたもの」として従わず、事変に直接かかわらなかった。日清戦争の敗北で失脚していた李は、北京の陥落を受けて直隷総督・北洋大臣に返り咲き、列強との和平交渉に当たることになる。しかし1年後の1901年9月に締結された『北京議定書』は、巨額の賠償金や治外法権・列強軍隊の駐留など、非情に過酷な内容となった。また、事変前から一貫して義和団の弾圧に動いていた袁世凱は、列強との戦いに巻き込まれること無く自己の軍事力保持に成功し、李鴻章の死後に直隷総督・北洋大臣の地位を継承して清国の実権を掌握する。
戦闘の圧倒的敗北と、北京から逃亡した政府が手のひらを返して義和団を「賊徒」として弾圧しはじめたことに中国民衆はおおいに失望し、今度は『滅清』の動きとなって10年後の辛亥革命へと繋がってゆく。
日本の名門中の名門・「藤原氏」のうち、人臣の最高位たる「摂政」と「関白」の地位に就くことを許された家門。平安時代中期に権勢を振った摂政・藤原道長の嫡流血統で、鎌倉時代に近衛家・九条家・一条家・二条家・鷹司家の5つの家系が確立して、摂家・五摂家などと称された。明治維新で摂関体制が廃止されるまで、この5家以外から関白が出たのは、豊臣秀吉と秀次の例のみである。
摂家で最初に分立(平安末期)したのは近衛家と九条家であるが、近衛家が当時の摂政関白・藤原忠通の長男の家系であること(九条家は3男)、江戸時代に拝領していた石高が摂家中最大であったことなどから、ふつう近衛家が「摂家筆頭」と称される。
江戸時代、摂家の家格は幕府によって破格な保障を受け、禁中並公家諸法度により朝廷における席次は、皇族よりも上に置かれていた。また、天皇の正妻たる中宮(皇后)を出すのは皇族もしくは摂家に限られ、この不文律は戦前昭和以前の皇室にも引き継がれた。明治天皇の皇后・美子(昭憲皇太后)は一条家、大正天皇の皇后・節子(貞明皇后)は九条家の出身である(昭和天皇の皇后・良子は皇族・久邇宮家の出身)。
これとは逆に、摂家の男系が途絶えたとき、養子は他の摂家か皇子・皇族からしか入らなかった(明治以後はそうではない)。近衛家には江戸初期、後陽成天皇の皇子が養子(近衛信尋)に入り、その子孫が昭和まで続いた。したがって、近衛篤麿・文麿はそれぞれ後陽成天皇の11世孫・12世孫にあたり、これは室町時代に皇統から分かれて以来、皇室と養子関係が発生しなかった伏見宮系皇族より、血縁が皇室と近いことになる。
明治期政党の動き
自由民権運動と大日本帝国憲法の立憲、帝国議会開設の動乱のなかで、「日本の政党」として最も取り上げられるのは、民権運動の雄として名高い板垣退助を代表とする【自由党(立憲自由党)】と、「明治十四年の政変」で失脚し政府を追われた大隈重信を代表とする【改進党(立憲改進党)】であろう。一般にはこの両党が、薩長藩閥政府に対抗する民衆派(民党)の勢力として教科書などでは紹介される。また、藩閥の御用政党的存在(吏党)として【立憲帝政党】などの名前が挙がることもある。
その他様々な政党・会派が乱立しては消えていったが、結局のところ帝国議会(衆議院)の政局は、自由党(と、その後継政党)および改進党(と、その後継政党)の動向に左右された。そして歴史的にはこの両党の対立構図が、昭和の立憲政友会と立憲民政党の2大政党体制へと繋がっていく。
よってここでは、自由・改進両党の系譜のみを整理していくことにする。
自由党とその系譜 | 改進党とその系譜 |
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立憲自由党 (1890 ~ 98 明23 ~ 31) 1881年に板垣退助を党首(総理)として最初の「自由党」が結党されたが、路線対立による内紛を起こして3年後に解党。その後は急進派が秩父事件に加わるなど、かつての自由民権運動家は四分五裂状態にあった。 明治23年の第1回帝国議会を迎えて、大井憲太郎・中江兆民・河野広中らを中心に旧・自由党系諸勢力の大同団結運動が起こり、同年9月に「立憲自由党」として再結党がなされた。板垣は当初この動きから距離を置いて「愛国公党」を組織していたが、翌明治24年に再び党首(総理)として迎えられる。なおこの時、党名が「自由党」に変わっている。 自由党の主な支持層は地方名望家や地主であったが、それは同じ党の中にありながら議員の動向が地方・地域の利害関係に大きく左右されることに繋がり、議員は思想・政策よりも出身地ごとに派閥を形成して、たびたび内紛を起こした。第一議会における、山縣内閣による土佐派買収事件などがその顕著な例である。しかし大勢としては政府に対する反対党の立場を取り、第2回総選挙では西日本の支持者から数百名の死傷者を出す大規模な選挙干渉を被った。それでも初期議会を通じて、自由党は議会第1党の位置を維持し続けた。 民党のもう一方の核である改進党(進歩党)との関係は、常に緊張状態にあり、反政府で提携することもあったものの、明治26年の星亨衆院議長(自由党幹部)不信任問題など、激しく対立することが多かった。このため日清戦争のころから、幕末いらい土佐藩関係者(=自由党の有力メンバー)と繋がりの深い外務大臣・陸奥宗光を通じて、政府との協調関係を取るようになってくる。この関係が陸奥の死後、首相の伊藤博文に引き継がれ、議会対策に苦労し続けた伊藤は自由党の与党化を図っていくことになる。 しかし第2次伊藤内閣が退陣し、進歩党を与党とする第2次松方正義内閣が成立すると、再び野党路線へ転換。更に松方内閣が進歩党と対立して瓦解し、進歩党も野党化すると、急ごしらえの第3次伊藤内閣が打った解散総選挙に反発して進歩党との合同を宣言。「憲政党」が発足して自由党は解党する。 |
立憲改進党 (1882 ~ 96 明15 ~ 29) 「明治十四年の政変」によって、肥前閥の数少ない有力政治家だった大隈重信は政府を追われた。これを岩崎弥太郎の三菱財閥や、親交があった福沢諭吉の慶応義塾系人脈が支援し、翌明治15年に結成されたのが「立憲改進党」である。主なメンバーに犬養毅や尾崎行雄、前島密、島田三郎、田中正造。鳩山和夫(鳩山一郎の父)の名前も見える。 支援者が岩崎や福沢であることからわかるように、主な支持層は商工業者や都市インテリ。しかし初期議会の当時、政治に影響力を及ぼせるような高額所得者は都市住民より地方地主などが多く、党勢は伸び悩んで結党2年後には早くも解党騒動(大隈が一時離党)が起こっている。しかしかろうじて党の形を持ちこたえ、第1回総選挙では自由党の3分の1にすぎなかったものの41議席を獲得。自由党とともに「民力休養・政費節減」を要求して政府を激しく攻撃した。 第一議会開会前は、大隈が外務大臣(第1次伊藤・黒田)として政府に復帰するといったこともあったが、議会が始まると、しばしば政府に妥協的な動きを示す自由党に対して、不平等条約改正問題や日清開戦問題について自由党以外の諸党派と連合して硬六派(こうろっぱ 「対外強硬6党派」の略)を形成。反政府の色彩を強くする。 日清戦争後は三国干渉を受け入れた政府の外交を批判。また、自由党が伊藤内閣与党の姿勢を強めてきたこともあって、硬六派を母体として「進歩党」を結党することになる。 |
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進歩党 (1896 ~ 98 明29 ~ 31) 硬六派のうち「国民協会」を除く5党派が合同して結党。役職には就いていないものの大隈重信が事実上の党首であり、幹部も大隈人脈(犬養・尾崎など)が占めたため、立憲改進党の後継政党と看做される。 第2次松方内閣で大隈が外相となり、与党。更に最大支援者の岩崎弥之助が日本銀行総裁に就任。日本の金本位制参加を実現した。しかしその後、地租増税問題で内閣と対立。大隈は辞任して野党に転じ、立て続けに2度行われた解散総選挙に対応するべく自由党との合同を選択。「憲政党」が発足する。 |
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憲政党 (1898.6 ~ 10 明治31年6月 ~ 10月) 進歩党の野党化で政権運営に行き詰った第2次松方内閣は、明治30年12月、衆議院を解散すると同時に内閣総辞職して政権を投げ出した。伊藤博文が急遽第3次内閣を組閣して第5回総選挙(明治31年3月)を行ったが、自由党(105議席)・進歩党(104議席)の大勝に終わる。たちまち議会対策で立ち往生した伊藤内閣は、わずか3ヶ月後に再度の解散という暴挙に撃って出た。これに自由・進歩両党の反感は頂点に達し、第6回総選挙を前に合同して新党を発足させることとなった。これが「憲政党」である。 総選挙での憲政党の圧勝は明白であり、伊藤は自らが政党をつくるためいったん憲政党に政権を明け渡すことを決意。大隈重信・板垣退助のどちらかを次期首相とするよう天皇に奏薦して総辞職し、組閣の大命は大隈・板垣両者に降下。ここに初めて、衆議院の過半数政党を支持基盤とする内閣(第1次大隈内閣。板垣は内務大臣。「隈板内閣」と通称)が成立した。 形の上では初の「政党内閣」となった大隈憲政党内閣だったが、もともと単に反政府というだけの野合党であり、成立直後から旧自由党・旧進歩党両派の主導権争いが激化。旧自由党幹部・星亨の外相就任を大隈が拒否し続けたことで、内閣も瞬く間に閣内不一致に陥る。 第6回総選挙(明治31年8月)では当然のごとく議会の8割を占める大勝をおさめたものの、直後の尾崎行雄文部大臣の失言問題(共和演説事件)で、旧自由党派が尾崎(旧進歩党派)を攻撃。さらに大隈が、辞任した尾崎の後任を犬養毅(旧進歩党派)としたことで旧自由党派の反感は決定的となり、犬養の就任翌日に板垣ら旧自由党派の閣僚が集団辞任を表明。あげく、内閣自体も総辞職に追い込まれた(11月8日)。 10月29日、星亨は旧自由党派のみによる党大会をクー・デター的に決行。旧進歩党派は排除され、ここで自由・進歩両党の合体状態としての「憲政党」は終焉を告げた。 |
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憲政党(自由派) (1898 ~ 1900) 党大会クー・デターを起こした旧自由党派は、党役員を星亨ら旧自由党派の人物に差し替えて、形の上では憲政党がそのまま継続するものとして内務省に届出た。内務大臣は板垣退助(旧自由党)だったのでこれが受理され、憲政党は事実上「新・自由党」として再スタートすることとなった。ゆえにこれ以後の憲政党は、後世の研究書などでは「自由派憲政党」といった呼称で表記される。また同時代人からは、渾名のように「自由党」と呼ばれることもあったようである。 自由派憲政党は、第2次山縣有朋内閣に対して地租増税を認めるなど、当初は与党的態度を取った。しかし政党嫌いの山縣が政党を排除する政策(官吏文官任用令・軍部大臣現役武官制)を取り続けたため、逆に山縣の政敵で、政党組織を模索していた伊藤博文に接近する。 板垣に替わって党の実質的指導者となっていた星亨は、はじめ伊藤を憲政党党首に迎えようとした。しかし伊藤の真意が、政界再編によって自らを党首とする新党の結成にあるところを知ると、今度は憲政党の「伊藤新党」への丸ごと乗り換えを画策する。新党結成といっても、それまで議会に手兵を持っていなかった伊藤は、議員・党員集めで星の動きに乗るしか無かった。 明治33年9月13日、全ての御膳立てを終えた星の主導で憲政党は解党を決議。15日、立憲政友会の結党にほぼ全ての所属議員が参加した。この流れに板垣退助はほとんど関与しておらず、政友会の成立とともに政界を引退した。また、かつて自由民権運動で板垣や中江兆民とともに活動した幸徳秋水は、自由党が藩閥(伊藤)と手を組んだことに憤慨し、「自由党を祭る文」と題する批判論文を著した。 |
憲政本党 (1898 ~ 1910) 旧自由党派のクー・デターに対して旧進歩党派は、正式な党大会を開いて主導権を取り戻そうとしたが、旧自由党派が「憲政党」の名称と組織を自分たちのものとして内務省に届出ていたために、旧進歩党派の集会は憲政党(自由派)の活動を不当に妨害するものとして、逆に禁止命令を受ける破目に陥った。このため旧進歩党派はやむを得ず、11月3日に新党を立ち上げた。これが「憲政本党」である。旧進歩党のほか、旧自由党で星亨や竹内綱などと対立して、自由派憲政党に加わらなかった河野広中も参加した。 第2次山縣内閣の与党化した自由派憲政党に対抗して、憲政本党は地租増税を否認するなど野党路線を取った。しかし立憲政友会の結党に、改進党以来の幹部議員であった尾崎行雄が参加。足尾鉱毒問題での党の対応に不満を抱いた田中正造も離党した。 日露開戦をめぐる政局では、幹部の犬養毅が近衛篤麿の国民同盟会・対露同志会に加わって、日清戦争時と同じような対外強硬路線を展開した。日露戦争のポーツマス条約に対して、賠償金を取れない講和内容に反対。所属議員の河野広中は、日比谷公園で開かれた条約反対集会の議長となったが、この集会が暴徒化し、日比谷焼き討ち事件を引き起こす。 衆議院でほぼ過半数の位置を維持し、伊藤や桂太郎との提携で政権にも参画する政友会に対し、選挙で70から90程度の議席を維持するばかりの憲政本党は万年野党化。明治40年、路線対立からついに大隈重信が党首(総理)を辞任して引退を表明。その後も桂との提携を模索する大石正巳ら改革派と、野党路線を主張する犬養の非改革派の対立は収まらず、明治42年には改革派による犬養追放騒動が発生。しかし直後に発覚した日本製糖汚職事件で改革派から逮捕者が出たことから、犬養追放は取消される。 明治43年、反政友会勢力の又新会(ゆうしんかい)・戊申倶楽部(ぼしんくらぶ)と合同して「立憲国民党」となる。 |
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立憲政友会 (1900 ~) | 立憲国民党 (1910 ~) |
人物評伝
(作成中)
外伝の参考資料
・宇野俊一「日本の歴史26 日清・日露」(小学館)
・岡崎久彦「小村寿太郎とその次代」(PHP文庫)
・岡崎久彦「幣原喜重郎とその時代」(PHP文庫)
・片山慶隆「小村寿太郎」(中公新書)
・河原敏明「昭和天皇とその時代」(文春文庫)
・北川晃二「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」(講談社文庫)
・小島直記「洋上の点 森恪という存在」(中央公論社)
・児島襄「天皇Ⅰ 若き親王」(文春文庫)
・児島襄「日露戦争1~8」(文春文庫)
・幣原喜重郎「外交五十年」(読売新聞社)
・杉森久英「近衛文麿」(河出書房新社)
・鈴木一編「鈴木貫太郎自伝」(時事通信社)
・高橋是清・上塚司 編「高橋是清自伝(下)」(中公文庫)
・筒井清忠「近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇」(岩波現代文庫)
・寺林峻「吉田茂 怒涛の人」(人物文庫)
・豊田穣「松岡洋右(上)」(新潮文庫)
・豊田穣「激流の弧舟 提督・米内光政の生涯」(講談社)
・豊田穣「最後の元老 西園寺公望(上)」(新潮社)
・長山靖生「日露戦争 もうひとつの『物語』」(新潮社)
・服部龍二「広田弘毅 『悲劇の宰相』の実像」(中公新書)
・服部龍二「幣原喜重郎と二十世紀の外交」(有斐閣)
・原彬久「吉田茂」(岩波新書)
・半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」(文芸春・秋)
・福田和也「地ひらく 石原莞爾と昭和の夢」(文芸春秋)
・福田和也「昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死」(文芸春秋)
・古屋哲夫「日露戦争」(中公新書)
・保阪正康「吉田茂という逆説」(中公文庫)
・松田十刻「日本海海戦 その時、山本五十六と米内光政は?」(光人社)
・矢吹一夫「昭和動乱私史(中)」(経済往来社)
・吉田俊雄「五人の海軍大臣」(文春文庫)
・文藝春秋12月臨時増刊号「坂の上の雲」日本人の勇気 総集編
関連動画
関連項目
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