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【 東方昭和伝外伝 それぞれの日露戦争 】  [ 明治33年6月 ~  ]

明治37年(1904年)2月、極東の小国日本は、北方の大ロシアに戦いを挑んだ。日露戦争は、日本の「成人式」であり、明治日本人が一丸となって立ち向かった国難であったが、もちろんその中には、若き日の昭和導者たちの姿もあった。 

なできごと ≫ 北清事変 露清密約 裕仁王御誕生 対露同志会結成 日英同盟 日露戦争

出演

≪ 役名・肩書き・演者 肩書きは作中の現職 ≫

用語解説

北清事変 (ほくしんじへん 義和団の乱・義和団事件)

 清朝緒26年(明治33年・西暦1900年)6月に起こった、清国と欧日列強8ヶとの戦争
 19世紀末中国の山東省にあらわれた北斗神拳“義和拳”なる拳法の一武術たちがやがて秘密結社化し、キリスト教の排斥と『扶清滅洋』すなわち「清朝を扶(たす)けて洋(西洋列強)を滅ぼす」のスローガンを掲げて勢を拡大。当初は弾圧の態度を示していた清国政府だったが、宮廷の反西洋は最高実者・西太后に義和団を使って外を排除するよう働きかけ、続々と北京天津に集結する義和団(20万人?)と、天津・大における事実上の開戦などもあって、6月21日ついに欧州列強と米国および日本に対し宣戦を布告した。
 数では圧倒的に勝る清国軍と義和団だったが、装備の差は明戦闘自体は列強連合軍の優位に推移。開戦20日後には天津が陥落。北京8月14日に総攻撃を受け陥落し、清朝宮廷は遠く西安まで逃亡した。しかし列強(日・英・・独・露・・墺)側の足並みも乱れており、総司令官英国将軍だったが地理的要因から日本ロシアが大兵を動員することとなり、両国導権争い、特にロシアの功名心が露に示された。このことは戦況のわりに進撃の遅れをもたらし、北京内で包囲された各使や居留民・キリスト教徒らが過酷な籠戦を強いられたとして批判される(籠戦については、実質的揮を執った日本五郎中佐の活躍が伝わる)。
 6月21日宣戦布告に関し、鴻章(両広総督)をはじめとする中国南部地方総督らは「政府が義和団に脅迫されて発せられたもの」として従わず、事変に直接かかわらなかった。日清戦争敗北で失脚していたは、北京の陥落を受けて直隷総督・北洋大臣に返り咲き、列強との和交渉に当たることになる。しかし1年後の1901年9月に締結された『北京議定書』は、巨額の賠償や治外法権・列強軍隊の駐留など、非情に過酷な内容となった。また、事変前から一貫して義和団の弾圧に動いていた袁世凱は、列強との戦いに巻き込まれることく自己の軍事保持に成功し、鴻章の死後に直隷総督・北洋大臣の地位を継承して清国の実権を握する。
 戦闘の圧倒的敗北と、北京から逃亡した政府が手のひらを返して義和団を「賊徒」として弾圧しはじめたことに中国民衆はおおいに失望し、今度は『滅清』の動きとなって10年後の辛革命へと繋がってゆく。

(せっけ 五摂・摂関

 日本の名門中の名門・「藤原氏」のうち、人臣の最高位たる「摂政」と「関白」の地位に就くことを許された門。平安時代中期に権勢を振った摂政藤原道長の嫡流血統で、鎌倉時代近衛九条一条二条鷹司の5つの系が確立して、摂・五摂などと称された。明治維新で摂関体制が止されるまで、この5以外から関白が出たのは、豊臣秀吉と秀次の例のみである。
 摂で最初に分立(末期)したのは近衛九条であるが、近衛が当時の摂政関白藤原忠通長男系であること(九条は3男)、江戸時代に拝領していた石高が摂中最大であったことなどから、ふつう近衛が「摂筆頭」と称される。
 江戸時代、摂格は幕府によって破格な保障を受け、禁中並公家諸法度により朝廷における席次は、皇族よりも上に置かれていた。また、天皇正妻たる中宮(皇后)を出すのは皇族もしくは摂に限られ、この不文戦前昭和以前の皇室にも引き継がれた。明治天皇皇后美子(昭皇太后)は一条大正天皇皇后節子(貞明皇后)は九条の出身である(昭和天皇皇后良子は皇族・久邇宮の出身)。
 これとは逆に、摂の男系が途絶えたとき、養子は他の摂か皇子・皇族からしか入らなかった(明治以後はそうではない)。近衛には江戸初期、後陽成天皇の皇子が養子(近衛信尋)に入り、その子孫が昭和まで続いた。したがって、近衛麿・文麿はそれぞれ後陽成天皇の11世孫・12世孫にあたり、これは室町時代に皇統から分かれて以来、皇室と養子関係が発生しなかった伏見宮系皇族より、血縁皇室と近いことになる。
 

明治期政党の動き

 自由民権運動大日本帝国憲法の立帝国議会開設の動乱のなかで、「日本政党」として最も取り上げられるのは、民権運動の雄として名高い板垣退助を代表とする自由党(立自由党)】と、「明治十四年の政変」で失脚し政府を追われた大隈重信を代表とする進党(立進党)】であろう。一般にはこの両党が、政府に対抗する民衆民党)の勢として教科書などでは紹介される。また、閥の御用政党的存在(吏党)として【立政党などの名前が挙がることもある。
 その他様々な政党・会が乱立しては消えていったが、結局のところ帝国議会衆議院)の政局は、自由党(と、その後継政党)および進党(と、その後継政党)の動向に左右された。そして歴史的にはこの両党の対立構図が、昭和立憲政友会立憲民政党の2大政党体制へと繋がっていく。
 よってここでは、自由進両党の系譜のみを整理していくことにする。

自由党とその系譜 進党とその系譜
自由党 (1890 ~ 98 明23 ~ 31)

 1881年に板垣退助を党首(総理)として最初の「自由党」が結党されたが、路線対立による内紛を起こして3年後に解党。その後は急進秩父事件に加わるなど、かつての自由民権運動は四分五裂状態にあった。
 明治23年の第1回帝国議会を迎えて、大井太郎・中江兆民・河野広中らを中心に旧・自由党系諸勢の大同団結運動が起こり、同年9月「立自由党として再結党がなされた。板垣は当初この動きから距離を置いて「愛国党」を組織していたが、翌明治24年に再び党首(総理)として迎えられる。なおこの時、党名が「自由党」に変わっている。

 自由党な支持層は地方名望や地であったが、それは同じ党の中にありながら議員の動向が地方・地域の利関係に大きく左右されることに繋がり、議員は思想・政策よりも出身地ごとに閥を形成して、たびたび内紛を起こした。第一議会における、山内閣による土佐買収事件などがその顕著な例である。しかし大勢としては政府に対する反対党の立場を取り、第2回総選挙では西日本の支持者から数名の死傷者を出す大規模な選挙干渉を被った。それでも初期議会を通じて、自由党議会第1党の位置を維持し続けた。

 民党のもう一方の核である進党(進歩党)との関係は、常に緊状態にあり、反政府で提携することもあったものの、明治26年の衆院議長(自由党幹部)不信任問題など、しく対立することが多かった。このため日清戦争のころから、幕末いらい土佐関係者(=自由党の有メンバー)と繋がりの深い外務大臣・陸奥を通じて、政府との協調関係を取るようになってくる。この関係が陸奥の死後、首相伊藤博文に引き継がれ、議会対策に苦労し続けた伊藤自由党の与党化を図っていくことになる。

 しかし第2次伊藤内閣が退し、進歩党を与党とする第2次松方正義内閣が成立すると、再び野党路線へ転換。更に内閣が進歩党と対立して瓦解し、進歩党も野党化すると、急ごしらえの第3次伊藤内閣が打った解散総選挙に反発して進歩党との合同を宣言。「政党」が発足して自由党は解党する。
進党 (1882 ~ 96 明15 ~ 29)

 「明治十四年の政変」によって、肥前閥の数少ない有政治家だった大隈重信政府を追われた。これを岩崎弥太郎三菱財閥や、交があった福沢諭吉の慶応義塾系人脈が支援し、翌明治15年に結成されたのが「立進党」である。メンバー犬養毅や尾崎行雄前島密、島田三郎田中正造。鳩山和夫(鳩山一郎)の名前も見える。

 支援者岩崎福沢であることからわかるように、な支持層は商工業者や都市インテリ。しかし初期議会の当時、政治を及ぼせるような高額所得者は都市住民より地方などが多く、党勢は伸び悩んで結党2年後にはくも解党騒動(大が一時離党)が起こっている。しかしかろうじて党の形を持ちこたえ、第1回総選挙では自由党の3分の1にすぎなかったものの41議席を獲得。自由党とともに「民休養・政費節減」を要して政府しく攻撃した。

 第一議会開会前は、大が外務大臣(第1次伊藤黒田)として政府に復帰するといったこともあったが、議会が始まると、しばしば政府妥協的な動きを示す自由党に対して、不等条約正問題や日清開戦問題について自由党以外の諸党連合して硬六(こうろっぱ 「対外強硬6党」の略)を形成。反政府色彩を強くする。

 日清戦争後は三干渉を受け入れた政府外交批判。また、自由党伊藤内閣与党の姿勢を強めてきたこともあって、硬六体として「進歩党」を結党することになる。
進歩党 (1896 ~ 98 明29 ~ 31)

 硬六のうち「民協会」を除く5党合同して結党。役職には就いていないものの大隈重信事実上の党首であり、幹部も大人脈(犬養尾崎など)が占めたため、立進党の後継政党と看做される。

 第2次内閣で大が外相となり、与党。更に最大支援者岩崎弥之助が日本銀行総裁に就任。日本金本位制参加を実現した。しかしその後、地租増税問題で内閣と対立。大は辞任して野党に転じ、立て続けに2度行われた解散総選挙に対応するべく自由党との合同を選択。「政党」が発足する。
政党 (1898.6 ~ 10 明治31年6月10月

 進歩党の野党化で政権運営に行き詰った第2次内閣は、明治30年12月衆議院を解散すると同時に内閣総辞職して政権を投げ出した。伊藤博文が急遽第3次内閣を組閣して第5回総選挙明治31年3月)を行ったが、自由党105議席)・進歩党(104議席)の大勝に終わる。たちまち議会対策で立ち往生した伊藤内閣は、わずか3ヶ後に再度の解散という暴挙に撃って出た。これに自由・進歩両党の反感は頂点に達し、第6回総選挙を前に合同して新党を発足させることとなった。これが政党である。

 総選挙での政党の圧勝は明であり、伊藤は自らが政党をつくるためいったん政党に政権を明け渡すことを決意。大隈重信板垣退助のどちらかを次期首相とするよう天皇に奏薦して総辞職し、組閣の大命は大板垣両者に降下。ここに初めて、衆議院の過半数政党を支持基盤とする内閣(第1次大内閣板垣は内務大臣。内閣と通称)が成立した。

 形の上では初の「政党内閣」となった大政党内閣だったが、もともと単に反政府というだけの野合党であり、成立直後から旧自由党・旧進歩党両導権争いが化。旧自由党幹部・の外相就任を大が拒否し続けたことで、内閣く間に閣内不一致に陥る。

 第6回総選挙明治31年8月)では当然のごとく議会の8割を占める大勝をおさめたものの、直後の尾崎行雄文部大臣の失言問題(共和演説事件)で、旧自由党尾崎(旧進歩党)を攻撃。さらに大が、辞任した尾崎の後任を犬養毅(旧進歩党)としたことで旧自由党の反感は決定的となり、犬養の就任翌日に板垣ら旧自由党の閣僚が集団辞任を表明。あげく、内閣自体も総辞職に追い込まれた(11月8日)。

 10月29日は旧自由党のみによる党大会をクー・デター的に決行。旧進歩党は排除され、ここで自由・進歩両党の合体状態としての「政党」は終焉を告げた。
政党自由) (1898 ~ 1900)

 党大会クー・デターを起こした旧自由党は、党役員をら旧自由党の人物に差し替えて、形の上では政党がそのまま継続するものとして内務省に届出た。内務大臣は板垣退助(旧自由党)だったのでこれが受理され、政党事実上「新・自由党」として再スタートすることとなった。ゆえにこれ以後の政党は、後世の研究書などでは自由政党といった呼称で表記される。また同時代人からは、渾名のように「自由党」と呼ばれることもあったようである。

 自由政党は、第2次山縣有朋内閣に対して地租増税を認めるなど、当初は与党的態度を取った。しかし政党嫌いの山政党を排除する政策(官吏文官任用・軍部大臣現役武官制)を取り続けたため、逆に山の政敵で、政党組織を模索していた伊藤博文に接近する。

 板垣に替わって党の実質的導者となっていたは、はじめ伊藤政党党首に迎えようとした。しかし伊藤意が、政界再編によって自らを党首とする新党の結成にあるところを知ると、今度は政党の「伊藤新党」への丸ごと乗り換えを画策する。新党結成といっても、それまで議会に手兵を持っていなかった伊藤は、議員・党員集めでの動きに乗るしかかった。

 明治33年9月13日、全ての御立てを終えた導で政党は解党を決議。15日、立憲政友会の結党にほぼ全ての所属議員が参加した。この流れに板垣退助はほとんど関与しておらず、政友会の成立とともに政界を引退した。また、かつて自由民権運動板垣や中江兆民とともに活動した幸徳秋水は、自由党閥(伊藤)と手を組んだことに憤慨し、自由党を祭る文」と題する批判論文を著した。
政本党 (1898 ~ 1910)

 旧自由党クー・デターに対して旧進歩党は、正式な党大会を開いて導権を取り戻そうとしたが、旧自由党が「政党」の名称と組織を自分たちのものとして内務省に届出ていたために、旧進歩党の集会は政党自由)の活動を不当に妨するものとして、逆に禁止命を受ける破に陥った。このため旧進歩党はやむを得ず、11月3日に新党を立ち上げた。これが政本党」である。旧進歩党のほか、旧自由党竹内綱などと対立して、自由政党に加わらなかった河野広中も参加した。

 第2次山内閣の与党化した自由政党に対抗して、政本党は地租増税を否認するなど野党路線を取った。しかし立憲政友会の結党に、進党以来の幹部議員であった尾崎行雄が参加。足尾鉱問題での党の対応に不満を抱いた田中正造も離党した。
 
 日露開戦をめぐる政局では、幹部の犬養毅が近衛麿民同盟会・対露同志会に加わって、日清戦争時と同じような対外強硬路線を展開した。日露戦争のポーツマス条約に対して、賠償を取れない講和内容に反対。所属議員の河野広中は、日公園で開かれた条約反対集会の議長となったが、この集会が暴徒化し、日焼き討ち事件を引き起こす。

 衆議院でほぼ過半数の位置を維持し、伊藤桂太郎との提携で政権にも参画する政友会に対し、選挙で70から90程度の議席を維持するばかりの政本党は万年野党化。明治40年、路線対立からついに大隈重信が党首(総理)を辞任して引退を表明。その後もとの提携を模索する大石と、野党路線をする犬養の非の対立は収まらず、明治42年にはによる犬養追放騒動が発生。しかし直後に発覚した日本製糖汚職事件でから逮捕者が出たことから、犬養追放は取消される。

 明治43年、反政友会勢の又新会(ゆうしんかい)・楽部(ぼしんくらぶ)と合同して「立国民党」となる。
立憲政友会 (1900 ~) 国民党 (1910 ~)

人物評伝

(作成中)

外伝の参考資料

宇野俊一「日本の歴史26 日清・日露」(小学館
岡崎「小寿太郎とその次代」(PHP文庫
岡崎「幣原喜重郎とその時代」(PHP文庫
片山「小寿太郎」(中新書
河原敏明「昭和天皇とその時代」(文文庫
北川二「黙してゆかむ 広田毅の生涯」(講談社文庫
小島直記「洋上の点 恪という存在」(中央公論社
児島襄「天皇Ⅰ 若き王」(文文庫
児島襄「日露戦争1~8」(文文庫
・幣原喜重郎「外交五十年」(読売新聞社)
久英「近衛文麿」(河出書房新社
鈴木一編「鈴木貫太郎自伝」(時事通信社
高橋是清・上塚 編「高橋是清自伝(下)」(中公文庫)
筒井清忠「近衛文麿 教養義的ポピュリストの悲劇」(岩波現代文庫)
・寺峻「吉田茂 怒涛の人」(人物文庫
豊田松岡洋右(上)」(新潮文庫
豊田流の弧舟 提督米内光政の生涯」(講談社)
豊田「最後の元老 西園寺望(上)」(新潮社
・長山靖生「日露戦争 もうひとつの『物語』」(新潮社
服部二「広田毅 『悲劇の宰相』の実像」(中新書
服部二「幣原喜重郎と二十世紀の外交」(有閣)
・原彬久「吉田茂」(岩波新書
・半一利「断 昭和天皇鈴木貫太郎」(文芸
福田和也「地ひらく 石原莞爾昭和」(文芸春秋
福田和也「昭和天皇 第一部 日露戦争木希典の死」(文芸春秋
古屋哲夫「日露戦争」(中新書
・保阪正康「吉田茂という逆説」(中公文庫)
松田十刻「日本海戦 その時、山本五十六米内光政は?」(人社)
矢吹一夫「昭和動乱私史(中)」(経済往来社)
吉田俊雄「五人の海軍大臣」(文文庫
文藝春秋12月臨時増刊号「坂の上の雲日本人勇気 総集編

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