概要
1936年に東京宝塚劇団(=東宝)に入団して以降、半世紀以上に渡って日本の演劇界・映画界・テレビ・アニメ・その他諸々の業界で多大な活躍を残した名優。東宝で下積みを経験した後はNHKに入局してラジオアナウンサーとなり満洲国に渡る。戦後帰国して本格的な芸能活動を開始する。
当初は、俳優というよりラジオ番組で有名なコメディアンであり、年を召した人には「次郎長三国志シリーズ」での「森の石松」などの役のほうが有名だが、キャリアを重ねるにつれてシリアスな役をこなす重鎮としてのキャラクターが強くなっていった。
また、国産初の長編アニメ映画『白蛇伝』ですべての男性キャラクターの声を担当するなど、出演作は少ないながらアニメ声優としても大きな功績を残している。1957年から45年以上に渡って出演を続けたNHKのラジオドラマ「日曜名作座」でもこの「すべての男性登場人物を一人で演じ分ける」ことを完遂している。
この、“コメディアンであるにも関わらず年を重ねたことでシリアスなキャラクターに転向する”という経歴の動きは後に多くの後輩にも伝染し、『森繁病』と揶揄され、彼はその病原とされた。
もっとも、森繁は当初から俳優志望であり、コメディアンの才能はたまたま持ち合わせていたものであった。
10代20代の人間には、氏がドラマや映画に出演している姿はなじみが薄いかもしれないが、もののけ姫の「おっことヌシ」役として、当時84歳でありながら凄みと迫力に満ちたアテレコを聴かせたことは、若い世代にも膾炙していることである。
ちなみにこの時、立ったままではつらいため椅子に座ったままで演技せざるを得ず、さらには既に耳も遠くなっていたため、宮崎監督が耳元で大きめに話さないと演技の指示ができないという状態だったが、数時間に渡るアテレコを見事にこなしていた。
長寿
80歳を超えてもなお精力的に活動したことで有名であり、2chなどでは「死にそうにない人」「絶対に死なない人」「森繁なら俺の葬式に出るかも」 とネタにされたほどで、70代・80代の"後輩"が亡くなる度に「どうして俺より先に逝っちゃうんだ」と悲しんでいたエピソードもある。
が、実際は90代に至ってからは体力的に限界を迎え俳優業から遠ざかっており、朗読や声優などの仕事をこなすだけだった。
晩年はおだやかで大病もなく(89歳のときに心筋梗塞で倒れたことはあった。危篤状態に陥りながら生還)、演劇や映画を楽しみつつ、フォアグラやステーキも楽しみつつ、老衰で死亡した。
ちなみに喫煙家であった上、日本酒を好んでいた。何が氏をここまで健康にさせたのだろうか。
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