武田信虎単語

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武田信虎(たけだ のぶとら 1494 ~ 1574)とは、甲斐戦国大名である。

概要

甲斐武田18代当であり、武田信玄らの

分裂状態にあった甲斐を再統一し、武田氏を戦国大名として大きく飛躍させた人物。しかし、強引なやり方が災いしたのか、息子武田晴信(信玄)と彼を擁立する臣たちによって駿河へと追放されてしまった。

その後は駿河やを転々としながら長命を保ち、信玄の死の翌年、信濃で死去した。

生涯

家督継承

17代当武田信縄(のぶつな)の子。生年については1498年とする説もあり。初めは武田信直(のぶなお)と名乗る。

信虎の祖武田信昌(16代)は、すっかり落していた甲斐武田氏を立て直した人物だったが、晩年に後継者争いを引き起こしてしまった。・信縄とその(つまり信虎の叔父)・信恵の督争いは一旦終息に向かうも、1507年に信縄が死去し、14歳と若年の信虎が跡を継いだことで再び争いとなる。

1508年、勝山信恵が挙兵したが、信虎は勝山夜襲を仕掛けて信恵たちを討ち取った(勝山合戦)。更に信恵に味方する小山田氏も撃破し、の代から続く督争いがようやく決着した。

甲斐統一

武田を統一したものの、甲斐内の人衆はすっかり独立状態となっており、しばらくは彼らとの戦いが続いた。まず先の督争いから敵対していた地方小山田氏に対しては、小山田信有(越中守)に信虎のがせることで和した。

その一方、隣駿河では今川氏親が、信濃では諏訪頼満がそれぞれ勢を拡大しており、その甲斐人衆にも及んでいた。そして西(にしごおり。中巨摩)の大井信達や河内地方山信らが今川氏の下へと替えしてしまう。

1515年からは今川氏親による甲斐侵攻がしくなり、一時は本拠地・川田館近くにまで攻め込まれてしまう。しかし今川の攻撃の矛先が遠江方面に向いていったお陰もあってか、1517年には和した。が、その後もたびたび攻撃を受けるなど険悪な関係は続く。

ひとまず今川の脅威が去ると、人衆とも和を結んでいった。1520年には大井信達の大井夫人)を正室に迎え、翌1521年には山信も降し、信の子・山信友には信虎のがせている。こうした動きと同時に新たな本拠地・躑躅ヶ崎への移転も進めるなど、着々と足元を固めていった。ちなみに嫡男・武田晴信(信玄)の誕生はこの頃、1521年の事である。

戦国大名へ

こうして甲斐内の勢武田の下に従えることにひとまず成功(と言っても、強従関係というよりは連合体の盟といった感じ)。これ以降は近隣勢との争いも本格化していく。

武田は以前から山内上杉・扇上杉と良好な関係を結んでおり、当時の最大の敵は関東に現れた新・後北条氏だった。1516年に相模三浦氏を滅亡させて相模統一、1518年に北条氏綱が当となり、1523年に伊勢から北条に名乗りめる、と当時まさに飛ぶの如く勢を拡大していた脅威の存在である。

この後は当の座を追放されるまで北条氏綱とは争い続ける。まさに宿敵である。一方駿河の今川氏は、氏が1526年に死去した事で一時的に和するなど、その勢いはやや落ちた。

そして扇上杉朝昌山内上杉憲房未亡人)を側室に迎えるなど、両上杉との関係を強化。この頃は更に房総の古河方・小方・武田・里見といった勢まで加わっての北条包囲網が形成されていた。信虎自身も武蔵まで出向き、岩付を陥落させたりしている。

が、1530年代にはこの北条包囲網も瓦解していった。信虎はそれでも対北条に備えるべく、1535年に諏訪氏と和・同盟を結んで後顧の憂いを断つ(1540年には諏訪頼重々をがせている)。

河東の乱・海野平の戦い

そんな時、事件が起こる。

1536年、今川今川が急死して後継者争いが勃発したのである(倉の乱)。信虎はこれに素く動き、栴岳承芳…のちの今川義元を支持した。論見通り乱は義元の勝利に終わり、翌年には信虎の(定恵院)が義元の正室としてぐなど、長らく対立関係だった今川氏との同盟が成立した。かつて三好宗三から贈られた名・宗三左文字も(詳しい時期不明ながら)この後、義元に渡された。

が、これに北条氏綱が黙っちゃいない。今川と北条は先代からの盟友関係だったが、武田と北条がの仲であるのは既に述べた通り。そんな訳で今川・北条の相駿同盟は崩壊し、北条氏による東駿河侵攻が始まった(第一次河東の乱)。

信虎は駿河へ援軍を兵するなど積極的に義元支援に動いたが、内乱直後の今川がまだまりきれていなかった事もあり、結局河東地域(富士以東)は北条の支配下に置かれる形で乱は終わった。

一方の信濃では、北部で村上義清が積極的に勢を拡大しており、たびたび佐久・小県舞台武田突していた。だが信虎はここで一転して彼とも手を組み、1541年、海野の戦い海野氏・真田氏といった滋野一族を信濃から追放、海野旧領は武田諏訪村上分割された。ポーランドみたいですね…。

海野での快勝から意気揚々と帰した信虎は、信に留守を任せて駿河の今川義元を訪問する。が、彼の知らぬところで計画は着々と進んでいた。

追放

突然甲斐駿河のが封鎖されてしまったのである。命したのは息子武田晴信(信玄)だった。甲斐へ戻る術を失った信虎は駿河に留まるしかなく、強制的に隠居扱いとなり、武田の座は信へと移った。甲斐志では、双方が合意して信虎が隠居したと記述されている。

信はこの時21歳。譜代の重臣・板垣信方甘利虎泰といった面々からも支持(擁立)され、かなりスムーズクーデターは成功した。こうなった理由については諸説あるが(信ではなく次男・武田信繁を可がっていたなど)、臣団との関係が悪化していたという説が有。長年に渡る遠征の数々や、大胆な外交方針転換などが不満や負担の種になっていたようだ。義元も一枚噛んでいたという説まである(甲陽軍鑑など)。その後、信虎を預かった婿今川義元信に隠居料をめており、信も応じて信虎の生活費は武田からを支払われ続けた。

ただ、信虎も既に48歳。大きな味方を得られなかったのかもしれないが、督に執着する事もなく隠居を受け入れて、駿河とを行き来して過ごした。信虎が参拝した寺院にはを介して信が謝礼をしている。今日伝わる粗暴で傲慢イメージからすると意外だが、それだけ後世に彼のイメージが脚色されていったということだろうか。江戸時代には(徳川家康を苦しめた)武田信玄を持ち上げる逸話が流行ったので、追放事件を正当化するためにも、信虎のイメージがダーティーにされていったようだ。

余談ながら、信虎追放と同じ1541年、長年の宿敵・北条氏綱がこの世を去った。追放事件の1ヶ後だった。

余生

大井夫人は甲斐に残っているが、側室は駿河に移ってきており、亡命先で更に息子武田信友・武田勝虎)をけたりしている。元気だな。

今川1560年の桶狭間の戦いで義元が討死した事で大打撃を受ける。1567年には同盟を破棄した武田信玄による駿河侵攻が始まるが、信虎はいつのまにか駿河を脱しており、以降は京都で過ごしている。(武田情報を流したり、今川臣を寝返らせたりと暗躍したため、今川氏真からも追放されたなんて説もある)

京都では幕府に出仕したり公家と交流したりと、名門・甲斐源氏嫡流の元当として全く恥ずかしくない、堂々たる日々を送っていたようだ。1565年の将軍足利義輝暗殺事件(永禄の変)にも巻き込まれる事なくスルーし、1568年に足利義昭織田信長に奉じられて上すると義昭に仕えている。既に70歳をえているのだが、戦国大名嗅覚は健在か。

やがて義昭と信長は決裂し、息子武田信玄を巻き込んで信長包囲網が結成されるも、これは信玄の死により瓦解して終わる。1573年に義昭が京都を追放された後は、三男・武田信廉(逍軒)に引き取られて信濃・高遠へと移った。翌年にそこで死去。享年81歳。波乱万丈の人生、生きて甲斐の地を踏むことはわなかったが、今は甲府大泉寺にて眠っている。

2018年末、甲府商工会議所によってJR甲府駅北口に信虎の像が設置された。

補足

以下、「信長の野望」(PCシリーズにおける武田信虎の力一覧。

初期シリーズでは追放後は死亡扱い・登場しない事が多かったが、近年のシリーズでは大体駿河や山浪人している。将軍の助っ人補。戦闘の高さに加え、徐々に知略・政治の方向でも評価が高まってきた。ただし基本的に高野望・低義理という危険物なので注意が必要。

軍事 内政
戦国群雄伝 戦闘 政治 野望
武将風雲 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 82 戦闘 95 智謀 33 政治 41 野望 86
天翔記 戦才 184(A) 智才 90(B) 政才 102(C) 77 野望 90
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 96 智謀 59 政治 63 野望 97
蒼天録 統率 85 知略 48 政治 45
下創世 統率 85 知略 48 政治 45 教養 16
革新 統率 93 武勇 96 知略 54 政治 50
統率 86 武勇 96 知略 54 政治 50
創造 統率 87 武勇 89 知略 75 政治 62

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武田信虎

28 ななしのよっしん
2021/11/12(金) 03:14:03 ID: wxhYswl/8K
映画開記念。

追放後に甲賀に領地をもらったらしい。
義昭挙兵の際には六角とともに近江を攻めようとしてたらしく、
けっこう武将として活発に活動している。

かの飛佐助といい、甲斐信濃は結構甲賀と関係深いのかも。
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29 ななしのよっしん
2022/01/24(月) 18:54:12 ID: m4J3477UsC
ノブヤボも昔にべて知略70、政治60ぐらいには上がってきた
さすがに息子べれば低いが普通に強い
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30 ななしのよっしん
2022/02/19(土) 03:08:33 ID: vAP9VdbQVy
普通に中の祖なんだが50年後ぐらいの妄想ブック(同時代史料という事に成ってしまう)で貶められて令和のこの時代まで悪政として伝わっちゃったのが不憫

信虎が築き上げた甲斐統一地盤で信玄が躍ったのが戦国武田で、信虎じゃなくて君だったならまずそもそも甲斐の領武田じゃなかった可性が高いという…
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31 ななしのよっしん
2022/06/05(日) 13:34:24 ID: 0BoAyP14yX
信長の野望で信玄に追放されたらゲームそのものから退場してしまうのは体ないな、楽隠居していたわけではないのに
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32 ななしのよっしん
2022/11/16(水) 15:46:57 ID: N+YNA/Z4kZ
最近のシリーズでは普通今川の武将として使えるよ
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33 ななしのよっしん
2022/11/16(水) 15:56:19 ID: N+YNA/Z4kZ
あ、でも創造からはまた使えないようになったんだった
申し訳ない
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34 ななしのよっしん
2023/05/24(水) 18:23:11 ID: uj/GyFLx8k
この人、無能ではないと思うんだけどなんで追放されたんかな
信ではなく次男信繁を跡に・・・というよりか重臣含めた臣が信を祭り上げてたのを考えると長年の戦続きの労役・負担や内政・外交方針なんかで揉めてたのが原因とは思うが・・・
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35 ななしのよっしん
2023/06/20(火) 03:49:56 ID: vAP9VdbQVy
①そも甲斐武田は絶対的なのない有人でしかない
②信虎はそれを急速に集権化させたので元同僚の部下たちから嫌われている
③部下の一部が御しやすい息子を担ぎ上げようと画策

ってのが一番有ではある。
ただ信がそんなタマではなくて、板垣甘利らの才える天才だったのが悪かったというかよかったというかという、戦国武田
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36 ななしのよっしん
2023/06/24(土) 08:08:19 ID: uj/GyFLx8k
信虎が今川に行ったり、に行ったりしても信が銭的な支援をしてたのを考えると、もしかしたら信虎追放・信当武田としてマッチポンプ的なもんもあった可性もあるかも
まず今川とは信虎の今川義元いでるから縁戚関係、北条氏康の正室は義元の兄弟上杉とも信虎側室・信正室で関係が深く、諏訪頼重にも信虎のいで縁戚関係で村上義清とも協関係で周りは戚・縁戚関係になってる
つまり信虎が甲斐統一した後は、領土を広める事は基本出来ないわけだ
そこで甲斐統一が安定した時に、今川駿河・北条の相模上杉上野諏訪信濃、どこを攻めるかなら敵対する時の勢の大きさ、に行く中山道があり日本海にも出れる信濃を狙いたいが、諏訪頼重とは縁戚関係だから攻められない
だから信虎はわざと追放されてそれを理由に信は信虎の今までの方針を変えて即座に信濃統一をした(現に信虎追放は15416月諏訪攻め開始は1542年3月) 信虎追放→諏訪攻めまで中の混乱どないから信濃侵攻がすでに既定路線だったのを考えると計画追放だったのかもね
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37 ななしのよっしん
2023/07/20(木) 23:03:51 ID: nvGoLg9RZA
君じゃないと甲斐を追放されたので京都スローライフすることにしました
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