武蔵丸光洋(むさしまる こうよう、本名同じ)とは、大相撲の元横綱である。現在は年寄武蔵川。
概要
1971年、ハワイに生まれる。小学生時代にアメフトを始め、高校でも活躍しプロ入りを目標としていた。大学からスカウトも受けたが、経済的理由から断念する。実は高校時代に首の怪我で選手生命を断たれており、入門前から左肩が満足に使えなかったが、引退するその時まで師匠にも秘密にしていた。
同郷の先輩である小錦にスカウトされ、1989年武蔵川部屋に入門。しこ名は部屋の名前と本名の「フィアマル・ペニタニ(帰化前)」から「武蔵丸」となった。大きな体格を生かした突き押し、右四つの寄りを得意とし、当時の相撲雑誌に「ハンマーで押し固めたようながっしりとした体格」「曙と共に若貴の終生のライバルとなるであろう」と書かれており、その言葉通り若乃花、貴乃花、曙と共に4横綱時代を築くこととなる。
新入幕から大関まではスムーズに昇進し、大関3場所目には高見山、小錦、曙もなし得なかった「外国出身力士として初の全勝優勝」を達成する。一気に横綱昇進への期待が高まったが、この時は達成できなかった。その後も幾度となく優勝戦線に絡むものの連覇は成らず、高い成績を挙げながらも長く大関で足踏み状態が続く。
1999年3月、5月と連覇し、ようやく横綱昇進を決める。ここまで大関在位32場所目であり、史上1位タイのスロー昇進記録だった。この間1回たりとも負け越しておらず、こちらも最長記録である。ちなみに大関時代に既に帰化しているので武蔵丸は外国人横綱ではない。
横綱昇進後もおおむね安定した成績を残していたが、2001年5月、右膝半月板損傷という大怪我をおして出場した貴乃花と千秋楽に対戦し勝利して同点に持ち込むも、続く優勝決定戦では敗れて優勝を逃す。この敗北は彼にとって忘れられない屈辱となり、2002年9月、長期休場明けの貴乃花に勝利して優勝を決めた際のインタビューでは「今までで一番嬉しい。貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった」と語った。しかし翌9月場所では持病の左手首の故障が悪化し、途中休場。その後も休場、出場を繰り返したが、この故障が回復することはついになかった。そして2003年11月、ついに現役を引退した。
入門前から抱えていた左肩の古傷に加えて大関時代には左手首も傷めてしまったが、このことで右差しから腕(かいな)を返して寄る、剛腕の右腕一本で盤石の形を作る横綱相撲を編み出した。アメフト仕込みの足腰の強さは折り紙つきで、立ち合いの威力は2トンを優に超えていた。現役時代は200kgを超える体でダンクシュートができたといい、引退してからも電車の車両を押して動かす程の馬力があった。
同時代に圧倒的人気を誇った若貴、史上初の外国人横綱となった曙の影に隠れてしまい、一般的にはやや地味な印象の横綱であったが、特筆する点としては初土俵から横綱昇進まで一度も休場が無く、また入幕から引退まで皆勤して負け越した場所が無いという点がある。若貴や曙ですら一回以上は皆勤での負け越しを経験している。
また飛び抜けた連覇や連勝記録も無いものの、大関、横綱時代はほとんどの場所で2桁勝利を挙げており、下位への取りこぼしが少なく安定した勝ち星を挙げる地力があった事を証明している。また近年の外国人力士達は土俵の内外でエキサイトし、問題を起こす事が多々あるが、武蔵丸は土俵上でもプライベートでも終始淡々としており、素行面で問題視される事はまず無かった。
現在は武蔵川部屋の部屋持ち親方として後進の指導に当たっている。夫人の協力もあって100kg近いダイエットに成功し大分すっきりした姿になった。
主な記録
- 幕内最高優勝…12回(内全勝1回)
- 横綱在位…27場所
- 通算戦績…779勝294敗115休(勝率72.6%)
- 横綱戦績…216勝67敗115休(勝率76.3%)
- 年間最多勝利…73勝17敗(2001年)
- 連続勝ち越し…55場所(1990年11月~1999年11月、歴代1位)
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関連項目
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