歩隲とは、三国時代に登場する人物である。
なお正式な表記は「歩騭」だが、本項では歩隲で統一する。
博学にして豪胆な都督
字は子山。徐州臨淮郡淮陰(江蘇省淮安市)の人。
先祖は春秋戦国時代の晋に仕えた大夫の楊氏で封地から歩氏を名乗り、一族が楚漢戦争の時期に淮陰侯になったことから淮陰を本籍としたと伝わる。
動乱を避けて江東に移住、昼に瓜を売り夜に書を読む生活をしていた。会稽(浙江省紹興市)の豪族である焦矯(焦征羌)の援助を得ようと友人の衛旌と一緒に焦矯に取り入ったが、焦矯の尊大な態度に怒る友人を宥めて自身は平然としていたという。
官職に就いたが病気を理由に辞職、親友の諸葛瑾や厳畯とともに呉郡(江蘇省蘇州市)に出た後、孫権の幕府に仕官して頭角を表すようになる。
210年(建安15年)交州刺史に任命され任地に赴く。当時の交州は呉巨と士燮の支配下にあった。呉巨は孫権に臣従したが、不穏な空気を察した歩隲は会見の席上で呉巨を斬り殺し州内に威名を轟かせる。士燮も孫権に降伏、交州は孫権支配下に入った。
220年(建安25年、延康元年)に交州刺史を呂岱と交代、長沙(湖南省長沙市)に駐屯することになったが歩隲を慕って交州から移住した随行者は1万人にも及んだ。この頃、劉備が関羽の仇として孫権を攻め、武陵(湖南省常徳市)の異民族が劉備に呼応する動きを見せる。歩隲は孫権の命令でそうした部族が劉備に味方しないよう牽制し、夷陵の戦いで劉備が敗れた後も服従しない部族を平定した。また、雍闓が士燮を通して呉に通じる姿勢を見せるとその取りなしをしている。
清貧を貫いた丞相
229年(黄龍元年)、孫権が帝位につくと驃騎将軍となり、陸遜に代わり西陵(湖北省宜昌市)に駐屯する。武昌(湖北省鄂州市)に孫権の長男の孫登が居たが、孫登が荊州の人物について意見を求めてくると歩隲は荊州で功績を上げた人物11人を列挙し(この中には友人の衛旌や諸葛瑾もいる)、賢人を用いるよう返答した。また孫権に上奏して積極的に人材を推挙したり、孫権が呂壱という奸臣を用いるとこれを諌めている。
246年(赤烏9年)、陸遜の死去に伴い孫呉の丞相となる。丞相となっても歩隲は以前からの質素な生活と自身の勉強、子弟への教育を常に行なっていた(ただし妻妾には贅沢をさせていた)。翌247年に病没、西陵に駐屯した20年間、同地をよく守り、敵からも敬意を払われていた。
死後、家は長男の歩協が継ぎ、西陵の都督は次男の歩闡が継いだ。272年(鳳凰元年)、歩闡は呉帝の孫皓に反乱を起こすが陸抗(陸遜の子)に鎮圧され一族皆殺しとなる。ただ孫の歩璣、歩璿(歩協の子)は晋に人質に送られていたため生き残った。
逸話
- 博学多才で人柄もよく、多くの人物を推挙した歩隲の生き様は正史では陳寿や裴松之に讃えられている。しかし孫呉を真っ二つにした後継者騒動(二宮の変)で歩隲は魯王孫覇を支持、太子孫和を支持する陸遜らと対立したという(正史の注の『通語』より。ただし他の文献には歩隲が孫覇に与したという記述はない)。
裴松之は「歩隲のような人物がこのような誤った判断をするのはどうしたことか。彼ほどの名声や節義を持っていても評価に値しないだろう」と突っ込んでいる。ちなみに歩隲の同族の歩夫人は孫権に寵愛され、孫魯班(二宮の変で孫覇を支持した)と孫魯育の二人の娘を生んでいる。 - 正史の注(『呉録』)で、魏の降伏者から魏が長江を砂袋でせき止めて呉を攻める計画があると聞いたと孫権に上奏したところ、孫権は笑って「長江は天地開闢以来常に流れ続けている大河で、そんなものでせき止められるわけがない。もし出来たら牛千頭をごちそうしよう」と相手にしなかった。2009年の三峡ダム完成で、歩隲の懸念は別の形で実現した。
各メディアにおける歩隲
三国志演義
赤壁の戦い前夜、開戦に反対する群臣の一人として諸葛亮に論戦を挑んで敗れた一人。また夷陵の戦いで闞沢が陸遜を推薦すると張昭や顧雍らと一緒に反対している。
ニコニコ動画における歩隲
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt