「毛利元就」(もうり・もとなり 1497年4月16日 - 1571年7月6日)とは、室町時代末期から戦国時代中期を生き抜いた中国地方の戦国大名である。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。
権謀術数の限りを尽くして、安芸の小豪族から中国地方の覇者へと一代で成長した、戦国時代屈指の英傑。その策略と謀略に彩られた足跡から「謀神」、「戦国最高の知将」とも謳われる英傑である。北条早雲や斎藤道三と並び、戦国時代の幕開けを飾った(下克上を成し遂げた)戦国大名としての先駆け的存在でもある。
彼曰く、
能や芸や慰め、何事も要らず。
武略、計略、調略こそが肝要にて候。
謀多きは勝ち、少なきは負ける。
・・・とのこと。
これは頼りない一面も併せ持っていた嫡男・隆元に、訓戒の意味も含めて放った一言である。少々過酷で稚拙な言葉かもしれないが、彼自身の人生と教訓を端的に言い表した名言でもある。(だが愚痴っぽく、くどい言い方になりがちな元就の訓戒の中では、単純明快な分類に入る。)
前半生
安芸国(現在の広島県西部)の国人領主の1つ、安芸毛利家の当主・毛利弘元の次男として生まれる。
先祖は天皇家(朝廷)や源頼朝(鎌倉幕府)に仕えた文学者・政治官僚であり、軍学者でもあった大江広元。大江氏は源氏平氏にも負けず劣らぬ名門なのだが、その一派である安芸毛利家は室町時代には衰退して、安芸の小領主という立場にまで落ちぶれていた。しかも、元就の登場までは当主の夭折や急死が相次いでいたため、井上氏や坂氏、渡辺氏といった重臣達が強権を振るい、横領や恣意的政治が横行するなど家中は腐敗していた。(元就の祖父・豊元に始まって父・弘元、長兄・興元ら全員が20代~30代で酒害により卒去していた。この若死にの連鎖により、家臣の中には毛利家が呪われていると信じ込み、尼子家から養子を迎えようと画策する者もいたという。無論、そこには謀聖こと尼子経久の思惑も影響していただろうが)
ましてや元就はその次男坊で、利発な性格だった(いわゆる「うつけ者」だったとも言われる)ため、火種を減らすべく本家(吉田郡山城)からは遠ざけられた。
父・弘元の隠居所でもあった多治比猿掛城で、家臣の井上元盛に後見されながら育つはずだったが、その後見役だった元盛にナメられて城と領地を横領されてしまい、城下のあばら屋で孤独な生活を強いられた。その過酷な暮らしぶりは「乞食若殿」と貶されるほどだったとされる。(この凄惨な少年期を支えてくれたのが父の継室・杉大方であった。元就は杉大方から受けた薫陶と恩義を終生忘れなかったという。同時に、井上一族から受けた恥辱も決して忘れず、後に粛清の対象とした。この執念深さも謀将たる所以であろうか)
だが元就は、その逆境をバネにするかの如く、成人後は政軍両面で辣腕を振るった。兄・興元が急死し、その子である幸松丸(幼児)が当主になると、元就は叔父として後見人として、それまで有力家臣達に襲断されていた毛利本家の政治体制を立て直し、正常化していく。
その後、元々病弱だった幸松丸が夭折すると、元就と異母弟・相合元綱との間に後継争いが生じる。この御家騒動の背後には、元就によって既得権益を脅かされた重臣達の反発と、元就の才覚を危険視する出雲の王・尼子経久の思惑が存在していた。この事実を見抜いていた元就は、尼子家との断交を決意し、元綱とこれを支持する有力家臣一族だった坂広秀一派を粛清。同時に嫡男・隆元を大内家へと人質に出し、同盟を締結して迅速に後背を固めた。以後は大内家との同盟関係(実際は主従関係に近かった)を軸に、尼子家との抗争を戦い抜いていく。また大内家の後ろ盾を利用して、安芸国内豪族達の懐柔や婚姻政策を推進。宍戸隆家(娘婿)や天野隆重、熊谷信直(有田中井手の戦いで元就が討ち取った敵将・熊谷元直の息子)といった智将猛将達を地道に味方につけていった。
元就の前半生は家中内憂との戦いだったが、対外的な合戦でもその才覚は大いに発揮された。初陣である有田中井手の戦い(当時20歳)や鏡山城の戦い、吉田郡山城の戦いなどでは兵力的不利や逆境を克服して勝利を重ねる。これらの勝利は、先述の謀略と相乗効果を発揮して、元就の武名と毛利家の立場を更に高めていった。
だが、吉田郡山城の戦いにおける勝利に気をよくした大内家の(正確には武断派筆頭だった陶家の)主導で行われた出雲攻めでは、元就自身は軍権を握れずに不利な戦いを強いられ、自身も死の危険に晒されるほどの手痛い敗北を喫してしまった。それまでの人生で数多くの苦渋を舐めて雌伏の時を送ってきた元就も、この出来事はさすがに腹に据えかねたらしく、以後の彼はまるで別人のように強引かつ拙速に権勢拡大を図っていく。
野心に火の点いた謀神を止められる者は、もはやどこにもいなかった。
「百万一心」
元就が、本城・吉田郡山城の増築工事の際に、人柱の代わりに埋めた石柱に刻んだ言葉。オリジナルの石柱は紛失しており実際はどう書かれていたのか定かでないが、この言葉は漢字を崩すと「一日一力一心」とも読める。元就の真意は今となっては量りようもないが、彼の人生のテーゼ的な言葉である。
後半生
元就の後半生は、それまでの地道な作業とは比較にならないほど劇的な変化の連続であった。(正確には、それまで綿密に進めていた地盤固めを活かし、一気に覇業へと踏み切ったと言える。)
手始めに、有力豪族である吉川家と、強力な水軍を持つ小早川家にそれぞれ次男・元春と三男・隆景を新当主として強引にねじ込み、これを吸収した。そして元就自身は名目上「隠居」し、当主職を嫡男・隆元に委譲。自身は後方で謀略活動に専念しながら、毛利・吉川・小早川の三家を包括的に指揮する体制を創った。これが後に名高い「毛利両川」として毛利家の存続に大きく寄与するのである。(この両川体制は、元就の緻密な組織構想と先見性もさることながら、それぞれの当主として据えられた毛利三兄弟が、いずれも傑物だったからこそ有効に機能したと言える)
これに続き、それまで内政面で強い発言権を持ち、横領や法度違反などの専横が目立った井上一族(子女含めて30名以上)を粛清した。この政治空位を埋めたのが、隆元と共に立ち上げた五奉行(豊臣家の同名制度とはまた別物)制度であり、これで毛利本家の内政は勿論、それまで有力家臣が個別に行っていた外交部門も一本化された。これにより安芸備後の両国は、静かに、しかし着実に毛利家の領国と化していった。(この間に元就は、覇気を失った大内義隆に言い寄り、わざわざ「安芸国は毛利殿の裁定自由」というお墨付きを貰っていたりなど、周到だった。転んでもただでは起きない。)
しかし同時期、主家の退廃と毛利家の台頭に危機感を抱いていた陶隆房(後の陶晴賢)とは徐々に関係を硬化させていき、両者の対立は厳島の戦いへと繋がる。陶隆房は九州の大友宗麟から主家養子として大友晴英(後の大内義長)を迎え入れて傀儡化し、政治に興味を失い奢侈に走っていた義隆を廃すべくクーデターを起こす。これが西国のみならず日本全体の政治経済に大きな影響を与えた大寧寺の変である。西国の支配者だった大内義隆は討たれ、それまで大内家主導だった中国地方の政権構造に大きな空白が生じた。元就は表面上、この変事に陶方として参加し、安芸国内の秩序維持に専念しているが、実際はそれ以上の関与をしていたと考えられる。
その後、隆元の意見も聞き入れた形で陶家と断交。世に名高い厳島の戦いに発展する。慎重居士である元就が、生涯で唯一自発的に起こした戦であると言われているこの厳島の戦いは、毛利軍5千VS陶軍2万ともされる圧倒的不利な状況であったが、元就は得意の知謀を発揮する。陶家の武将を偽報により誅殺させる、大軍である陶軍本隊を狭い厳島に上陸させて不利な状況に誘い込むなど、経略を重ねて大勝利を収め、戦国大名として雄飛するきっかけを得た。大内家の旧領と遺産をそのまま引き継いだ毛利家は、中国地方を尼子家と二分する。(元就は大内家併呑後に、大内家の富の源泉でもあった日明貿易を再興しようとしたが、毛利家は明国から正当な貿易相手として認められず、貿易再開は叶わなかったとされる。またその貿易港だった博多の施政権も得ようとしたが、これも大友軍との苦戦により果たせなかった。立花道雪さえいなければ・・・くッ)
やがてその尼子家すらも、当主・尼子晴久の急逝に乗じて併呑し、ついには中国地方平定を成し遂げてしまった。実高4000貫の小領主から、およそ120万石以上(10カ国余)とも後世謳われる大領土を擁する戦国大名へと変貌したその足跡は、三英傑(織田・豊臣・徳川)を除けば関東地方の大半を手中に収めた北条早雲にも匹敵する。これにより築き上げた領国と財産は、後に元就自身すら「なんとか天運味方して、危機をことごとくすり抜けてきた」と謙虚に述懐するほど巨大だった。
だが元就が中国地方平定を成し遂げた直後、中央では織田信長が上洛に成功し、天下布武の準備を着々と進めつつあった。1567年当時、元就は70歳。片や信長は33歳。元就はこの若き俊英と天下を争うことの愚を悟り、その存命中は織田家と対立することを極力避けた。(天下を狙うな、と息子や孫達に遺言したのは後述の通り)
元就は迫り来る寿命の恐怖にもめげず、1569年(当時73歳)の立花山城の戦いと多々良浜の戦いにも、自ら鎧具足を身に付けて出陣し、実際に戦闘を行っている。(またあっちの方もお盛んだったようで、71歳の時に九男の秀包が生まれていたりする。孫よりも若い息子とか、どうなんだろうね…)
1571年7月6日(元亀二年6月14日)に、吉田郡山城内にて逝去。享年75歳。死因は老衰とも食道ガンとも言われ、死ぬ数週間前から危篤状態で生死を彷徨っていたとされる。その最期は、三男である小早川隆景が看取った。血まみれの謀略に人生を捧げた男にしては、安らかな死(畳の上で死ねた)だったと言えるだろう。
智万人に勝れ、天下の治乱盛衰に心を用いるものは、世に真の友は一人も有るべからず。
千載の上、千載の下に、真の友は有るべき也。
是人を同ふして生まれなば、彼を害するか、彼に害せられるるかの二つ也。
若し二人志を同ふして世を治めんには、万民安堵、四海太平とす事、又何の難き事か之有るべき。
~ 「名将言行録」より
元就が、珍しく酒に酔ってこぼした愚痴の一文とされる。意訳は次の通り。
「俺みたいに頭が良くて、その才能を政治や戦争の道具に使うような奴には、友人なんて1人もいない。過去千年と未来千年の間にこそ、真の友人というものはいるものだ。でも、もしその友人と同じ時代に生まれたら、結局この時代の群雄のように互いに争って殺し合うしかないんだ。それでも、その友人同士、群雄同士が心を1つにすることができれば、天下の万民を安堵させ、四海に太平をもたらすことなど難しくもないのに。悲しいことだ。」
権謀術数によって多くの人命と人心を弄んできた、謀将には似つかわしくない言葉である。だが、血も涙もない謀略の数々の裏に、こういった人間的な一面を持っていたからこそ、元就は最期まで道を誤らなかったのだろう。
現在の評価
現在でも戦国時代随一の知将・謀将として名を馳せており、戦国時代最高の名将の一人とも評価されている。その遍歴から、合戦よりも政治的謀略に長けた軍政家と見られがちだが、武勇や軍略面でも優れた功績を残す。
その人生の大半は合戦や内紛、政争劇によって彩られているため陰湿なイメージが強いが、「三本の矢」に代表される人間味にあふれた逸話や教訓が多い人物でもある。現存している直筆の書状はいずれも非常にくどい内容のものが多く、筆まめな上に心配性でもあったらしい。(ただし三本の矢・・・三子教訓状は、政治的な意味合いも含まれた極めてシビアな内容の訓戒でもあり、単なる親子の愛情話ではない。また、似たような逸話が中国やヨーロッパにも存在するため、後世の創作ではないか、とも言われている)
また、現在明らかになっているだけでも生涯200戦以上の合戦を経験しており、その勝率も八割五分と他の武将を圧倒していることも特筆したい。(ちなみに、初陣である有田中井手の戦いの時点で、元就は20歳だった。この時代、20代を迎えての初陣は遅咲きに分類される。12歳で強引に初陣を飾った某次男とは大違いである。)
しかも70代という高齢を迎えてもなお戦陣に立ち、直接軍勢を率いて戦い続けた、リアル高性能じいちゃんだった。・・・というのも、家業を継ぐはずの長男・隆元が若死にしたため、自身が戦陣に立たざるを得なかったためである。老境に入ってから頭角を現したため、一般的には野心溢れる老将のイメージが強い。
生没年は1497年(明応六年)~1571年(元亀二年)。平均寿命が約50年、文字通り『人間五十年』の時代にあって、75年もの生涯を全うした長寿の人物でもあった。徳川家康も顔負けの健康通であったとされ、孫の輝元に飲酒を控えるようたしなめた書状が残っている。(その背景には、酒害で卒去した父・弘元や兄・興元の轍を踏むまいと考えたためとされている。ただし元就自身も、自分で育てた薬用菊を漬けた薬酒を飲む習慣などがあったらしい。どんなに無欲な人にも、嗜好品はあるものである。)
同じく謀将として知られる尼子経久とは、浅からぬ因縁がある。詳しくは当該項目を参照。一説では、元就の精神と生涯に大きな影響を与えた人物の1人とされている。
謀将として、父親(祖父)として
毛利元就といえば現在では有名な戦国大名として各メディアにその名前が出てくるが、1997年の大河ドラマ放映以前は同じ大名達の中でも知名度が低かった。(近代以前は山口あたりの地方史でしかその名が取り上げられなかったという) 元就の名前を世に広めたという意味では、元就生誕500年を記念して制作されたという大河の意義は非常に大きかったと言えるだろう。
「一本では容易く折れる矢も、三本纏めれば折れない。」
三本の矢の逸話(正しくは三子教訓状)の中心人物である、元就の三人の息子…毛利隆元、吉川元春、小早川隆景はそれぞれ得意分野に違いこそあったものの、優秀な将でありその後の毛利家の発展を支え続けた。(長男の隆元は元就よりも早く死んでしまったが)
三本の矢は逸話であり、創作ではあったかもしれないが、毛利家の家訓をわかりやすく伝える話でもあり、また元就を扱った多くの書籍にも必ずと言っていいほど記載がある。三子教訓状には三兄弟とそれぞれの家の結束を促す文章がくどいほどに書き綴られている他、節々に亡き妻である妙玖への思慕の念を吐露するなど、非常に人間味に溢れた内容となっている。
その一方で、家臣達に対しては厳しい態度で臨むこともあり、天文19年(1550年)には専横甚だしかった井上元兼の一族を誅殺している。この誅殺劇は、独立性の高い豪族でもあった井上一族を直接排斥するだけでなく、他の独立性の高い豪族達や家臣達に対する見せしめの意味合いもあったとされる。人命を奪うことにあまり頓着せず手段を選ばない生粋の謀将である元就と、父親としての深い慈愛と人間性(親バカ?)を併せ持つ元就。どちらが本当の彼なのかは、彼を知る人間個人の解釈に依るしかない。
「我、天下を競望せず。」
織田信長などが天下統一を目論んで邁進するようなご時世だったにもかかわらず、元就は息子や孫達に「天下を争う事なかれ」と言い残し、過ぎた野心を持つことを戒めた。単に彼が謙虚だったわけではなく、当時の毛利家が、国人領主(早い話が地方豪族達)の寄合所帯的な要素が強く、織田家のように独裁的な大名組織ではなかったことを誰よりもよく知っていたためである。
また先述の通り、元就が中国地方平定を成し遂げた頃には既に老齢であり、周辺には大友家や浦上家、尼子家残党などの潜在的な脅威があったため、天下への野望など持つ暇もなかった、というのが実情であろう。人は老いると、得てして保守的になるものである。(成長期の過程で、大内家や尼子家、三好家など天下に近かった大名達が次々と滅んでいくのを見つめていた元就の精神状態も、無論だが影響しているだろう。毛利家に天下平定の可能性はなかったのかという議論はまた別になるが・・・)
嫡孫・輝元に関しては、先立った隆元の遺児ということで思い入れも強かったのか、「幸鶴(輝元)の将来が心配でかなわん」といった内容の書状を幾つも書いている。筆まめな一方、心配性でもあったようだ。(元就の死後、輝元は織田信長との戦いで苦境に陥り、関ヶ原の戦いでも自身の迂闊な行動により改易の危機に立たされてしまう。結局、元就の危惧は現実のものとなってしまった。仕方ないね)
死の少し前、孫の輝元に送った手紙の一文。人界に生を受けて75年。戦いに戦いを重ねてきて、なおも楽隠居を許されることなく、孫や息子達から頼りにされる日々を、皮肉っぽく端的に言い表した一言である。なんとも居たたまれない気持ちになるのは筆者だけであろうか。
謀将でもあり家庭人でもあり、苦労人でもあった。ずる賢いイメージはあるが、憎めないお人である。
補足
織田信長や武田信玄と並ぶ、公式チートの1人。知略と政治力が高く、特に知略は北条早雲や尼子経久といったレジェンド武将を除けば最高値を誇る。まさに謀神である。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 94 | 政治 | 100 | 魅力 | 98 | 野望 | 87 | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 86 | 政治 | 100 | 魅力 | 95 | 野望 | 52 | 教養 | 82 | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 97 | 戦闘 | 85 | 智謀 | 100 | 政治 | 98 | 野望 | 47 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 178(A) | 智才 | 200(A) | 政才 | 196(A) | 魅力 | 97 | 野望 | 94 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 100 | 政治 | 97 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 93 | 戦闘 | 65 | 智謀 | 100 | 政治 | 96 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 95 | 智謀 | 98 | 政治 | 97 | 野望 | 95 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 82 | 知略 | 90 | 政治 | 89 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 82 | 知略 | 90 | 政治 | 88 | 教養 | 76 | ||||||
| 革新 | 統率 | 92 | 武勇 | 69 | 知略 | 105 | 政治 | 98 | ||||||
| 天道 | 統率 | 93 | 武勇 | 69 | 知略 | 105 | 政治 | 98 | ||||||
関連動画
戦国無双における毛利元就
愛称はヤン・モウリー(後述)、大トロ(OPで毛利輝元に「大殿!」と呼ばれるシーンがあるがそれが「大トロ」と聞こえるため)。既に死んでいると家臣に言い残し、隠居しており歴史関連の書物を書いている。しかし、織田信長による西方攻略により歴史の表舞台に引きずり出されてしまう。夢は「歴史家として過ごす、安穏とした老後」。
モーションはどことなく爺臭く、他の無双武将よりも精神年齢が高めに描かれている。また他の無双武将達よりも史実において活躍した時期が早いためか、世代的に若い武将達に予言めいたことを度々口にしたり、状況を客観的かつ第三者的な視点で見ることが多い。主に立花宗茂・誾千代夫妻と共闘する。
武器は矢手甲で、攻撃する度に三本の矢を発射する。そのため、コンボを稼ぎやすい特徴を持つ。
彼の性格(信長のような天下布武や独裁体制ではなく、1人1人の意思を尊重しつつ結束していくという、後世の民主主義に近い『百万一心』論を信奉していたりなど)や無双演武は、銀河英雄伝説の主人公の1人であるヤン・ウェンリーのパロディとなっている。彼の演武(章)も「銀河英雄伝説」のパロディであるため「戦国英雄伝説」「誾英伝」などと言われている。他に後世に冷酷無比な謀将であったと思われるのを嘆いているような描写もある。
ちなみに真・三國無双シリーズのキャラクターやその他大勢とのクロスオーバー作品である無双OROCHI2では、三国志を始めとする多くの歴史上の英傑が集うという歴史家としてこれ以上ないぐらいに魅力的な状況のため、非常にイキイキした元就公を見る事ができる。が、立花誾千代によって彼の書く文は冗長で人を殺すという風聞が流れてしまいギリシャ神話の英雄アキレウスから「歴史家くずれが、くたばれ!」などと散々に言われてしまっている。
戦国BASARAにおける毛利元就
詳しくは毛利元就(戦国BASARA)へ
戦国大戦の毛利元就
二枚のカードが存在する。正しくは3枚あるがスタータースペックが1枚あるので割愛。
「我が策を以て敵を切り裂く」
SRの元就はコスト3.5の割武力は9と寂しい。だが統率は最高の12、伏兵と魅力持ちな弓足軽。欲を言えば焙烙が欲しかった。
計略は「謀神の掌上」。士気9という重さの見返りに事実上の永続計略となる大名陣形。毛利家の味方の武力が上がり、敵の統率が下がる。毛利家は焙烙という統率差ダメージが無士気で放てる特技があるため、陣形上で喰らえば大ダメージは免れない。
ただ、毛利家が登場したVer1.20当初はあまりに対士気効果が見合わないものだったため、登場数日で乙SRの烙印を押され、謀聖と並び聖神コンビとして本スレでネタにされた。
Ver1.20Bでやっと士気9並の上下値になり、スタートラインに立ったと言える。
ちなみに群雄伝で使用できるのは二章から。
「三本の矢よ、今こそ一つとなれ!」
Rの元就は2.5コスト、武力8統率10、防柵・魅力と中々の高スペックな弓足軽。制圧が欲しかった…がそうなると武田信繁に怒られる(スペック的な意味で)。
計略の三矢の采配は、毛利家の味方の武力を上げ更に弓足軽なら撃っている相手の武力を下げる大名采配。更に三本、つまり三部隊以上で同じ敵武将を弓で撃った場合は更に移動速度も下げる。迫りくる敵武将をきちんとサーチして対処できればかなりの計略だが、実際問題結構難しい。
関連項目
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1


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リビジョン番号: 1514483
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初版作成日: 09/07/21 11:14 ◆ 最終更新日: 12/04/30 00:02
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