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単語記事: 毛沢東

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毛沢東(1893年-1976年)とは、中華人民共和国政治であり、また思想でもある。中国語的には名前は「マオ・ツォートン」と発音する。

中華人民共和国者とされており、文化大革命により終身独裁者としての地位を築き上げた。

概要

` 毛 沢 東 `地球上に生きる人間ならば一度はこの名前をにしたことがあるはずであろう。

当時、戦争続きのカオスな状態であった中国大陸の統一を天才ともいえる戦術によって見事に果たし、今の中国を建した。が、残念ながら政治としての才には恵まれてなく、異論など断じて認めない俺様思考の政治を強行したがゆえに、結局中国をさらにカオスな状態にしてしまったという人である。

そんな、彼のことを巷では英雄や偉人として尊敬の対としているが、また別の巷では虐殺者やマジキチと蔑まされており、あるいは毛沢東(けざわひがし)、毛などとネタの対にされていることから非常にハイスペックな人物であるため、中国史のみならず、世界史上でもかなりの大物であり、その人物像には様々な議論や評価がある。

けど、毛沢東と聞けば、ほとんどの人がアレと思うわけだが。。。

赤いニコニコ動画でもおなじみの人物であり、同志といえばスターリン将軍といえば金正日、なら席といえば毛沢東のことさすだろう。けど、同志将軍様べたらその存在感は髪の毛同様に薄い。

生い立ち~中華人民共和国建国

1893年、南省の裕福な農家の三男坊として生まれる。

2人のが死去したため父親から跡継ぎとして育てられるも、幼いころから反抗的だった毛沢東父親の反対を押しのけて学校へ通い始める。

やがて師範学校大学教育学部に相当)に入学した際には社会科学を学ぶ一方で、学友たちと新民学会といった学生サークルを立ち上げることで、政治活動に味を抱く青春時代を送る。

卒業後、恩師の勧めにより名門北京大学の図書館員として活動する一方、後に中国共産党を創設する陳独秀などの文化人(一般的にジャーナリスト大学教授)と直接触れ合い、全各地に反日・反帝国義が流となる時勢のなかで社会主義味を抱き始める。

父親の死後、故郷に帰還した際には地元の中学校歴史教師として教鞭を取る一方で、父親の遺産をもとに出版社を設立する。

やがてソ連コミンテルンの導のもと、陳独秀を中心とする中国の文化人により、中国共産党の結成が準備されると、その創設に賛同するため毛沢東上海へ赴いた。

このとき北政府をはじめとする各地の軍閥と対立していた孫文率いる中国国民党は、その対抗策として革命モデルであるソ連へ近づくため、合作が行われた。(第一次合作)

そのため、毛は共産党員であると同時に民党の宣伝部に所属することで軍閥批判などの論文を書き続ける。

孫文が`革命、未だならず`の言葉を残し死去すると介石が民党の新しい導者となり、かねてからの念願であった各地に勢を築く軍閥への総攻撃を開始する。(北伐)。 その一方で民党内で勢を増す共産党員を介石が弾圧を命じたことで、合作は崩壊していくことになる。(上海クーデター)。

これにより、共産党は農民や労働者に武器を持たせることで軍を結成し、民党に抵抗しようとするも、軍隊として精練された民党軍にはが立たず、包囲殲滅を受けたことで、あっけなく敗北してしまう。(南起、これが行われた八月一日が、人民解放軍の建軍記念日である。)

この時、別働隊を率いていた毛沢東残党兵を連れて彼による独自の判断で井崗山(せいこうざん)に立てこもる。

その後、共産党本部から導部員を外された毛沢東だが、そのようなことなどお構いなしに毛は周辺の土地の大地を解体して小作に土地を分配するなどの独自の政策を行った。

やがて毛沢東は井崗山から江西省の瑞へ根拠地を移す。

そこで中華ソビエト共和を建するが、民党の攻撃に耐えしのぐ日が続く中で、毛は共産党導部から正式に批判を受けることで、導権を失うはめになる。

 しかし、民党からの攻撃に耐えきれなくなった共産党はついに瑞政府を放棄することを決意する。

これにより、新たな根拠地をして12500kmという、距離にして日本列島を約2往復するほどの過酷な行軍が開始される。(長征または大西遷)

この中の州省で行われた遵義会議(じゅんぎかいぎ)により、再び毛沢東政治の実権を握ることになる。

そのため、軍の導者となった毛沢東は、民党軍からの猛攻撃にされながらも、小作人への土地分配などを実地することで各地の農民を味方につけていき、事実上亡命軍と化した兵士州省から陝西省の延まで兵士を進め、根拠地を定めることで長征を終了させる。

このとき、8万人近くいた兵士の数はわずか数千人程度まで減少していた。このように補給もろくに整ってない中で無謀ともいえる大胆な行軍を成功させたことは、現在でも軍の英雄談として中国全土にり継がれている。

しかし、延に根拠地を定めたとしても、民党軍による攻撃が停止したわけではないため、これで存亡の危機が解消されるわけではなかった。が、そんな折、共産党にとって願ってもない出来事がやってくる。

事件で関東軍に殺された作霖の息子である学良は、西介石を拉致・監禁したあげく、共産党への攻撃を一時的に停止して、日本への警を行うことを要する。(西クーデター)これにより、民党は再び合作に転じることで、共産党は窮地を乗り越える。

そして遂に1937年7月、盧溝での声の音とともに日中戦争が開始されると、前線で民党が日本軍と戦っている間に共産党は八路軍として勢を拡大することで、漁夫の利を得る。

それに乗じて、毛沢東は新民義論を打ち出すことにより、中国の大多数を占める農民を中心とした国家づくりを構想する。また、この時から整運動を行うことで、毛沢東に不満を持つ共産党員を粛清し始める。

さらに、毛沢東は後の文化大革命で権を握る女優の江結婚する。

やがてポツダム宣言を受け入れた日本が連合に降伏を行ったことで日中戦争中国の勝利に終わると、もはや同盟の必要性もなくなったため、介石はさらに共産党を攻撃することで、再び共内戦が開始される。(第二次共内戦)

が、しかし日中戦争漁夫の利を得た共産党は、もはや前回のような貧弱な軍隊ではなく、農民の支持とソ連による支援をはじめ、「人民のものは針一本たりとも盗むな」といった毛沢東の巧みな文書により、共産党の軍は常に規が保たれていた。 北(北)入に成功した共産党軍は、1949年10月1日、北門にて中国の建宣言を行う。

これにより現在の中華人民共和国が成立し、革命リーダーである毛沢東は建者として絶対的な権を握ることになる。 (・・・ここで引退しておけば英雄として最高の評価が得られたはずだが)

その後、民党の本拠地である重慶を奪い、ついに介石を台湾へ追い払う。

しかし、台湾進攻を計画していたさなかの1950年、今度は共産党にとって迷惑な話が持ち込まれてきた。朝鮮統一の野望を抱いた北朝鮮金日成韓国への攻撃を命令する。

これにより朝鮮戦争が勃発し、緒戦は北朝鮮の快進撃により朝鮮をほぼ占。一時は釜山にまで韓国を追い詰めるが、アメリカを中心した国連軍が韓国への援軍として仁川からの奇襲攻撃をしかけることにより、巻き返しを行うことで形勢が逆転する。

そのため金日成ソ連への支援めたが、この時、ソ連導者であるスターリンアメリカとの関係を悪化させないために、代わりに中国支援を頼るように金日成に伝える。

共内戦では、さんざん支援してくれた盟友であるソ連の頼みとあっては断れないと判断した毛沢東は、急遽、台湾攻撃の計画を中止し、北朝鮮への援軍を送りこむことを決意する。このおかげにより、中国軍(人民志願軍)の援軍を頼りに北朝鮮軍は北緯38度線まで軍隊を押し上げることで、朝鮮戦争以前までの土が回復する。 その後、戦況も着状態になり、南北両が互いに休戦を受け入れたことで一応の決着はついた。この戦争に参戦した長男の毛英が戦死することで、毛沢東息子を失うはめになる。

かつて日本軍の侵攻により窮地を乗り越えた共産党が、今度は朝鮮での戦争により民党が窮地を乗り越えるとは、まさに皮なことである。

その後、ソ連の承認を得てチベット攻撃を開始すると同時に占し、モンゴルはかつて中国土であったが、ソ連の傀儡政権であったため独立を承認していたことで香港マカオを除く中国大陸が共産党によって統一された。

建国後の統治~大躍進へ

後、毛沢東は土地改を行うことで、それまで土地を持つことが許されなかった小作人に土地を分配することで、農業の生産率を上昇させる。

その上、農民による土地の売却を禁止するために戸籍制度を整えることで、事実上、農民と都市住民の戸籍が別々にされる(これが今日まで中国の格差を引き起こしている原因の一つである)。

さらに彼は汚職や悪徳資本家を取り締まることを名に反共産党スパイを摘発させるため、隣組のような組織を作ることで各地の人民同士を監視させる体制を作り上げる(三反五反運動)。

しかしこれは、を持った共産党員が、自分のライバルや敵対視する人物を蹴り落とす機会を与えることになり、冤罪者が続出するはめになってしまった。そのため、逆に汚職や腐敗を蔓延させてしまうという結果になってしまう。

当初から毛沢東ソ連のような国家づくりをしていたため、彼はスターリンの政策を見習い、五カ年計画を実地することで農作物を集団生産化させる。

その上、防衛上の観点から、かつての日中戦争のように沿部を攻め取られてもゲリラ戦で対抗できるよう、工場を内陸部に建設するよう示する。

が、内陸部へわざわざ工場を建設したところで、インフラが整っていない内陸部では効率よく稼働するのは不可能なため、乱暴な生産政策により、中国経済は徐々に混乱していく。

されど、建者である毛沢東に口答えできる者は誰一人許されなかったため、全員が彼の政策にうなずくほかなかった。

そんなさなか、毛沢東は自由な議論の場を設けるべく「花斉放・争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」のスローガンを掲げた。

当初は毛沢東に口答えをすることに渋った者が多かったが、議論が出ないことにを立てる彼を見かねたため、素直に打ち明けたところ、今度はその者たちが反乱分子のレッテルを貼られることで約60万人が粛清される(反右闘争)。

これによって、毛沢東の権限は以前にも増して強大なものになった。

このころ、社会主義にとって大きな衝撃をあたえる出来事が起こった。ソ連ではスターリンが死去したのちに、導者となったフルシチョフがスターリン批判を行ったため、それまで社会主義英雄として絶大な権威を保っていたスターリンの威信が地に落ちてしまうといった状況が巻き起こった。(スターリン批判)

これは、今までスターリンを手本としていた毛沢東にとっては、非常につじつまが合わなくなることであり、毛沢東もまたフルシチョフ批判を行うことで中ソ対立が起こり、本来同盟であるはずの両の関係が一気に冷え込んでしまった。

そのため、毛沢東くもソ連に対抗するためにを上げることを決意する。

そこで彼が打ち出したものが、大躍進政策である。

これは当時7億人いた中国人を人民社で働かすことにより、農作物や鋼などを人戦術の方法で生産させるといった増産計画である。

これにより、生産を一気に上げさせて、15年以内にはイギリスを追い越すことを標に掲げるが、しかし生産の前にそもそも生産方法をよく把握していない人民が多く、本来ならば鋼鉱石から作るものだが、庭に置いてあるや農具用の鍬を手作り性の高炉の中に放り込んでクズ鉄を生産すると言ったような本末転倒を始め、人民社ではタダ飯が食べれる上に、働いても分け前は同じであるため、労働意欲が低下して生産を上げようとしない農民が多い中、管理人である共産党員は見栄をるため、生産標のみをやたらと上げるといった行動に出たため、生産く間に低下し、最終的に3000万人規模の餓死者を出す羽になってしまった。

このような悲惨な結果であるにもかかわらず、効果は上々と絶賛する下からのの報告をまんまと信じ込んだ毛沢東は、自らが建てた計画が大成功していることに一人だけ大満足していた。

このように裸の王様と化した毛沢東だが、そんな彼の姿を見るに見かねた彭徳(ほうとくかい)は勇気を持って毛沢東真実を告げたが、当然のことながら毛沢東逆鱗に触れたことで、彭徳は失脚してしまう。これがのちに文化大革命の引きを起こすきっかけになろうとはこの時、誰も予想していなかった。

しかし、状況はもはや深刻化しており、とうとう毛沢東も自己批判をするほかなくなってしまった。(七千人大会)

これにより、毛沢東国家席の位を少奇に譲ることで彼は政権から一歩引くことを決断する。

…が、ここでおめおめと引き下がる毛沢東ではなかった。このような彼による権への執着が後に中国全土を混乱のどん底に陥れる結果となってしまう。

終盤 文化大革命により終身独裁者となる。

毛沢東により政権を受け継いだ少奇は、毛が今まで行った政策は失敗だったと判断したため、市場経済を導入することでけを認めさせた。

本来は自分の土地を持つことが望ましかった農民にとって、毛沢東が行った集団生産化は国家に再び土地を奪われた認識にすぎなかったため、人民社を徐々に解体していくことで集団生産化が解除されるようになり、再び農民に土地を分け与えられ農作物の生産が上昇した。

こうした政策の見直しにより、問題とされていた餓死者の数がのように改善されたうえに、核実験の成功を受けて技術の進歩を感じていた中国毛沢東録が出回ったことで、毛沢東中国の建者として格化され、過去の存在になっていた。

こうして、中国は順調に発展を遂げるかに思われた。

…そう、例の論文が世間に出回るまでは。

上海機関劇である「瑞罷官(かいずいひかん)」を非難する論文が掲載された。

瑞罷官」とは、宦官である瑞が明の皇帝真実を伝えたことで民を救う劇である。これは前述したように、かつて大躍進政策の実態を正直に告げた彭徳を擁護するものであり、毛沢東を否定する劇であるとして世間に知れ渡った。

後日、これを受けて劇の作者であり、少奇に近い人物である含(ごがん)が非難されている内容の新聞が北京大学に掲載された。

それを見た学生たちは全各地に衛兵を結成し、毛沢東と敵対する思想を持つ政府を標的にして、一斉非難を開始する。

これに対し、毛沢東は「造反有理(反対するには何か理由があるはずだ)」を衛兵に伝え支持すると共に、さらにあろうことか「令部を撃せよ」といった論文を手掛けることで、事実上、毛沢東衛兵に対して少奇への攻撃命令を告げる。

これにより、少奇は社会主義のふりをした資本主義者である、という修正義(走資)のレッテルを貼られるはめになる。

こういった少奇のような走資を打倒するためなら何をしても良いという認識が衛兵をさらに過にさせ、皮靴をはいているものや、浴槽に使っているものなど少しでも資本主義階級と思われる者には容赦なく衛兵からの迫を受けた。そのため、知識人である教師が迫されることにより全の学業が停止したため、十分な教育を受けていない失われた世代が誕生した。(ちょうど、現在の50代がこれにあたる。)そのうえ、歴史ある寺院などがことごとく破棄され、墓荒らし信号は革命の色である赤色だからわたってもよいと言った、衛兵の勝手極まりない認識が中国をさらに混乱にさせた。

こういった混乱を逆手にとって権を手にしようとしたのは毛沢東だけではない。

衛兵による破壊活動を積極的に支援するために声援を送り続けた毛沢東の妻である江を中心とする四人組や、もしも衛兵の破棄活動に行き過ぎが生じた場合に備えて軍隊を揮する役を与えられた彪(りんぴょう)の発言が大きくなった。

しかし、毛沢東的は少奇失脚に伴う権回復であり、少奇が失脚すると彼にとって衛兵は用済みとなったため、農家への下放を示した。

学生を中心としていた衛兵が農業を務まるはずもなく、それが彼らにとって過酷さを極めた。あるいは、下放された女性強姦が多発するなどの事件が頻繁に発生してしまう事態が起こった。 

そんな状況でも、文で権を確保した四人組は、その権を維持させるため、けして文を終了させようとはしなかった。

そのため、四人組に近い共産党員(文組)が地方各地へ赴任し革命委員会が設立されることで、走資であり毛沢東義に沿わないもの、あるいは単にこじつけによって文組の意に反するものを大衆の前でるしあげなどの中傷を始め、殺戮する行為に出た。 しかし、今度は文組の間でどちらのほうが毛沢東義に忠実なのかを競ったため、互いに批判しあうことで、最終的に、地方の革命委員会同士が武装闘争を行うはめになってしまったことで内乱に近い状態となった。 こうした、地方の暴走にたいして中国軍が出動することで事態の収束を図ろうとした結果、軍の揮権を握っていた彪の権限がさらに増える事態となった。

そのため、少奇亡き後の毛沢東の後継者として国家席のポストを期待していた彪だが、毛沢東国家席の職務を止したため、それに逆上して毛沢東暗殺を決意する。

が、しかしこの企みは結局毛沢東にばれ、追い詰められた彪はソ連への亡命を行うため、飛行機に乗り込むものの途中のモンゴルで不時着することで、あえなく死亡する。(彪事件)

もはや、強大な権を手にした毛沢東ではあるが、いい加減、文により荒した内の疲弊を回復させるべく、かつて修正義者として少奇同様に迫されていた鄧小平を政界に連れ戻す。

小平、そして首相である周恩来は内を定させるため、ひとまず文化大革命を終わらせようとするが、文を大義名分として権を維持している四人組がそれを許すはずもなく、少奇の次に今度は周恩来と鄧小平を標的に批判し始める。

そこで、四人組は、中国の代表的な哲学であり、それまで民衆の間で広く根付いていた儒教を封建的であるとして、否定し罵声を浴びせた。これは儒教を信仰している周恩来を退的であるとして、こじつけようと権から引きずり降ろすことを論んだ四人組による陰謀であった。(批批孔運動)

その結果、中国徳が失われると同時に、名著である水滸伝の登場人物を鄧小平に置き換えることで、水滸伝批判される結果となる。

こうした四人組の暴走毛沢東は放置したため、内の疲弊が回復されることはなかったが、中国台湾(中華民国)に代わって国連保理の常任理事として認められるなど、社会においては中国の地位が向上していくなか、1972年日本首相田中角栄が訪中することでアメリカに先駆けて日中国交正常化が実現する。

この時に毛沢東は対日賠償を放棄したうえに、田中角栄を有政治であると評価を下している。

やがて過労が生じたため、周恩来が死去すると、その追悼式のために多数の北市民門広場で献花を行った。

しかし周恩来を敵視していた四人組が、献花された花の撤去、そして追悼に現れた市民の一斉逮捕に踏み切った。(第一次天安門事件

このような露な対応は当然、市民からの批判しく行われたが、四人組はこの事件の首謀者は鄧小平であるとして、彼に濡れ衣を着せることで、再び鄧小平を失脚させる。

周恩来の死去と同時に毛沢東の様態も日増しに衰弱しており、周恩来が死去した2ヶ後、ついに彼も息を引き取った。(享年82歳)

こうして、かつて中国革命を成功させた英雄は、自らが建した国家を疲弊させた独裁者としてこの世を去ったのである。

死後の評価 「功績七分、誤り三分」

死に際に毛沢東は次期後継者として華鋒(かこくほう)を名していた。

四人組同様に文導者となった華鋒も文化大革命継続を望んでいた一人であった。

しかし、彼にとって四人組は権を行使するうえでは邪魔者でしかなかったため、四人組の逮捕を決行する。

無事に四人組を逮捕した華鋒であるが、彼には経験と人望が乏しかったため、さすがに鄧小平の貫録には敵わず、やがて彼に権の座を奪われるはめとなる。これによって、中国混乱に陥れた文化大革命は完全に終幕することになる。

その後、若干歴史決議が行われ、死後毛沢東の評価が下された。そこでは「功績七分、誤り三分」とされ、独裁者としての側面もあるが、中国を建した偉大なる導者であることには変わりない、という評価を下した。

よって、現在も中国の建者である毛沢東の威厳は失われておらず、建宣言が行われた門では、巨大な彼の肖像画が今もなお、堂々と飾られている。

評価

中華人民共和国の建者であり英雄としての側面もある一方で、彼が強制的に行った粛清や大躍進政策では大量の犠牲者を出し、中国経済の停滞を生じさせた。

そのうえ、さらに中国全土を混乱のどん底に陥れた文化大革命を引き起こした本人であるとして、“残虐な独裁者”としてのイメージが一般的に強い。

一方で戦術としての彼は一流であり、上記を見てもわかるように軍事的な常識を無視した長征を成功させたうえ、当初は貧弱そのものだった共産党の勢を日中戦争では何気に拡大することでうまく漁夫の利を得て、最終的には民党を追い詰め、共産党を勝利へと導くことで中国革命を成功させた。

このように、時代の流れをうまく駆使した戦術である毛沢東は、革命英雄であることに偽りはない。

もうひとつ、彼が書く文章のセンスもずば抜けており、その巧みな文書の数々で励された多くの兵士や人民、あるいは衛兵を奮い立たせていったため、常に導者としてのカリスマを保った。

事実、彼が考えた言葉日本でもよく使われる「反面教師」を始め、「戦争は流血を伴う外交である」「戦争には戦争で解決させるほかない」といったような言葉を聞くだけでも、彼による巧みな文書のセンスを感じ取れるであろう。

こうした様々な要素により、毛沢東は“革命英雄”なのか、それとも“中国混乱のどん底に陥れた独裁者”なのか、今もなおその評価が大きく分かれている巨大な人物である。

エピソード

  • 非常に冷酷な独裁者としてのイメージがあるが、実はかなり情にもろく、趣味の劇を観賞していた際には、劇の途中で大声で涙を流したり、出演者を罵倒するなど夢中になりやすかった。さらに劇の席ではゆったり座れるようにズボンのベルトを緩めたため、歓声とともに立ち上がった際にはズボンがずり落ち、ノーパン下半身丸出しというお茶な姿をさらすことがあった。
  • 私生活が逆転しており、生活習慣に合わせて会議はいつも彼の寝室で別途を囲むようにして行われていた。
  • 極度な不眠症であったため、いつも睡眠を手放さず用していたが逆転の生活を送っていたたため、間やるらかに眠ってもらうため、側近たちはいつもスズメ退治に負わされていた。なぜなら、睡眠途中で起こされるとひどく癇癪を起こし側近らに、とばっちりを食らうからである。
  • ダンスを踊るのを好み、毎週土曜日にはダンスパーティーを開いていた。しかしダンスはお世辞にもうまいとは言えず、独特なステップで楽しんでいた。そこでお気に入りの女性を見つけてはそのまま寝室へ連れて行き一夜を過ごすことが多かった。
  • 生活様式は質素であり、大躍進以降農村の実態を知ると、それ以降は類には手をつけず、木製の簡素なベッドの上でタバコをふかしながら一日中読書をするのが基本的な生活習慣だった。
  • ヘビースモーカーであった。
  • 文化大革命では四旧打破を呼びかけるなど、伝統や文化を否定した毛沢東ではあるが、実はかなりの歴史好きであり、晩年は歴史書の正史を読み漁ることにふけていた。
  • 性生活は手であり、女性の好みは純女性、あるいは幼女など、さまざまである。

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初版作成日: 09/12/22 18:26 ◆ 最終更新日: 12/05/17 02:39
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毛沢東について語るスレ

52 : ななしのよっしん :2012/02/22(水) 12:09:20 ID: k0z6sLTEKB
後の統治~大躍進への13行インフレインフラの間違いじゃないかと思うんだが、どうなんだろうか?
53 : ななしのよっしん :2012/02/24(金) 19:02:29 ID: 7HH97JC3IP
>>52
丁寧に摘してくれてありがとう。
54 : ななしのよっしん :2012/02/25(土) 10:58:36 ID: yaKra1ttds
>>48
『遊撃戦論』は今でもゲリラ戦についてのバイブルだからな。
オタなら評価はしてるだろう。軍事に無知な自称軍オタは知らないけど。
55 : ななしのよっしん :2012/03/20(火) 14:35:30 ID: i/50G7xRzB
>>46
レーニンに関しては不適切だったかも知れんが、ゲバラは権に執着しなかったと言うより、政治としての己の限界毛沢東よりも見えただけかも知れないよ?
キューバ革命後の彼等は、カストロ抜きのゲバラトップではアメリカに踏み潰された可能性も有り得た様な…
>>48
革命・軍人としての有さと、政治としての無能さが同居するのが毛沢東だものね。
>>49
中国共産党漁夫の利を得る事無く、窮地に追い込まれた展開は何かを想像する方が、この記事(毛沢東掲示板の趣旨にあっていると思うけどね。
56 : ななしのよっしん :2012/04/22(日) 18:24:19 ID: lRU6htvfXe
この記事すっごいわかりやすいです。
要約すると毛沢東なんだよなぁ。

戦争揮出来てたころは賢だったけど、
後は一気に老害の暴と化した。

……これって古代中国から頻繁にあったんですよね。
を制した覇権国家が一気に腐る様っといい……所詮、曹操にはなれない人間だったか
57 : ななしのよっしん :2012/04/27(金) 21:49:02 ID: yaKra1ttds
>>56
というか別に中国に限った話じゃない。
現場で有が中央に行ったり指揮官になったり政治になったりして無能に、
というのは世界的に(日本でも)よくあるパターン
必要とされるが違うんだよな。
58 : ななしのよっしん :2012/05/15(火) 17:22:31 ID: i/50G7xRzB
>>56
曹操織田信長の様なタイプが稀で、
現実>>57摘する通りであり、毛沢東もそれに該当する人物に過ぎなかった訳ですな
59 : ななしのよっしん :2012/05/16(水) 17:34:36 ID: 83Oaz3hQUF
毛沢東「そもそも、七七事変(盧溝事件)が我が党の策動だったとしたら……?」

介石「てっ、てめぇ!」

毛沢東「反共はいけません。」

介石「……!」

毛沢東「フッ……フハハハハハハハハ!ですが笑えますねぇ。
     あの内戦で方達民党は大陸から追放、一方私は今では中華人民の英雄
     随分と差がつきましたぁ。悔しいでしょうねぇ!」

(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
60 : ななしのよっしん :2012/05/18(金) 23:47:33 ID: 3hB2dHKKKL
>>58
曹操はもちろん、信長も部下の人材重視タイプみたいだし
そういうほうが上手くいくのかな。
落合とかも、そうか?
61 : ななしのよっしん :2012/05/22(火) 18:49:04 ID: i/50G7xRzB
>>60
そんなところだと思う。
組織の統治手法はどうあれ部下に仕事をしてもらい、
導者の欠点・苦手分野をカバーする事が出来ないと、結果的に混乱をもたらすと言えるのかもね。
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