毛沢東(1893年-1976年)とは、中華人民共和国の政治家であり、また思想家でもある。中国語的には名前は「マオ・ツォートン」と発音する。
中華人民共和国建国者とされており、文化大革命により終身独裁者としての地位を築き上げた。
概要
` 毛 沢 東 `地球上に生きる人間ならば一度はこの名前を耳にしたことがあるはずであろう。
当時、戦争続きのカオスな状態であった中国大陸の統一を天才ともいえる戦術によって見事に果たし、今の中国を建国した。が、残念ながら政治家としての才能には恵まれてなく、異論など断じて認めない俺様思考の政治を強行したがゆえに、結局中国をさらにカオスな状態にしてしまったという人である。
そんな、彼のことを巷では英雄や偉人として尊敬の対象としているが、また別の巷では虐殺者やマジキチと蔑まされており、あるいは毛沢東(けざわひがし)、毛などとネタの対象にされていることから非常にハイスペックな人物であるため、中国史のみならず、世界史上でもかなりの超大物であり、その人物像には様々な議論や評価がある。
けど、毛沢東と聞けば、ほとんどの人がアレと思うわけだが。。。
赤いニコニコ動画でもおなじみの人物であり、同志といえばスターリン、将軍といえば金正日、なら主席といえば毛沢東のことさすだろう。けど、同志や将軍様と比べたらその存在感は髪の毛同様に薄い。
生い立ち~中華人民共和国建国
2人の兄が死去したため父親から跡継ぎとして育てられるも、幼いころから反抗的だった毛沢東は父親の反対を押しのけて学校へ通い始める。
やがて師範学校(大学の教育学部に相当)に入学した際には社会科学を学ぶ一方で、学友たちと新民学会といった学生サークルを立ち上げることで、政治活動に興味を抱く青春時代を送る。
卒業後、恩師の勧めにより名門北京大学の図書館員として活動する一方、後に中国共産党を創設する陳独秀などの文化人(一般的にジャーナリストや大学教授)と直接触れ合い、全国各地に反日・反帝国主義が主流となる時勢のなかで社会主義に興味を抱き始める。
父親の死後、故郷に帰還した際には地元の中学校の歴史教師として教鞭を取る一方で、父親の遺産をもとに出版社を設立する。
やがてソ連コミンテルンの指導のもと、陳独秀を中心とする中国の文化人により、中国共産党の結成が準備されると、その創設に賛同するため毛沢東は上海へ赴いた。
このとき北京政府をはじめとする各地の軍閥と対立していた孫文率いる中国国民党は、その対抗策として革命のモデルであるソ連へ近づくため、国共合作が行われた。(第一次国共合作)
そのため、毛は共産党員であると同時に国民党の宣伝部に所属することで軍閥批判などの論文を書き続ける。
孫文が`革命、未だならず`の言葉を残し死去すると蒋介石が国民党の新しい指導者となり、かねてからの念願であった各地に勢力を築く軍閥への総攻撃を開始する。(北伐)。 その一方で国民党内で勢力を増す共産党員を蒋介石が弾圧を命じたことで、国共合作は崩壊していくことになる。(上海クーデター)。
これにより、共産党は農民や労働者に武器を持たせることで紅軍を結成し、国民党に抵抗しようとするも、軍隊として精練された国民党軍には歯が立たず、包囲殲滅を受けたことで、あっけなく敗北してしまう。(南昌蜂起、これが行われた八月一日が、人民解放軍の建軍記念日である。)
この時、別働隊を率いていた毛沢東は残党兵を連れて彼による独自の判断で井崗山(せいこうざん)に立てこもる。
その後、共産党本部から指導部員を外された毛沢東だが、そのようなことなどお構いなしに毛は周辺の土地の大地主を解体して小作に土地を分配するなどの独自の政策を行った。
そこで中華ソビエト共和国を建国するが、国民党の攻撃に耐えしのぐ日が続く中で、毛は共産党指導部から正式に批判を受けることで、主導権を失うはめになる。
しかし、国民党からの攻撃に耐えきれなくなった共産党はついに瑞金政府を放棄することを決意する。
これにより、新たな根拠地を目指して12500kmという、距離にして日本列島を約2往復するほどの過酷な行軍が開始される。(長征または大西遷)
この道中の貴州省で行われた遵義会議(じゅんぎかいぎ)により、再び毛沢東が政治の実権を握ることになる。
そのため、紅軍の指導者となった毛沢東は、国民党軍からの猛攻撃に晒されながらも、小作人への土地分配などを実地することで各地の農民を味方につけていき、事実上亡命軍と化した兵士を貴州省から陝西省の延安まで兵士を進め、根拠地を定めることで長征を終了させる。
このとき、8万人近くいた兵士の数はわずか数千人程度まで減少していた。このように補給もろくに整ってない中で無謀ともいえる大胆な行軍を成功させたことは、現在でも紅軍の英雄談として中国全土に語り継がれている。
しかし、延安に根拠地を定めたとしても、国民党軍による攻撃が停止したわけではないため、これで存亡の危機が解消されるわけではなかった。が、そんな折、共産党にとって願ってもない出来事がやってくる。
柳条湖事件で関東軍に殺された張作霖の息子である張学良は、西安で蒋介石を拉致・監禁したあげく、共産党への攻撃を一時的に停止して、日本への警戒を行うことを要求する。(西安クーデター)これにより、国民党は再び国共合作に転じることで、共産党は窮地を乗り越える。
そして遂に1937年7月、盧溝橋での銃声の音とともに日中戦争が開始されると、前線で国民党が日本軍と戦っている間に共産党は八路軍として勢力を拡大することで、漁夫の利を得る。
それに乗じて、毛沢東は新民主主義論を打ち出すことにより、中国の大多数を占める農民を中心とした国家づくりを構想する。また、この時から整風運動を行うことで、毛沢東に不満を持つ共産党員を粛清し始める。
さらに、毛沢東は後の文化大革命で権力を握る女優の江青と結婚する。
やがてポツダム宣言を受け入れた日本が連合国に降伏を行ったことで日中戦争は中国の勝利に終わると、もはや同盟の必要性もなくなったため、蒋介石はさらに共産党を攻撃することで、再び国共内戦が開始される。(第二次国共内戦)
が、しかし日中戦争で漁夫の利を得た共産党は、もはや前回のような貧弱な軍隊ではなく、農民の支持とソ連による支援をはじめ、「人民のものは針一本たりとも盗むな」といった毛沢東の巧みな文書により、共産党の軍は常に規律が保たれていた。 北平(北京)入城に成功した共産党軍は、1949年10月1日、北京天安門にて中国の建国宣言を行う。
これにより現在の中華人民共和国が成立し、革命のリーダーである毛沢東は建国者として絶対的な権力を握ることになる。 (・・・ここで引退しておけば英雄として最高の評価が得られたはずだが)
その後、国民党の本拠地である重慶を奪い、ついに蒋介石を台湾へ追い払う。
しかし、台湾進攻を計画していたさなかの1950年、今度は共産党にとって迷惑な話が持ち込まれてきた。朝鮮半島統一の野望を抱いた北朝鮮の金日成が韓国への攻撃を命令する。
これにより朝鮮戦争が勃発し、緒戦は北朝鮮の快進撃により朝鮮半島をほぼ占領。一時は釜山にまで韓国を追い詰めるが、アメリカを中心した国連軍が韓国への援軍として仁川からの奇襲攻撃をしかけることにより、巻き返しを行うことで形勢が逆転する。
そのため金日成はソ連への支援を求めたが、この時、ソ連指導者であるスターリンはアメリカとの関係を悪化させないために、代わりに中国の支援を頼るように金日成に伝える。
国共内戦では、さんざん支援してくれた盟友であるソ連の頼みとあっては断れないと判断した毛沢東は、急遽、台湾攻撃の計画を中止し、北朝鮮への援軍を送りこむことを決意する。このおかげにより、中国軍(人民志願軍)の援軍を頼りに北朝鮮軍は北緯38度線まで軍隊を押し上げることで、朝鮮戦争以前までの領土が回復する。 その後、戦況も膠着状態になり、南北両国が互いに休戦を受け入れたことで一応の決着はついた。この戦争に参戦した長男の毛岸英が戦死することで、毛沢東は息子を失うはめになる。
かつて日本軍の侵攻により窮地を乗り越えた共産党が、今度は朝鮮半島での戦争により国民党が窮地を乗り越えるとは、まさに皮肉なことである。
その後、ソ連の承認を得てチベット攻撃を開始すると同時に占領し、モンゴルはかつて中国の領土であったが、ソ連の傀儡政権であったため独立を承認していたことで香港とマカオを除く中国大陸が共産党によって統一された。
建国後の統治~大躍進へ
建国後、毛沢東は土地改革を行うことで、それまで土地を持つことが許されなかった小作人に土地を分配することで、農業の生産率を上昇させる。
その上、農民による土地の売却を禁止するために戸籍制度を整えることで、事実上、農民と都市住民の戸籍が別々にされる(これが今日まで中国の格差を引き起こしている原因の一つである)。
さらに彼は汚職や悪徳資本家を取り締まることを名目に反共産党のスパイを摘発させるため、隣組のような組織を作ることで各地の人民同士を監視させる体制を作り上げる(三反五反運動)。
しかしこれは、力を持った共産党員が、自分のライバルや敵対視する人物を蹴り落とす機会を与えることになり、冤罪者が続出するはめになってしまった。そのため、逆に汚職や腐敗を蔓延させてしまうという結果になってしまう。
建国当初から毛沢東はソ連のような国家づくりを目指していたため、彼はスターリンの政策を見習い、五カ年計画を実地することで農作物を集団生産化させる。
その上、防衛上の観点から、かつての日中戦争のように沿岸部を攻め取られてもゲリラ戦で対抗できるよう、工場を内陸部に建設するよう指示する。
が、内陸部へわざわざ工場を建設したところで、インフラが整っていない内陸部では効率よく稼働するのは不可能なため、乱暴な生産政策により、中国経済は徐々に混乱していく。
されど、建国者である毛沢東に口答えできる者は誰一人許されなかったため、全員が彼の政策にうなずくほかなかった。
そんなさなか、毛沢東は自由な議論の場を設けるべく「百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」のスローガンを掲げた。
当初は毛沢東に口答えをすることに渋った者が多かったが、議論が出ないことに腹を立てる彼を見かねたため、素直に打ち明けたところ、今度はその者たちが反乱分子のレッテルを貼られることで約60万人が粛清される(反右派闘争)。
これによって、毛沢東の権限は以前にも増して強大なものになった。
このころ、社会主義諸国にとって大きな衝撃をあたえる出来事が起こった。ソ連ではスターリンが死去したのちに、指導者となったフルシチョフがスターリン批判を行ったため、それまで社会主義の英雄として絶大な権威を保っていたスターリンの威信が地に落ちてしまうといった状況が巻き起こった。(スターリン批判)
これは、今までスターリンを手本としていた毛沢東にとっては、非常につじつまが合わなくなることであり、毛沢東もまたフルシチョフ批判を行うことで中ソ対立が起こり、本来同盟国であるはずの両国の関係が一気に冷え込んでしまった。
そのため、毛沢東は早くもソ連に対抗するために国力を上げることを決意する。
そこで彼が打ち出したものが、大躍進政策である。
これは当時7億人いた中国人を人民公社で働かすことにより、農作物や鋼鉄などを人海戦術の方法で生産させるといった増産計画である。
これにより、生産力を一気に上げさせて、15年以内にはイギリスを追い越すことを目標に掲げるが、しかし生産の前にそもそも生産方法をよく把握していない人民が多く、本来ならば鋼鉄は鉄鉱石から作るものだが、家庭に置いてある鍋や農具用の鍬を手作り性の高炉の中に放り込んでクズ鉄を生産すると言ったような本末転倒を始め、人民公社ではタダ飯が食べれる上に、働いても分け前は同じであるため、労働意欲が低下して生産を上げようとしない農民が多い中、管理人である共産党員は見栄を張るため、生産目標のみをやたらと上げるといった行動に出たため、生産力は瞬く間に低下し、最終的に3000万人規模の餓死者を出す羽目になってしまった。
このような悲惨な結果であるにもかかわらず、効果は上々と絶賛する下からの嘘の報告をまんまと信じ込んだ毛沢東は、自らが建てた計画が大成功していることに一人だけ大満足していた。
このように裸の王様と化した毛沢東だが、そんな彼の姿を見るに見かねた彭徳海(ほうとくかい)は勇気を持って毛沢東に真実を告げたが、当然のことながら毛沢東の逆鱗に触れたことで、彭徳海は失脚してしまう。これがのちに文化大革命の引き金を起こすきっかけになろうとはこの時、誰も予想していなかった。
しかし、状況はもはや深刻化しており、とうとう毛沢東も自己批判をするほかなくなってしまった。(七千人大会)
これにより、毛沢東は国家主席の位を劉少奇に譲ることで彼は政権から一歩引くことを決断する。
…が、ここでおめおめと引き下がる毛沢東ではなかった。このような彼による権力への執着が後に中国全土を混乱のどん底に陥れる結果となってしまう。
終盤 文化大革命により終身独裁者となる。
毛沢東により政権を受け継いだ劉少奇は、毛が今まで行った政策は失敗だったと判断したため、市場経済を導入することで金儲けを認めさせた。
本来は自分の土地を持つことが望ましかった農民にとって、毛沢東が行った集団生産化は国家に再び土地を奪われた認識にすぎなかったため、人民公社を徐々に解体していくことで集団生産化が解除されるようになり、再び農民に土地を分け与えられ農作物の生産が上昇した。
こうした政策の見直しにより、問題とされていた餓死者の数が嘘のように改善されたうえに、核実験の成功を受けて技術の進歩を感じていた中国に毛沢東語録が出回ったことで、毛沢東は中国の建国者として神格化され、過去の存在になっていた。
こうして、中国は順調に発展を遂げるかに思われた。
…そう、例の論文が世間に出回るまでは。
上海の機関紙に京劇である「海瑞罷官(かいずいひかん)」を非難する論文が掲載された。
「海瑞罷官」とは、宦官である海瑞が明の皇帝に真実を伝えたことで民を救う劇である。これは前述したように、かつて大躍進政策の実態を正直に告げた彭徳海を擁護するものであり、毛沢東を否定する劇であるとして世間に知れ渡った。
後日、これを受けて劇の作者であり、劉少奇に近い人物である呉含(ごがん)が非難されている内容の壁新聞が北京大学に掲載された。
それを見た学生たちは全国各地に紅衛兵を結成し、毛沢東と敵対する思想を持つ政府を標的にして、一斉非難を開始する。
これに対し、毛沢東は「造反有理(反対するには何か理由があるはずだ)」を紅衛兵に伝え支持すると共に、さらにあろうことか「司令部を砲撃せよ」といった論文を手掛けることで、事実上、毛沢東は紅衛兵に対して劉少奇への攻撃命令を告げる。
これにより、劉少奇は社会主義のふりをした資本主義者である、という修正主義(走資派)のレッテルを貼られるはめになる。
こういった劉少奇のような走資派を打倒するためなら何をしても良いという認識が紅衛兵をさらに過激にさせ、皮靴をはいているものや、浴槽に使っているものなど少しでも資本主義階級と思われる者には容赦なく紅衛兵からの迫害を受けた。そのため、知識人である教師が迫害されることにより全国の学業が停止したため、十分な教育を受けていない失われた世代が誕生した。(ちょうど、現在の50代がこれにあたる。)そのうえ、歴史ある寺院などがことごとく破棄され、墓荒らし、赤信号は革命の色である赤色だからわたってもよいと言った、紅衛兵の勝手極まりない認識が中国をさらに混乱にさせた。
こういった混乱を逆手にとって権力を手にしようとしたのは毛沢東だけではない。
紅衛兵による破壊活動を積極的に支援するために声援を送り続けた毛沢東の妻である江青を中心とする四人組や、もしも紅衛兵の破棄活動に行き過ぎが生じた場合に備えて軍隊を指揮する役を与えられた林彪(りんぴょう)の発言力が大きくなった。
しかし、毛沢東の目的は劉少奇失脚に伴う権力回復であり、劉少奇が失脚すると彼にとって紅衛兵は用済みとなったため、農家への下放を指示した。
学生を中心としていた紅衛兵が農業を務まるはずもなく、それが彼らにとって過酷さを極めた。あるいは、下放された女性の強姦が多発するなどの事件が頻繁に発生してしまう事態が起こった。
そんな状況でも、文革で権力を確保した四人組は、その権力を維持させるため、けして文革を終了させようとはしなかった。
そのため、四人組に近い共産党員(文革組)が地方各地へ赴任し革命委員会が設立されることで、走資派であり毛沢東主義に沿わないもの、あるいは単にこじつけによって文革組の意に反するものを大衆の前で吊るしあげなどの中傷を始め、殺戮する行為に出た。 しかし、今度は文革組の間でどちらのほうが毛沢東主義に忠実なのかを競ったため、互いに批判しあうことで、最終的に、地方の革命委員会同士が武装闘争を行うはめになってしまったことで内乱に近い状態となった。 こうした、地方の暴走にたいして中国軍が出動することで事態の収束を図ろうとした結果、軍の指揮権を握っていた林彪の権限がさらに増える事態となった。
そのため、劉少奇亡き後の毛沢東の後継者として国家主席のポストを期待していた林彪だが、毛沢東が国家主席の職務を廃止したため、それに逆上して毛沢東暗殺を決意する。
が、しかしこの企みは結局毛沢東にばれ、追い詰められた林彪はソ連への亡命を行うため、飛行機に乗り込むものの途中のモンゴル上空で不時着することで、あえなく死亡する。(林彪事件)
もはや、強大な権力を手にした毛沢東ではあるが、いい加減、文革により荒廃した国内の疲弊を回復させるべく、かつて修正主義者として劉少奇同様に迫害されていた鄧小平を政界に連れ戻す。
鄧小平、そして首相である周恩来は国内を安定させるため、ひとまず文化大革命を終わらせようとするが、文革を大義名分として権力を維持している四人組がそれを許すはずもなく、劉少奇の次に今度は周恩来と鄧小平を標的に批判し始める。
そこで、四人組は、中国の代表的な哲学であり、それまで民衆の間で広く根付いていた儒教を封建的であるとして、否定し罵声を浴びせた。これは儒教を信仰している周恩来を退廃的であるとして、こじつけようと権力から引きずり降ろすことを目論んだ四人組による陰謀であった。(批林批孔運動)
その結果、中国に道徳が失われると同時に、名著である水滸伝の登場人物を鄧小平に置き換えることで、水滸伝も批判される結果となる。
こうした四人組の暴走を毛沢東は放置したため、国内の疲弊が回復されることはなかったが、中国が台湾(中華民国)に代わって国連安保理の常任理事国として認められるなど、国際社会においては中国の地位が向上していくなか、1972年に日本の首相、田中角栄が訪中することでアメリカに先駆けて日中国交正常化が実現する。
この時に毛沢東は対日賠償金を放棄したうえに、田中角栄を有能な政治家であると評価を下している。
やがて過労が生じたため、周恩来が死去すると、その追悼式のために多数の北京市民が天安門広場で献花を行った。
しかし周恩来を敵視していた四人組が、献花された花の撤去、そして追悼に現れた市民の一斉逮捕に踏み切った。(第一次天安門事件)
このような露骨な対応は当然、市民からの批判が激しく行われたが、四人組はこの事件の首謀者は鄧小平であるとして、彼に濡れ衣を着せることで、再び鄧小平を失脚させる。
周恩来の死去と同時に毛沢東の様態も日増しに衰弱しており、周恩来が死去した2ヶ月後、ついに彼も息を引き取った。(享年82歳)
こうして、かつて中国革命を成功させた英雄は、自らが建国した国家を疲弊させた独裁者としてこの世を去ったのである。
死後の評価 「功績七分、誤り三分」
死に際に毛沢東は次期後継者として華国鋒(かこくほう)を指名していた。
四人組同様に文革で指導者となった華国鋒も文化大革命の継続を望んでいた一人であった。
しかし、彼にとって四人組は権力を行使するうえでは邪魔者でしかなかったため、四人組の逮捕を決行する。
無事に四人組を逮捕した華国鋒であるが、彼には経験と人望が乏しかったため、さすがに鄧小平の貫録には敵わず、やがて彼に権力の座を奪われるはめとなる。これによって、中国を混乱に陥れた文化大革命は完全に終幕することになる。
その後、若干の歴史決議が行われ、死後毛沢東の評価が下された。そこでは「功績七分、誤り三分」とされ、独裁者としての側面もあるが、中国を建国した偉大なる指導者であることには変わりない、という評価を下した。
よって、現在も中国の建国者である毛沢東の威厳は失われておらず、建国宣言が行われた天安門では、巨大な彼の肖像画が今もなお、堂々と飾られている。
評価
中華人民共和国の建国者であり英雄としての側面もある一方で、彼が強制的に行った粛清や大躍進政策では大量の犠牲者を出し、中国経済の停滞を生じさせた。
そのうえ、さらに中国全土を混乱のどん底に陥れた文化大革命を引き起こした張本人であるとして、“残虐な独裁者”としてのイメージが一般的に強い。
一方で戦術家としての彼は一流であり、上記を見てもわかるように軍事的な常識を無視した長征を成功させたうえ、当初は貧弱そのものだった共産党の勢力を日中戦争では何気に拡大することでうまく漁夫の利を得て、最終的には国民党を追い詰め、共産党を勝利へと導くことで中国革命を成功させた。
このように、時代の流れをうまく駆使した戦術家である毛沢東は、革命の英雄であることに偽りはない。
もうひとつ、彼が書く文章のセンスもずば抜けており、その巧みな文書の数々で激励された多くの兵士や人民、あるいは紅衛兵を奮い立たせていったため、常に指導者としてのカリスマを保った。
事実、彼が考えた言葉で日本でもよく使われる「反面教師」を始め、「戦争は流血を伴う外交である」「戦争には戦争で解決させるほかない」といったような言葉を聞くだけでも、彼による巧みな文書のセンスを感じ取れるであろう。
こうした様々な要素により、毛沢東は“革命の英雄”なのか、それとも“中国を混乱のどん底に陥れた独裁者”なのか、今もなおその評価が大きく分かれている巨大な人物である。
エピソード
- 非常に冷酷な独裁者としてのイメージがあるが、実はかなり情にもろく、趣味の劇を観賞していた際には、劇の途中で大声で涙を流したり、出演者を罵倒するなど夢中になりやすかった。さらに劇の席ではゆったり座れるようにズボンのベルトを緩めたため、歓声とともに立ち上がった際にはズボンがずり落ち、ノーパン下半身丸出しというお茶目な姿をさらすことがあった。
- 私生活が昼夜逆転しており、生活習慣に合わせて会議はいつも彼の寝室で別途を囲むようにして行われていた。
- 極度な不眠症であったため、いつも睡眠薬を手放さず服用していたが昼夜逆転の生活を送っていたたため、昼間やるらかに眠ってもらうため、側近たちはいつもスズメ退治に負わされていた。なぜなら、睡眠途中で起こされるとひどく癇癪を起こし側近らに、とばっちりを食らうからである。
- ダンスを踊るのを好み、毎週土曜日にはダンスパーティーを開いていた。しかしダンスはお世辞にもうまいとは言えず、独特なステップで楽しんでいた。そこでお気に入りの女性を見つけてはそのまま寝室へ連れて行き一夜を過ごすことが多かった。
- 生活様式は質素であり、大躍進以降農村の実態を知ると、それ以降は肉類には手をつけず、木製の簡素なベッドの上でタバコをふかしながら一日中読書をするのが基本的な生活習慣だった。
- 超ヘビースモーカーであった。
- 文化大革命では四旧打破を呼びかけるなど、伝統や文化を否定した毛沢東ではあるが、実はかなりの歴史好きであり、晩年は歴史書の正史を読み漁ることにふけていた。
- 性生活は派手であり、女性の好みは純朴な女性、あるいは幼女など、さまざまである。
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