「江(ごう)」
(天正元年-寛永3年/1573-1626)は、
戦国時代から江戸時代初期の女性。
名前に関しては「江与」「お督」「小督」など、複数の名前が伝わっている。法名は「崇源院(すうげんいん)」。
徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の正室であり、三代将軍徳川家光の母。
数奇な運命を辿ったことで知られる浅井三姉妹の末妹で、淀殿(茶々)とお初(常高院・京極高次正室)は姉、豊臣秀頼は甥。また織田信長の姪であり、豊臣秀吉と京極高次は義兄にあたる。
概要
浅井長政とお市の方の三女として産まれる。しかし江がまだ物心つく前に、長政は江の伯父・織田信長に攻められて自害。お市と三姉妹は織田信包の元に引き取られた。
信長が本能寺で横死し、織田家中が柴田勝家派と羽柴秀吉派に分かれると、お市は柴田勝家に再嫁。江ら三姉妹も北ノ庄城で暮らすようになるが、そのわずか7ヵ月後、勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北し、北ノ庄城で自刃。お市もこれに従った。
その後三姉妹は秀吉の保護を受け、江は佐治一成のもとに嫁ぐことになった。しかし一成は小牧・長久手の合戦で家康に協力したことで秀吉の怒りを買い、江は一成と離縁させられる。
さらにその後、秀吉の甥であり、豊臣秀次の弟でもある羽柴秀勝(豊臣秀勝)と再婚。秀勝との間に女子をもうけるが(完子)、秀勝は朝鮮出兵で病死。未亡人となった江は、最後の夫となる徳川秀忠に再嫁することになる。
しかし江戸に子供を連れて行くわけにいかず、完子姫は淀殿に引き取られ、江は娘と生き別れることになった。
江は秀忠よりも年上であったが、夫婦仲は良好で、二男五女に恵まれた。
将軍御台所という地位にあったが、大坂の陣では長姉と甥を失い、徳川幕府の跡継ぎ問題に関して派閥争いが起こり、さらに三女・珠姫に先立たれ、四女・勝姫の夫は乱心して追放されるなど、必ずしも心穏やかに過ごしたわけでもなかったようだ。
秀忠が将軍職を退くと、江もこれに従って江戸城西の丸に移った。この頃から体調を崩しがちであったが、寛永3年(1626)、秀忠と家光が上洛している最中に江戸城西の丸にて死去。享年54。
墓所は芝の増上寺。秀忠の墓所も増上寺であり、現在も二人仲良く眠っている。
人物
鬼嫁…大変気が強い人物として伝わっており、秀忠も彼女には頭が上がらなかった。ただ一度の浮気で出来た子(保科正之)に関しても、秀忠は江の勘気を恐れてこっそり養子に出している。正之が歴史の表舞台に出るのは江の死後である。また家光よりも次男・忠長を偏愛したことで知られ、このことは将軍の跡目争い問題を引き起こした。
遺骨の調査によると、大柄であった両親に似ず、小柄で華奢な人物であったらしい。
子孫
多くの子に恵まれたため、現在伝わっている浅井家の血筋はほとんどが江の系統である。
徳川秀忠の男系が途中で途切れてしまったため、徳川宗家に江の血筋は伝わっていないが、
前田家、天皇家などに江の血筋が今も残っており、昭和天皇および今上天皇も江の子孫にあたる。
子女
完子(1592 - 1658):豊臣秀勝との間に生まれた長女。関白・九条幸家(忠栄)の正室。淀殿に養育された。貞明皇后(大正天皇の皇后)の祖にあたる。
千姫(1597 - 1666):徳川秀忠との間に生まれた次女。豊臣秀頼、本多忠刻の正室。
珠姫(1599 - 1622):前田利常の正室。3歳と言う幼さで前田家に嫁いだが、若くして世を去った。
勝姫(1601 - 1672):松平忠直(結城秀康の嫡男)の正室だが、夫の失脚に伴い離縁した。
初姫(1602 - 1630):江の次姉・お初の養女となった。京極忠高の正室。若くして世を去った。
徳川家光(1604 - 1651):徳川幕府三代将軍。
徳川忠長(1606 - 1634):駿府藩主。乱行のため改易され、江の死後自害した。
東福門院和子(徳川和子)(1607 - 1678):江と秀忠の末子。後水尾天皇の中宮。明正天皇の母。
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関連項目
- 戦国時代
- 江戸時代
- 戦国時代の人物の一覧
- 浅井三姉妹
- お市の方
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- 徳川家康
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- 葵徳川三代
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