概要
弘化元年(1844年)、土佐国土佐郡潮江村にて地下浪人沢村家に生まれる。諱は延世。変名前河内愛之助または関雄之助。
坂本龍馬の通った剣術道場、日根野道場に通い、土佐の三奇童の一人である郷士・間崎哲馬に師事する。
文久元年(1861年)、土佐勤王党が結成されるとこれに加わったが、名簿には記載がない。
文久2年(1862年)3月3日、攘夷運動に参加するため脱藩。情勢を武市半平太に知らせるため一旦帰国し、24日には坂本龍馬と共に高知城下を抜け、再度脱藩する。坂本が脱藩を決意した理由については、久坂玄瑞と会談した際の草莽崛起論と、先に脱藩した吉村寅太郎や沢村の説得によるものではないかという指摘がある。[1]下関で坂本と別れた沢村は上京後公家の河鰭(かわばた)家に仕えて政治情勢を探索。その後江戸に向かい、坂本と同様勝海舟の門下生になる。勝塾では英語や航海術を学ぶ。
文久3年(1863年)4月はじめ頃に坂本他数名と幕臣の大久保一翁と会談し、大久保の政権返上論に感銘を受ける。大久保曰く「両人(坂本、沢村)ばかりは手を打たんばかりに解得した」と横井小楠宛の書状に書いている。
元治元年(1864年)10月、神戸海軍操練所が閉鎖すると、勝が沢村ら脱藩浪士の身柄を薩摩藩に預かってもらうよう周旋し、元治2年(1865年)2月に鹿児島に移る。鹿児島では蘭学の教授を務める。同年、長崎の亀山で結成された社中(亀山社中)の発足メンバーになる。社中では船の購入や外人応接掛を務める。
慶応3年(1867年)3月に社中が海援隊に改称後も引き続きメンバーとして活動するが、11月15日に坂本が暗殺されるとすぐ京都に駆けつけ、いろは丸事件で対立した紀州藩の三浦休太郎が怪しいとして海援隊士達と共に三浦を襲撃した。(天満屋事件)
慶応4年(1868年)、幕府が消滅してもぬけの殻となった長崎奉行所を占拠したが、1月14日に酔って暴れた薩摩藩士を暴漢と誤って殺してしまったため、薩摩藩との関係悪化を憂慮した沢村は25日に切腹した。享年26。
沢村は切腹の際「男子たるもの布団の上で呻吟して薬鍋と組打ちするより此の方が往生際がよいぞ」と言い残したと伝わる。
脚注
関連項目
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