清和源氏単語

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清和源氏とは、賜姓皇族のひとつであり、おそらく日本の氏族の中で一、二を争うほどの有名なものである。

清和源氏とは

要するに源頼朝源義経など治承・寿永の乱でおなじみの彼らのことである。桓武平氏と並ぶ武の棟梁として有名な存在であるが、そこに至るまでは決してたんなではなく、また最終的には皮なことに嫡流は絶えてしまった彼らの末路をご存知の方も多いだろう。分の中には室町時代を代表する足利氏新田氏、守護大名としておなじみの細川氏、山名氏、斯波氏、畠山氏、一色氏、今川氏、最上氏、大崎氏、佐竹氏、武田氏、小笠原氏といった人々もこの子孫にあたり、戦国時代ファンにも割としい存在である。

しかしめて考えてみると彼らはどのようなをたどってきたかを答えられる人はそういないかもしれない。そこで少し長々となってしまうかもしれないが、順に彼らの歩みを見ていきたいと思う。

清和源氏のほんとにざっくりとした略系図

  • ‖:養子 / 下線付き:養子に行った人物
清和天皇
陽成天皇 貞純
経基
満仲 満政 満季 満快
<摂津源氏> <大和源氏> <河内源氏>
源頼光 頼信 頼範
+
頼義 頼清 頼季 頼任 義政
義綱
義宗 義忠 義時
源為義
源義朝 義賢
源頼朝 源義経 源義仲
源頼家 源実朝

清和源氏、誕生

清和天皇の皇子のうち長猷、長淵、長鑒および載子の4人が、貞観15年(873年)にの姓を与えられたのがその始まりである。さらに清和天皇のほかの王になっていた皇子の子、つまり皇孫たちも次第にの姓を与えられて臣籍降下されていった。

ということで実はかなりの人数がいるのだが、はっきり言ってほとんどの系譜について特にるべきことはない。この中でるべきことがあるとすれば貞純王の6男、六孫王こと経基王の子孫のみである…のだがその前にちょっと待ってほしい

そもそも清和源氏なのか

実はこの経基王、もとい経基、実は清和源氏じゃない確率が結構高い。それは20世紀に発見された、石清水八幡宮に奉納されていた子孫の頼信(この後登場する)が書いた文が、自分の先祖を陽成天皇の子・元王としていたのである。ここで陽成天皇ときてピンと来た人もいるかもしれないが、荒々しい気性が災いして天皇の座から降ろされたとされるあの人物である。

近年の研究によって陽成天皇の流れが天皇位を続けていくと不都合だったために降ろされ、後付けで様々な伝説がつくられた、ということも言われるようになったが、とりあえず頼信が生きていた平安時代中期~後期の時点ですでに天皇としての悪名は高かった。そんな天皇が先祖では困るのですり替えられたよ説、陽成天皇の系統が護を受けるために清和源氏の系統に養われていた説、などさまざまあるが、とりあえず長いこと清和源氏って言っていたので今更陽成源氏って言いづらいし…という至極もっともな理由で今もなお清和源氏と呼ばれているのである(ていうか陽成天皇自体清和天皇息子なので清和天皇の子孫には変わりないし…)。

まあ、正直事の相がはっきりすることは多分ないと思われるので、明日使える豆知識程度に軽く読み飛ばしていただきたい。

すべての始まり、源経基

さて、この経基であるが承慶の乱、つまり平将門の乱と藤原純友の乱どちらにも関わったことで桓武平氏高望流、秀郷流藤原氏などと同様自らの氏族が軍事貴族としての歩みを始めたきっかけとなった人物である…のだが正直言って子孫にべるとうーんこの、としか言いようのない残念な先祖である。

そもそも平将門の乱自体事の発端がこの経基が都に反乱を伝えたものであるのだが、ぶっちゃけ地元の抗争の調停を平将門と経基の上世王が行っているさなか、何を勘違いしたのか自分を攻めてくると思って勝手に臨戦態勢に入った挙句都に逃げ帰った、というのが相である。ぶっちゃけ都の公家たちもハイハイ妄想、と言って済ませていたら全く別の理由で本当に将門が反乱を起こしてしまったために、棚ぼたでなんか功績者のひとりになってしまった、というわけなのだ。

そして藤原純友の乱も、ぶっちゃけ討伐者のひとりになってはいるものの乱の征討自体には何も関わっていない。やったこと自体は乱の終結後敵の武将の一人を捕らえただけである。

このようにどうもみみっちく頼りない一人の男であったのだが、とにもかくにもここからすべてが始まったのである。

藤原氏の爪牙、源満仲

さて時代は藤原氏が次第にしていく前期摂関時代に移っていく。そんなさなか夷由来の武芸をの芸とし、都の武をるようになった軍事貴族が承慶の乱の功績者の中から生まれてきた。その一人が経基の息子満仲である。

彼が歴史の表舞台に出るのは、外戚として北藤原氏と皇位をめぐって対立していた醍醐源氏高明が失脚するに至った安和の変である。その最初のきっかけである反乱を企てているという密告を行ったのが、藤原氏の武となっていた満仲であったのだ。
実はこれには裏があり、高明の営には同じ軍事貴族の秀郷流藤原氏藤原がいたのである。つまり、安和の変は中央での栄達をめぐる軍事貴族同士の争いでもあったのだ。そしてその争いに見事勝利した清和源氏は、摂関となっていく北藤原氏盛と連動して都の武を一手に引き受けていくのである。

主な分流

満政流

満仲の満政も各国司を歴任し、安和の変の時は検非違使としてを助けた。八を号した彼の子孫は美濃、飛騨、尾、三河などに移り住み、朝廷の武として活躍した山田氏や足助氏などが知られる。

近世以降では家康の生実家水野氏が子孫を自称している。

満季流

さらにそのである満季は近江を拠点にし、代々朝廷中堅、下級官僚や御家人の職に就いた。とはいえ小椋房と河曲頼行の二人の勇将以外はぱっとせず、近世以降は旗本クラスに4ほどいる程度である。

満快流

さらにそのである満快は信濃で繁栄した。子孫はあまり出世の機会に恵まれず、鎌倉時代には衡が北条氏の排斥を狙い失敗している。

近世以降は大名では安倍氏諏訪氏、片桐氏が子孫を名乗っている。

源頼光、源頼親、源頼信の三兄弟

さらに時代は花山天皇が排斥され、一条天皇が即位、藤原氏も数度にわたる後継者争いの末についに藤原道長の一門が繁栄を謳歌した後期摂関時代に移る。依然として各国司を歴任しつつ、都では摂関牙として活躍していた清和源氏は、藤原道長の系統に属することで同じく繁栄を享受するのである。

その時代に生きたのが満仲の息子たち、四天王でおなじみ源頼光清少納言清原致信の殺を成功させ長から殺人上手と褒められた、そして、多くの武源氏の祖となる頼信の三兄弟である。
特に頼信は、かつて従関係を結んだ忠常の乱の鎮圧に桓武平氏である直方らが手間取っている中、かねての縁もあってあっけなく彼を降させ、これに感した直方が自身のと頼信の息子頼義の婚姻鎌倉の地を差し出すといったほど、その名をとどろかせたのである(ちなみにこの直方の子孫が北条氏らしいが…)。

この三兄弟は次第に役割を分化させていき、源頼光の子孫・摂津源氏の子孫・大和源氏頼信の子孫・河内源氏となっていくのである。

主な分流

摂津源氏

に進出し勢を拡大していった河内源氏べると、中央の武として代々続いていった摂津源氏はいまいちパッとしない。清和源氏としては嫡流であったのだが鹿事件でおなじみの多田行綱は一のの戦いなどでの活躍があったものの、源義経とまとめて失脚してしまった。

また分では源頼政が有名ではあるが、彼の子孫も様々な政争に巻き込まれて次第に消えていってしまった。

一方地方に進出した一門では美濃源氏房の系統がおり、これが土岐氏として室町時代に繁栄を謳歌することになる。

このように清和源氏としては河内源氏に次ぐネームバリューのため近世以降子孫を名乗るものも多く、大河内氏、太田氏、植村氏、土井氏、池田氏、中川氏、仙氏、浅野氏など多数存在する。

大和源氏

大和と聞いた時点で嫌な予感がした人は相当な歴史オタクだろう。進出して興福寺との争いに敗れ、落する。

それでも保元の乱上皇方となった信実や、豊島氏、宇野氏、大野氏、朝日氏、福原氏、石川氏などが子孫として知られる。

近世以降も高木氏、土方氏といった大名が子孫を名乗っている。

頼平流

今まで全く名前を出さなかったが、満仲の4男である。特に立った活躍はせず、しかも源頼光の猶子になったことから摂津源氏と混同されることもしばしばある。そのため子孫もぱっとせず特に触れることはない。

頼範流

さらにその下のである。子孫は蔵人の事務担当である勾当を名乗り朝廷の文を担当していったようだ。しかし承久の乱での朝廷敗北によって活動は途絶えてしまった。

源頼義と前九年の役

さて、ここからは河内源氏の活躍を述べていこう。少し前倒しに出てきてしまったが頼信の嫡子が頼義である。彼は受領として各地の国司を歴任し、また父親の功績で直方婿になるなど、若いころから期待のホープとして名をあげていた。父親である頼信が上である藤原頼通に、あいつには武の才があるのでそっちの仕事を回してくださいと言ったほどである。

その彼を代表する出来事が前九年の役である。陸奥守の任についた彼は現地で反乱を起こしていた安倍頼良(最近では俘囚の長というわけでもなく現地安倍氏の子孫という微妙に違う扱いらしい)対策のために向かうが、頼良は名前が同じではいけないと安倍頼時に名前を変えるほどの低姿勢で恭順し、また藤原彰子病気癒祈願の恩赦もあって普通陸奥ライフをエンジョイすることになった。

が、彼が陸奥からもうすぐ立ち去ろうというとき、それまで頼義の護の下にあった在庁官人の暴走などから安倍氏が頼義を狙っているという騒動に発展し、前九年の役が勃発することになったのである。

安倍頼時の婿である永衡をうっかり殺してしまった結果、同じく婿であった藤原経清の離反を招き、安倍頼時は討ち取ったものの、跡を継いだ安倍貞任にの戦いで大敗北をしてしまう。そんなこんなでだいぶ不利な状況に追い込まれた頼義であったが、出羽の清原頼(こちらも俘囚の長とかそういうわけではなく、中央から下った清原氏の一門が土着したという扱いになってきたようだ)の大軍勢の援軍で、衣関の戦いや柵の戦いを経て定に成功したのである。

この功績で正四位下伊予守という公家一歩手前レベルの大恩賞を与えられたが、晩年はに励んだことが説話などに見られる

主な分流

頼清流

父親である頼信が上である藤原頼通に、あいつには文の才があるのでそっちの仕事を回してくださいと言った次男である。この頼清も各地の国司を歴任するのだが、孫の惟清の傷沙汰で一時的に落してしまう。しかし信濃に進出し、村上氏となった彼らは以後も信濃最大の人として名をとどろかせていくのである。

頼季流

父親である頼信が上である藤原頼通に、あいつは無能なので何も任せないで下さいといった三男である。その後と同じく信濃に進出し、井上党となったようだ。

そのため近世以降も井上氏、保科氏が子孫を称している。

頼任流

特に何も言われなかった四男である。先祖代々の河内を号していた。滝口、さらには各地の国司として一時的に栄えたが、落して消えてしまったようだ。

義政流

特に何も言われなかった五男である。関東常陸に進出し常葉を号していた。常陸にそのまま土着し、のちに佐竹氏の下に入った井氏が子孫とされる。

源義家の繁栄と陰り

さて、物語頼信と直方との間に生まれた八幡太郎、賀茂次郎義綱、新羅三郎の三兄弟の時代に移る。彼らは父親が築いた地位を継承し、このまま何もなければ特に問題なく栄は続くはずだった。

しかし時代は摂関が衰え、院政が始まる。彼らの君であった摂関の権勢に陰りが見え始めたのである。しかも清原氏の跡争いにほぼ私的に介入、後三年の役の勃発である。朝廷からのたびたびの催促を無視しただけではなく、戦いは泥沼化した一方、中央に残った義綱は都で次第に権を増し、応援に駆け付けた義太平洋沿いに独自の勢圏を築きたいのが見え見えであった。

後三年の役を何とか収束させた後もといった彼の息子たちもまた、自分の勢圏を築こうとあちこちでほかの一族と衝突を繰り返す。八幡太郎という武の棟梁の徴である彼であったが、河内源氏は次第に空中分解をはじめ、そんなさなか彼は亡くなったのだ…。

主な分流

義綱流

上にあげたとおりが泥沼の戦いの中にいるさなか中央で栄達し、次第に地盤を固めていった。しかし経緯は後述するが内紛によって彼の系統は粛清され、ごく一部を除いて族滅されてしまった。

義光流

経緯は後述するが源氏内の内紛の種。常陸に地盤を築き長男常陸源氏佐竹氏や近江源氏山本氏、騒動を起こし甲斐に流罪になった次男は甲斐源氏武田氏や小笠原氏、南部氏に、三男は信濃源氏平賀氏に、といった具合に有名人だらけの分その1。

当然近世に入ってからも多くの子孫が大名となる一方、承久の乱で院方についた平賀氏の分大内氏(室町時代のあの人とは違う)が堂上公家竹内氏として清和源氏一の公家となっている。

源為義と源氏の没落

が亡くなった後まず起こったのは彼の次男で配流されていたはずのの乱であった。そしてそれを討伐したのが、これまで伊勢で延々と内紛を繰り返していたはずが、それを解消し院に接近して院近臣になっていた伊勢平氏正盛だったのである。

さらに悲劇は続く。世した義宗、討伐された義北関東に進出し叔父トラブルを延々と続けていたと上三人が補から消え、その下に続き源氏を継ぐはずだった義忠が暗殺され、おまけにどさくさ紛れに叔父義綱の一族も族滅されたのである。その背後にはがいたとされる…。

こうして後を継いだのは、まだ幼い義息子という説もある)源為義であった。経験不足の彼に一族を統制するはなく、分連中どころか人たちまで勝手気ままに行動するようになってしまったのである。白河院チャンスを与えてはみたものの、そのに欠けるとみなされ、かつての武の棟梁たる源氏の居場所は次第に失われていった。後継者補であった義賢でさえも都に残ることはできなかったのである。

一方そんなさなか、関東に拠点を移し勢を拡大させていた庶長子の源義朝(ここら辺学会の東西で対立しているデリケートな部分だからあんま触れないように)は藤原信頼ら院近臣に接近し父親たちとたもとを分かつ。都を追われ秩父平氏と結んで北関東に勢を拡大しようとした義賢を、義朝息子が殺したことは全に手切れの合図であった。

そしてとうとう保元の乱が始まる。摂関の武として動員された源為義一門は崇徳上皇側につき敗北後白河天皇側についた源義朝義康らの一門が彼らに代わって次第に勢回復させていく…はずだった。

主な分流

義国流

京都を追われくから関東にのがれ、後継者補からは外されていた下野上野を開拓し在活動担当の足利氏と在地活動担当の新田氏が分流し、細川仁木畠山井、吉良今川、斯波、渋川、石一色大崎最上、山名、里見もろもろの祖である、といった具合に有名人だらけの分その2。ここまで書けば室町時代史勉強しての一言でいいよね?

平氏新田氏の子孫を自称しているので近世以降も徳一門がここの系統を称する一方、関東方の喜連川高家交代寄合に生き残っている。

義忠流

前述した暗殺された本来の嫡流。そのため嫡流意識が高く、河内や稲沢を号したものもいるが、のまま代々続いていった一族も存在する。

義時流

そのさらに保元の乱で族滅に近い状態になるが子孫は一部信濃を拠点に残った。

近世以降も石川氏などが子孫を称している。

義隆流

そのさらに。官途に恵まれずパッとしない存在だったが、平治の乱の際源義朝に従い壮絶な討ち死にを遂げた。

近世以降も氏や関氏が子孫を称している。

源義朝と平治の乱

保元の乱に勝ち上がりようやく出世のコースを登り始めた源義朝であったが、はじめから院近臣で高位についていた平清盛との差は歴然であった。また息子でのちの足利氏の祖である義康とお互いに熱田大宮から妻を迎えて義兄弟となり、都の軍事貴族ナンバーツーとナンバースリーで協していこうとするも、その義康はくに亡くなってしまう。

一方摂関の勢がごっそり抜けた後をふさいだのは、院近臣の中でも新参だった信西と平清盛であった。これに白河院以来の旧来の院近臣が反発し同盟を結び彼らの排除をもくろむ平治の乱の始まりであった。源義朝一門は藤原信頼のパイプでこれに協するも、信西の殺に成功した後は後白河上皇二条天皇に分裂、そこを清盛に利用されて藤原信頼たちは敗北したのであった。

源義朝は逃走するが中で殺され、庶長子の長も戦死、嫡子であった源頼朝平氏のうち池の助命で伊豆に流される。残りの息子たちも配流か門に入れられ、河内源氏の勢佐竹秀義、武田信義加賀美遠光平賀義信新田義重志田義広新宮行家といった具合に地方にはだいぶ残ってはいたものの、中央からはほとんど排除されたはず…だった。

源義朝の兄弟たち

主な分流

義賢流

官だった源義朝とは異なり東宮の衛隊である帯先生にあったことから、彼が嫡流として後継者補にあったのではないかといわれる。しかし失策によって都を追われ、北関東秩父平氏と協して席巻しようとするも、房総平氏三浦党・鎌倉党といった相模武士たちと協して南関東をしめていた源義朝と対立し、大蔵合戦で殺されてしまった。

長男源頼政の養子だった関係から子孫は八条院の勢につき、仲が以仁王の乱でともに滅ぼされると、その源義仲は以仁王の子息・北陸宮を旗印に各地の軍事貴族連合軍を結成し平家の都落ちを実現するが…って説明いる?

彼の息子である義高は誅殺されたはずなのだが、木曽氏が子孫を称していたりする。

源頼朝と鎌倉幕府

やがて二条天皇も排除され、残った院近臣鹿事件と後白河法皇閉で壊滅状態に陥り、その隙間は近衛梃子とした桓武平氏平家一門に全に握されることとなった。しかし八条院が巻き返しを図り以仁王の挙兵、源頼政のそれへの協が起きる。平家はこれを討伐するも、その結果関東で大きな勢交代と頼政一門の討伐が始まったのだ。そこをほぼ政治的に死んだと思われて中央からは忘れ去られていた源頼朝に利用され…って説明いる?

というわけで従兄弟源義仲の活躍とその最期、源義経の躍進や兄弟対決とその末の悲劇、鎌倉幕府の設立などでおなじみの治承・寿永の乱である。ただこの二人ばかり強調しても面くないので頼朝の他の兄弟たちも併せて紹介しよう。

どうせみんないなくなる

源氏将軍の滅亡とその後…

それまで協関係にあった九条を切り捨て村上源氏と手を結び、皇族に接近しようとした源頼朝だったがこの計画は失敗に終わる。そのまま落が原因で亡くなってしまった。

そして後を継いだのが源頼家である。吾妻鏡一辺倒の評価ではなく様々な資料の精により、企氏のパイラインを用いた側近政治を行おうとした気配のあるこの人物だが、大族たちの反発によりあえなく失敗。企氏の乱で息子の一を殺され、彼自身も誅殺されることとなった。

そして最後の河内源氏嫡流・源実朝である。こちらも従来に政治意欲が高かったことが次第にされるようになるが、北条義時を殺そうとした源頼家の子・公暁に殺されることとなり、公暁もすぐに始末された。源頼朝の庶子・貞将軍には決してなろうとはせず、源頼家のほかの子息たちもたびたび反旗の旗頭に持ち出されて栄実、は誅殺されて全滅頼茂や平賀朝雅野時元や吉見義世といった有力一門の粛清・反乱も相次ぐがもはや時代は清和源氏を将軍とすることを否定するようになっていった。

こうして北条氏の時代が始まる。一方で門葉かつ大族だった足利氏が次第に源氏UTSUWAとされていくのだがそれは遠い未来の話である…

その他自称清和源氏

清和源氏というのは武にとってはステータスであり、徳氏や島津氏に代表されるように自称清和源氏もちらほらいる(徳はそもそも先祖が辿れない、島津は資料が惟宗氏って認めちゃってるから)。

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清和源氏

17 ななしのよっしん
2021/09/23(木) 22:43:28 ID: Zpj/A8BgR2
いや、平家べてとか言うけど伊勢平氏ぶっちゃけの座についたのが短すぎて権闘争する時間がかっただけでは?(それでも小松とか池とか怪しい火種は多い)

北条氏も割と一族間で色々やってるし、清和源氏だけ一族の中が悪いってのはどうもなぁ
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18 ななしのよっしん
2021/12/16(木) 22:41:51 ID: YZmiENXsaA
伊勢平氏の末裔の後北条氏は大した内紛起きずに
最後はみんな一緒に滅んだし
息をする様に兄弟で殺し合う源氏の末裔たちよりマシだろ
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19 ななしのよっしん
2022/01/12(水) 19:59:13 ID: VQIgLWzf6N
足利武田と有名どころの源氏が代々血みどろの内ゲバ繰り広げてるからそういうイメージ持たれてるのはありそう
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20 ななしのよっしん
2022/03/05(土) 11:18:04 ID: 6UEzp3Dr5n
現代の兄弟イメージで考えちゃいけない
お前らにある日突然「はじめましてです」とか言うが現れたらとしての情湧くか?
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21 ななしのよっしん
2022/04/09(土) 01:23:14 ID: CM68CkiUOg
姓持ちの古代族が替え(詐称)したのと最下層の階層が何らかの形でのし上がって詐称したのが多そう。堂上竹内清和源氏だそうだが、姓持ちの古代族が替え(詐称)じゃないのかね・・・。
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22 ななしのよっしん
2022/06/17(金) 14:23:25 ID: IRO6s9bkVM
個人的には古代からの姓持っている族の方が源氏より凄いと思うけど
当時としてはそうでもなかったのかなあ?
毛利元就とか伊予河野とか
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23 ななしのよっしん
2023/04/17(月) 12:43:55 ID: IRO6s9bkVM
>>22
室町時代だと足利を中心とした血のブランディング完成したからそうなるんじゃない
序列的に皇族>藤原>>その他でしょ
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24 ななしのよっしん
2023/06/10(土) 22:38:24 ID: tEoYoLx/r3
所謂四大姓()だとの順だろうね。源氏が皇別で最も繁栄し、藤原別で最も繁栄した。諸蕃は・・・惟宗臣の島津)だけが繁栄した印だが・・・

臣は初代のみであまりパッとしなかった。(家紋の方のは使われまくった。)

他の皇別氏族は古代だと絶えた、とかに仮冒した、賜姓を貫き通して地下の最下層で細々と生き延びたってところか。
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25 ななしのよっしん
2023/12/05(火) 11:27:39 ID: 0POZd13WTF
頼朝が作った鎌倉幕府を色々有って仕切ることになった北条は平氏から出ているけど骨肉の争いがやたら多いしな、子孫以外にも悪が…。
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26 ななしのよっしん
2024/03/18(月) 21:41:58 ID: e/bHzd64BN
もうね後世になるほど詐称だらけで本物探す方が難しいですわ
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