坂本龍馬暗殺実行犯の一人とされる。自称「坂本龍馬を斬った男」。
概要
天保14年12月18日(1844年2月6日)、京都二条御門番組与力・渡辺時之進の長男に生まれる。旧名一郎。
安政4年(1857年)、所司代御門番組見習に任じられ、円明流及び西岡是心流の剣術を学ぶ。
元治元年(1864年)、二条城にて上覧剣術試合が行われ、これに出場。将軍・徳川家茂から白銀5枚を下賜されている。同年9月2日、京都文武場剣術指南となる。
慶応3年(1867年)2月、見廻組に編入され、4月に肝煎介、8月に肝煎に昇進する。
11月15日、京都見廻組与頭・佐々木只三郎の招集を受け、醤油商の近江屋に赴き、坂本龍馬暗殺に関与。事件直後、恩賞として15人扶持を賜ったと後年自ら証言した。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた後、江戸に逃亡。
その後京都に戻り、篤と改名。奈良県の公立機関に出仕し、京都で剣術道場を開く。
現存する渡辺の写真では、親指を必ず他の指で握りしめている。これは親指を斬られて刀が握れなくなることがないようにするための剣客の知恵だと言われる。
証言について
渡辺は死の床で身内に対し、坂本龍馬を暗殺したのは自分であると告白して死んだと『大坂朝日新聞』が報道した。その詳細な内容は明治44年(1912年)8月19日付の『渡辺家由緒暦代系図履暦書』と題された文書に記載されている。内容は以下の通り。
- 事件当日(慶応3年11月15日)、佐々木只三郎の命により刺客の一人として招集された
- 刺客は自分、佐々木、今井信郎の他3名
- 表入り口に1人、2階上り口に1人が見張り、残り4人(渡辺含む)が2階に上がり坂本、中岡を殺害した
- 13~14歳位の給仕が居たが、年少のため見逃した
- 下宿先の特定については諜吏の増次郎という者に探索させた
- 刀の鞘を現場に置き忘れたのは世良敏郎という武芸の不得手な者である
- 坂本殺害の恩賞として15人扶持を賜った
上記が渡辺の証言の概要となる。今井の証言と異なる部分が多く、世良敏郎なる人物の存在も確認できていなかったため売名行為と疑われていたが、世良の存在については近年確認され、当時京都見廻組に所属していたことが分かった。
今井は渡辺や世良については死ぬまで何も語らなかったため、今井がもう一人いると言った人物が渡辺だったのか、或いは世良だったのか、もしくは渡辺の証言自体が嘘に過ぎないのか分かっていないが、渡辺の証言を元に今井、渡辺の2人を暗殺実行犯とする研究者もいる。
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