湯浅宗貞単語

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湯浅宗貞ゆあさ・むねさだ 生年不詳)とは、丹波戦国武将である。湯浅宗正の子。湯浅政常、小林宗成、吉田貞政。子に湯浅貞清がいる。湯浅宗清に関しては実子とも甥ともいう。

概要

の跡を引き継ぎ、丹後守護代・丹波内藤氏に属した。
しかし、時の当である内藤国貞は歴代の丹波内藤氏の中でも野心であった。
1545年に貞を世木に匿うが、のちに居三好長慶によって落とされて八木などの内藤方に逃れるなど苦心していた。
1548年に三好長慶細川晴元の対立で貞と共に世木を落とした敵である長慶方としてつく。
当時の丹波はこれと言った勢は存在しておらず、黒井を本拠とした丹波井氏ならび荻野氏、八上を本拠とした波多野氏、横山(のちの福知山)を本拠とした横山頼氏らが割拠していた。


貞にとっても丹波統一することで丹波守護代から丹波守護へとランクアップできる好機であったが、宗貞からすれば祖細川勝元の猶子であっただけに複雑な感情を持ち合わせていた。
結局貞はであった波多野通に敗れて戦死してしまった。
丹波における長慶は孤立してしまった。八木を奪われた宗貞は園部にて貞の子・内藤貞勝を擁して波多野氏などと徹底抗戦で対抗した。
松永久秀である松永長頼の援軍到来までもちこたえることに成功した。
この一連の騒動に嫌気が差したのか、貞勝を長頼に預けて一時的に内藤に袂を分かつ。

それでものちに再び内藤宗勝と名をめた長頼に属して丹波人衆の一として活躍する。
が、1562年の教寺合戦では同族である紀伊湯浅氏の末裔である保田氏などと戦うことを余儀なくされ、宗貞の心にを落とした。

このころの細川氏は細川晴元が畿内の実権争いに敗北して近江で寂しくしており、元の次男・細川之が反三好の兵を挙げるも戦死。
波に絶大な勢を誇っていた細川晴元実家でもある細川細川の死後、その子・細川真之三好義賢三好長治子によって押さえつけられていた。
元に勝利した細川氏綱も管領に就任するものの、実権を持たずに山に押し込められ、氏綱のである細川藤賢は典厩として足利義輝に仕えていた。

そんな中、宗貞は見つけた。細川氏の中でキラキラる一人の男。
その男こそ細川藤孝であり、のちに宮津小倉熊本と渡り歩く和泉守護の末裔がそこにいた。
宗貞は孝にがせ、一子・湯浅宗清が生まれた。
宗清は細川忠興異母兄弟となっているが、wikipediaには現時点ではそういう記述は残念ながらない。宗清は宗貞の実子ともいう。
1570年に何を思ったのか当を放棄して宗清に督を譲り、自らは下野した。

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