まじめな概要
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即位以前
あらためて、史書に登場する煬帝とは隋の二代皇帝、楊広のことである。西暦569年生まれ、618年没。
父の楊堅が隋王朝を建国すると次男だった楊広は晋王に封ぜられ、588年に江南に拠っていた陳王朝の討伐軍の総大将となり、翌年陳の首都建康(江蘇省南京市)を攻め落とし、およそ300年ぶりの中国再統一に大きく貢献した。
派手好みで正妻以外の女を求めた皇太子の兄が、質素な父と一夫一妻主義だった母に嫌われていると知るや楊広は自分を質素と宣伝し腹心らに兄の讒言を行わせてついに自ら皇太子の座につく。604年、楊堅の死を受けて皇帝に即位するが、この時父を弑殺したとの疑惑が世間に流布することになる。
大運河開削
皇帝として即位した煬帝(生前には煬帝とは呼ばれていない。詳細は後述)がまず行ったことは、華北と江南を結ぶ大運河の開削だった。父帝の代に一部が開削されていたが、煬帝はこれを北は今の天津から黄河、長江を経て杭州に到るまでの総延長2500キロメートルにも及ぶ大運河として建造した。
極めて短期間で建造し、女性含む大多数の人員を動員し、完成後は自らの遊興のために使ったと非難された大運河だがこの歴史的意義は非常に大きく、中国の南と北を経済的、文化的に結び、物資や人の交流が盛んになるようになった。歴代の王朝によって整備されながら、今でも京杭大運河という名で世のため人のために運河は役立っている。
高句麗出兵と遣隋使謁見
しかし大運河開削の最大の理由は高句麗遠征であった。598年、楊堅の代に隋は高句麗を攻めて負けているが、煬帝は父も実現できなかった高句麗征服のため実に三度もの遠征を行う。大運河は大量の兵士や物資を運ぶための手段だったのだ。
一度目は深入りしたところをボコられ散々な目に遭い、二度目は国内で楊玄感という人物が反乱を起こしたため引き上げ、三度目は隋も高句麗も疲弊しきっていたため和議を結んで引き上げている。
煬帝は高句麗だけでなく高昌国や吐谷渾、林邑や台湾にも出兵している。その他特筆すべきことは、607年に倭国(日本)から遣隋使を受け入れこれを謁見している。
小野妹子から受け取った国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつが無しや」と書かれていたので煬帝は激怒したが(怒った理由は自分を日没の国の天子といったからではなく倭王が天子と勝手に名乗ったかららしい)、高句麗との戦いを控えていた煬帝はとりあえずその場は済ませて、倭国に裴世清という人物を派遣している。
その末路
三度の高句麗遠征や度重なる大事業の結果、隋は疲弊しただけでなく国内で反乱が頻発し、煬帝はひとまず江南に避難する。そこで現実逃避の酒食にふける生活を送った挙句、618年に近臣の宇文化及ら近衛兵達に殺された。享年50歳。
前年に国都長安を落としていた軍閥の一人李淵は、煬帝の死を受けて唐王朝を設立、群雄割拠状態に陥っていた中国を再度取りまとめ、その子李世民の代にようやく平穏な世が訪れるのであった。
煬帝の家族
- 楊堅 - 父。隋の初代皇帝(文帝)。息子の煬帝に殺された疑惑があるが真意の程は不明。300年ぶりに中国を統一した名君として知られるが猜疑心が強く、皇帝になるにあたり前の王朝の一族を全滅させている。
- 独孤伽羅 - 母。楊堅の皇后。賢妻だったが夫に自分以外の女性を近づけさせないほど嫉妬深く、女好きの長男を嫌い楊広を皇太子にした。ちなみに姉の子が唐王朝の始祖李淵。
- 楊勇 - 兄。皇太子だったが派手好き、女好きが祟って弟の策動もあり廃立される。楊堅の死後、弟に自殺させられる。
- 楊俊、楊秀、楊諒 - 弟たち。楊俊と楊諒は煬帝より先に没し、楊秀は煬帝と一緒に殺されている。
- 楊麗華 - 姉。隋の前の、北周王朝4代皇帝宣帝の皇后。父が北周から禅譲を受け皇帝になるのに反発していた。
- 蕭皇后 - 皇后。北周の傀儡政権だった「後梁」王朝の皇女。煬帝死後は突厥に逃れのち中原に帰国、82歳まで生きて648年に没。
- 楊杲 - 末息子。父といっしょに殺害される。享年12歳。
- 南陽公主 - 長女。煬帝を殺した宇文化及の弟、宇文士及の妻。息子が群雄の竇建徳に殺されたので出家。亭主が再会しようとしたが拒否した話が残っている。
- 娘 - 唐の太宗李世民の側室の一人。
- 淮南公主 - 突厥に逃げた時、東突厥の君主である突利可汗に嫁がされる。
「ようだい」と呼ばれるわけ
煬帝、と一般的な呼び名で楊広のことを呼んできたが、これは煬帝とは隋の後に統一王朝となった唐の初代皇帝・李淵が付けた諡号である。
日本では古くから読み倣わされてきた結果、「ようてい」ではなく「ようだい」という読み方が定着してしまったのである。
なお、孫の楊侗は楊広に対し「世祖」の廟号と「明皇帝」の諡号を贈っている。
ちなみに「煬」とは「礼を行わず、民を遠ざける」「天に逆らい、民を虐げる」(『逸周書』諡法解第五十四)の意味がある。彼がかつて滅ぼした陳王朝の最後の君主に「煬」という諡号を与えていたというのは皮肉である。
暴君か否か
統一王朝が前の王朝の歴史を編む時、大抵亡国の君主は悪者扱いされるのが常だが煬帝の場合はこれが殊更酷い。
もちろん全くの無実ではないが、ただ史書にはその悪事がかなり誇張されていったのではないかという説が現在の定説である。
高島俊男は、煬帝の暴君伝説を作った張本人(とされる)唐の太宗李世民と煬帝を比較して、李世民は人材を見抜き生かす力があったが煬帝にはこれがなかった(実際多くの親族や家臣を死に追いやったり迫害している)。結局煬帝の最期に殉じたのは独孤盛という老臣くらいだった、と評している。
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関連項目
ニコニコにおける煬帝
概要
ギャグマンガ日和の『煬帝怒る』編に登場する隋の皇帝(一応)。
遣隋使としてやって来た聖徳太子と小野妹子のことをジャップとして見下しているがそんなことはどうでもいいよね。
聖徳太子ほどではないが同アニメのアイドルとして一部にMADの素材人気者の扱いを受けている。
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例のMADをお探しなら、「煬帝怒る」や「遣隋使」のキーワードで検索したほうが早いかも知れない。
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