概要
初出は1943年刊行の雑誌。新美の死後、同名の童話集が刊行されている。
あらすじ
一
牛曳きの利助さんと人力車曳きの海蔵さんはのどが渇いたので、道端にある椿の木に牛をつなぎ、人力車を近くにおいて山の中へ湧き水を飲みに行った。道から水場までが遠いのを二人してぼやきながら椿の木まで戻ると、そこにはかんかんに怒った地主が立っていた。
地主は二人を怒鳴りつけた。つないでいた牛が、椿の葉をすべて食べて木を丸裸にしてしまったのだ。
二人は「水場がもっと道に近ければいいのに」ということを改めて思った。それは、ここで水を飲む人は誰でも思うことであった。
二
海蔵さんが人力曳きのたまり場である駄菓子屋へ戻ると、そこには井戸掘りの新五郎さんがいた。そこで海蔵さんは、井戸を掘るのに三十円ぐらいのお金が必要だということを新五郎さんに聞いた。
海蔵さんは家へ帰り、同居している母に「しんたのむね(椿の木があるところ)に井戸があればいいだろう」ということを話すと、母は「そうすれば皆が助かるだろう」と言った。あの道はたくさんの人が通る道だった。その後海蔵さんは利助さんが山林で財を成したことを思い出し、資金協力を仰ぐために利助さんのところへ出かけた。
もう夜も遅いのに、利助さんは仕事をしていた。海蔵さんは、利助さんに井戸を掘るための資金提供をしてくれないかと持ちかけたが、利助さんは協力しようとはしなかった。
海蔵さんは、利助さんが遅くまで働くのは他でもない利助さん自身のためだということを悟り、これは自分の力でやるしかないと思い立った。
三
海蔵さんが最初にしたのは、しんたのむねの椿の木に箱をつるし、道行く人から寄付を募るというやり方だった。しかし、しばらく見ていても人々が寄付をしてくれる様子はない。
結局、人々も頼りにならないとわかり、本当に自分ひとりの力でやり遂げようと決心した。
四
海蔵さんはいつもの人力曳きの仕事を終えると、たまり場である駄菓子屋に入った。しかし海蔵さんがいつものようにお菓子を食べることはなかった。
海蔵さんは、これまでお菓子に使っていたお金をためて、人々のためにしんたのむねに井戸を掘ろうと考えていた。
もちろんお菓子はのどから手が出るほど食べたかったが、井戸のためにこれまでの習慣を断ち切ることにした。
五
二年が経ち、井戸掘りに必要なお金もだいたい集まった。しかし今度は地主が井戸を掘ることを承知してくれない。その地主は、二年前に利助さんを叱りつけたあの地主であった。
地主は体が弱って床に臥せっており、海蔵さんはお見舞いに行ったが、そこでも地主は頑なに井戸掘りを拒んだ。
帰り際、地主の息子が海蔵さんに「私の代になったら井戸掘りを承知する」という旨のことを話した。地主はあの様子ではあと数日で死ぬだろうから、これはうまいと海蔵さんは喜んだ。
家に帰って母にそのことを話すと、母は「自分の仕事のことばかり考えて、人が死ぬのを待ち望むことは悪いことだ」と海蔵さんを叱った。海蔵さんははっとした。
次の日、海蔵さんは、人の死を待ち望むという自分の誤りを地主に謝った。それに地主は感心し、井戸を掘ることをようやく許してくれた。
六
春の末に、しんたのむねから花火が上がり、村のほうから軍服を着た兵士を先頭にした行列が下りてきた。その兵士こそが海蔵さんだった。
行列は、椿の木の近くにある井戸のところで止まった。子供たちが井戸の水を飲んでいたからだった。海蔵さんも子供たちの後に続いて水を飲み、人のためになる仕事を残すことができた喜びをかみしめ、もう思い残すことはないとさえ思った。
海の向こうでは日露戦争が始まっており、海蔵さんはそれに出征して行くのだった。
七
そのあと、海蔵さんが帰ってくることはなかった。彼は日露戦争の花と散ったのである。
しかし海蔵さんの井戸は今でも残っており、道行く人々の渇きをうるおし続けている。
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