王平とは、三国志に登場するオウヘイヘーイである。
概要
王平(?-248年)。字は子均。巴西郡宕渠(とうきょ)出身。
はじめ魏の曹操に仕えていたが、のちに蜀の劉備へ走る。街亭の戦いで馬謖の山頂布陣の案を諫めた場面が印象強い。
呉懿亡き後の蜀末期においては、漢中の守備を任され、魏軍10万を撃退するなど活躍し、鄧芝、馬忠とともに、「北の王平」、「東の鄧芝」、「南の馬忠」と称された名将である。
徐晃を裏切り、蜀へ
曹操と劉備の決戦の一つとされる漢中攻防戦において、魏の校尉だった王平は蜀軍との戦いで降伏。牙門将の位を与えられた。
演義では、曹操の命で徐晃の副将(郷導使)に任命される。しかし、意見の食い違いから王平は徐晃を裏切り、蜀へ走った。周辺の地理に詳しい王平を得た劉備は、今後の戦いの流れを変えるきっかけの一つとなった。
街亭の戦い
蜀・馬謖の副将として北伐した際には、馬謖の先鋒を務めた。しかし、馬謖が突然山の上に陣を張る案に王平は反対し、彼とは別に陣を張る。結果、馬謖は魏軍に大敗し、さらに張郃によって追撃される所を王平が殿(しんがり)となって懸命に阻止し、敗残兵をまとめて引き上げた。この働きは諸葛亮に評価され、後の地位を上げる基盤ともいわれている。
張郃とは相性がいいのか、街亭での一騎討ちは互角、231年の祁山の戦いでは張郃軍を撃退している。
vs魏延
諸葛亮没後、魏延と楊儀が対立。楊儀の命令を受けた王平は魏延軍兵士に魏延に非があると一喝し、兵士は逃げ去り、後に魏延は馬岱に討ち取られた。この事は魏延伝に詳しく記述されている。
駱谷の戦い
237年に漢中を守る呉懿が亡くなると、その場を後任、後に前監軍・鎮北大将軍に昇進し、軍を任されるほどにまでなった。
244年漢中の駱谷において、曹爽・夏侯玄・郭淮率いるおよそ10万の大軍相手に2,3万程度の兵力と乏しかったが地の利と自身の機転をを生かし、蜀の援軍がくるまで持ちこたえる事が出来、撃退した。
248年に病死した。廖化や馬岱と並ぶ忠義の士と諸葛亮や蜀の民は王平を高く評価している。
字がほとんど書けない
と、このように忠実に働くほど軍略に掛けては巧みな王平であるが、たたき上げの軍人だったために学問を学ぶ機会が無く、自分の字を含めて十字ほどしか書けなかったことでも有名である(とはいえ古代中国では、文人でもない限り字が読めないことも決して珍しくはなかったことには注意したい)。
字は読めなかったものの、口述した内容は他の者に書き取らせており、それを文章化したものはきちんとした内容になっていたと、陳寿は正史に記している。また、他人から『史記』や『漢書』を読み聞かせてもらうことで、その内容を深く理解したという。
意外かもしれないが、王平が文盲であったという記述は正史のみで、三国志演義にはそういった描写は無い。しかし後世の小説などでは、街亭の戦いで馬謖が王平の意見を取り入れなかったのは、知識人階層である馬謖が、字の読めない王平を馬鹿にして軽んじたからという解釈も多い。
「勉強が出来なくても素晴らしい人間になりうる」と評価するか、「鎮北大将軍になった人が字わからないとか…(笑)」と見るかは貴方次第である。
王平の子孫
王平の子孫については、正史三国志では王釧(おうくん)という子がいたことしか分からない。王釧は王平の死後、後をついだ。
各メディアでの王平
笑福亭笑瓶ネタのショウヘイヘーイにあやかってオウヘイヘーイと呼ぶ人もいる。
コーエー三國志シリーズ
統率力が高い将軍タイプ。知力など他のステータスも平均以上でバランスが良く、かなり長生きするため、後半の蜀のシナリオでは重宝される。但し、正史では「偏屈で猜疑心が強かった」という供述から、シリーズが進むにつれて魅力が下降しているのが難点。
横山三国志
関索「王平殿が記したものじゃ。未 申 酉以外の時刻には渡るなと記してある」
前述のように文字が書けないはずだが、南中遠征時にこのようなシーンがある。三国志演義だけでなく、原作である吉川三国志でも王平が文盲という記述は無かったため、この逸話を知らなかったのかもしれない。
三国志大戦
蜀C王平のカードは豊富な特技と有効な計略がありながら、蜀デッキの激戦区から漏れがち。他の勢力なら使われていると羨ましがられるほど。
一方、ver3.59で登場した魏R徐晃では「おうへい」を召喚できるカードが登場。徐晃のセリフが哀愁を誘う(笑)。
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