王粛とは、
- 三国時代の政治家、学者(195~256)。王朗の子、王元姫の父。
- 南北朝時代の政治家(464~501)。東晋の宰相、王導の子孫。南斉に仕えていたが政変に巻き込まれ北魏に亡命、孝文帝に仕えた。
- 明王朝、洪武帝(朱元璋)の代の進士。
ここでは1について説明する。
概要
字は子雍。王朗が会稽太守として会稽(浙江省紹興市)に赴任していた時出来た子供。
宋忠という学者に師事し、18歳で後漢の学者である揚雄の『太玄経』の注釈を作った。
父と同じく魏王朝に仕え、散騎常侍だった230年(太和4年)曹真が蜀漢を攻めるにあたり道が難儀で補給が困難であると撤兵を進言したが、結局長雨で補給困難となったため魏軍は撤退した。
魏帝曹叡は晩年に宮殿の造営に熱中するようになり、王粛は政治を引き締め倹約するよう諫言したこともあった。
曹叡が崩じ、曹爽(曹真の子)が政権を握ると、王粛はその取り巻きの何晏達を嫌い、政治の中枢から一時期遠ざけられていた。
司馬懿のクーデター後は再び政権を握るようになった。毌丘倹と文欽が反乱を起こした時は司馬師に的確な助言をして反乱を鎮圧させている。
『孔子家語』
王粛は礼制について後漢の鄭玄の説に反対していた。このため鄭玄説を唱える王基と議論しているが、その時孔子と弟子達の言行録である『孔子家語』に注を施しこれを自説の根拠とした。また内容については王粛の偽作説もある。
他に鄭玄説批判のために書いた『聖証論』や、古代から伝わる様々な書籍の注を施している。
ともあれ、王粛は孔子家語を世に出した(あるいは偽造した)功績(?)のため、国語辞典にも「王粛」の用語は普通に見ることができる。
エピソード
62歳の時病気にかかり、医者に助かる見込みがないと宣告された。王粛は「朱建平は俺の人相を見て、70過ぎまで生き、位も三公に登ると言った。だから大丈夫だ」と主張したが、そのまま帰らぬ人になってしまった。
朱建平という占い師は、曹丕(享年40歳)に「あなたは80まで生きますが、40の時にちょっとした災難があります。どうかお気をつけてください」と言った人物である。たぶん王粛を占った時も、実際の寿命をはぐらかされて伝えられた気がするが…
家族
王粛の死後、子の王惲が後を継いだが嗣子を残さず死去したため、弟の王恂が別に取り立てられた。王恂には8人の兄弟がおり、そのうちの王愷は石崇(石苞の子)と贅沢を競い多数のエピソードが残されている。
王粛の娘、王元姫は司馬昭に嫁ぎ、西晋の初代皇帝司馬炎を生んだ。
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関連項目
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