田豊とは、
ここでは1について説明。
袁紹に仕えた謀臣
字は元皓。冀州鉅鹿郡または勃海郡の出身。
若い頃は茂才に推挙され朝廷に出仕したが、宦官の専横を見て役人生活に嫌気が差し辞職。その後冀州牧だった韓馥に仕えたが、袁紹に脅され韓馥が冀州に袁紹を招き入れた時に袁紹配下となった。
韓馥配下の耿武と閔純は袁紹を暗殺しようとするが、田豊は袁紹の命令で彼らを殺害した。その後田豊は別駕として袁紹の謀臣として様々な献策をする。
冀州の支配をめぐって公孫瓚と界橋で戦った時、袁紹の周囲が公孫瓚の軍に取り囲まれる事態となった。田豊は袁紹を物陰に隠そうとするが袁紹は「大丈夫たるもの、死を恐れて物陰に隠れることができようか」と兜を叩きつけてこれを拒否した。麹義が助けに来たので袁紹達は九死に一生を得た。
袁紹が公孫瓚を滅ぼし河北で勢力を拡大するのは田豊の貢献が大だった。また献帝を本拠地に迎え入れたり、曹操に対して持久戦を沮授と共に主張したが、袁紹はこれらの意見を採用しなかった。
官渡の戦い
200年(建安5年)に曹操が徐州の劉備を攻めた時、田豊は曹操本拠の許都を攻めるよう袁紹に進言したが袁紹は子供の病気を理由にこれを拒否、田豊は杖で地面を叩いて悔しがった。
しかし劉備が敗退すると一転袁紹は曹操攻めを決意する。田豊は持久戦を主張してこれを阻止しようとしたが怒った袁紹に投獄されてしまう。
結局官渡の戦いは袁紹の敗北に終わり、猜疑心の強い袁紹は田豊がこの敗戦で自分を笑い者にすると思い込み田豊を殺害してしまった。正史の注では逢紀の讒言が原因としている。
曹操は後で「袁紹が田豊の策を採用していたらどうなっていたかわからない」と語ったという。
評価
孔融は田豊を「知謀の士である」と評していたが荀彧は「田豊は強情で上に逆らう」と言っていた。
正史の注でも、孫盛(東晋の歴史家)は田豊は張良や陳平に匹敵すると言い、裴松之は誤った君主に仕えたため死なねばならなかったと同情している。
各メディアにおける田豊
三国志演義
数々の諫言が聞き入られないのは正史と同じ。その最期は自分の運命を悟って獄中で自死したことになっている。
蒼天航路
船を焼き払ってまで袁紹が曹操を攻めるのを防ごうとする(対照的に沮授は主戦派に描かれている)。笑ったことがないという田豊は精一杯作り笑いをして袁紹を送り出す。
三国志大戦
2005年10月、Ver1.1稼働直後にR田豊の計略「隙なき攻勢」にとんでもないバグが発覚し、すぐさま修正のため一時投獄(使用禁止)された歴史がある。
ニコニコ動画における田豊
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関連項目
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