白いバラ(Weiße Rose)とは、第二次世界大戦中のドイツで行われた反ナチス運動。
概要
ミュンヘン大学の学生であったハンス・ショルとゾフィー・ショル兄妹を中心に組織された。1942年から1943年にかけて六種類の反ナチビラを作成し、郵送や大学構内での配布を行ったが、発見され首謀者六名は処刑された。
名前の由来
実は全くと言ってよいほど分かっていない。戦後、兄妹の姉インゲは身分を問わないと言う意味で空白の白を選んだのではないかと証言している。裁判ではスペインの同名の小説「白いバラ」からとされており、これはメキシコの石油利権をめぐる弱者の抵抗を描いた小説だった。
歴史
生い立ち
ハンス・ショルは1918年9月22日、フォルヒテンベルク市長であったローベルト・ショルとマクダネーレとの間に2番目の子供として生まれた。ゾフィーはその三年後の1921年5月9日に誕生している。
非常に裕福で教養のある家庭に生まれた二人は幼少期を田園風景が広がるのどかな街でのびのびと過ごし、第一次世界大戦後の平和を謳歌することが出来た。
1930年、ローベルトのあまりの進歩的改革が保守派の反感を買い、市長を罷免され政治生命を絶たれてしまう。失望したローベルトは税理士や経営コンサルタントに復帰し、1932年ウルムに引っ越した。
1933年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を奪取。独裁政権の誕生にリベラリストであったローベルトは憤激したが、失業者対策や経済政策に魅せられたハンスは早くからナチスを支持し口論となっていた。他の兄弟も活動的でリーダーシップにあふれていたハンスの影響で、ナチスの青年団であるヒトラー・ユーゲントや少女組織であったドイツ女子同盟に参加したが、ゾフィーは父を支持し早い段階で距離を置いた。
1936年、ハンスはニュールンベルクで行われたナチスの党大会に参加。しかし、ハンスはただヒトラー一人のみに忠誠を誓うこの党大会の異常さに幻滅を覚え、帰郷後も幼い頃から慣れ親しんで来たユダヤ人の著作物や外国音楽の禁止令を目の当たりにし父が正しかったことを痛感する。
また、青少年の優位を謳いつつ、ヒトラー・ユーゲントの指導者は党員の大人ばかりであり青少年自治はほとんど行われていなかった。青少年中隊長となっていたハンスは中隊独自の中隊旗を作ったが、上級指導者はこれを認めずに大げんかとなり、ハンスはこの事件を機にヒトラー・ユーゲントの活動から離れた。
その後ハンスはdj.1.11と言う青年団に入団し同組織のウルムにおけるリーダーとなった。他の兄弟も父の黙認もあってこれに参加。当時既にヒトラー・ユーゲントとカトリック系青年団を除き、青年団自体が非合法化されていたため、彼らの非合法活動歴はここから始まったことになる。
最初の逮捕
1937年、ハンスは大学入学資格試験に合格。半年の勤労動員ののち一年間の兵役についた。しかし、11月にdj.1.11に対する取り締まりが行われ、兄弟たちが逮捕された。兵役についていたハンスは一時的に拘束を免れたが、12月には逮捕。非合法青年団を策動した罪で起訴されたが、好意を寄せてくれた所属部隊の中隊長の働きかけとオーストリア併合による恩赦で一か月の拘留の末、審理保留のまま釈放された。
この事件がハンスに与えた影響は大きく、ヒトラーへの態度を明確にしなくてはならないことを痛感するきっかけとなった。
アレクサンダー・シュモレルとクリストフ・プロープストとの出会い
医者を志していたハンスは兵役を終えた1938年秋、当時医学部入学の条件となっていた衛生兵養成学校に入学。1939年1月にはミュンヘン大学医学部に入学した。大戦勃発後の1940年3月、軍に衛生兵として召集されドイツによるフランス侵攻作戦を経験。停戦後の9月までフランス全土の野戦病院で働いた。
帰国後の10月、学生中隊に配属されたが医師不足から、隊に所属しつつも学業を続けることが認められた。この学生中隊の中にのちの白いバラの中核メンバーであるアレクサンダー・シュモレルがおり、抵抗運動へのフラグが立つこととなった。
アレクサンダーは父がロシア在住ドイツ人、母がロシア人(アレクサンダーが3歳時に死亡)でシュモレル家がドイツに戻ったのちもロシア語を母語とする親露的な家庭に育っていた。バイリンガルでもあり、コスモポリタン的な志向の強いハンスとは1941年1月の医師試験合格後、意気投合。二人はミュンヘン市内の病院を実習先として選んだ。
アレクサンダーの友人であったクリストフ・プロープストとの出会いもこの頃であると推測されている。クリストフは継母がユダヤ人であったため、一般国民には知らされていなかったユダヤ人への迫害やホロコーストの実態をかなり正確につかんでいた。
白いバラ始動
1941年6月22日、ドイツの命運をかけた独ソ戦が始まる。アレクサンダーは母国ロシア(ソ連)との戦争開始に衝撃を覚えた。
10月、ハンスはカトリック改革論者で文学・哲学誌の編集者だったカール・ムートと出会い、助手として蔵書の整理を行う。この過程で大量のカトリックの書物に触れ信仰を厚くした。また、カール・ムートの雑誌が非合法化されていたことも知り、紙媒体で抵抗を呼びかける必要性を認識した。
1942年6月、ハンスとアレックスはナチスへの抵抗を呼びかけるビラの作成を開始。白いバラと呼ばれる抵抗運動が始まった。
南ドイツでの活動
白いバラは主に南ドイツや旧オーストリアでの活動に重点を置いた。これは1938年のアンシュルス(合邦)以降の歴史しかないオーストリアはもちろん、南ドイツはプロイセン主体の北ドイツと違い、どちらかと言えば非主流派であり、反体制派や領邦国家観から独立色も強かったことに期待したためである(ただし、反プロイセンと言う意味ではナチスも同様であり、ヒトラーはオーストリア出身かつナチスの初期運動の拠点は南ドイツだった)。
グループは7月までに四種類のビラを郵便で飲食店や研究機関に配布。ナチスによるホロコーストなど公然の秘密と化していたユダヤ人や反体制派への弾圧を暴き、消極的な抵抗やサボタージュを呼びかけた。初期は匿名性に無頓着であり、早い段階から親しい人たちの間ではハンスとアレックスの関与がささやかれていた。このため、書き手を出来るだけ特定されないよう、執筆者を限る方針を取った。
活動開始と前後し、カトリック青年団員で東部戦線に従軍して帰国していたヴィリー・グラーフが参加した。戦争に幻滅感を覚えていた彼はカトリックの消極的な抵抗姿勢に疑問を感じ、白いバラの活動にひかれたと言われる。
活動休止と東部戦線での衝撃
しかし、活動開始からわずか一カ月後1942年7月、ハンスとアレクサンダー、ヴィリーが所属する学生中隊にロシアでの前線実習が命じられた。このため、一旦活動を休止し、残っていたビラを処分した。
東部戦線での経験は衝撃的だった。まずワルシャワでゲットーにおけるユダヤ人への横暴を目撃し、前線ではたまたま近くに配属されていたハンスの弟、ヴェルナーから本国には伝えられていないドイツ軍の劣勢を知らされた。ロシア語を母語とするアレクサンダーの通訳により現地住人と触れ合うことが出来たが、そこで知ったのはドイツ軍による劣等人種「スラブ人」への仮借ない抑圧であった。
1943年1月、前年より包囲を受けていたスターリングラードのドイツ軍が降伏。枢軸軍は70万人もの損害を受け敗退した。ハンス達は前年の11月無事に帰還したが、戦争に対する反対の姿勢をより鮮明にしさらに強力な抵抗組織の設立を決意した。
クルト・フーバーの参加
兄たちが出征していた間、妹のゾフィーは印刷機の購入を行うなど組織の維持に努めていた。このため、四カ月のブランク後でもすぐに活動を再開することが出来た。
権威ある大人の参加の必要性を感じていたハンスは、ビラの送付先の一人で、以前から反ナチ的な言動で知られハンス達学生の壮行会でも戦争によるドイツ文化の破滅への危惧を吐露していたクルト・フーバー教授に接近。国防軍崇拝者だったことを知っていたハンスは、反ナチ的言動で軍を追われていたルートヴィヒ・ベック大将の支持を得ていると言う嘘をつき同志に加えた。
活動再開
東部戦線からの帰還後、ビラ撒きの再開と共に抵抗組織の設立と既存の抵抗組織との連絡が始まった。カトリックの青年団に属していたヴィリーはドイツ各地を回り同志を募った。成果はほとんど上がらなかったが、思った以上に反ナチの声が大きいことや他の大学内にも抵抗組織が存在していたことを知る。
1月、5枚目のビラ「全ドイツ人への訴え」の配布を開始。今度は南ドイツのみでなく、ドイツ全国にばら撒いた。2月にはミュンヘン各所で「打倒ヒトラー」と言う文字をタールで大書きする直接行動を行っている。
同月、スターリングラードでのドイツ軍の壊滅に衝撃を受けたフーバー教授は協力者的な立場を改め、自ら6枚目のビラ「学友へ」を製作。精神的自由と学問の自由に言及する内容だったが、ナチスや親衛隊ではなく国防軍を信用し入隊することが抵抗であるとする内容だったため、これを嫌ったハンスたちにより一部が改訂されている。
逮捕
グループは郵送の他にも深夜のばら撒きを行っていたが、一度に撒く数には限界があり6枚目のビラが大分残っていた。そこで2月18日、ショル兄妹がミュンヘン大学で残りをばら撒くことにした。しかし、三階で最後のビラを撒いているところをナチス党員の大学職員だったヤーコプ・シュミットに発見され、両名は取り押さえらえた上でゲシュタポに引き渡されてしまう。
同日にはヴィリー、翌日にはプロープスト、24日にはアレクサンダー、27日にはフーバーが逮捕され、組織は壊滅した。
裁判
逮捕当時、前述のように東部戦線はドイツの劣勢が決定的になりつつあり、この情勢下での抵抗運動の存在はナチス・ドイツに脅威をもって受け止められた。小規模で戦局にも何らの影響を与えていなかったにも関わらず、厳しい取り調べが行われた。
しかし、グループは全員毅然としており、特にゾフィーは同情を寄せた取調官が「兄に言われたと認めれば釈放されるのに…」とこぼしたが、これを拒否して積極的に関与を認め感嘆させたほどだった。死を覚悟していた逮捕者たちは協力者についても口を割ることはなかった。
22日、ローラント・フロイスラーによる即決の人民法廷で兄妹とプロープストは死刑が宣告された。弁護士は弁護を一切せず反論も許されない不当なものだったが、法廷を傍聴したものによれば三人とも落ち着き払っていたとされる。
処刑
同日中に三人はギロチンによって処刑された。アレクサンダー、ヴィリー、フーバー教授も4月19日に死刑判決を受け、アレクサンダーとフーバー教授は7月13日に、ヴィリーは10月12日に処刑された。ビラの配布を手伝った者は多数いたのだが、彼らが責任を全て背負ったことで比較的微罪で済み、この六人の犠牲で止めたと言える。
評価
戦中はフロイスラーの判決通り「愚かな少年少女」「売国奴」と言う痛烈な批判が寄せられた。新聞では家族を含めて中傷され、ショル家は一時的にウルムを離れた。ショル家の悲劇は続き、前線でハンスに実情を伝えたヴェルナーは戦死、5人の子息・子女のうち3人を戦争で失った。
所帯を持っていたプロープストとフーバー教授の未亡人、遺児は非常に困窮した。しかし、心ある人たちが命を賭けて支援を行い、何人かは拘束されたが戦後を迎えることが出来た。
ナチス・ドイツ崩壊後もしばらくは表彰の対象とはならなかった。連合国はドイツ人とナチスを同一視する傾向があり、ドイツ国内で抵抗運動が存在したことを認めることはドイツ人を許すことになると警戒したためである。
1949年、西ドイツでドイツ連邦共和国が成立し、1955年に主権を回復すると戦時中の抵抗運動も見直しが進んだ。特に、冷戦の最前線にあると言う地勢もあり、自由主義世界との共通の価値観を持つことをアピールするためには格好の宣伝材料にもなるため、1960年代になると西ドイツ各地で彼らの名前を冠する学校施設が次々と建設された。実際はフーバー教授を除くと反ナチのみではなく、反軍反国家的傾向も強かったにも関わらず、彼らの存在をもっていわゆる「国防軍無罪論」「悪いのはナチス」とする論調も強くなり、これは国内のみならず国外でも一定の成果を挙げた。
一方、彼らを裁いた裁判官(フロイスラーは空爆で戦時中に死亡)やゲシュタポの取調官、職務放棄をした弁護士は軽い公職追放のみにとどまり、追放解除後は法曹界に復帰している。もっとも重い罪に服したのは取り押さえたに過ぎないシュミットであり、6年の懲役刑を勤めたのちに釈放された。フロイスラーの遺族が多額の遺族年金を受けていたことも判明し、ほとんど保障を受けられなかった抵抗運動の家族とは悪い意味で対照的であったと言う批判も噴出した。
戦後も時代に翻弄され続けた白いバラだが、彼らの勇気には国内外から惜しみのない賛美が寄せられており、戦後の平和運動にも大きな影響を与えて今日に至っている。
人物
ハンス・ショル(1918年9月22日-1943年2月22日)
医学生。白いバラの実質的リーダー。ビラの執筆を担当。ヒトラー・ユーゲントやdj.1.11でも指導者的な立場についており、類まれなリーダーシップと人をひきつける力があったようだ。
アレクサンダー・シュモレル(1917年11月16日-1943年7月13日)
医学生。ハンスと並んで創始者の一人。ビラの執筆担当。母がロシア人であり、ロシア語を母語とする家庭に育ったためロシア人としての意識が強く、独ソ戦後は先鋭化して行く。ショル兄妹の逮捕現場に居合わせ、逃走したが知り合いに密告され逮捕。戦後に自分たちが表彰対象となり、逆に密告者が迫害されることを予知しており、密告者の名前が知られないように配慮を頼んだあと処刑された。敵国人とされながらドイツ人を恨むことはなかった。
クリストフ・プロープスト(1919年11月6日-1943年2月22日)
医学生。まぼろしに終わった7枚目のビラの執筆者。幼少期に両親の離婚を経験し、ユダヤ人の継母に育てられた。ユダヤ人の市民権はく奪後、疲れ切った父が精神を病み事故死(自殺説あり)したため、六人の中では早い段階で反ナチを意識し、また早熟だった。アレクサンダーとは高校からの友人であり、2枚目のビラでホロコーストに言及したのはクリストフの家族の影響だったと思われる。家族愛が強く、早くに結婚し3人の子供がいた。ショル兄妹は所帯持ちのプロープストを全力でかばったが果たせなかった。
ヴィリー・グラーフ(1918年1月2日-1943年10月12日)
医学生。組織担当。国際管理都市だったため、ナチスの影響が及ばないザールブリュッケンで青少年期を過ごした。カトリック系の青年団にや様々な非合法組織に入団または関与しており組織経験が豊富だった。この経歴のため、他の協力組織の関与を自白するよう他のメンバーが処刑されてた後も厳しい取り調べを受けたが、最期まで口を割ることはなかった。
ゾフィー・ショル(1921年5月9日-1943年2月22日)
学生。ビラ撒き担当。父の影響から早い段階で反ナチを志向していたと言われる。初期の活動には加わらなかったが、兄たちの帰還後にすぐに活動が再開されるように手配し運動に貢献した。戦後に作られたほとんどの作品は彼女が主人公である。
クルト・フーバー(1893年10月24日-1943年7月13日)
哲学者、音楽評論家、ミュンヘン大学教授。6枚目のビラの執筆者。幼少期の熱病の影響で足に障害があり、ナチス体制下で差別を受けたため反感を持ったと言われる。元来保守的であり、反ナチ組織として国防軍に期待を寄せていた。しかし、実戦経験を持ち軍に疑問を抱いていたハンスらがビラの修正などを行ったため、立腹してしまい連絡を絶ってしまったと言われる。戦中、戦後まで続く国防軍への信頼と無罪論を象徴する人物であり、戦後も表彰対象とされながら、無垢な青年運動にケチをつけたと容赦なく非難されることもある。ただし、国防軍を味方につけるべきと言う運動方針はのちのヒトラー暗殺未遂事件を見る限り、考えうる手段の中では現実的だった。処刑直前まで執筆活動を続ける胆力があり、身体の障害に相反して精神は精強だったと言える。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 4
- 0pt