短十二糎自走砲/十二糎砲戦車とは、大日本帝国海軍が第二次世界大戦末期に開発した戦車であり、海軍陸戦隊に配備された。
現代では短十二糎自走砲の名が一般的であるが、当時海軍部隊内からは十二糎砲戦車と呼ばれていた。
概要
この車両については、資料が少なく開発経緯・運用法など全貌がよく分かっていない。
判明しているのは、九七式中戦車 47mm砲搭載型の主砲を車載向けに改造した短十二糎砲に換装した車両であること、1両のみの試作車両ではなく量産車両であり、終戦までに佐世保や横須賀に少なくとも10数両存在したといわれている。
短十二糎砲は帝国海軍が大戦中期に開発した砲で、徴用した商船の自衛用として開発された。
主に敵潜水艦等の敵艦艇の迎撃の他、対空用が想定されていたため対空兵器に分類されているが、この砲は
射程や初速、発射速度が遅かった。
利点としては、安価で造りやすく、砲身内にかかる圧力が低くなるよう設計されていたため砲弾は、同級の物と比べ、砲弾の外殻を薄くでき炸薬量が多くできたため軽量だった。
(例えば、性能が似たり寄ったりの火砲に三八式十二糎榴弾砲があるが、弾薬の総重量は約20㎏以上である。対して短十二糎砲用弾薬は約17kg程度である。より口径の小さい九一式十糎榴弾砲弾薬の場合は約19.2㎏である。)
使用弾種は榴弾や対潜弾等の非装甲目標弾のみで徹甲弾や成形炸薬弾の存在は確認されていない。短十二糎砲が使用する榴弾は陸軍の使用していた105㎜級榴弾と同程度の炸薬量であるため、威力は105㎜砲弾と近似すると思われる。
(対装甲に対しては80~120mmの厚さの鋼板に対しては効果なしと見積もられていた。)
構造
車載化した砲は、反動を軽減するための砲口制退器が取り付けられ、反動を吸収する駐退器は旧日本軍車両としては珍しい同芯式(駐退器が砲身を囲うように配置されている)が採用された。
それ以外は原型砲と同じであり、同時期に開発された自走砲や火力支援車両に多く見られるような紐を引くことで、主砲弾を発射する方式を採用し、砲尾の尾栓は搭乗員から見て右開きになっていた。また全体的に右寄りに配置されている。砲塔は、原型の九七式中戦車と同じく360°旋回し、旋回ハンドルも左側に設置してあった。
(狙いを定めるための照準器は米軍が調査した時点では発見できなかったが砲架の左側に0~4000mの目盛りが刻まれていたという。)
そのため、空いた左側に配置された砲手が一人で砲弾を装填することになっていた可能性がある。
砲塔は47㎜砲搭載用の砲塔をほぼそのまま採用しており狭い。オマケに使用砲弾の全長は従来の47mm砲弾の約1.5倍以上の約63㎝、重量も弾丸のみで数倍の約13kg(発射薬や薬莢含めた総重量は17㎏)と増加していたため装填作業は困難を極めたと思われる。
そのため、「砲塔の後部にある扉を開けて外から装填していたのでは?」
という意見もあるが、それならば一式七糎半自走砲のように主砲を固定式に搭載し、天板と後部装甲は省略した方が都合がよく、射程の長い砲であることが好ましいため可能性は低いと思われる。
主砲弾の装弾数はよく分かっておらず8発という説がある。(米軍の調査によると車内より砲弾27発を収納できる砲弾入れがあった。)
副武装である車体機銃は終戦時点では取り除かれていたが、従来は搭載されていた可能性がある。
なお砲塔上の対空用機銃用銃架はあるが砲塔後部の機銃は無い。その他は基本的に九七式中戦車と同様であると思われる。
余談
Wikipediaなどでは、本車両を自走砲に分類しているが、海軍内の戦車中隊に配備されかつ、陸軍のそれと同じ編成であること、弾薬庫が中にあり、自走砲のように弾薬車が付随していないこと、海軍内からの名称が十二糎砲戦車であることから、本兵器は自走砲ではなく、あくまで大口径砲を搭載した(砲)戦車の扱いだったと思われる。
その後
大戦中に使用されることはなかったが終戦時に発生した厚木海軍飛行場で発生した反乱の妨害に投入される予定だったが、翌日には中止され結局実戦に使われることはなかった。
ちなみに短十二糎砲の兄弟である短二十糎砲の自走化案があったといわれている。
名前的に九七式中戦車の車体に12.7㎝高角砲を搭載した海軍(長)12㎝自走砲と混同されることが多い。
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