ただし、以下の複数の意味がある。
- 武装が機関銃のみの豆戦車(装甲車)に対しての火砲を搭載した戦車の呼び名。
- 日本陸軍戦車部隊における主力戦車(中戦車)を支援する車両のカテゴリー。
- 太平洋戦争末期の軍需省における、対戦車戦闘に長けた車両全般。
本記事では2.について解説する。
概要
砲戦車は中戦車よりも大きな火砲を装備し、味方中戦車部隊の行動を阻害する、対戦車砲や敵戦車を破壊またはその射撃を妨害するための兵器である。当初は対戦車砲部隊の制圧がメインとされていたが、時勢が変化し研究が進むにつれ、対戦車戦闘に重きを置くようになった。またその車体はなるべく中戦車と可能な限り、設計や部品を流用する方針だった。
結局のところ、補助的な兵器であったがゆえにリソース配分が少なく、開発は後回しになりがちであり、更に三度の計画設計の変更のため、実践に参加することはなかった。
類似兵器について
しばしば、自走砲(自走榴弾砲)や対戦車自走砲や戦車駆逐車、突撃砲と混同されることもある。
しかし、砲戦車は本来味方戦車部隊と共に機動戦を行う攻撃的な車両であって、対戦車自走砲や戦車駆逐車のような待ち伏せを主眼にした防御用の兵器ではない。
機動戦を行う都合上、多くの自走砲のようなオープントップの戦闘室は厳禁であり、搭乗員を砲弾の破片や銃弾から完全に保護した密閉式の戦闘室を備える必要もあった。
火砲の搭載方法も旋回砲塔であることが理想とされていたが、中戦車とと車体設計や部品を共用しなければならない都合上、大型砲を旋回砲塔式に搭載することが困難であった場合は、ある程度の射界を得られるという条件付きで、やむを得ず固定式にすることも可能としていた。
(突撃砲は最初から旋回砲塔が必要ないとされているし、支援対象は歩兵か戦車かである点でも異なる。対戦車戦闘が徐々に重視されていったことは共通だが、戦車の代用として用いられることもあった突撃砲とは違い、砲戦車はあくまで補助「戦車」だった。)
その他、砲戦車の搭載砲は57mm級以上とし、その上限は105mm級までとされていた。
また、自走砲とは編成方法が違うという点でも異なる。砲戦車部隊は中戦車部隊と同じく、3から4両で小隊。12両編成で中隊とする。これに対し自走砲部隊は3~6両で中隊とした上で、弾薬車や敵との距離を把握する観測部隊が付く。
このような誤解が生まれたのはいくつか理由が存在し、最初期の構想での砲戦車の形態がオープントップの自走砲だったこと、次に太平洋戦争末期において敵との戦力差が深刻なものになり、待ち伏せ主体になってしまったこと、また、砲戦車は中戦車と車体設計と部品をなるべく共通化した上で中戦車よりも大きな砲を搭載しなければならない都合上、搭載砲によっては旋回砲搭式に搭載するのは不可能であるため自走砲のように固定式にしなければならず、対戦車自走砲のような外見になってしまったことなどがあげられる。
歴史
時は1935年(昭和10年)、まだ九五式軽戦車すら完成していなかった頃である。安価な対戦車火器による自軍戦車の損耗を軽減するために、山砲を搭載した自走砲のアイディアが提案される。提案したのは歩兵部隊と砲兵部隊であり、戦車部隊は歩兵部隊の一部だった。
(山砲というのは、山道などの険しい場所での移動を考慮し分解して運べるようにした比較的小型軽量な75mm級の砲である。小型軽量とはいえ、当時の戦車に搭載されていた火砲の口径は37mm~57mmクラスであり、これらよりは遥かに大きく威力があった。)
この兵器は諸外国の自走砲の例にもれずオープントップであり、車両の車体上に山砲を搭載するが、一般的な戦車とは違い砲搭どころか搭載砲の操作員を保護するための装甲板が正面のみだったと言われる。
日中戦争前夜の1937年(昭和12年)5月、この兵器の名称が自走式戦車支援砲となる。
1939年6月、自走式戦車支援砲の計画は大きく変更される。変更後、名称は砲戦車に改められると共に、その形態もオープントップの自走砲型から一般的な戦車と同じ旋回砲搭式備えた形式となる。
一方で1939年から1940年にかけて、自走式戦車支援砲や戦車とは別に対戦車車両の構想が提案される。この車両には敵戦車の撃破を容易にするため、山砲よりもさらに大きな野砲を搭載するものだった。同時に戦車の主砲も野砲とすべきであるという意見が多く上がるようになる。
(野砲は山砲と同じく75mmクラスの火砲であるが、山砲よりも大きな火砲で分解できない代わりに、砲弾をより遠くまで飛ばすことができた。また戦車やトラック等の動く目標に対して、砲弾を命中させやすく対戦車戦闘に長けていた。)
1941年前半、最初の砲戦車である試製一◯◯式砲戦車がほぼ完成する。しかし開発を主導した戦車部隊からは砲戦車としては不適切であるとされ、代わりに、当時唯一野砲を搭載した車両である一式七糎半自走砲に目をつけていた。
戦車部隊は一式七糎半自走砲の試験を行い、砲威力や命中率の高さを評価し、そして「一式砲戦車」と勝手に名前を変えて、本格的な砲戦車が開発されるまでの代用砲戦車として採用しようとする。しかし、一式七糎半自走砲は砲兵部隊が開発を主導していた兵器であり、この試験は戦車部隊の独断であった。もちろん砲兵側も黙っているわけではないため戦車部隊側と協議することになる。
この試製一◯◯式砲戦車にはホイ、一式七糎半自走砲にはホニという別名が与えられた。
一◯◯式砲戦車との比較を含む各種試験の結果、一式七糎半自走砲は砲戦車として不備も多数あることが判明したため、戦車部隊は一◯◯式を改良を進め将来的に採用する運びとなり、一式七糎半自走砲も従来の計画通り、砲兵部隊の装備として採用され部隊整備が進められていく。
1942年、太平洋戦争がまだ始まったばかりの頃、一◯◯式砲戦車の後継車として「新砲戦車 ホチ」が計画される。この「新砲戦車 ホチ」は一◯◯式砲戦車の大型発展型ともいえる車両であり旋回砲搭式の戦車だった。
1943年6月、欧州からの情報により「砲戦車 ホチ」の計画は破棄され、その代わり「新砲戦車(甲)」ことホリ車と一式七糎半自走砲を砲戦車化した「七糎半砲戦車」の計画がたてられる。これらの砲戦車は従来の砲戦車とは異なりオープントップとはいかないまでも、旋回砲搭を諦め、固定式の戦闘室を採用していた。これは目まぐるしく変化する世界情勢に対応するための苦肉の策であったと言われる。
ただ、当時は戦況の悪化の情報がまだ伝わっておらず、太平洋戦争開始前後のドタバタから大分落ち着いた時期でもあり、楽観視していたのも事実である。
その直後、戦況の悪化の報が届くと兵器開発とその生産のリソースは極力航空兵器に集中されることになり、戦車もその皺寄せを受けいくつかの新戦車は試験・研究用に1両のみの製造となる。
1944年も後半に差し掛かり、本土決戦の準備が着々と進むなか地上兵器も必要であると考えを改め、これまで緊縮されていた戦車兵器がわずかながらも増産されることになり、実質生産が凍結されていたいくつかの兵器の量産の許可も降りる。
最終的に量産された砲戦車は七糎半砲戦車を制式化した三式砲戦車と一◯◯式砲戦車を再制式化した二式砲戦車であり、前者は20数両、後者は30両程度にとどまる。
関連項目
- 0
- 0pt