神聖ローマ帝国とは、現在のドイツやオーストリア、チェコや北イタリアに位置した国家である。
15世紀以降はハプスブルク家が帝位を世襲したため、本項ではハプスブルク家についても記述したい。
概要
教皇により「ローマ皇帝」と認められた皇帝が、いわばドイツの領邦を統治した帝国、それが神聖ローマ帝国。
有り体に書くならそんなところである。なお、ここでいう「ローマ皇帝」とは、476年に滅んだ「西ローマ帝国」の後継者という意味である。そして「ドイツの領邦」とは、主にザクセンやバイエルンなど、現在のドイツにも残る諸州を指す。
しかし分かりにくい。この帝国の曖昧さほど稀有なものはそうないだろう。何が神聖なのか? どこがローマなのか? 果たして帝国だろうか? 世界史上に確かに存在し、けれでも実像を掴み難い、この国はしばしばそんな印象を持たれるのである。
有名なヴォルテールの批評がまた、それに拍車をかけている。
神聖ローマ帝国と自称し、そしていまだにそうしているこの集団は、
いかなる点においても神聖でもなければ、ローマ的でもなく、ましてや帝国ですらない。
しかしこれではあまりにお粗末である。というわけで、簡潔にこの国を紹介することとしよう。
まずは名前から。
- 「神聖」
- 「ローマ」
- 「帝国」
- 国号は「ローマ帝国(11世紀まで)」→「神聖帝国(12世紀)」→「神聖ローマ帝国(13世紀)」→「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(1512年から)」ところころ変わっている
- かっこいい
次は国家像。
-
ローマ、カトリック、ゲルマンの三つからなる文化的特色
- いわゆる西欧文化の前身
- ローマ帝国を自称
- フランク王国の後継
- ドイツ領邦の連合体
- 首都がない
- 皇帝は「ローマ・カトリック教会の守護者」という大前提
- 皇帝の権力があやふや
- 15世紀からハプスブルク家が統治
- ようは「教皇によりローマ帝国を称するドイツ連邦」である。
ローマ・カトリック教会を保護することで成立し、ローマを名乗るゆえにイタリア遠征にとらわれた、皇帝が統治するドイツの国々、それが神聖ローマ帝国であった。漠然と捉えられることも頷けよう、この国は成立過程や背景そのものが複雑なばかりか、確固たる独自性を初めからは有していなかったのである(少々言い過ぎではあるが)。この国だけが持つ特徴とは、あえていうならばそれら諸々の背景、複雑さであった。
とはいえ神聖ローマ帝国が、800年あるいは962年から1806年までの長きにわたって、西欧唯一の帝国として存在したのは事実である。国内不統一や疫病のペスト、そして教皇や諸侯との泥沼の関係にもがいたこの国は、西欧史上、確かに存在していた。
成立と背景
8世紀も後半の当時、ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位:772 - 795年)は、ランゴバルド王国の攻撃に苦戦していた。ランゴバルド王デシデリウスのローマ侵攻は770年からのことであったが、773年、教皇ハドリアヌス1世はフランク王国のカール(シャルルマーニュ)に援軍を要請する。
なお、カールはトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてイスラム軍をイベリア半島に追い返したカール・マルテルの孫にあたり、教皇にイタリアの領地を与えたマルテルの子ピピン3世の息子でもあった。つまりカールはローマ教会を守護する一族の申し子なのである。
フランク王カールの進軍はアルプス山脈を越え、ランゴバルド王国へと迫る。そして774年、カールは見事ランゴバルド王国の首都パヴィアを占領し、デシデリウス王を拘束、捕虜とし、まもなくその王冠と王位をはく奪した。カールはランゴバルド王となり、ローマ教皇の保護を約束するばかりか、ローマ教会へ中部イタリアの地を寄進した。これがいわゆるローマ教皇領である。
こうしてローマ教会の安息はカールの手により実現された。しかし教会の世俗的欲求、つまり野心はまだおさまらない。
8世紀も末の当時、地中海およびヨーロッパ世界は東ローマ帝国を唯一最大の「帝国(=ローマ帝国)」としていたが、ローマ教会は、ぶっちゃけ早いところ東ローマ帝国とはおさらばしたかった。この直接の原因は、東ローマ皇帝レオーン3世(在位:717 - 741年)が726年に聖像破壊運動(イコノクラスム)を開始し、さらに730年に聖像禁止令を発布したことだった。これら東ローマ帝国の活動はすぐ右隣のイスラム帝国の影響があったのだが、マリア像などを布教に用いるローマ教会としては、たまったものではなかったのである。
カールがローマ教会を保護した8世紀末、東ローマ帝国は女帝エイレーネー(在位:797 - 802年)が治めていた。エイレーネーは東ローマ初の女帝である。ローマ教会は「女性が元首となった時点で東ローマ皇帝は断絶した」とし、自らの手で新たな「ローマ帝国」を創造、東ローマ帝国から離別しようと企てた。
そんな折、新たにローマ教皇となったレオ3世(在位:795 - 816年)は、反対派の諸侯から命を狙われるまでに至っていた。教皇レオ3世は799年に逃亡するが、このとき彼を匿ったのが、かの教会の守護者カールだったのである。ランゴバルド王国からの防衛、教会の守護、教皇への中部イタリアの寄与、そして教皇を庇護――これらカールの武勲は、教会にとり至高の賜物であった。これが後に、カールの戴冠へと繋がるのである。
カールの戴冠――西欧帝国の誕生
「神により戴冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル」
並びなき功績により、彼はレオ3世により「ローマ皇帝」として戴冠した。カール大帝である。
これは明らかに「ローマ帝国の復活」を意味する大事件であった。確かにカール大帝本人はフランク王国のゲルマン人だが、当時、「ローマ皇帝」とはキリスト教世界の統治者を意味していたから、民族的差異は些細なことだったのである。
カールの戴冠。これはローマ教会が、東ローマ帝国から離別し、また東ローマ帝国とは別の「ローマ皇帝」を戴いたことを意味している。また、西欧において初の「帝国」が誕生したという観点から、ヨーロッパが東ローマ帝国による一元的な世界ではなくなったということをも、意味しているといえよう。
ここで注目しておきたいのは、ローマ教皇が東ローマ帝国に代わる軍事的保護者を求め、フランク王国を選んだということである。これによってヨーロッパ世界は東ローマ帝国を主としたギリシャ正教・東欧世界(ロシアやルーマニアなど)と、神聖ローマ帝国と教皇を中心としたローマ・カトリック教会・西欧世界(フランスやスペインなど)に完全に分裂したのである。
オットーの戴冠――ゲルマン的ローマ帝国の形成
さて、カールを戴く新ローマ帝国、すなわちフランク王国は当初、イベリア半島や北アフリカを除き、西ローマ帝国の領域を再現していた。しかし843年、ヴェルダン条約により王国は三国に分裂、その領土は西部・中部・東部に分配された。次いで870年、メルセン条約により中部の北半分が西部と東部に割譲されると、現在のフランス(西部)・イタリア(中部)・ドイツ(東部)の原型を生んだ。後世への影響を考慮すれば、これもまた西欧の大事件といえよう。
神聖ローマ帝国がより分かりやすく歴史に登場するのは、オットーの戴冠によってであった。
青臭く、それゆえ教皇領の拡大を無理矢理に敢行したローマ教皇ヨハネス12世(在位:955 - 964年)は、当時のイタリア王ベレンガーリオ2世の反対にあい、侵攻さえ受けていた。ヨハネス12世はこの窮地を脱するべく救援をと考えたが、その相手が東フランク王たるオットー1世(在位:936 - 973年)であった。まもなくオットー1世は教皇領を守護し、ローマ教会へ恩を売る形となる。これが962年のオットーの戴冠へと繋がった。
しばしばオットーの戴冠は神聖ローマ帝国成立の契機とみられるようである。確かにオットー1世は、イタリア王からローマ教皇領を保護したために、「キリスト教世界の保護者」として、「ローマ皇帝」の位を戴いた。しかし、キリスト教の守護者としてローマ皇帝に戴冠すること自体は、すでに先述のカール大帝が行っている。オットー1世はあくまで「カール大帝に始まる復古ローマ帝国」の皇帝位に就いたにすぎず、彼の代をもって神聖ローマ帝国が成立したかといえば、微妙なところではある。当時の人々も、オットーの戴冠は復古ローマ帝国の中の一事件としか見ていなかった。
とはいえオットーの戴冠をもって、ゲルマン的な西欧帝国が成立したことは事実であった。神聖ローマ帝国をドイツ史の一時代として見るならば、オットー1世の代で誕生したと見てよいだろう。
ローマ帝国として
ドイツ皇帝、それは神聖ローマ皇帝。神聖なるローマ皇帝である以上、ローマを所領せずして何たるか!
前期の神聖ローマ帝国は、異様なまでに「ローマ」に執着した。というのも、神聖ローマは西ローマ帝国の再興者であるが故に、また正式な国号も「ローマ帝国」であったから、心の都たるローマを強く欲したのである。彼らドイツ人の皇帝たちは、ローマに付加価値を求め、ローマ教皇による戴冠を非常に重要視した。
10世紀ごろの帝国は、統一された国家とはいい難い様相を呈していた。ゲルマン民族による部族連合、といえば良いだろうか。皇帝独裁の東ローマ帝国とは正反対で、神聖ローマ帝国はドイツ連邦の盟主、といった具合で君臨していたのである。
- 973年、オットー1世死去。オットー2世が即位。パリへ進撃。
- 980年、オットー2世が「至高なるローマ人の皇帝」としてイタリア遠征。イスラム軍に大敗。
- 再度イタリア遠征。しかし983年にオットー2世が死去。後継は3歳児のオットー3世。
- 996年、成長したオットー3世がローマ教皇により戴冠。「ローマ帝国の復興」を掲げイタリア遠征。
- 1002年、オットー3世がこの世を去る。22歳であった。後継者なし。
後にバイエルン公ハインリヒが皇帝として即位、ハインリヒ2世となる。彼が掲げたのは「ローマ帝国の再興」ではなく「フランク王国の復興」であった。そんな彼もまた後継ぎを残さず死去し、帝国は選挙により皇帝を選出するようになる。
マインツ、ケルン、トリーア、プファルツ、ブランデンブルク、ザクセン……後の大空位時代に権力を握り始める彼ら選帝侯の胎動は、このときすでに始まっていたのかもしれない。
カノッサの屈辱
11世紀、それは帝国の内乱期にして低迷期であった。
中世ドイツ最強と謳われた「黒王」ハインリヒ3世は、条約によりシュヴァーベン大公領やバイエルン大公領を自身の直轄地とし、隣接するボヘミアやハンガリーまで臣従させていた。ハインリヒ3世は3人ものローマ教皇に廃位や辞任を進めるなりして、傀儡であるクレメンス2世を新たなローマ教皇とした。このときローマ教会内部と神聖ローマ帝国との間に軋轢が生じたのはいうまでもない。
1045年、ハインリヒ3世はザクセン公領の主を弱体化させようとし、自身の直轄領を何食わぬ顔でザクセンに建設した。皇帝直属地はザクセン公領の経済的負担を増大化させ、ザクセン公との確執も生まれる。
事が動いたのはハインリヒ3世の死後である。
3歳児のドイツ王ハインリヒ4世は諸侯の政治的傀儡と化し、母親は摂政となり王権は弱体化。当時の教皇ステファヌス10世は神聖ローマ帝国の政治にまで干渉し、ハインリヒを廃してでも自らの兄を皇帝にしようと画策していた。
1073年、そういった渦中で先のザクセン公らの反乱が勃発(ザクセン戦争)。叙任権闘争の終結まで続く。
さて、神聖ローマ帝国といえば、領邦の連合体である。国家としての統一を図る上では、頂点は一つの方が良い。しかし、このころすでに神聖ローマ内では、皇帝によるものと教会・教皇によるもの、というように二つの頂点が生じていた。皇帝が「あれしたいこれしたい」といっても、諸侯は「でも教会側の決定も待たないと」といった風に、直接浸透しなかった(※あくまで例)。
成人したハインリヒ4世は、国内統率のため「聖職者の叙任権は皇帝にある」と豪語した。これに見かねた時の教皇グレゴリウス7世は、「遺憾である。教皇である以上は、聖職者の任命権は私にある」として、真っ向から対立した(叙任権闘争)。
以下が大雑把なたとえ。
神聖ローマ帝国を「マンション」とした場合、皇帝は大家さんで、各領邦にいる聖職者は「テレビ」である。
大家さんである皇帝は、家賃を払わない、あるいは自治会に参加しないなどの住人を何とかして、いうことを聞かせたかった。ここで「テレビ」を使い呼びかけたいところだが、残念ながら「テレビ」は教皇を優先するような番組ばかりを流している。これに腹を立てた皇帝は、「マンションの大家は俺なんだから、この中でどんな番組流そうが俺の勝手だろう!」ということで、テレビの操作にのりだすのだが、当然、番組を流す教皇の反対を食らう。こうして皇帝と教皇は、テレビを巡って対立するのである。
グレゴリウス7世は即刻ハインリヒ4世を破門(西欧キリスト教社会では死よりも恐ろしい)した。これにびびったドイツ諸侯もハインリヒ4世を廃位させようと動く。そろそろ危ない空気に気づいたハインリヒ4世は、もう自分に従う臣下がほとんどいないことを知ると、グレゴリウス7世に赦してもらうため(ぶっちゃけ皇帝権を回復させたいだけなんだけどねー)、泣く泣くカノッサ城まで1人で赴いて、三日間DO☆GE☆ZAした。カノッサの屈辱である。
「あ、あなたがそこまでするなら、べ、べべ、別に赦してあげてもいいわよ……!」
何とか赦してもらえたハインリヒ4世は高を括り、なんと再度ローマ教皇へ向けた軍を再編、イタリア遠征を開始した。恩を仇で返す皇帝。ワロス。ちなみにグレゴリウス7世は亡命先で客死した。大変気の毒である。
ハインリヒ4世は強気に出ているので誤解されるかもしれないが、ここで一応述べておくと、一度頭を下げたという事実は原則覆らないので、この件に関していえば、皇帝よりも教皇が偉いということが証明されてしまった。もう取り返しがつかない。
乱れる帝国
叙任権闘争とザクセン戦争を終結させ、帝国はいよいよ一息つくところまできた。訳がなかった。
- 1208年、皇帝選挙で優位にあったフィリップが暗殺される。
- 1209年、教皇の支持を得てオットー4世が即位。
- しかしシチリア王国に侵攻したため教皇により破門。そして廃位。
- 教皇の支持によりフリードリヒ2世が即位。1220年、戴冠の後に教皇と対立。わけがわからないよ。
- 1228年、フリードリヒ2世が破門。しかしイスラム君主との交渉で聖地イェルサレムを奪還、そこの王様にもなる。
- 1232年には嫡男に反乱される。味方が欲しいので諸侯の権力強化、譲歩を許してしまう。
- 後にフリードリヒ2世は教皇から「アンチキリスト」と称され、1250年には死んでしまう。
真面目な話、フリードリヒ2世に至っては公共事業や財政再建など、大変尽力していたりする。また先述したが、彼は外交だけで聖地を奪還、イェルサレム王にもなるあたり、ただ者ではなかったことがうかがえる。しかし諸侯への譲歩がいけなかった。これ以後、神聖ローマ帝国はますます「バラバラの国の集合体」という姿を晒していく。フリードリヒ2世死後の1250年から1276年まで、帝国は皇帝のいない時代を経験したのだった(大空位時代)。
ドイツ国家として
- 詳細は『ルドルフ1世』の項を参照
スイスの一貧乏貴族であったハプスブルク家。1273年、ルドルフ1世が皇帝選挙によって時期皇帝に選出されると、彼らハプスブルク家の命運、しいては欧州史そのものが新たな軌道を描き始める。
選挙の会議に出席していなかったボヘミア王オタカル2世が、ルドルフ1世の即位を拒むと、1278年、両者の間で戦争が勃発(マルヒフェルトの戦い)。勝利したルドルフ1世は、ここでオーストリアを領有する。
ハプスブルク家の台頭を警戒し始めたドイツ諸侯は、ルドルフ1世の死後、ナッサウ家のアドルフを王として選んだが、1298年には廃位(関係ないけど翌年オスマン帝国が成立)。再びハプスブルク家の、ルドルフ1世の子アルブレヒト1世が即位する。が、これを諸侯は良しとせず、彼は1308年に暗殺された。
14世紀前半には再び教皇VS皇帝の図が表れ、新皇帝の選出を巡って争いが生じた。というのに、神聖ローマ帝国は懲りずにイタリア遠征を行い、またまた教皇の顰蹙を買うという始末。
教皇とのいざこざはまだ絶えず、1346年にはヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世が、チロル伯爵領を無理やりに吸収しようとしたために、再び教皇の切り札である破門を誘発、当然ルートヴィヒ4世は廃位させられた。もはや皇帝と教皇の軋轢は天井知らずだったのである。
改革と混沌
しかし次期皇帝にルクセンブルク家のカール4世が即位すると、神聖ローマ帝国にもある程度の改革が見られた。
彼の死後はまた帝国が荒れ始め、即位と退位の繰り返しを見せつけた。ローマとフランスのアヴィニョンにそれぞれ教皇が現れたり(教会大分裂、大シスマ)、これを解消すべく1414年にコンスタンツの公会議が開かれたり、その会議で改革派が火刑にされたために1419年に戦争が起こったり(フス戦争)、とても「ローマの平和」とはいえぬ渦中にあった。というかそもそも帝国はローマ帝国の原型を失っていた。
こうした政治的混乱の後、帝位を世襲化する貴族が現れる。それが先に登場した、ハプスブルク家である。
世界帝国と宗教改革
16世紀に入ると、イングランド、フランス、スペインなどの西欧諸国は中央集権化を進めていった。しかし神聖ローマ帝国はというと、カール4世の金印勅書に見られる諸侯の特権強化により、中央集権とは逆行し、分権化が著しくなっていった。いよいよ帝国は領邦の集合体へと変質し、連邦国家としての性質を表していく。
が、そんな折、帝国にも大きな転機が訪れる。
絶対権力者の登場
レコンキスタで有名なスペインの祖、イサベル女王とフェルナンド王。そんな二人の娘、フアナが、ハプスブルク家にして神聖ローマ皇帝の息子であるフィリップ美公と結婚したことから、ハプスブルク家がスペインをも統治するようになった。
1516年、そのスペイン王女のフアナとハプスブルク家のフィリップ美公の間に産まれた子、カルロス1世が、スペイン王に即位した。生まれながらにスペインと神聖ローマの血統をもつカルロスは、1519年、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝位を巡る選挙で争い、勝利すると、神聖ローマ皇帝カール5世として即位する。
フランス王フランソワ1世との皇帝選挙に勝利したカール5世は、ハプスブルク家の世襲領地を獲得する。
すなわち、ネーデルラント公国(現オランダ・ベルギー)、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国、サルディニア王国、メキシコなどの新大陸植民地と、世界規模の領域を得たのである。
かくして神聖ローマ帝国は、カール5世(カルロス1世)のもと「西ローマ帝国の再興」を達成しつつあった。
宗教改革
- 詳細は『宗教改革』を参照
カール5世の時代は、しかし苦悩のときでもあった。
婚姻政策により領土を拡大させていったマクシミリアン1世(在位:1459年 - 1519年)の治世期からローマ・カトリック教会への不満は高まっていたが、カール5世の時代、マルティン・ルターの登場によりそれは顕著なものとなった。
当時、イタリア・フィレンツェのメディチ家出身のローマ教皇レオ10世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の改築資金を調達するために、贖宥状の販売を行っていた。この贖宥状とは、教会のために募金すれば罪も赦される、という名目で売られる免罪符であった。
マルティン・ルターは、贖宥状なる教会のあからさまな物乞いに対し批判、九十五カ条の論題を発表しローマ教会の腐敗を説いた。教会、つまり教皇庁の搾取に以前から反対していたドイツ諸侯は市民は、このルターの考えを支持し、結果キリスト教に新たな思想のプロテスタントが誕生する。聖書をキリスト教唯一の源泉とするルターの思想は、広範なドイツ領邦に普及していった。
無論ローマ教皇レオ10世は、1521年にルターを破門する。ここでカール5世は国内の不統一を抑えるべく、ローマ教皇に味方した。「神聖ローマ皇帝」という位自体が、「ローマ・カトリック教会の守護者」としての側面を持ち、また、カール5世自身も熱心なカトリック教徒であったから、そういった意味でも新教成立は抑えたかったのである。
かくしてルターはヴォルムス帝国会議に呼び出されることとなる。ところがルターは自説を撤回せず、それどころかザクセン選帝侯の庇護下で新約聖書のドイツ語訳を完成させ、神聖ローマ帝国の民衆に、直接キリスト教を普及させるに至った。
新教成立の影響
1524年から翌1525年には、農奴制の廃止を要求するミュンツァーが指導した、ドイツ農民戦争が勃発した。蜂起はやがて鎮圧、粛清されたが、これを機にザクセン選帝侯らのドイツ領主はルターの新教を支持、続々とローマ・カトリックの権威から脱退していった。彼ら領主は、自身の領内において教会の首長となる、領邦教会制を創始したのである。
カール5世は1526年に新教を認めるが、1529年には白紙に戻した。これに激怒した新教諸侯は抗議し1、1530年にはシュマルカルデン同盟を結成、皇帝に抵抗した。
新教の成立は後に起こるウィーン包囲の一因ともなった。プロテスタントの胎動が神聖ローマ帝国にとって真の意味での負担となるのは、まだまだこれからなのである。
1 このルター派諸侯の「抗議文の提出」が由来で、新教は「プロテスタント」と呼称される。
イタリア戦争とオスマン帝国
カール5世は広大な領域を世襲と婚姻関係から獲得したが、彼はその領土を死守すべく日々戦いに明け暮れていた。その一つがフランスとのイタリア戦争であった。
この時代、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国とスペインの両方を治めていたが、他方フランスはその二国の地理的中間にあり、挟み撃ちの状態にあった。フランスはこれに危機を感じ、ある一国と同盟を結ぶ――その相手こそが、かのオスマン帝国だった。
これが1529年のウィーン包囲に繋がり、ヨーロッパを恐怖に陥れた。1538年、カール5世はオスマン帝国の地中海進出を阻止すべく、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、そして教皇領と結託し、スペインをも含む艦隊をイオニア海(ギリシャの西)に派遣した(プレヴェザの海戦)。しかしスレイマン1世のもと全盛期にあったオスマン帝国の戦力は凄まじく、カール率いる西欧艦隊は大敗を喫した。
カール5世の神聖ローマ帝国が「西ローマ帝国の再興者」ならば、スレイマン1世のオスマン帝国は「東ローマ帝国の再興者」だったのである。プレヴェザの海戦より「オスマンの脅威」は十二分に働き、カール率いる西欧艦隊は地中海の制海権を奪われた。カールの夢見た「西ローマ帝国の復興」は、こうして頓挫することとなる。
一連の国際関係の変化は神聖ローマ帝国に決定的な変化を齎した。カール5世は幾度もの戦いのため、ルター派との妥協さえ考慮せざるを得なくなる。そしてついに1555年、アウクスブルクの和議が成立し、諸侯はカトリックかルター派であれば自由に信仰できるようになる。ただし領民は、領主の宗派に従わなければならないが。
日の沈まぬ帝国
結局オスマンの猛進に歯止めをかけることができなかったカール。だが、神聖ローマ帝国による「西ローマ帝国の再興」はまだ終わらない。
彼の死後、弟フェルディナンドがオーストリアを、カールの息子のフェリペ2世がスペインの王位をそれぞれ継承すると、ハプスブルク家は元来のオーストリア=ハプスブルクとスペイン=ハプスブルクに別れた。
ここで特筆されるのがフェリペ2世である。
彼は父カール(カルロス)からスペインを引き継ぐにとどまらず、ネーデルラントやフィリピン、アメリカ大陸の植民地までも受け継いだ。1571年にはあのオスマン帝国にレパントの海戦で勝利すると、地中海での制海権をも得た。くわえて、1580年には母と后がポルトガル王女であったことから、血統断絶に乗じポルトガルの王位も得た上、ポルトガルがもつ海外植民地をも吸収し、「日の沈まない帝国」を現出させた。これは、領土が広すぎるため常に帝国のどこかは太陽に照らされていた、という意味である。
日没なき大帝国の領土は、神聖ローマ帝国と併せ、ドイツ、チェコ、オーストリア、イタリア南部、オランダ、ネーデルラント、スペイン、ポルトガル、そしてアメリカ大陸の植民地、最後にフィリピンなどのアジア植民地にまで達した。
もはや神聖ローマ帝国が創成期に掲げていた「西ローマ帝国の再興」は達成されたといってよい。いや、それどころか、ハプスブルクの大帝国は、ローマ帝国以上の規模にまで膨れ上がったと見て、間違いはないはずだ。
事実上の解体
しかし17世紀にもなると、神聖ローマ帝国は事実上の解体に向かう。
すでにカール5世治世期に産声を上げた宗教改革の波はとどまることを知らず、ドイツ領内でプロテスタント諸侯の動きが活発になる。これに英仏をはじめとする列強各国が介入し、カトリック(旧教)VSプロテスタント(新教)の戦争が勃発(三十年戦争)。1618年のこと。
戦争は当初、宗教的な意味合いが強く、誰もがそう思っていたのだが、次第に列強による武力干渉を招き、徐々に各国の政治的駆け引きの場へとその性質を変えていく。
ここで厄介なのは、神聖ローマが一番の痛手を被ったにもかかわらず(土地の荒廃)、列強諸国の多くはこれといった損害を被ることなく戦争を終えたことである。ライバルのフランスに至っては、国境沿いのエルザス・ロートリンゲンを吸収合併した始末。復興の困難な状況になった神聖ローマ帝国は、確実に勢力争いから脱落した。
かくして1648年、ウェストファリア条約が締結された。これにより神聖ローマ帝国は300以上の領邦国家と自由都市の集合体となり、その不統一性はより顕著なものとなる。ウェストファリア条約、それは帝国にとっては残酷なまでの死亡フラグ死亡証明書であり、以後「神聖ローマ帝国」は名前だけの存在となるのだった。
スペイン=ハプスブルク帝国の落日
スペイン=ハプスブルク家の世界帝国にもガタが来たのである。カルロス1世とその子フェリペ2世により日没なき繁栄を謳歌したスペイン=ハプスブルク帝国だったが、1588年にアルマダの海戦でイングランドに敗北すると、その栄光にも翳りが生じ始めた。アルマダ海戦の敗北後もスペインの力は依然強力なものではあったが、フェリペ3世、4世と代を重ねるごとに衰弱していくのは誰の目にも明らかであった。
近親婚の成れの果て、と言えば失礼極まりないのだが、スペインが停滞していくなか王位についたカルロス2世は、お世辞にも健全な人物とはいい難かった。そして、その脆弱な王を知り介入に動いたのがフランス王国だった。
フランスとしてはスペイン=ハプスブルクとオーストリア=ハプスブルク(神聖ローマ帝国)に地理的に挟まれているわけだから、隙あらばこの挟撃から脱出したい。ゆえにフランスは、次期スペイン王をフランスの血統とすることで、スペインそのものを、神聖ローマ帝国の味方から自身の傀儡へとひっくり返す腹積もりであった。
しかし、もちろんオーストリア=ハプスブルク家としては、このハプスブルク家の優位は維持したい。そのような双方の願望は、1701年、スペイン継承戦争として如実に表れる。
太陽が沈むとき
スペイン継承戦争。
当初、ヨーロッパにおいて戦争における勢力は5分5分であった。すなわち、ヨーロッパ列強は、次期スペイン王を“フランスのアンジュー公フィリップとする派”と、“ハプスブルク家のカール大公とする派”に分かれていたのである。
勢力は均衡していた。が、カール大公が兄の死を機に神聖ローマ皇帝カール6世となった途端、多くの国々はフランス側へと傾いた。
これは偏に歴史の教訓からくるものである。彼らヨーロッパ諸国は、16世紀に神聖ローマ皇帝がスペイン王を兼ねた結果、超大国が現出したの知っている。スペイン継承戦争の今回、もし、神聖ローマ皇帝カール6世が、スペイン王を兼ねるとどうなるか――ヨーロッパ諸国の恐れはすべてそこにあった。だからこそ諸国はフランス側を支持し始めたのだった。
結果、フランスのアンジュー公フィリップが、フェリペ5世としてスペイン王となり、スペイン継承戦争は決着。スペイン=ハプスブルク家は断絶し、ハプスブルク家の栄冠もそこで崩れていく。
神聖ローマ帝国は三十年戦争でも大幅に弱体化(というより半壊)したが、このような、スペインにおけるハプスブルク家の失脚がまた影響し、立ち直ることはもはや不可能となった。スペイン継承戦争の結果、ユトレヒト条約とラシュタット条約が締結されたが、とくに前者はライバルのイングランドの一人勝ちといって差し違えなく、その点でも神聖ローマ帝国の、勢力争いからの離脱は否定できなかった。
- イングランドはスペイン王国の奴隷貿易に参入できる
- イングランドはスペイン王国から、ジブラルタル島とメノルカ島を譲り受ける
- イングランドはフランス王国から、アカディアとニューファンドランド島、そしてハドソン湾を譲り受ける
ユトレヒト条約 1713年
完全なる解体
17世紀から18世紀、ドイツの東部では新興のプロイセンが勢力を拡大させていた。またロシア帝国も、ピョートル大帝や啓蒙君主のエカチェリーナ2世の下、確実に近代化していった。
そんな折、1804年にはあのフランス皇帝ナポレオンが即位。「皇帝は俺様一人」ということで、ナポレオン1世は即時神聖ローマ帝国に打撃を与えた。これに押され、時の神聖ローマ皇帝フランツ2世は「神聖ローマ帝国の解体」を宣言。フランツ2世はフランツ1世としてオーストリア帝国の君主となり、神聖ローマ帝国を見放したのだった。
……何を隠そう、これが10世紀にもわたって存在した「神聖なるローマ皇帝の国」の崩壊である。このありようは、同じような年齢で滅んだ東ローマ帝国とは、皮肉なまでに相違しているといえよう。どちらも同じローマ帝国だったはずである。
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読み:シンセイローマテイコク
初版作成日: 11/07/21 18:23 ◆ 最終更新日: 11/12/15 00:17
編集内容についての説明/コメント: ウェストファリア条約は世界最初の条約ではないと思いましたので。→カディシュの戦い
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