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単語記事: 神聖ローマ帝国

編集

神聖ローマ帝国とは、現在のドイツオーストリアチェコや北イタリアに位置した国家である。
15世紀以降はハプスブルク位を世襲したため、本項ではハプスブルクについても記述したい。

概要

教皇により「ローマ皇帝」と認められた皇帝、いわばドイツ邦を統治した帝国、それが神聖ローマ帝国

有り体に書くならそんなところである。なお、ここでいう「ローマ皇帝」とは、476年に滅んだ「西ローマ帝国」の後継者という意味である。そして「ドイツ邦」とは、ザクセンやバイエルンなど、現在のドイツにも残る諸州をす。

しかし分かりにくい。この帝国の曖昧さほど稀有なものはそうないだろう。何がなのか? どこがローマなのか? 果たして帝国だろうか? 世界史上に確かに存在し、けれでも実像を掴み難い、このはしばしばそんな印を持たれるのである。
有名なヴォルテールの批評がまた、それに拍をかけている。

神聖ローマ帝国と自称し、そしていまだにそうしているこの集団は、
いかなる点においてもでもなければ、ローマ的でもなく、ましてや帝国ですらない

ヴォルテール

しかしこれではあまりにお粗末である。というわけで、簡潔にこのを紹介することとしよう。
まずは名前から。

次は国家像。

ローマ・カトリック教会を保護することで成立し、ローマを名乗るゆえにイタリア遠征にとらわれた、皇帝が統治するドイツ々、それが神聖ローマ帝国であった。漠然と捉えられることも頷けよう、このは成立過程や背景そのものが複雑なばかりか、確固たる独自性を初めからは有していなかったのである(少々言い過ぎではあるが)。このだけが持つ特徴とは、あえていうならばそれら諸々の背景、複雑さであった。

とはいえ神聖ローマ帝国が、800年あるいは962年から1806年までの長きにわたって、西欧一の帝国として存在したのは事実である。内不統一や疫病のペスト、そして教皇や諸侯との泥沼の関係にもがいたこのは、西欧史上、確かに存在していた。

成立と背景

8世紀も後半の当時、ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位:772 - 795年)は、ランゴバルド王の攻撃に苦戦していた。ランゴバルド王デシデリウスのローマ侵攻は770年からのことであったが、773年、教皇ハドリアヌス1世はフランクカールシャルルマーニュ)に援軍を要請する。

なお、カールはトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてイスラム軍をイベリアに追い返したカール・マルテルの孫にあたり、教皇にイタリア地を与えたマルテルの子ピピン3世の息子でもあった。つまりカールローマ教会を守護する一族の申し子なのである。

フランクカールの進軍はアルプス山脈を越え、ランゴバルド王へと迫る。そして774年、カールは見事ランゴバルド王首都パヴィアを占し、デシデリウス王を拘束、捕虜とし、まもなくその王冠と王位をはく奪した。カールはランゴバルド王となり、ローマ教皇の保護を約束するばかりか、ローマ教会へ中部イタリアの地を寄進した。これがいわゆるローマ教皇である。

こうしてローマ教会の息はカールの手により実現された。しかし教会の世俗的欲、つまり野心はまだおさまらない。

8世紀も末の当時、地中およびヨーロッパ世界東ローマ帝国一最大の「帝国(=ローマ帝国)」としていたが、ローマ教会は、ぶっちゃけいところ東ローマ帝国とはおさらばしたかった。この直接の原因は、東ローマ皇帝レオーン3世(在位:717 - 741年)が726年に像破壊運動(イコノクラスム)を開始し、さらに730年に像禁止令を発布したことだった。これら東ローマ帝国の活動はすぐ右隣のイスラム帝国の影があったのだが、マリア像などを布教に用いるローマ教会としては、たまったものではなかったのである。

カールローマ教会を保護した8世紀末東ローマ帝国は女エイレーネー(在位:797 - 802年)が治めていた。エイレーネーは東ローマ初の女である。ローマ教会は「女性が元首となった時点で東ローマ皇帝は断絶した」とし、自らの手で新たな「ローマ帝国」を創造、東ローマ帝国から離別しようと企てた。

そんな折、新たにローマ教皇となったレオ3世(在位:795 - 816年)は、反対の諸侯から命を狙われるまでに至っていた。教皇レオ3世は799年に逃亡するが、このとき彼を匿ったのが、かの教会の守護者カールだったのである。ランゴバルド王からの防衛、教会の守護、教皇への中部イタリアの寄与、そして教皇を護――これらカールの武勲は、教会にとり至高の賜物であった。これが後に、カールの戴冠へと繋がるのである。

カールの戴冠――西欧帝国の誕生

800年のクリスマス、サン・ピエトロ堂にて。

により戴冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインラートル」

96ローマ教皇レオ3世

「気高きカール(しゅ)により戴冠されし、偉大で平和的なローマ人の皇帝、万歳!」

サン・ピエトロ堂内の観衆

並びなき功績により、彼はレオ3世により「ローマ皇帝」として戴冠した。カールである。
これは明らかに「ローマ帝国の復活」を意味する大事件であった。確かにカール本人はフランクゲルマン人だが、当時、「ローマ皇帝」とはキリスト教世界の統治者を意味していたから、民族的差異は細なことだったのである。

カールの戴冠。これはローマ教会が、東ローマ帝国から離別し、また東ローマ帝国とは別の「ローマ皇帝」を戴いたことを意味している。また、西欧において初の「帝国」が誕生したという観点から、ヨーロッパ東ローマ帝国による一元的な世界ではなくなったということをも、意味しているといえよう。

ここで注しておきたいのは、ローマ教皇が東ローマ帝国に代わる軍事的保護者をめ、フランクを選んだということである。これによってヨーロッパ世界東ローマ帝国としたギリシャ正教・東欧世界ロシアルーマニアなど)と、神聖ローマ帝国と教皇を中心としたローマ・カトリック教会・西欧世界フランススペインなど)に完全に分裂したのである。

オットーの戴冠――ゲルマン的ローマ帝国の形成

さて、カールを戴く新ローマ帝国、すなわちフランクは当初、イベリアや北アフリカを除き、西ローマ帝国域を再現していた。しかし843年、ヴェルダン条約により王は三に分裂、その土は西部・中部・東部に分配された。次いで870年、メルセン条約により中部の北半分が西部と東部に割譲されると、現在のフランス西部)・イタリア(中部)・ドイツ(東部)の原を生んだ。後世への影を考慮すれば、これもまた西欧の大事件といえよう。

神聖ローマ帝国がより分かりやすく歴史に登場するのは、オットーの戴冠によってであった。

臭く、それゆえ教皇の拡大を無理矢理に敢行したローマ教皇ヨハネス12世(在位:955 - 964年)は、当時のイタリア王ベレンガリオ2世の反対にあい、侵攻さえ受けていた。ヨハネス12世はこの窮地を脱するべく救援をと考えたが、その相手が東フランク王たるオットー1世(在位:936 - 973年)であった。まもなくオットー1世は教皇を守護し、ローマ教会へ恩を売る形となる。これが962年のオットーの戴冠へと繋がった。

しばしばオットーの戴冠は神聖ローマ帝国成立の契機とみられるようである。確かにオットー1世は、イタリア王からローマ教皇を保護したために、「キリスト教世界の保護者」として、「ローマ皇帝」の位を戴いた。しかし、キリスト教の守護者としてローマ皇帝に戴冠すること自体は、すでに先述のカールが行っている。オットー1世はあくまで「カールに始まる復古ローマ帝国」の皇帝位に就いたにすぎず、彼の代をもって神聖ローマ帝国が成立したかといえば、微妙なところではある。当時の人々も、オットーの戴冠は復古ローマ帝国の中の一事件としか見ていなかった。

とはいえオットーの戴冠をもって、ゲルマン的な西欧帝国が成立したことは事実であった。神聖ローマ帝国ドイツ史の一時代として見るならば、オットー1世の代で誕生したと見てよいだろう。

ローマ帝国として

ドイツ皇帝、それは神聖ローマ皇帝なるローマ皇帝である以上、ローマを所せずして何たるか!

前期の神聖ローマ帝国は、異様なまでに「ローマ」に執着した。というのも、神聖ローマは西ローマ帝国の再者であるが故に、また正式な号も「ローマ帝国」であったから、心の都たるローマを強く欲したのである。彼らドイツ人の皇帝たちは、ローマに付加価値をめ、ローマ教皇による戴冠を非常に重要視した。

10世紀ごろの帝国は、統一された国家とはいい難い様相を呈していた。ゲルマン民族による部族連合、といえば良いだろうか。皇帝独裁の東ローマ帝国とは正反対で、神聖ローマ帝国ドイツ連邦の盟、といった具合で君臨していたのである。

ローマに魅せられた帝国。後継者のいない帝国\(^o^)/

後にバイエルハインリヒが皇帝として即位、ハインリヒ2世となる。彼が掲げたのは「ローマ帝国の再」ではなく「フランクの復」であった。そんな彼もまた後継ぎを残さず死去し、帝国選挙により皇帝を選出するようになる。

マインツ、ケルン、トリーア、プファルツ、ブランデンブルクザクセン……後の大位時代に権を握り始める彼ら選侯の胎動は、このときすでに始まっていたのかもしれない。

カノッサの屈辱

11世紀、それは帝国の内乱期にして低迷期であった。

中世ドイツ最強と謳われた「王」ハインリヒ3世は、条約によりシュヴァーベン大公やバイエル大公を自身の直轄地とし、隣接するミアハンガリーまで臣従させていた。ハインリヒ3世は3人ものローマ教皇に位や辞任を進めるなりして、傀儡であるクレメンス2世を新たなローマ教皇とした。このときローマ教会内部と神聖ローマ帝国との間に軋轢が生じたのはいうまでもない。

1045年、ハインリヒ3世はザクセンを弱体化させようとし、自身の直轄を何食わぬ顔でザクセンに建設した。皇帝直属地はザクセン経済的負担を増大化させ、ザクセンとの確執も生まれる。

事が動いたのはハインリヒ3世の死後である。


3歳児ドイツハインリヒ4世は諸侯の政治的傀儡と化し、親は摂政となり王権は弱体化。当時の教皇ステファヌス10世は神聖ローマ帝国政治にまで干渉し、ハインリヒをしてでも自らの皇帝にしようと画策していた。

1073年、そういった渦中で先のザクセンらの反乱が勃発(ザクセン戦争)。叙任権闘争の終結まで続く。

さて、神聖ローマ帝国といえば、邦の連合体である。国家としての統一を図る上では、頂点は一つの方が良い。しかし、このころすでに神聖ローマ内では、皇帝によるものと教会・教皇によるもの、というように二つの頂点が生じていた。皇帝が「あれしたいこれしたい」といっても、諸侯は「でも教会側の決定も待たないと」といったに、直接浸透しなかった(※あくまで例)。

成人したハインリヒ4世は、内統率のため「職者の叙任権は皇帝にある」と豪した。これに見かねた時の教皇レゴリウス7世は、「遺憾である。教皇である以上は、職者の任命権は私にある」として、っ向から対立した(叙任権闘争)。


以下が大雑把なたとえ。

神聖ローマ帝国を「マンション」とした場合、皇帝大家さんで、各邦にいる職者は「テレビ」である。

大家さんである皇帝は、賃を払わない、あるいは自治会に参加しないなどの住人を何とかして、いうことを聞かせたかった。ここで「テレビ」を使い呼びかけたいところだが、残念ながら「テレビ」は教皇を優先するような番組ばかりを流している。これにを立てた皇帝は、「マンションの大なんだから、この中でどんな番組流そうがの勝手だろう!」ということで、テレビの操作にのりだすのだが、当然、番組を流す教皇の反対を食らう。こうして皇帝と教皇は、テレビを巡って対立するのである。


レゴリウス7世は即刻ハインリヒ4世を破門(西欧キリスト教社会では死よりも恐ろしい)した。これにびびったドイツ諸侯もハインリヒ4世を位させようと動く。そろそろ危ない空気に気づいたハインリヒ4世は、もう自分に従う臣下がほとんどいないことを知ると、グレゴリウス7世に赦してもらうため(ぶっちゃけ皇帝権を回復させたいだけなんだけどねー)、泣く泣くカノッサまで1人で赴いて、三日間DO☆GEZAしたカノッサの屈辱である。

「あ、あなたがそこまでするなら、べ、べべ、別に赦してあげてもいいわよ……!」

何とか赦してもらえたハインリヒ4世は高を括り、なんと再度ローマ教皇へ向けた軍を再編、イタリア遠征を開始した。恩をで返す皇帝ワロス。ちなみにグレゴリウス7世は亡命先で客死した。大変気のである。

ハインリヒ4世は強気に出ているので誤解されるかもしれないが、ここで一応述べておくと、一度頭を下げたという事実は原則覆らないので、この件に関していえば、皇帝よりも教皇が偉いということが明されてしまった。もう取り返しがつかない。

乱れる帝国

叙任権闘争とザクセン戦争を終結させ、帝国はいよいよ一息つくところまできた。訳がなかった。

これがッ! これがッ! これが皇帝の権ッ!!

な話、フリードリヒ2世に至っては共事業や財政再建など、大変尽していたりする。また先述したが、彼は外交だけで聖地を奪還、イェルサレム王にもなるあたり、ただ者ではなかったことがうかがえる。しかし諸侯への譲歩がいけなかった。これ以後、神聖ローマ帝国はますます「バラバラ集合体」という姿をしていく。フリードリヒ2世死後の1250年から1276年まで、帝国皇帝のいない時代を経験したのだった(位時代)。

ちなみにこの頃に号が神聖ローマ帝国となった。

ドイツ国家として

スイスの一貧乏貴族であったハプスブルク1273年、ルドルフ1世皇帝選挙によって時期皇帝に選出されると、彼らハプスブルクの命運、しいては欧州史そのものが新たな軌を描き始める。

選挙の会議に出席していなかったミアオタカル2世が、ルドルフ1世の即位を拒むと、1278年、両者の間で戦争が勃発(マルヒフェルトの戦い)。勝利したルドルフ1世は、ここでオーストリア有する。

ハプスブルクの台頭を警し始めたドイツ諸侯は、ルドルフ1世の死後、ナッサウアドルフを王として選んだが、1298年には位(関係ないけど翌年オスマン帝国が成立)。再びハプスブルクの、ルドルフ1世の子アルブレヒト1世が即位する。が、これを諸侯は良しとせず、彼は1308年に暗殺された。

14世紀前半には再び教皇VS皇帝の図が表れ、新皇帝の選出を巡って争いが生じた。というのに、神聖ローマ帝国は懲りずにイタリア遠征を行い、またまた教皇の顰蹙を買うという始末。

教皇とのいざこざはまだ絶えず、1346年にはヴィッテルスバッハルートヴィヒ4世が、チロル伯爵を無理やりに吸収しようとしたために、再び教皇の切り札である破門を誘発、当然ルートヴィヒ4世は位させられた。もはや皇帝と教皇の軋轢は井知らずだったのである。

改革と混沌

しかし次期皇帝ルクセンブルクカール4世が即位すると、神聖ローマ帝国にもある程度の改が見られた。

  • 教皇に対して譲歩。
  • 無謀なイタリア遠征はせずドイツの統治に専念し、を高めていった。
  • 1356年、印勅書を発布。
    • これにより7人の選侯による選挙方式が確立。また彼ら選侯の特許が充実した。
  • 帝国議会が成文化された。他、私闘(フェーデ)の禁止される。

彼の死後はまた帝国が荒れ始め、即位と退位の繰り返しを見せつけた。ローマフランスのアヴィニョンにそれぞれ教皇が現れたり(教会大分大シスマ)、これを解消すべく1414年にコンスタンツの会議が開かれたり、その会議で改が火刑にされたために1419年に戦争が起こったり(フス戦争)、とても「ローマ平和」とはいえぬ渦中にあった。というかそもそも帝国ローマ帝国の原を失っていた。

こうした政治混乱の後、位を世襲化する貴族が現れる。それが先に登場した、ハプスブルクである。

世界帝国と宗教改革

16世紀に入ると、イングランドフランススペインなどの西欧諸は中央集権化を進めていった。しかし神聖ローマ帝国はというと、カール4世の印勅書に見られる諸侯の特権強化により、中央集権とは逆行し、分権化が著しくなっていった。いよいよ帝国邦の集合体へと変質し、連邦国家としての性質を表していく。

が、そんな折、帝国にも大きな転機が訪れる。

絶対権力者の登場

レコンキスタで有名なスペインの祖、イサベル女王フェルナンド王。そんな二人の、フアナが、ハプスブルクにして神聖ローマ皇帝息子であるフィリップ結婚したことから、ハプスブルクスペインをも統治するようになった。

1516年、そのスペイン王女のフアナとハプスブルクフィリップの間に産まれた子、カルロス1世が、スペイン王に即位した。生まれながらにスペイン神聖ローマの血統をもつカルロスは、1519年、フランスフランソワ1世と神聖ローマ皇帝位を巡る選挙で争い、勝利すると、神聖ローマ皇帝カール5世として即位する。

フランスフランソワ1世との皇帝選挙に勝利したカール5世は、ハプスブルクの世襲地を獲得する。
すなわち、ネーデルラント(現オランダベルギー)、スペイン王国、ナポリ王、シチリア王サルディニアメキシコなどの新大陸植民地と、世界規模の域を得たのである。

かくして神聖ローマ帝国は、カール5世(カルロス1世)のもと「西ローマ帝国の再」を達成しつつあった。

宗教改革

カール5世の時代は、しかし苦悩のときでもあった。

婚姻政策により土を拡大させていったマクシミリアン1世(在位:1459年 - 1519年)の治世期からローマ・カトリック教会への不満は高まっていたが、カール5世の時代、マルティン・ルターの登場によりそれは顕著なものとなった。

当時、イタリア・フィレンツェのメディ出身のローマ教皇レオ10世は、ローマのサン・ピエトロ堂の改築資を調達するために、贖宥状の販売を行っていた。この贖宥状とは、教会のために募すれば罪も赦される、という名で売られる免罪符であった。

マルティン・ルターは、贖宥状なる教会のあからさまな物乞いに対し批判九十五カ条の論題を発表しローマ教会の腐敗を説いた。教会、つまり教皇庁の搾取に以前から反対していたドイツ諸侯は市民は、このルターの考えを支持し、結果キリスト教に新たな思想のプロスタントが誕生する。書をキリスト教一のとするルターの思想は、広範なドイツ邦に普及していった。

無論ローマ教皇レオ10世は、1521年にルターを破門する。ここでカール5世は内の不統一を抑えるべく、ローマ教皇に味方した。「神聖ローマ皇帝」という位自体が、「ローマ・カトリック教会の守護者」としての側面を持ち、また、カール5世自身も熱心なカトリック教徒であったから、そういった意味でも新教成立は抑えたかったのである。

かくしてルターはヴォルムス帝国会議に呼び出されることとなる。ところがルターは自説を撤回せず、それどころかザクセン選侯の護下で新約書のドイツ語訳を完成させ、神聖ローマ帝国の民衆に、直接キリスト教を普及させるに至った。

新教成立の影響

ルターの説は神聖ローマ帝国へ多大な影を及ぼした。

1524年から翌1525年には、農制の止を要するミュンツァーが導した、ドイツ農民戦争が勃発した。起はやがて鎮圧、粛清されたが、これを機にザクセン選侯らのドイツはルターの新教を支持、続々とローマ・カトリックの権威から脱退していった。彼らは、自身の内において教会の首長となる、邦教会制を創始したのである。

カール5世は1526年に新教を認めるが、1529年には白紙に戻した。これに怒した新教諸侯は抗議1、1530年にはシュマルカルデン同盟を結成、皇帝に抵抗した。

新教の成立は後に起こるウィーン包囲の一因ともなった。プロスタントの胎動が神聖ローマ帝国にとっての意味での負担となるのは、まだまだこれからなのである。


1 このルター諸侯の「抗議文の提出」が由来で、新教は「プロスタント」と呼称される。

イタリア戦争とオスマン帝国

カール5世は広大域を世襲と婚姻関係から獲得したが、彼はその土を死守すべく日々戦いに明け暮れていた。その一つがフランスとのイタリア戦争であった。

この時代、ハプスブルク神聖ローマ帝国スペインの両方を治めていたが、他方フランスはその二地理的中間にあり、挟み撃ちの状態にあった。フランスはこれに危機を感じ、ある一と同盟を結ぶ――その相手こそが、かのオスマン帝国だった。

これが1529年のウィーン包囲に繋がり、ヨーロッパを恐怖に陥れた。1538年、カール5世はオスマン帝国の地中進出を阻止すべく、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和、そして教皇と結託し、スペインをも含む艦隊をイオニアギリシャの西)に派遣した(プレヴェザの)。しかしスレイマン1世のもと全盛期にあったオスマン帝国の戦は凄まじく、カール率いる西欧艦隊は大敗を喫した。

カール5世の神聖ローマ帝国が「西ローマ帝国の再者」ならば、スレイマン1世のオスマン帝国は「東ローマ帝国の再者」だったのである。プレヴェザの戦より「オスマンの脅威」は十二分に働き、カール率いる西欧艦隊は地中の制権を奪われた。カールの夢見た「西ローマ帝国の復」は、こうして頓挫することとなる。

一連の際関係の変化は神聖ローマ帝国に決定的な変化をした。カール5世は幾度もの戦いのため、ルターとの妥協さえ考慮せざるを得なくなる。そしてついに1555年、アウクスブルクの和議が成立し、諸侯はカトリックかルターであれば自由に信仰できるようになる。ただし領民は、の宗に従わなければならないが。

日の沈まぬ帝国

結局オスマンの猛進に止めをかけることができなかったカール。だが、神聖ローマ帝国による「西ローマ帝国の再」はまだ終わらない。

彼の死後、フェルディナンドがオーストリアを、カール息子フェリペ2世スペインの王位をそれぞれ継承すると、ハプスブルクは元来のオーストリア=ハプスブルクスペイン=ハプスブルクに別れた。

ここで特筆されるのがフェリペ2世である。

彼はカールカルロス)からスペインを引き継ぐにとどまらず、ネーデルラントやフィリピンアメリカ大陸の植民地までも受け継いだ。1571年にはあのオスマン帝国にレパントの戦で勝利すると、地中での制権をも得た。くわえて、1580年にはと后がポルトガル王女であったことから、血統断絶に乗じポルトガルの王位も得た上、ポルトガルがもつ海外植民地をも吸収し、「日の沈まない帝国」を現出させた。これは、土が広すぎるため常に帝国のどこかは太陽に照らされていた、という意味である。

日没なき大帝国土は、神聖ローマ帝国と併せ、ドイツチェコオーストリアイタリア南部オランダ、ネーデルラント、スペインポルトガル、そしてアメリカ大陸の植民地、最後にフィリピンなどのアジア植民地にまで達した

もはや神聖ローマ帝国が創成期に掲げていた「西ローマ帝国の再」は達成されたといってよい。いや、それどころか、ハプスブルク大帝国は、ローマ帝国以上の規模にまで膨れ上がったと見て、間違いはないはずだ。

事実上の解体

しかし17世紀にもなると、神聖ローマ帝国事実上の解体に向かう。

すでにカール5世治世期に産声を上げた宗教改革の波はとどまることを知らず、ドイツ内でプロスタント諸侯の動きが活発になる。これに英をはじめとする列強各が介入し、カトリック(旧教)VSプロスタント(新教)の戦争が勃発(三十年戦争)。1618年のこと。

戦争は当初、宗教的な意味合いが強く、誰もがそう思っていたのだが、次第に列強による武干渉を招き、徐々に各政治的駆け引きの場へとその性質を変えていく。

ここで厄介なのは、神聖ローマが一番の痛手を被ったにもかかわらず(土地の荒)、列強諸の多くはこれといった損を被ることなく戦争を終えたことである。ライバルフランスに至っては、境沿いのエルザス・ロートリンゲンを吸収合併した始末。復の困難な状況になった神聖ローマ帝国は、確実に勢争いから脱落した。

かくして1648年ウェストファリア条約が締結された。これにより神聖ローマ帝国は300以上の国家と自由都市集合体となり、その不統一性はより顕著なものとなる。ウェストファリア条約、それは帝国にとっては残酷なまでの死亡フラグ死亡明書であり、以後「神聖ローマ帝国」は名前だけの存在となるのだった。

スペイン=ハプスブルク帝国の落日

斜陽は何も神聖ローマに限った話ではなかった。

スペイン=ハプスブルク世界帝国にもガタが来たのである。カルロス1世とその子フェリペ2世により日没なき繁栄を謳歌したスペイン=ハプスブルク帝国だったが、1588年にアルマダのイングランド敗北すると、その栄にも翳りが生じ始めた。アルマダ戦の敗北後もスペインは依然強なものではあったが、フェリペ3世、4世と代を重ねるごとに衰弱していくのは誰のにも明らかであった。

近親婚の成れの果て、と言えば失礼極まりないのだが、スペインが停滞していくなか王位についたカルロス2世は、お世辞にも健全な人物とはいい難かった。そして、その脆弱な王を知り介入に動いたのがフランスだった。

フランスとしてはスペイン=ハプスブルクオーストリア=ハプスブルク神聖ローマ帝国)に地理的に挟まれているわけだから、隙あらばこの挟撃から脱出したい。ゆえにフランスは、次期スペイン王をフランスの血統とすることで、スペインそのものを、神聖ローマ帝国の味方から自身の傀儡へとひっくり返す積もりであった。

しかし、もちろんオーストリア=ハプスブルクとしては、このハプスブルクの優位は維持したい。そのような双方の願望は、1701年、スペイン継承戦争として如実に表れる。

太陽が沈むとき

スペイン継承戦争
当初、ヨーロッパにおいて戦争における勢は5分5分であった。すなわち、ヨーロッパ列強は、次期スペイン王を“フランスアンジュフィリップとする”と、“ハプスブルクカール大公とする”に分かれていたのである。

は均衡していた。が、カール大公の死を機に神聖ローマ皇帝カール6世となった途端、多くの々はフランス側へと傾いた。

これは偏に歴史の教訓からくるものである。彼らヨーロッパは、16世紀に神聖ローマ皇帝スペイン王を兼ねた結果、が現出したの知っている。スペイン継承戦争の今回、もし、神聖ローマ皇帝カール6世が、スペイン王を兼ねるとどうなるか――ヨーロッパの恐れはすべてそこにあった。だからこそ諸フランス側を支持し始めたのだった。

結果、フランスアンジュフィリップが、フェリペ5世としてスペイン王となり、スペイン継承戦争は決着。スペイン=ハプスブルクは断絶し、ハプスブルクの栄冠もそこで崩れていく。

神聖ローマ帝国は三十年戦争でも大幅に弱体化(というより半壊)したが、このような、スペインにおけるハプスブルクの失脚がまた影し、立ち直ることはもはや不可能となった。スペイン継承戦争の結果、ユトレヒト条約とラシュタット条約が締結されたが、とくに前者はライバルイングランドの一人勝ちといって差し違えなく、その点でも神聖ローマ帝国の、勢争いからの離脱は否定できなかった。

  1. イングランドスペイン王国奴隷貿易に参入できる
  2. イングランドスペイン王国から、ジブラタルとメノルカを譲り受ける
  3. イングランドフランスから、アカディアとニューファンドランド、そしてハドソン湾を譲り受ける

ユトレヒト条約 1713年

完全なる解体

17世紀から18世紀、ドイツの東部では新プロイセンが勢を拡大させていた。またロシア帝国も、ピョートル大や啓蒙君のエカチェリー2世の下、確実に近代化していった。

そんな折、1804年にはあのフランス皇帝ナポレオンが即位。「皇帝俺様一人」ということで、ナポレオン1世は即時神聖ローマ帝国に打撃を与えた。これに押され、時の神聖ローマ皇帝フラン2世は「神聖ローマ帝国の解体」を宣言。フラン2世フランツ1世としてオーストリア帝国の君となり、神聖ローマ帝国を見放したのだった。

……何を隠そう、これが10世紀にもわたって存在した「なるローマ皇帝」の崩壊である。このありようは、同じような年齢で滅んだ東ローマ帝国とは、皮なまでに相違しているといえよう。どちらも同じローマ帝国だったはずである。

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関連項目

携帯版URL:
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD
ページ番号: 4680602 リビジョン番号: 1379756
読み:シンセイローマテイコク
初版作成日: 11/07/21 18:23 ◆ 最終更新日: 11/12/15 00:17
編集内容についての説明/コメント: ウェストファリア条約は世界最初の条約ではないと思いましたので。→カディシュの戦い
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神聖ローマ帝国について語るスレ

1 : ななしのよっしん :2011/07/21(木) 18:35:22 ID: OADc3SQaLI
記事建て
カノッサの屈辱ハインリヒ4世に妻と子供も一緒での中三日間立ってたという説もあるけど ソースは一年前の世界史の教科書
2 : ななしのよっしん :2011/07/21(木) 18:54:49 ID: BJlSb/xjmN
神聖ローマ帝国で別々にリンクされているようだけど・・・

関連書籍に
>>az4404038992
3 : ななしのよっしん :2011/07/21(木) 20:10:00 ID: 3ANJavo7RB
どうやら最近は新規記事のリンクができるまで時間がかかるらしい

>>1
の中というのは有名だが、妻子を連れていたとは知らなかった

>>2
その本は色々と見やすくて綺麗でいいよね
ちゃんと神聖ローマ帝国オスマン帝国などの背景が描かれてる
4 : ななしのよっしん :2011/07/22(金) 20:56:29 ID: dw7hdGucD9
Ce corps qui s'appelait et qui s'appelle encore le saint empire romain n'était en aucune manière ni saint, ni romain, ni empire.
神聖ローマ帝国と称するこの集団は、でなければローマでもなく、帝国でもない。
   ―― ヴォルテール歴史哲学民の風俗と精について 序論』
5 : ななしのよっしん :2011/07/22(金) 21:10:43 ID: MeJjwZ/Vwe
ハプスブルクって福本伸行作品から飛び出してきたような鼻との持ちが多かったけど、
あれも遺伝だったのかね。
6 : ななしのよっしん :2011/09/07(水) 21:22:24 ID: 4TXK5/tgYk
さすがにの方はコンプレックスだったようで
7 : ななしのよっしん :2011/11/30(水) 18:51:28 ID: f4LDBT+bhP
一貫して首都がないという不思議な帝国である
8 : ななしのよっしん :2011/12/11(日) 10:20:59 ID: PCSFv2Q0lr
事実上の解体」でスペイン・ハプスブルクの崩壊について何も書いていないのは違和感がある
位そのものはオーストリア・ハプスブルクが受け継いだけど
前節の記事にあるとおり、ハプスブルク世界帝国を支えていたのはスペインなのだから
9 : ななしのよっしん :2012/04/12(木) 16:28:27 ID: RjMbnEHNX7
>>7
神聖ローマ帝国は近代国家のような強い国家ではなくて、緩やか連合体だからな…
ハプスブルク事実皇帝位を世襲するまでは、いろいろな系が皇帝になっているから
ここだ!という都が作れなかったんじゃない?
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