穆皇后とは、三国時代、蜀漢の初代皇帝となった劉備の皇后である。
諡が穆で、姓は呉、名は不詳。呉懿の妹にあたる。
概要
兗州陳留郡(河南省開封市)の出身。幼い頃に父を亡くし、家族付き合いがあった劉焉の入蜀時に母や兄の呉懿、従兄弟の呉班らと共に同行した。
ある人相見が彼女を見て大変高貴な身分に昇るだろうと言ったのを聞いた劉焉は、彼女を三男の劉瑁の妻に迎えた。しかし劉瑁は早死にしたため未亡人となる。
214年(建安19年)、劉備が蜀に侵攻し劉焉の跡を継いでいた劉璋を降伏させる。
当時、劉備は孫権の妹を妻にしていたが、彼女は呉に継子の劉禅を連れて帰郷し、趙雲が劉禅を奪還するという事件が起きていた。そのため、群臣らが呉氏を妻に娶るよう劉備に薦めた。劉備は同姓娶らずという儒教の掟に反すると渋ったが、法正が説得したため、劉備は呉氏を妻に迎えた(後述)。
劉備が漢中王に即位すると王后、皇帝に即位すると皇后となり、その死後は皇太后となった。245年(延熙8年)に崩御し、劉備の墓(恵陵)に合葬された。
子供がいたかは不明。三国志演義では劉備との間に劉永と劉理が産まれている。
エピソード
- 法正が劉備に呉氏を妻に娶るよう説得した時引き合いに出したのは、晋の文公(重耳)の前例がありますという話だった。文公は晋の君主に即位する前に秦に亡命していた時、かつて秦の人質だった懐公(文公の甥)の妻だった秦の公女を娶った。正史三国志の注に、習鑿歯の「文公の時はやむを得ない事情があったが、劉備の時とは状況が異なっており不適切だ」という批判が載っている。
- 234年(建興12年)正月、蜀の重臣だった劉琰の妻(胡氏)が来朝した際、穆皇后は胡氏を1ヶ月ほど宮中に留めて帰さなかった。劉琰は劉禅と胡氏との仲を疑い、帰ってきた胡氏を鞭打ち草履で顔を叩き離縁した。胡氏がこのことを上訴したため劉禅は激怒して劉琰を逮捕し処刑した。これ以降、蜀では臣下の妻や母が正月に挨拶することは無くなったという。
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関連項目
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