「立原久綱」(たちはら・ひさつな 1531 ~ 1613)とは、戦国時代の中国地方に覇を唱えた尼子家再興に尽力し、夢破れた主君・尼子勝久の菩提を弔う為に生きる道を選んだ忠臣。
概要
尼子家直臣として公式文書にサインが残る等、奉行衆として働き、美作に23000石の知行と出雲の立原城の城主を務めた。
尼子義久を助けて毛利元就と戦うも衆寡敵せず敗れ、尼子氏の居城月山富田城が落城した際には、毛利元就より2000貫の知行で誘われたもののこれを固辞して京都に隠棲した。
その後、母親が立原久綱の姉または妹にあたる艱難辛苦に立ち向かう事に定評のあるドMな甥の山中幸盛(山中鹿介)や神西元通らと共に、尼子誠久の遺児・尼子勝久を擁立して尼子家復興の為に決起する。文官として尼子勝久を支えて一時は出雲一国をほぼ奪回する勢いを見せたものの、体制を立て直した毛利家とかつての尼子家の居城である月山富田城を攻略できずに破れた。
この再興軍においては、各所に出された書状などから、勝久に次ぐナンバー2のポジションであったらしい事が分かっている。
織田信長に頼る事を決めて京都に戻り、織田信長との交渉で助力を得る事に成功。織田家の客将として近畿地方での戦いに参陣した後、織田信長の中国遠征軍である羽柴秀吉の軍に編入される。
この織田家との交渉は久綱の功績だと言われており、信長直々に賞賛の言葉と太刀を与えられている。
しかし織田軍が別所長治の謀反によって混乱し尼子勝久が前線の上月城で孤立し篭城すると、これに一度は反対したが、羽柴秀吉への恩から秀吉の援軍及び上月城からの撤退を拒否した尼子勝久や山中幸盛らと共に戦って吉川元春らの前に破れる。
法衣をまとって一生を送るべきはずであった自分を、一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。
今後は命を永らえ、命を大切にするように
との言葉を受けて主君の最期を看取った後は、山名幸盛と共に吉川元春に捕らえられるも一人脱走し、岳父or娘婿の福屋隆兼のいる蜂須賀家を頼った。
上月城落城時に神西元通の様な主君に殉じる道も、山中幸盛の様な次のチャンスを狙う道も、亀井茲矩の様に新たな主君の元で生きる道も選ばなかった立原久綱はその後出家し、尼子勝久の菩提を弔ったと言われている。
※その他「立原久綱」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 57 | 政治 | 70 | 魅力 | 64 | 野望 | 78 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 43 | 政治 | 67 | 魅力 | 64 | 野望 | 64 | 教養 | 62 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 69 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 52 | 政治 | 53 | 野望 | 64 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 134(B) | 智才 | 104(B) | 政才 | 106(B) | 魅力 | 69 | 野望 | 65 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 63 | 智謀 | 62 | 政治 | 52 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 43 | 戦闘 | 54 | 智謀 | 61 | 政治 | 51 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 35 | 智謀 | 50 | 政治 | 40 | 野望 | 64 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 61 | 政治 | 41 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 55 | 知略 | 64 | 政治 | 40 | 教養 | 59 | ||||||||
革新 | 統率 | 62 | 武勇 | 34 | 知略 | 74 | 政治 | 44 | ||||||||
天道 | 統率 | 59 | 武勇 | 34 | 知略 | 74 | 政治 | 68 | ||||||||
創造 | 統率 | 55 | 武勇 | 46 | 知略 | 72 | 政治 | 67 | ||||||||
大志 | 統率 | 74 | 武勇 | 46 | 知略 | 78 | 内政 | 66 | 外政 | 70 |
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関連項目
- 尼子勝久
- 尼子義久
- 山中幸盛(山中鹿介) ※立原久綱は山中幸盛の叔父
- 神西元通
- 立原幸隆
- 織田信長
- 毛利元就
- 吉川元春
- 福屋隆兼
- 月山富田城
- 戦国時代の人物の一覧
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- iM@S架空戦記シリーズ
- 替え歌歴史シリーズ
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