立川志の輔とは、現代有数の人気落語家である。一般には「ためしてガッテンの司会者」で知られている。
概要
立川志の輔(本名 竹内照雄)は、1954年生まれ。幼い頃に両親が離婚、叔父に育てられたという苦労人。明治大学の落研では、三宅裕司から芸名を受け継ぎ、渡辺正行に引き継いだという。演劇に強烈な興味を持っていた典型的サブカル青年は、広告代理店から噺家に転職するという「こいつ駄目だ」といいたくなるパターンで落語家になったが、ただ一つ違っていたのは、サブカル青年はとんでもなく落語脳が発達していたということだった。
1983年の入門後すぐに、師匠として選んだ立川談志は落語協会を脱退し、「寄席に出られない」というハンデを背負うことになった。が、代理店上がりの志の輔は、企画を作る才能とノウハウを持ち、営業能力も高かった。1985年には、TVレポーターとして仕事をもらい、すぐに売れっ子になり、1990年の真打昇進時にはすでに有名な存在になっていた。(ちなみに入門から真打昇進までわずか7年。二つ目から真打昇進まで通常10年は要すると言われる落語界においては異例ともいうべき超スピード昇進である。)現在もつづく「ためしてガッテン」司会役にいたるまで、テレビタレントとして安定した活躍を続けており、落語をまったく聴かない層にも広く知られた存在である。
志の輔は単なるタレント落語家ではない。それどころか、平成を代表する落語家の一人である。「みどりの窓口」「バールのようなもの」といった新作落語(ともに原作は清水義範)で見せる鮮やかな語り口、円朝の長い噺をパネルでプレゼンテーションしながら語るというイベントプロデュースの力、そしてなにより安定した語りのうまさ、何がなんでも面白いと思わせて客を帰すぞ、という徹底したサービス精神。いくつもの長所を兼ね備えた彼の活躍が、現在の落語人気を導く強烈な導火線になった。彼は自分の落語を「志の輔らくご」と名づけ、デパート、コンサートホール、文化施設、あらゆる場所で独自の落語会を催し、つねに満員の客を集めている。
同門の立川談春・志らく、さらに柳家喬太郎など多くの個性的な後続が人気を得る今でも、「もっともチケットが取れない落語家」の地位は揺るぎない。また、「初心者をはじめて連れてゆくなら志の輔」という定評も、揺るぎないものである。
立川談志が落語協会を離脱してから最初の弟子であり、実質上は談志の一番弟子と言える存在。立川流は談春、志らく、談笑といった俊才を輩出しているが、彼らにとっても偉大な兄弟子の存在は大きい。
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