第7師団とは、
である。この稿においては1.および2.について解説する。
概要
陸上自衛隊・第七師団(だいななしだん)
陸上自衛隊・北部方面隊隷下の師団であり、東千歳を中心に駐屯・展開している。
日本でただ一つの戦車を中心とし、その他の部隊も装甲車輌等で編制された機甲師団。
陸上自衛隊の前身、保安隊から陸上自衛隊に改組されたあと各地の戦車(当時は特車と呼んだ)を集約。恵庭に第一特車群が結成されると共に札幌にも第7混成団が編成されこれが第7師団の前身となった。
昭和36年に13個師団体制とになると共に第7混成団は第7師団へと改組。当時は国内ただ一つの機械化師団だった。もっとも現実には3個連隊編成のうちの一つが機械化されただけで、厳密にいうと自動車化師団にもなっていないのだが(詳しくは陸上自衛隊の項参照)。
昭和57年に第一戦車団(旧第一特車群)が改編され、第72・73戦車連隊として第7師団に加わり、ここにようやく機甲化師団化を達成した。
(のちに73戦車連隊がコア部隊として改編されるものの、2013年度末に再度フル化編成となる予定)
陸上自衛隊の虎の子、90式戦車により編制された三つの戦車連隊(71,72,73)を有し、普通化(歩兵)連隊(11)や特科(砲兵)連隊すべて自動車化、すなわち89式歩兵戦闘車等、装甲車輌が配備されている。
冷戦時代、仮想敵国であったソ連の北海道上陸に対しての切り札として存在しており、常に最新装備が割り当てられていた。何しろ89式歩兵戦闘車は第7師団か富士教導団にしか配備されていないし、陸自のレア装備(わずか24両!)である96式自走120mm迫撃砲にいたっては第7師団でしか見られない。
ただ、諸外国の機甲師団とくらべるとそれでも戦車の配備数など編制面で過小なのは確かではある。
また最近の諸外国の趨勢変化に伴い兵力抽出も行われている。2013年度の概算予算を見る限り、配備人員数600人の増加が行われるものの、戦車数は230両から170両に削減することが決定している。(この他にも前述にも出てきた北部方面直轄だった第1戦車群も廃止が決定している)
もっとも口が悪い人達にいわせると北海道には広大な駐屯地と演習場があるから第7師団があるのだ。と言われるらしい…まぁ、確かにそんなこともあるかもしれませんね。
千歳の名物と言えば、演習場に向かうため市街地を90式戦車などの車輌が極々あたり前に通るシーンだろう。
大日本帝国陸軍・第七師団(だいしちしだん)
日露戦争を直前に控えた1896年、それまで北海道の開拓及び守備を担当していた屯田兵を中心として編制された。
郷土兵制度(その地域師団の兵は地元の人員を元にする)ではあったが北海道はまだ人口が少なく、他地域(主に東北)からの兵もいたという。
近代日本において第七師団ほど激戦地に送り込まれた師団も珍しい。
日露戦争では旅順攻略戦・奉天会戦に参加、大損害を出しつつも日本の勝利へ貢献する。その後、シベリア出兵、満州事変など、明治後期・大正と数々のイベント?に参加、極めつけは師団に所属する第28連隊がノモンハン事件に参加したことで、日本軍指導部の無能とソ連の物量によって全滅に近い損害を受ける。
さらには太平洋戦争ではまたもや歩兵第28連隊を中核に一木支隊が編制され、ガダルカナルへ派遣される羽目に。ここでも日本の戦争指揮とまずさとアメリカ軍の物量によってここでも全滅どころではすまない損害を出す。
さらには第七師団残余の留守部隊などを中核にして編制された第91師団は千島列島防衛を担当し、8月15日後の戦いとして知られる"占守島の戦い"に一部部隊が参加。ここでも大損害を出す…が、彼らの戦いぶりによって結果的には北海道にソ連軍が上陸されなかった、という説もある。
余談というか、終戦直前道東方面の守備隊長の一人に、日露戦争時の陸軍指揮をとった大山巌元帥の息子、大山柏がいた。陸軍を若い頃に辞して貴族院議員(かつ考古学者)だったが政治的思惑から貴族院議員の中でただ一人現役復帰を命じられるハメに。ところが当の部隊は旭川の第七師団参謀某の差し金か横流しか、物資が補給されず、泣く泣く自分の自腹で部隊を維持していたなど涙ぐましい話がある。
また、まともな対戦車装備もなく、自作で古代ローマ時代のようなカタパルトまで作っていたというエピソードが残っている。
師団本部が置かれた旭川には、現在陸上自衛隊の中でも精強を誇る第2師団が駐屯している。
関連項目
外部リンク
- 北鎮記念館(旧陸軍第七師団の資料を展示している)
- 陸上自衛隊 第七師団ホームページ
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