「筑紫惟門」(つくし・これかど 1531 ~ 1567)とは、北九州の戦国武将である。
概要
一説には足利尊氏の庶子・足利直冬を祖先とするとも、少弐氏の庶流であるとも言われる豪族・筑紫氏の当主。筑前と肥前の国境地帯を支配し、鎌倉時代からの北九州の名門・少弐氏に属していたが、衰退する少弐を見限って大内義隆・大友宗麟・毛利元就を渡り歩いた。
生涯
筑紫秀門の子に生まれる(筑紫氏の系図は錯綜していて諸説ある)。
少弐家臣だった筑紫満門が大内氏に寝返った事で、少弐氏は1497年に一時滅亡している。この恨みにより後に満門は馬場頼周(少弐家臣)に暗殺されたと言われており、筑紫氏は大内への接近を強めていった。
1530年、少弐資元・少弐冬尚の親子と大内義隆が争った際に、当時の当主・筑紫尚門は少弐家を裏切って大内方につくが、鍋島清久の智謀の前に大内軍は敗れて撤退、尚門も戦死した。これ以降、惟門が当主になったようだ。
そのまま大内家の所属となっていた筑紫惟門だったが、大内義隆は尼子経久に敗れて以来戦争嫌いになってしまい、1551年、陶晴賢の謀反により敗死する(大寧寺の変)。大友宗麟の弟の大内義長が大内家を継いだ事から、大友氏の影響力が次第に強くなり、大内氏滅亡後は大友氏の勢力下に入った。
陶晴賢と大内義長を滅ぼした毛利元就が北九州へと手を伸ばし始めると、秋月文種らと共に毛利方に寝返って大友宗麟と戦った。だが大友家の雷神ベッキーこと戸次鑑連(立花道雪)らの攻撃の前に敗北し、秋月文種が自刃すると、惟門は文種の息子たち(秋月種実・秋月種冬・秋月種信)と共に、毛利元就を頼り玄界灘を渡って北九州を脱出した。
元就の支援をとりつけた惟門は、秋月種実と共に博多を襲撃して旧領に復帰するも、大友家の軍勢の前に劣勢となった為、田尻親種の仲介で大友宗麟に降伏し、再び大友配下となった。
大友宗麟が筑前の代官として送り込んだのは重臣の高橋鑑種だったが、実は鑑種は密かに毛利元就と内通していた。鑑種と誼を通じた惟門は、1567年、毛利元就と結んだ龍造寺隆信・立花鑑載・高橋鑑種らが大友宗麟に反旗を翻すと、秋月種実・原田了栄・宗像氏貞らと共に挙兵した。だが、大友家臣・斎藤鎮実の攻撃を受けて劣勢となり、
不慮の自害
と記録の残る様に、息子・筑紫広門らの助命と引き換えに自刃した。惟門の死をもって筑紫氏は再度、大友家に降った。
※その他「筑紫広門」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
▼「信長の野望天翔記」PS版プレイ動画「秋月家の野望」。秋月家の一人しかいない家臣として登場。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 73 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 34 | 政治 | 30 | 野望 | 61 | ||||
天翔記 | 戦才 | 134(B) | 智才 | 72(C) | 政才 | 86(B) | 魅力 | 58 | 野望 | 63 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 51 | 戦闘 | 49 | 智謀 | 37 | 政治 | 34 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 41 | 智謀 | 23 | 政治 | 24 | 野望 | 26 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 45 | 知略 | 53 | 政治 | 28 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 44 | 知略 | 51 | 政治 | 28 | 教養 | 47 | ||||||
革新 | 統率 | 51 | 武勇 | 49 | 知略 | 57 | 政治 | 32 | ||||||
天道 | 統率 | 51 | 武勇 | 49 | 知略 | 57 | 政治 | 32 | ||||||
創造 | 統率 | 48 | 武勇 | 53 | 知略 | 58 | 政治 | 40 |
関連コミュニティ
関連項目
- 筑紫広門
- 少弐冬尚
- 神代勝利
- 江上武種
- 執行種兼
- 小田政光
- 大内義隆
- 毛利元就
- 秋月文種
- 高橋鑑種
- 原田了栄
- 秋月種実
- 宗像氏貞
- 大友宗麟
- 斎藤鎮実
- 戦国時代の人物の一覧
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- iM@S架空戦記シリーズ
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