精神現象学とは、G・W・F・ヘーゲルによる哲学書である。1807年に刊行された。
概要
原題は「学の体系」(System der Wissenschaft)。弁証法によって、意識が自己意識や理性などの道を辿りながら絶対知に発展してゆく過程を叙述した哲学史に残る大著である。
ヘーゲル哲学においては、『大論理学』『エンチクロペディー』『法哲学』に先立つヘーゲルの初の著書であり、ヘーゲル哲学の導入として位置づけられる。
カント『純粋理性批判』、フィヒテ『知識学の基礎』、ハイデッガー『存在と時間』に並ぶ超「難解書」であり、何の予備知識もなく挑んでも本棚の肥やしになることは確実である。
なぜ難しいのか
精神現象学はとにかく晦渋で読解が困難である。その理由はいくつかある。
- ヘーゲルの議論は、彼に先立つカント、フィヒテ、シェリングらドイツ観念論者の著作を踏まえたものであるので、それを知らないと何について語っているか分からない
- 更にヘーゲルの記述は古代ギリシャ哲学やキリスト教思想がふんだんに盛り込まれており、知識のない日本人には難しい
- 研究対象とされる意識や精神などは形而上学的な概念であり直感的に実体が捉えづらい
- 出版の際にかなりゴタゴタしており論文として煩雑な状態で世に出ている
そして何より読者を苦しめるのがヘーゲル独特の用語の用い方、通称ヘーゲル語である。「意識」「精神」「学問」「能力」「教養」など普通の言葉が何の説明もないままヘーゲル独自の定義で用いられ、またページによってその語義が変化するのだ。「いくら難解だろうが日本語で書かれているのだから分かるだろう」と甘い考えを持った挑戦者を容赦無くふるい落す凶悪な哲学書である。
では読破するためにはどうすればいいかというと、一番良いのは専門家と一緒に読むことである。大学で教授に聞くのもよいし、最近はオンライン講座も豊富である。また精神現象学は知名度もあって概説書が豊富である。本屋で自分のテイストに合いそうなものを選んでレファレンスとして参照しながら原著にアタックしてみるのが良いだろう。
目次
- 哲学全体への序論(まえがき)
- 精神現象学への序論(はじめに)
- A. 意識
- B. 自己意識
- C.
CだけAA・BBというややこしいナンバリングがされているが、これには理由がある。元々Cについては「理性」と「絶対知」のみが叙述される予定であったが、後から「精神」「宗教」が追加されたのである。
他にも序論が二つあったり、同じ単語であっても前と後で違う意味で用いられていたりと、整理されていない書物であることはヘーゲル自身が認めていたようである。
内容
ところでヘーゲル哲学の手法である弁証法はこちらで予習してもらいたい→「弁証法」
弁証法の基本的な考え方は「あらゆる物事は本質的に矛盾を抱えており、矛盾の中の対立が統一(止揚)されることで物事は螺旋的に発展する」というものである。
実体=主体論
本書で問題にされるのは認識論である。つまり「真理(本当のもの)をどう掴むか」という古代ギリシャから伝わる哲学の一大テーマだ。カントは「真理と私たち人間には超えがたい溝があり、決して真理そのものを認識することはできない」と考えていた。ヘーゲルはこの真理(客体)と人間(主体)の対立を批判し「真理とは私たちの意識そのものなのだ(矛盾する客体と主体の綜合)」と考えた。
これをヘーゲルは「実体は主体である」と表現した。実体とは真理のことであり、実体が自分を保つために自分ならざるものになった形態を主体と呼ぶ。通常、真理というと「不変であり一切の矛盾のない存在」をイメージするだろう。しかしヘーゲルにとっての真理はそれとは真逆で、真理とは真理たり得る(自己同一性を保つ)ために「常に変化し矛盾しつづけるもの」であった。
それは一つの生物が常に摂取と排泄を繰り返す事によって常に細胞を新たにすることに似ている。人間は一定期間で全細胞が新陳代謝するが、それによって自分を失ったりはしない。むしろ自己保全のために新陳代謝は必須である。同様に「生きた実体(真理)」も自ら姿を消し、自分ではないもの(主体)として現れることによって自己を保持する。また、人間の自らの本質が細胞の存在の上にあるように、実体も主体を超越した存在ではなく、主体の世界に内在しその循環の中に在るものである。
主観的存在である私たちの意識が真理であるならば、客観的な世界の全てもまた私たち意識なのである。世界のあらゆる存在が自らの意識であるという世界観を観念論といい、また絶対的な他在のうちに自己を見出す境地を絶対知と呼ぶ。しかし絶対知には一足飛びに到達できるものではない。そこで精神現象学ではまず、ただ「ある」という最も基礎的な意識(感覚的確信)からはじめ、知覚、悟性、自己意識、理性と色々な寄り道をしながら自覚を深め、ゆっくりと絶対知へ進んでいく。その多様な内容から「精神現象学は小説のような哲学書だ」と評する専門家もいる。
「実体と主体」は本書の中では様々な形をとって現れ、それぞれ対立の上で統一される。
人倫の国
上記の考えはキリスト教の「神」、「キリスト」、「聖霊」の三位一体がモチーフになっている。神=真理、キリスト=人間と考えてみると、天上におわす神が地上に降り立ったとき、神ならざる人間イエス・キリストとして受肉する。私たち人間は神を崇めているつもりが、実は私たち自身が神であったのだ。精神現象学はドイツ語での原題がPhänomenologie des GeistesというがこのGeistes(英語でいうとghost)は三位一体の聖霊のことである。私たち人間(認識主体)が実は神(認識対象)であることを自覚するための聖霊の旅路。それこそが精神現象学のメインテーマである。
先ほど「実体(真理)は世界に内在する」と述べたが、キリスト教的にいえば「神は世界に内在する」。これを最初に指摘したのはスピノザである(この思想は「超越者たる神が世界を創造した」と考えていた教会から猛批判を浴びたようだ)。神を実体として捉え、世界に内在する社会共同体を「人倫」と呼ぶ。人倫の国では「理念」という共同体意識があり、主体たる個人は共同体に献身し、共同体は個人に生存を与える。人倫の国において実体は主体と化す、すなわち個人と社会は一体化している。(人倫の国についてはヘーゲルの別著『法哲学』に詳説されている)。
以上のように実体=主体論は現実の中では「神」と「国家」と「哲学体系」に現れる。現実における実体(真理)の啓示は、天上の神が人間に指し示すものでなくその逆で、人間の「自然的意識」と呼ばれる日常的な感覚が普遍者(神)へと昇華されることなのである。その昇華されて普遍的自己意識と呼ばれるようになった共同体・国家意識が哲学の極地である「絶対知」の成立へと繋がることとなる。
A.意識
意識が真理を目指す旅路は「個別性」が「普遍性」を目指す「意識」の章から始まる。この章は「感覚」、「知覚」、「悟性」の3つに分けられ、感覚が個別、悟性は普遍。知覚はその間にあたる特殊に該当する。
感覚(感覚的確信)
意識はまず直接経験したことこそ最も具体的で豊かであると確信する(感覚的確信)。この原始的な意識は観察対象と自分は一切関わりを持たず、そのまま真なるものとして経験できると勘違いしている。だが感覚が常に錯覚を含んでいることは私たちは知識として知っている。そこであらゆる感覚をそぎ落とし、最後に残るのはただ「『いま』『ここ』に『これ』が『ある』」という単純で抽象的な概念である。だが「これ」だけ取ってみても対象の色、重さ、形を全て落としているため感覚的内容が全くない。
「いま」も指さした瞬間に「いま」ではなくなり、「ここ」と指さした木はやがて家になっていることもある。このように感覚が確実な個別だと思っていた「これ」も「ここ」も実は普遍的な指示語にすぎなかった。「ここ」は指差した瞬間に次の「ここ」に否定される。この弁証法的運動によって個別の「ここ」は普遍的な「ここ」へと止揚されるのである(感覚的確信の弁証法)。
知覚
自らの感覚こそが真理だと思っていた感覚は誤りを認め、今度は観察対象の中にこそ普遍性があると考える。この意識形態を「知覚」と呼ぶ。知覚は、感覚されているかどうかに関わらず対象の中に変化しない同一のものがあると考える。ヘーゲルはここで塩の結晶の例えを出す。塩は「辛い」「白い」「四角い」といった「感覚的諸性質」を持ち、同一性を保っている。
しかしこれらの要素はお互いに関連があるわけではなく「没交渉」である。塩は「辛い」auch「白い」auch「四角い」という風にauch(独語で「〜もまた」の意。英語でいうとalso)という媒介(諸性質を統合する物性)によって繋ぎとめられているに過ぎない。ここで知覚はそれらの感覚的諸性質をまとめる「塩の普遍性」を想定する。知覚によって普遍性を持った塩は排他的に単一性を保ち(純粋本質)ながら多数の感覚的諸性質を持つ「一にして多」という矛盾した存在となる。
知覚は対象が統一されていること(自己同等性)の中に真理があると思っていたが、ここに矛盾が生じてしまった。この意識の「錯誤」を止揚するために物の単一性を物の側に、多様性を知覚の側に割り振ることとなる。つまり「辛い」「白い」「四角い」などの性質は物ではなく我々に帰属するものであるとここで自己反省する。こうして知覚が個別の対象(物)にあると考えた真理は再び普遍の世界に戻ってきてしまった。こうして私たちは知覚を通じて物が静的な同一存在ではなく、矛盾を含んだ動的存在であると理解する。
悟性と力
ここまで感覚→知覚と進んできたことにより対象を、多様な性質と、それをまとめる一者として統一的に把握している意識を「悟性」と呼ぶ。悟性が対象とするのは、多様な性質を持ちながら、それを同一にまとめる運動。これを「力」と呼ぶ。この力は本来は物の中に隠れて見えないが、質量を得て可視化される。これを外化と言う。そして同時に外化した力は再度物の中に沈み不可視化する。つまり力とは、目に見えない本質(実体)と目に見える質量(現象)を往復運動することとなる。こうして力による「実体(本質)と現象」という哲学的概念を用いて、塩は塩たらしめる同一性という本質を持ちながら、「辛い」「白い」「四角い」などの多様性が現象するということが説明できた。
ところで、このような「力」の運動を誘発するものが物質であるとするなら、力は実体(本質)であるとは言えない。実体(本質)は非物質的なものであるからだ。そこで悟性は、力から物質的要素を除去しようとする。こうして本質と考えられていた力も、物質に「誘発される力」と、運動を「誘発する力」に二重化された。しかし両者は独立して存在するわけでなく容易に互換するものである。これを「両力の遊戯」と呼ぶ。堅固な統一していた力が二重化すると、力は自存する実体ではなく悟性という意識の中にある観念になってしまう。「これ」を対象とした感覚、物を対象とした知覚。そして悟性は現象世界(物質世界)を超えた超感覚世界を対象とし、物質(現象)の背後にある真理(本質)を見通すこととなる。
カントは超感覚世界(観念世界)と感覚世界(物質世界)を対立するものとする「二世界論」を唱えたがヘーゲルは超感覚世界は感覚世界に依存し、逆に感覚世界も超感覚世界に依存し存在すると考えた。例えばニュートンの万有引力という超感覚的な一つの普遍法則によって現実世界を説明することもできる。だが万有引力は感覚的な個々の現象の中から発見されたものである。このような悟性の原理を「同語反復の運動」と呼ぶ。普遍を旨とする超感覚世界に対し、感覚世界は常に変化する。感覚世界の運動は超感覚世界では真逆のものとして反転することすらある(転倒する世界)。
以上のように対象の中にある超感覚世界と感覚世界は矛盾の上に対立しながら統一される。自己自身に矛盾する存在は、自らの力で活動する「生命」と呼ばれる。最初に自分の外にある物を対象としていた悟性は、「生命」となった観察対象の中に、矛盾を孕み無限の自己止揚する意識の運動を発見することで「対象を見ることは自分自身の姿を見ることである」という自覚を深める。こうして意識は何か外的なものを対象とする意識から自分自身を対象とするものへと変容し、次章「自己意識」へと進む。
B.自己意識
主奴の弁証法
意識の章によって、あらゆる外的対象は自己であることがわかった。こうなると対象は単なる知に止まらず「関心」「欲望」を向けられることとなる。欲望を持った意識、つまり自己意識は他者を否定し、自らの中に取り込むことで自己同一性を保つ。それは、生命が別の生命を否定し(殺し)食べることで生きていくことに似ている。他者を「区別」し自己を「統一」する意識の運動を「無限性」と呼ぶ。また個体しての生物だけでなく、種族全体もまた他の種族と区別することで統一を保っている。この時の種族のことを「類」という。ヘーゲルはあらゆる生命の中で人間だけが自己が類の内側にあることを自覚できる類的存在であるため、人間のみが自己意識を持つことができると指摘する。
しかし人間は類的存在でありながら、自分が独自の個体であることも意識している。物体を対象とする内は自分は絶対的な主体者でいられたが、他人という別の自己意識を対象とする(相互対象化-相互規定的関係)とそうはいかなくなる。人間は自己意識を他人との関係の中に見出し、自己証明のために他者を否定する(自己の自立性の確証)。無論、この否定とは殺人を意味せず、他者の自己を否定させることを指す。相手を殺してしまっては自分を承認してくれる人がいなくなってしまうからだ。ともあれ自己意識たちは自己の自由を確立するために相手に承認を迫る命をかけた戦いを始める。
この戦いの勝利者は主人、敗者は奴隷となる。主人は自立性を保つ一方で、奴隷は自由を失い「労働」を通じて主人に奉仕することとなる。だがこの労働を通じて奴隷は自らを鍛え上げ、逆に主体的存在として立ち上がる。一方で、労働していない主人は、奴隷に依存する非自立的存在でしかない。労働という契機を得た奴隷は①自己意識を相対化・客観化し②また労働を通じて労働生産物(外的対象)を客観化することで「思惟する無限性の意識」という内的自由を手にいれる。
ストア主義とスケプシス主義→不幸の意識
こうして生まれた意識の自由はストア主義とスケプシス主義を経て、絶対的な主人(神)との対立にまで進んでいく。耳慣れない言葉かもしれないが英語のストイック(stoic)とスケプティカル(skeptical、懐疑的な)主義といえばイメージがつきやすいか。ストア主義は、内的自由を得ることで現実を否定する。王座にある主人だろうが、鎖に繋がれた奴隷だろうが自らの内に閉じこもり、ただ思惟する中で自己同一を保とうとする。このような脱生活的な態度は他の意識のありかたに否定も肯定もすることはない。
一方でスケプシス主義(懐疑主義)はより強硬に現実を否定する実践的な意識である。スケプシス主義は弁証法の否定の論理を理解しているためあらゆる権威を相対化し、自ら恣意的に否定を作り出す。だが「確実なものは何もない」という懐疑主義は当然、彼ら自身の思想をも懐疑せざるをえない。「自らの思想が正しい」という意識と「自らの思想は疑わしい」という意識の矛盾は止揚され「不幸な意識」と呼ばれる新しい自己意識となる。
不幸な意識は「否定性」ではなく、宗教などの「自己理想」に依拠する意識である。だが理想の自己を求めることは同時に現実での自己の貧しさや至らなさを自覚してしまう。この引き裂かれるような苦しみが「不幸」といわれる所以である。不幸の意識は三位一体(絶対者の神=人間キリスト=聖霊が一体であるという思想)という考えを元に「個別的なものは絶対的なものに由来する」という認識を得て、絶対者と個別者の統一のシンボルとして聖霊を意識する。
キリスト教徒は「純粋の思慕」で絶対者を崇拝するが、やがて本当の信仰に近づくためにひたすら自らを虚しくして「絶対的帰依」を始める。だが人間が生きる以上は物質的な欲望は不可避であるし、また神に尽くそうという真心も実は神に認められたいという私心ではないかという内的矛盾を自覚せざるを得なくなる。この矛盾を止揚するために「教会(セクト)」が神(絶対者)と人間の媒介者として現れる。だが教会にて禁欲生活を始めてもやはり我欲を完全に捨て去ることはできず、信仰はいつまでたっても半信半疑に止まらざるを得ない。
C.理性
不幸な意識は、神と自分ととりもつ教会を「媒語」として、自らの自由も労働の成果も投げ捨てた。この自己奴隷化は逆に「全ての人間は神の子である」という平等的な相互承認をもたらし「誰もが認める正しい正義を実現したい」という普遍意識を生み出す。教会の権威から脱し、自己と社会が深く繋がっていると確信するこの普遍意識を近代の「理性」と呼ぶ。理性は、社会に存在する様々な法が、我(個別意思)ではない我々(普遍意思)の価値観が具現化したものであると確信している。
実をいうと精神現象学の目的であった主観と客観の統一、個別と普遍の統一の確信は理性において完成される。理性は「世界とは自分の意識である(観念論)」とすでに自覚しているのだ。目次をみても以下の「精神」「宗教」「絶対知」は「理性」の章に含まれている。とはいえ理性はまだ生まれたばかりにすぎない。そこでこの章では、その先の「絶対知」にたどり着くために3種類の理性をヘーゲルは紹介する。
- 自然を観察する理性:自然を観察し、そこに合理的秩序を見出そうとする
- 社会で行為する理性:社会の中に自己の信じる理性的な秩序を実現しようとする
- 事そのもの(表現する理性):自己表現を通じて普遍的価値を目指そうとする
観察する理性
記述、分類、法則と概念
理性は自然の中に自己を発見しようとする。これは理性にとっては自然の本質を見出そうとする試みであるが、実は理性自身の本質を探し求める行為なのである。理性は自然を「記述」し「分類」し「法則と概念」を見つけ出そうとする。これは「意識」の章でなぞった「感覚」「知覚」「悟性」がそれぞれ対応している。まず理性は自然の観察の中で記述しようとするが、目の前の個別性を経験するだけではそれは「無思想な意識」に過ぎない。そこで理性はより普遍的なものを求めていく。
自然観察における普遍性を探す時に必要となるのは、観察対象の本質的性質と非本質的性質を分ける「標識」である。例えばバラの色が何色であってもバラはバラなので色は非本質だが、バラの花弁の数は常に5枚なので、それは本質的条件だ。その上で問題になるのはその標識は、人が作った主観的分類(人為の体系)なのか、自然そのものに備わる客観的分類(自然の体系)のどちらなのかということだ。また人為かつ自然の体系というものや、動物とも植物とも分け難い事例に遭遇する事で、固定的な規定(標識)に基づいた分類にも限界があることを知る。
そこで意識は次に「法則と概念」を求めていく。例に挙げられるのは酸と塩基である。これらはそれぞれ独立した物質であるが「酸と塩基が結びつくと塩になる」という法則が発見されると、酸と塩基は「互いに相手がいなければ無意味な関係(相関関係)」となる。こうなると両者はもはや物質ではなく、関係しあい規定を交換し運動する無限性を持った「概念」となる。
有機体と人間の観察
現実に存在する概念の典型例が「有機体」である。有機体は常に外部環境と関わりながら自己同一性を保っている(つまり無限性を持った)物質である。しかし観察する理性はいまだ有機体の動的無限性を理解できず、固定的な法則を打ちたてようとする。例えば「有機体は環境に左右される」という法則を仮定する。だが確かに有機体は環境と関わってはいるが、本質的に自己目的(自己維持)である。
「有機体は固定的なものだ」と仮定する観察する理性は、目的の概念を「内なるもの」、現実を「外なるもの」と定義し「外なるものは内なるものの表現である」と考える。その過程には、外からの刺激を受ける感受性、それに対し外へ反作用する反応性、そして自身を再生産する再生能力の三つの契機が区分される(外なるものにはそれぞれ神経、筋肉、内臓が対応する)。だが、これら三つの契機は相互に関連しあう「普遍的流動性」としてのものであり、有機体の本質は捉えられない。
ここで押さえておきたいのは有機体は確かに思考と認識の無限性の運動を持つが、有機体はこれに無自覚であることだ。先述したように全体(類)に対して自覚的に振る舞い、個体と全体との関連を意識的に作り上げられる(つまり類的存在である)のは人間の精神だけである。ヘーゲルは「有機的自然は歴史を持たない」と念を押している。
次に観察する理性は人間を観察し、自然と同様に無限性の運動をそこに求め始める。観察する理性は意識を心理学的に考え、環境が個人に影響を与えるという仮定の中で「人間の外見は、内なる意識が外化したものである」と考え出す。ヘーゲルはその例として手相、声質、人相、頭蓋骨の形などに着目した。
行為する理性
自己意識が自覚を深めると「あらゆる物質は別の自己意識であり、他の自己意識によって自分の自己意識が承認されるはずだ」と確信することとなる。この段階に至った自己意識を「精神」と呼ぶ。行為する理性とは精神を目指して、相手に承認してもらえるような人倫の国を目指す意識のことを言う。人倫の国では、お互いの自己意識は承認しあい、個人は全体のために働き、全体もまた個人のために働く。そしてその国の法は個々人の意思の表現となっている。その人倫の住人が普遍性を捨て個別性に走ったとき。すなわち私欲をもったときも彼は「道徳性」によって社会に回帰し、より自覚的に共同体を自分の本質として意識する。理性はこの美しき共同体を目指して以下の三行程をとる。
- 恋愛:個別的な自分を個別的な他人に承認してもらう
- 世直し:心胸(ハート)を欠いた社会を変革するために奮闘するがこれは失敗する
- 再びの世直し:「普遍的な善は私欲の犠牲によって成り立つ」と考える徳の騎士として再度世直しに挑む
恋愛。自己意識は自分を承認してもらうために他の自己意識(異性)を欲望する。しかしこの行動は他人が他であることを否定しており、私欲で動いたつもりがお互いの自己意識を統合し、普遍的なもの(夫婦関係の絆や子どもなど)を生み出すことになる。
世直し。自己意識は自分の中に普遍的な法則が存在することを知っている(これが実際に普遍的であるかは未検証であるが)。このルールに則ると、現実は矛盾している。そこで彼は「卓越せる本質」によって「人間の福祉」を生み出そうと社会の変革を希望するが、うまくいかない。彼はその原因をエゴイストに求めるが、彼自身がエゴイストであることには無自覚である。
再びの世直し。現実社会にも誰もが欲する秩序(安らえる本質としての普遍者)が実在するが、それはエゴのはびこる「世間」に隠れて「内なるもの」になってしまう。そこでエゴ(個別性)を捨て去り、その内なるものを現実化しようとする意識の形態、それを「徳」と呼ぶ。彼は自らがエゴイストであることを自覚しており、エゴの除去こそが秩序を生むと考える。徳の騎士は「それ自体として真であり善なるもの(普遍性)」を守るために「エゴ(個別性)こそが本質である」と考える世間との戦いに挑む。
だが徳の騎士は「『それ自体として真であり善なるもの』は社会の本質であるので、戦いがどうなろうがいずれ実現されるはず」と考えており本気で戦うつもりはない。また戦いの中で「それ自体として真であり善なるもの」が傷つくこともあるし、更に実は世間の側にも「それ自体として真であり善なるもの」が存在することを知って敗北する。徳の騎士は、世間によって隠されてしまっていた「それ自体として真であり善なるもの」が実は逆に世間の個別性によって実現されていたことに気づく。
事そのもの
自らがあらゆる存在であると確信した自己意識は、全ての個別性を表現する活動を始める。この意識は表現の「目的」、表現「手段」、「作品」の3つの契機を元に個性を表現することを善とする。本来この3契機は完全に一致しているはずなのだが、出来上がった作品に納得がいかなかったり、他人から批判を受けるとバラバラになってしまう。そこでその統一を保つために「持続するもの」として「事そのもの」がでてくる。
事そのものとは行為と存在が統一され「これこそが真のものだ」という作品であり、またその作品を作るのに用いられた社会制度。さらには自分がそのような社会制度に助けられているのだという自覚であると解釈できる。社会の理念と制度である事そのものは、個人の行為であると同時に、社会で相互に関連しあう全ての個人の行為でもある。
精神
個としての意識の経験の旅は理性においてひとまず終着点を迎える。そこで次にくる「精神」の章は個でなく共同体の意識に目を向ける。これまでみてきた個としての意識の形態は全てこの共同体意識=時代精神から抽出されたものである。ヘーゲルの歴史哲学は、人類の歴史を精神の発展史と考えており、ある時代の精神はそれに応じた社会制度を持ち、また精神は人類史の中で精神が自己を自覚するところまで行き着くとした。それを踏まえ、古代ギリシャのポリス社会からはじめ、ローマ、近代(信仰と啓蒙)、フランス革命と人類史の様々な場面にある精神の観察が行われる。ヘーゲルはこの章の中で、古代や中世に存在した共同体が近代の中で崩壊し、近代社会に放り出された人々の自由の行方を模索しようとしていた。
- 真実な精神(古代ギリシャのポリス、古代ローマ帝国)
この国では直接無媒介なあり方として人々は人倫的生活を送る。個人と社会は美しく調和しているが、その調和は無自覚なものであり、内面的自由を持った個の意識は存在していない。その個人の意識が目覚めた時、人倫的生活は崩壊し、個の意識は「ローマ市民権」という権利で保証されることになるが、社会と個人は疎遠なものとなる - 分裂した精神(フランス革命による共同体の解体)
個人と社会は疎遠なものとして対立しており、また社会も此岸の「教養の国」と彼岸「信仰の世界」に分裂する。この分裂は「近代理性(啓蒙)」によって克服され、最終的にフランス革命という「絶対思想」によって現実的な社会を変革する。 - 道徳的世界観(自己確信的精神)
個は自覚的に社会と調和し「道徳性」と「良心」によって意識は最高の段階へと至る。ヘーゲルはここでカントの倫理学を検証、批判する。
真実な精神=人倫の世界
共同体は国土を拡大し国内を多様化させながら同時に一つの国として収斂する。国家は住民を守る義務があり、同時に住民は国のために戦う義務がある。死んだ住人を弔うのは神々の掟(女の義務)である。また家庭において真に人倫的関係は姉弟か兄妹の関係である。なぜならば夫婦だと性欲が伴い、親子は対等ではないからだ。
この社会では全くの個人(この自己)は存在せず、自己と掟が一体化した「性格」のみが存在する。そのため性格同士の対立はお互いに正義を主張し、調停するシステムが伴っていない。また男の作る国家は、女の主宰する家庭の個別性を抑圧しようとするが、女はこれに対抗し兄弟や息子を利用する(国家共同体の永遠のアイロニー)。こうして美しかったポリスは没落しローマという普遍的な共同体へ飲み込まれていく。
全体と個が調和していたギリシャから、精神の欠けたローマ帝国へ移ると個人は全体との統一を実感することができない。個人は市民権を与えられ「人格」として承認されているが他人や共同体との繋がりを感じられない(つれない冷酷なこの自己)。依然として自己と世界は繋がっているものの、その実感を失ったことで此岸の「現実の国」と彼岸の「純粋意識の国(信仰の世界)」が対立するようになり、人々は彼岸の世界に統一を見出そうとする。
分裂した精神=自ら疎遠になった精神
分裂した精神の上に現実と教養の国が現れる。ここでいう教養とは金を稼いだり権力を握ったりする能力(自己陶冶)のことを指している。やがて財や権力が無価値とわかると、意識は本当に価値のあるものを洞察しようとする(純粋洞察)。更に意識は、意識と無関係に存在するもの(自体存在)と考えていた社会や神を理解しようとする。これを近代理性と呼ぶ。近代理性は啓蒙となって信仰を批判する。そこに理神論、唯物論が現れ、その二つが止揚されると功利主義が出現する。
- 理神論:キリスト教における全知全能の人格的な神は否定するが、世界の究極原因たる絶対者を認める立場
- 唯物論:絶対者を認めずただ目に見える個々の事物だけを絶対とみなす物質主義者
- 功利主義:あらゆる物はそれ自体として存在する(即自的)と同時に他の存在によって役に立つために存在する(対他的)と考える立場
功利主義によって、世界の全ては自分だけでなく人々にとって役に立つために存在するという考えは「社会」への洞察に結びつき、抽象的な存在論から、社会・民衆・自由という現実変革への思想へと開かれていく(世界の真実態と現実態の統一)こうして此岸の世界と彼岸の世界の分裂も解消されていく。
やがてこの「一切は人民のためにある」という思想からフランス革命が勃発する。革命を起こすのは「社会のために個人が存在するのでなく、個人のために社会が存在する」とする絶対自由の精神である。この意識は普遍意思(ルソーがいうところの一般意志)と呼ばれる。革命を経て啓蒙と信仰の対立は個人と社会の対立へと進む。
とはいえ革命後の社会で全ての人間の自由が実現されるわけではない。司法・立法・行政に携わる者を自分たちの意思の代表者だと考えてはみても、巷間の人々は普遍意思を実感することはできず反抗心を持ち始める。こうして自由を生み出すはずだった普遍意思は恐怖政治を行い、民衆に死の恐怖を与える。ここで個人の自己意識は教養の世界の名誉や財産、及び信仰の世界の天上界などの絶対的理想を放棄し、内的自由の精神の中で生きようとする。
自分自身を確信している精神=道徳性
ヘーゲルはカントの倫理学をとりあげ、これを批判する。カントは「純粋義務」という道徳思想からキリスト教とは切り離された人間の理性を主体とした。しかしこれは人間の「感性」と「理性」の一致。すなわち金や出世などの「社会的幸福」と「道徳」が一致するという前提があったため「最高善」という神を今一度「要請」せざるを得なかった。善に対する個人の内面的真摯さにこそ人間本質を求めるカントの道徳性は、主観的な自己確証の動機に基づいており、道徳を社会の中で現実化することを妨げていた。
そこでヘーゲルは「良心」という意識を持ち出した。良心は「私は今これを正しいと信じて行う」という個別性と内的確信を持っており「道徳思想」のように「普遍的善とは何か」、「絶対的な善とはどれか」という悩みは持っていない。「あるべき」とするカント倫理学に対して「よくなるはず」という後者は実践的で経験的な知である。
良心は多義的で絶対の根拠をもっていないので他人の良心や、社会の善と衝突することもある。そのため良心は自らの正しさを「断言」し、自らが普遍であると主張する。このようなあり方は一つの「教団」として共同体の内側だけで承認を分かち合う。教団の中で良心は自らの知を普遍的なものとして互いに断言しあう(宗教)。やがて良心も行動を伴う個別的良心(行動する良心)と、思想の普遍性こそ本質であるとする「批評する良心」の対立を持ち、この対立が止揚される「然り」のうちにこそ「自己自身を確信する精神」の真の本質=絶対精神=神の本質が姿を現すのである。
宗教
ヘーゲルは世界を精神それ自体と考え、人間は世界の精神から抽出された個別の精神であるとした。人間の理性は世界の本質を経験的、概念的に捉えようとするのに対して、表象的に(外的対象を意識に映すことで)世界の本質=神という形で捉えようとするのが宗教である。個人の意識の発展が人類史の精神の発展であったように、宗教史もまた人間の精神が自分自身の本質である「絶対精神(神)」を捉えていくプロセスである。宗教もまた以下の三段階をとる。
自然宗教はゾロアスター教やバラモン教やエジプト古代宗教などが想定されている。意識の章が感覚的確信→知覚→悟性と進んだのと同じく、まず一切の根元である「光の神」があり、それによって闇が生まれ多様性が生まれ「動物・植物の神」が信仰される。これらの多様な事物を概念的にまとめあげ対象とするのを「工匠の神」という。
次に人間が自己意識を自覚する、つまり人が自らの神性を自覚する宗教は芸術宗教となる。これはギリシャ神話の世界に該当する。芸術宗教は「抽象的芸術品」、「生きる芸術」、「精神的芸術」という道を進んでいく。
最後に啓示宗教(キリスト教)が生まれる。ここにおいて精神は統一と分裂に苦しむことになる。これをキリスト教に擬えると、神が人間の自己意識の姿をとって世界に現れると同時に、人間の自己意識が自らを高めて神に近づこうとする運動が同時に発生することとなる。つまり人間が彼岸に神を投影し熱狂するのでなく、神の本性が人間の姿をとって世界に現れてくる点に啓示宗教としての意義がある。また人間キリストは十字架にかけられても復活し、聖霊としてのイエスの本質は信仰者の中に生き続けることとなる。すると個別的な精神(キリスト)は共同の精神(教会)へと進展する。
絶対知
精神の章の「良心」と宗教の章の「啓示宗教」が合一すると、精神の旅は終わり絶対知に至る。これは最初に目標としたように、自己と対象の同一性(主観と客観の一致)が達成された意識である。ここでは精神は、自らの本質である無限性の運動を純粋に自覚している。
絶対知は「概念的に把握された知」というあり方となる。「概念」とは論理的に明確にその内実が捉えられ、他の観念との差異や紐帯をもまた明確に捉えた観念のことをいう。絶対知において概念は実現され、存在の本体たる概念は存在の場に現れ、意識にとって対象の形をとる。概念とは対象(定在)でありながら自己であるものだからだ。存在と概念が一体化した意識によって生み出される精神。それが「学問」である。絶対知に続いて精神は、純粋な概念の境地でもって自己を展開する論理学となる。その上で精神は概念の境地から離れ自然と歴史の学となる。
精神現象学では意識と対象のズレが弁証法的に運動していったが論理学では概念という場面で動くのでズレがない。そこでは対象はそのまま自己知だからである。そこで概念の持つ純粋な限定性を概念が自ら否定し超えて出て行くことで運動する。しかしやがて概念も矛盾を内包しだし、外化する。外化された知は再び精神現象学に戻り、また別の知は生命の運動の中に主体と意識を生み出し(自然哲学)、また別の知は精神の発展史である歴史(歴史哲学)へと進む。
ヘーゲルは精神現象学の結びにシラーの詩を引用する。わずか2行の詩であるが、精神現象学の本質を見事に表現している。
このもろもろの精神の国の盃から
精神現象学はヘーゲルの代表作のイメージが強いが、実際はヘーゲル哲学への導入編にあたる。ヘーゲルはこの後に論理学。さらに自然哲学と歴史哲学を続ける構想をもっていた。しかし実際に出版されたエンチクロペディ(論理学、精神哲学、自然哲学から成る)はそれ独自で完結しており、そのため精神現象学をヘーゲル体系の中でどう位置付けるかという議論もまた研究者を悩ませるテーマとなっている。
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『精神現象学』について解説した本は多いが、特に有名なのは、アレクサンドル・コジェーヴという20世紀の哲学者のものである。彼が行った講義は『ヘーゲル読解入門』にまとめられ、フランス現代思想に大きな影響を与えた。
ちなみに、東浩紀が提唱する「動物化」という概念はコジェーヴが元ネタである。
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