般若心経(はんにゃしんぎょう)とは大乗仏教の空・般若思想を説いた経典(サンスクリット:प्रज्ञापारमिताहृदयसूत्र Prajñā-pāramitā-hṛdaya-sūtra プラジュニャー=パーラミター=フリダヤ=スートラ)。
全600巻余に及ぶ『大般若波羅密多経(だいはんにゃはらみったきょう。大般若経)』の要約であり、玄奘(三蔵法師)によるとされる漢訳版が広く知られている。
概要
漢訳として広く知られているものとして、日本で最も一般的な次掲の玄奘訳(版によって若干の相違あり)の他に、それ以前に鳩摩羅什(くまらじゅう。クマーラジーヴァ)による訳が存在する。双方には大きな違いが見られないため、前者は後者の強い影響を受けたと考えられている。また、成立過程や他経典との比較などから、訳者が本当にこの二大訳聖であったかどうかははなはだ疑問視されている。
さらに、サンスクリット版「般若心経」の現存する最古の本は、漢訳版のそれよりも新しい。学者の中には般若心経は中国で作られた偽経であり、サンスクリット版は漢語版から逆転写されたものであるという説を唱える者もいる。
尚言えば般若心経のみならず般若経典の多くの要素は、仏陀の思想に関わらない。これは大乗非仏説等様々な批判のターゲットの一つにもなっている。
仏説 摩訶般若波羅密多心経 (唐三蔵法師玄奘訳) テキストと解釈
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうおんかいくう どいっさいくやく舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
しゃりし しきふいく くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅうそうぎょうしきやくぶにょうぜ舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
しゃりし ぜしょうほうくそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
ぜこくうちゅう むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ ぼだいさつた えはんにゃはらみたこ心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
しんむけげ むけげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
さんぜしょぶつ えはんにゃはらみたこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
こちはんにゃはらみた ぜいだいじゅんしゅう ぜだいみょうしゅう ぜむじょうしゅう ぜむとうどうしゅう能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
のうじょういっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみたしゅう そくせつしゅうわつ
(訳例)全てを識り、全てを見るといわれる聖者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中で、この世の五蘊(この世を構成する全て)には実体がないということを明らかにした。この気づきにより、苦しみは全て解かれよう。
シャーリプトラ(仏陀のもっとも古い弟子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく。実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること、気づくこと、想うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。
シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから。全ては生まれもせず、滅することもなく。けがれているということもなく、清らかであるということもなく。増えることもなく、減ることもない。
つまり、実体が無いこの世の真実の世界においては。形も、感じることも、気づくことも、想うことも、知ることもなく。目、耳、鼻、舌、感触、意識(肉体で感じること全て)はなく、景色も、声も、においも、味覚も、ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。目に見えるものから、それにより想うこと全て、ありはしない。無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故に苦しみを滅する道もない。知ることもない。得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(そしてそこから逃れようとする修行者である菩薩)は、この気づき(深遠なる知恵)によって、こだわりももたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての錯覚からはなれて、静かなる心の世界(涅槃、ニルヴァーナ)へと至る。
過去、現在、未来において、苦しみを知る者(そしてそこから逃れようとするあらゆる修行者であり仏)は、この深遠なる気づき(般若波羅蜜多)によって、悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得る。
故に知れ。この気づき(般若波羅蜜多)である大いなる呪(マントラ、まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない言葉であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。故にこの気づき(般若波羅蜜多)の呪はこう言う。
「羯諦(ギャーテー、往けるものよ) 羯諦(ギャーテー、往けるものよ) 波羅羯諦(ハーラーギャーテー、彼岸に往くものよ) 波羅僧羯諦(ハラソウギャーテ、彼岸にはるか往くものよ) 菩提薩婆訶(ボーディーソワカ、悟りよ共にあれ)」
※「ṛ」は、「r」 の下に「.」 。英語の「-er」のように母音化した「r」を表す。他のインド諸言語では「ri」等に変化したため、慣例上「リ」の読み仮名が振られる(ちなみに「サンスクリット」の「リ」もこれに同じ)。
※「度一切苦厄」および冒頭の「摩訶般若波羅密多心経」は、現存するサンスクリット語の原典および漢訳以外の翻訳版には存在せず、玄奘訳(および前者は羅什訳でも)によって独自に付加されたものと考えられている。また逆に、サンスクリット語原典の冒頭にある経典の常套句「一切を知る方に帰命する(namas sarvajñāya)」は玄奘訳(および羅什訳)では省略されている(ちなみに namas は、経文の冒頭に置かれる「南無」のこと。ヒンドゥー教徒の汎用挨拶語「ナマステー(あなたに敬礼します)」も、時代と共に敬意の度合が下がってはいるが、同じ語から)。
※「摩訶」「般若波羅蜜多」「菩提薩埵(菩薩)」「涅槃」「阿耨多羅三藐三菩提」は仏教用語として、サンスクリット語もしくはその地方語であるパーリ語(「聖典語」の意。原始仏典で用いられる言語)の発音をそのまま漢字で音写したもの。固有名詞では、「観自在」は意訳(古い経典ではアヴァローキタスヴァラの例もあり、こちらは「観世音」と訳せる)、「舎利子」は音訳と意訳の混合である(意味は「シャーリ(母親の名。「鷺」の意)の息子」)。
※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された陀羅尼(だらに。呪文)。翻訳当時でも正確な原意が失われていたため、音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は、サンスクリット語等からの類推に依るものであり、あくまで参考の域を出ない。
※参考として、大本(広本)の内容を含んだ説話風の訳例はこちら。
般若心経が描いているのは、釈迦の目の前で、上座部仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん。アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)聖者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「空(くう。実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。
その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四聖諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、陀羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実(般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に至る道である、とされる。
そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。
「空」とは何か? 悟りとは何か?
さて、般若心経の本質であり、有名な格言「色即是空 空即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「無」と同義ではない。むしろ「無」ですら「空」によって成り立つ現象のひとつ(色)に過ぎないのである。
長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折空観)、その最も良いテキストが『ミリンダ王の問い』の仏典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。
パソコンを例にとれば、パソコンをディスプレイ、キーボードといった部品にバラバラに分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても最早パーツに過ぎなくなる(少なくともパソコンとしての用は為さない)。また、キーボードのキーの幾つかが抜けたパソコンもやはりパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。さらに、バラバラにした部品をもう一度組み立てなおせば、先程まで消えていた「パソコン」というものは再び認識されるのである。パソコンは、この世に最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言える。あらゆる事物そのものの本質は、それ自体とは別に存在するのである。
つまりパソコンと呼ばれるものは様々な部品がしかるべき方法でそれなりに合わさった(他のもの同士が因縁によって結びつき関係し合った)中に垣間見える概念であり、そこにパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「無」というものも、パソコンを物理的に分解等した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎない(「空」⊃「無」)、ということになる。この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「無」 であることは、これでもうお分かりだろう)。
これが般若心経の本質、「色(現象)即是(すなわちこれは)空 空即是(すなわちこれは)色(現象)」である。この世の物はみんな実体がないのだから、いくら執着しても本来まったく無駄なのである。
その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時当たり前に信じられていた魂の実在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダは瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのは魂や霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、苦しみ傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を目的として生まれたのである。
「悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間が転生する仕組み、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。
……と、このような考え方を具象・抽象ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識を超えて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ無上の正しい悟りに至る道は決してなだらかな訳ではない。さらに言えば、こうした解釈もほんの一例に過ぎないのであるし、そもそもこれらの説明すらも「空」に他ならないのである……と自分で言っててワケわかめ。
ここまで熟読された方はもうお分かりであろうが、本来仏教は厳密な哲学的・論理的思考の下に成り立っている宗教であり、般若心経はそのための最上のテキストに位置づけられている。肉体的・精神的修行を重視する日本仏教の影響を受け続ける日本人は、この文章自体に霊的な力が内在しているとされていると誤解しがちである。しかし、般若心経は唱えれば願いが叶うと言ったまじないではなく、これ自体を読唱したり写経したりすること自体にはあまり意味がない。あくまで論理的思考によってこの文章を理解し、釈迦の教えをよりよく実践することが悟りのための第一歩になるわけである。
この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。求道者たちよ、悟りと共にあれ。
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リビジョン番号: 1524129
読み:ハンニャシンギョウ
初版作成日: 08/05/25 22:51 ◆ 最終更新日: 12/05/09 00:13
編集内容についての説明/コメント: 掲示板でのご指摘に基づいて、修正をしました。
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