般若心経単語

759件
ハンニャシンギョウ
8.1千文字の記事
  • 59
  • 0pt
掲示板へ

般若心経はんにゃしんぎょう)とは、大乗仏教般若思想を説いた経典のことである。サンスクリット)ではप्रज्ञापारमिताहृदयसूत्र Prajñā-pāramitā-hṛdaya-sūtra (プラジュニャー=パーラミター=フリダヤ=スートラ)と書く。
宗(曹洞宗、臨済宗、檗宗など)及び真言宗においては日常経典として積極的に唱えられている。また、その他の宗でも仏教の基本理念を押さえた必読テキストとして広くしまれている。

なお"般若"はパーリ語、原始典で用いられる言)でパンニャーと書き、それを漢語で音写した際の訳による。
能面の「般若の面」…というか、あのの形相とは関係ない。

概要

簡単にいえば、「般若の心髄についての経典」である。ここでいう般若とは簡単に言うと「悟り」である。
唐の玄奘(三蔵法師)が西域(インド)から持ち帰った数の仏教経典を訳し600巻余に編纂した「大般若波羅蜜多経(大般若経)」のうち、さらに大般若経の心髄すなわち後述のに関する経文のみをまとめたものが般若心経である。

訳として広く知られているものとして、日本で最も一般的な次掲の玄奘訳(版によって若干の相違あり)の他に、それ以前に摩羅(くまらじゅう、クマーラジーヴァ)による訳が存在する。

なお、一部の神社でも神前読み上げることがある。神仏習合の一形態といえよう。

序分

般若心経には序分と呼ばれる導入の物語(序文にあたる)が存在する。その内容を理解していると本文を理解しやすい。以下はその現代訳。

あるとき釈迦は、王舎という町の霊山で、多くの子や菩薩たちと共にいて、一人、深い定(迷走状態)に入っておられました。その折、舎利子釈迦子のひとりシャーリプトラのこと)がその場の集まりの中にいた観音様(観自在菩薩)に『般若波羅蜜多(智完成)を修行するにはどうしたらよいのですか』と尋ねました。すると観音様は次のように言いました。
100分de名著 般若心経(著:佐々木 閑)より引用

ここから、本文が始まる。つまり、本文は観音様が舎利子の質問に答えている内容となる。本文で頻繁に舎利子と呼びかけているのは、質問者である舎利子っているからに他ならない。

仏説 摩訶般若波羅密多心経 (唐三蔵法師玄奘訳) 原文・書き下し・解釈

(摩訶般若波羅蜜多心経)
(まかはんにゃはらみったしんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆 度一切苦厄
かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ  しょうけんごうおんかいくう どいっさいくやく

利子 色不異 不異色 色即是空 即是色 受想行識復如是
しゃりし   しきふいく    くうふいしき   しきそくぜくう  くうそくぜしき  じゅうそうぎょうしきやくぶにょうぜ 

利子 是諸法相 不生不滅 不不浄 不増不減
しゃりし   ぜしょうほうくそう ふしょうふめつ ふくふじょう  ふぞうふげん

是故色 受想行識 舌身意 香味触法
ぜこくうちゅう むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう 

眼界 意識界  明尽 老死 老死尽
むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん ないしむろうし  やくむろうしじん 

苦集滅 得 以所得故 菩提埵 依般若波羅蜜多故
むくしゅうめつどう むちやくむとく   いむしょとくこ    ぼだいさつた  えはんにゃはらみたこ 

 故 恐怖 遠離一切想 究竟涅槃
しんむけげ   むけげこ    むうくふ     おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん 

三世諸 依般若波羅蜜多故 得耨多羅三藐三菩提
さんぜしょぶつ えはんにゃはらみたこ    とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是上呪 是等等呪
こちはんにゃはらみた     ぜいだいじゅんしゅう ぜだいみょうしゅう ぜむじょうしゅう ぜむとうどうしゅう

除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪
のうじょういっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみたしゅう そくせつしゅうわつ 

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提婆訶
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか 

般若心経
はんにゃしんぎょう

(書き下し)

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)は、深(しん)なる般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)を行ぜし時、五蘊(ごうん)皆(みな)なるを照見し、一切の苦厄を度したまへり。

利子(しゃりし)よ、色(しき)はに異ならず、は色に異ならず。色即ち是(これ)即ち是色。受想行識(じゅ、そう、ぎょう、しき)もまた是(かく)の如し。

利子よ、是の諸法の相はにして、生ぜず、滅せず。ず、浄からず。増さず、減らず。

是の故に中に色く、受想行識く、眼舌身意く、色香味触法もし。

眼界もく、至意識界もし。明も(また)く、明の尽くるもし。至、老死く、老死の尽くるもなし。

苦集滅く、智もく、得(とく)もし。得る所しを以ての故なり。菩提埵(ぼだいさった)は般若波羅蜜多に依るが故に、心に(けいげ)し。

きが故に恐怖(くふ)有ることく、一切の倒(てんどう)せる想と遠離(おんり)して、涅槃を究竟(くぎょう)せり。

三世の諸般若波羅蜜多に依るが故に耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼーだい)を得たまへり。

故に知る、般若波羅蜜多は是れ大神呪(だいしんじゅ)なり。是れ大明呪(だいみょうしゅ)なり。是れ上呪(むじょうしゅ)なり。是れ等等呪(むとうどうしゅ)なり。

く一切の苦を除き、真実にして虚しからず。故に般若波羅蜜多の呪を説けり。即ち呪を説ひてはく

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提婆訶

般若心経

(訳例)

(これは、人智をえた般若波羅蜜多についての心経である)

全てを識り、全てを見る者アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩=観自在菩薩)は、深遠なる悟りを得る修行の中でこの世の五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、後述)には実体がないことを明らかにした。この発見により、苦しみは全て解かれよう。

シャーリプトラ(舎利子仏陀のもっとも古い子の一人)よ。この世の形あるもの全てに実体というものはない。実体がないままに形を作っている。形あるものには実体がなく、実体がない故に(あらゆる)形を得る。感じること・気づくこと・思うこと、そして知ること(これら心で作用すること全て)もまた同じだ。

シャーリプトラよ。全てのことに実体はないのだから、全ては生まれもせず、滅することもなく、汚れているということもなく、清らかであるということもなく、増えることもなく、減ることもない。

つまり、実体がいこの世の真実世界においては、全て存在しない。真実世界においては、形作っているもの・感じること・気づくこと・思うことを知ることもなく、・舌・感触・意識(体で感じること全て)もなく、色・・匂い・味覚・ぬくもりも、その相手も、全て存在しない。眼に見えるものと、それによって心のなかで生じたことも、全て存在しない。これら存在しないものへの無知からくる悩みもない。けれどもその悩み自体は尽き果てることもない。この世では老いるということも死ぬということもないままに、老いも死も尽き果てない。苦しみなどない。故にこの世では苦しみを滅するも、それを知ることも、得ることもない。得ることもないから、苦しみを知る者(菩提埵)は、この発見(般若)によって、こだわりをもたず、こだわりがないから、恐れもいだかず、全ての想からはなれて、静かなる心の世界涅槃ニルヴァーナ)へと至るであろう。

こうした過去現在未来(三世)の諸は、この深遠なる発見(般若波羅蜜多)によって、悟り耨多羅三藐三菩提)を得る。

故に知れ。この発見(般若波羅蜜多)を述べるこの大いなるマントラ(まじないの言葉)は、明らかに、この上もなく、並ぶこともない呪(言葉)であると。全ての苦しみはこれにより解かれ、そこには真実のみがあり、偽りはない。
故にこの般若波羅蜜多の言は、

「羯諦 羯諦 (ガテー ガテー:往ける者よ)
 波羅羯諦  (パーラガテー:悟り地に往ける者よ)
 波羅僧羯諦(パーラサンガテー:悟り地を往った者が)
 菩提     (ボーディ:"菩提"である。)
 婆訶   (スヴァーハー:幸いあれ。)」

これが真実悟りの教えである(般若心経)。

※この経典は、成立当時のインドにおける大乗仏教ヒンドゥー教上座仏教の対立を念頭に置いて作られている。後述の訳例等を参照。

※「度一切苦厄」および冒頭の「摩訶般若波羅密多心経」は、現存するの原典および訳以外の翻訳版には存在せず、玄奘訳(および前者は羅訳でも)によって独自に付加されたものと考えられている。また逆に、原典の冒頭にある経典の常套句「一切を知る方に帰命する(namas sarvajñāya)」は玄奘訳(および羅訳)では省略されている(ちなみにnamasは、経文の冒頭に置かれる「南」のこと。ヒンドゥー教徒の汎用挨拶ナマステー(あなたに敬礼します)」のの一つでもある)。

※「摩訶」「般若波羅蜜多」「菩提埵(菩薩)」「涅槃」「耨多羅三藐三菩提」は仏教として、もしくはパーリ語の発音をそのまま漢字で音写したもの。固有名詞では、「観自在」は意訳(古い経典ではアヴァローキタヴァラの例もあり、こちらは「観世音」と訳せる)、「舎利子」は音訳と意訳の混合である(意味は「シャーリ(母親の名。「」の意)の息子」)。

※「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提婆訶」は『大般若経』以外の経典から引用された羅尼(だらに、仏教呪文)。羅尼は暗誦されるのが常だったため、翻訳当時でも正確な原意が失われていた。そのため、ここは音写に頼らざるを得なかった(日本語における「ちちんぷいぷい」みたいなもの)。世に散見される該当部分の解釈は等からの類推であり、あくまで参考の域を出ない。
そもそも羅尼は何度も復唱することで想の地に至ることを旨とするため、その意味をあまり深く考えなくてもよいものなのだ。

※五蘊とは仏陀死後100年の間に分裂した仏教(部仏教)における世界観を認識する手法の一つで、人間の意識を構成する要素を5つに分けたもの。色蘊(人間体や、それを構成する物質)・受蘊(人間が感覚すること、いわゆる五感)・想蘊(「受」で感覚したことで、出てきたイメージ)・行蘊(「想」のうえで、出た何らかの意志。「~したい」など)・識蘊(「受」「想」「行」を総合して出した判断)の5つである。般若心経ではこれすらもとしている。

※参考として、大本(広本)の内容を含んだ説話の訳例はこちら

般若心経が描いているのは、釈迦の前で、上座仏教で最も尊い修行者である阿羅漢(あらかん、アルハン。「(崇敬と布施を受けるに相応しい)者」の意)の筆頭であるシャリープトラに対して、観自在菩薩が大乗仏教の「(実体は存在せず、他との関係の中で現れて見えるということ)」の思想を説いている場面である。

その説では、上座部が悟りを得る上で重要視する十二因縁や四諦をも含む万物が「空」であり、したがってそれらに依らず、羅尼(掲諦掲諦…)を唱え全てが「空」であるという真実般若)を感得する事(波羅密多)こそが最高の悟り耨多羅三藐三菩提)に至るである、とされる。

そして最後に最高の覚者である釈迦が説法の全てを追認し観自在菩薩を褒め称える――つまり上座部を貶めて大乗を賞揚する内容となっている、というのが一般的な解釈である。

流通分

般若心経には、流通分とよばれるエピローグにあたる文が存在する。以下はその現代訳。

それまで瞑想に入っていた釈迦は、その状態から出ると、観音菩薩が述べたことに対して「その通り、素晴らしい」と称賛しました。すると、その場に集まっていた大勢の聴衆はみな歓喜して、その言葉を承りました。
100分de名著 般若心経(著:佐々木 閑)より引用

釈迦十大子の一人で釈迦の信任の厚い舎利子(シャリープトラ)が質問し(序分)、観音菩薩真理り(本文)、最後にお釈迦様がそれにお付き与えて(流通分)、般若心経は終わる。

「空」とは何か? 悟りとは何か?

注意:般若心経は宗などによって解釈が大きく変わります。以下はあくまで解釈の一例にすぎないことに留意してください。般若心経は歴史的に各宗の宗祖や名僧とされるレベルの方々が解釈を出しており、これらは教義の根幹となっている場合も少なくありません。間違っても、お坊さんや熱心な信仰を持つ人に対して、その宗の解釈を否定したり議論をふっかけたりすることはしないように。ことは宗の教義にかかわることなので、大変な失礼となります。(一つ間違えば、喧嘩どころの騒ぎではすまないことになりかねません。)十分ご注意を。

さて、般若心経の本質であり、有名な格言色即是空 即是色」。ここに説かれている「空」というものは一体なんであろうか。ちなみによく勘違いされるが、「空」は「」と同義ではない。むしろ「」ですら「空」によって成り立つ現のひとつ(色)に過ぎないとされている。

長らく仏教界ではこの「空」を説明するのには多大な労苦が費やされてきており(折観)、その最も良いテキストが『王問経(ミリンダ王の問い)』の典だと言われている。ここではその考えを借用して、「空」をごく簡単に説明するのに、パソコンのたとえ話(方便)を用いるとしよう。

パソコンを例にとれば、デスクトップパソコンバラバラ分解してしまえば、それはもはやパソコンとは呼ばれず、それぞれの部品にしても、最「かつてはパソコンであった」パーツに過ぎなくなり、「パソコンという存在」は消えてしまう。また、パソコンキーボードからキーを幾つか抜いてもパソコンと認識されるように、部品そのものにもその総体にもパソコンという一個のアイデンティティを示す実体があるわけではない。

だがしかし、一度バラバラにした部品をもう一度組み立て直せば、先程まで消えていた「パソコンという存在」は再び々のの前に戻ってくるのである。

ならば「パソコン」という概念は、一体全体どこの何を表現した言葉なのだろうか。ディスプレイだろうか? マウスだろうか? キーボードだろうか? HDDだろうか? あるいはもっと小さなICチップなどであろうか? 答えはいずれも否である。先に挙げたうちの、そのどれもが「パソコン」そのものではない。しかし、いくら否定したところで、パソコンというものがこの世に存在しているのもまた厳然とした事実なのである。では、パソコンとは一体何なのだろうか? パソコンとはこの世に「ある」のだろうか、それとも「ない」のだろうか。答えは簡単、「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。

つまり、"パソコン"と呼ばれるものは様々な部品がしかるべき因縁で組み合わさった中に垣間見える『現概念)』なのである。当然、部品やその集合体にパソコンという実体が存在するわけではない。したがって「」というものも、パソコン分解した途端に発生する「空」という本質の一側面に過ぎず(「空」⊃「」)、パソコンは最初から「ある」とも言えるし「ない」とも言えるのである。「色」とは「現」のことであり、「空」とはこの現を引き起こす仕組みそのものをしているのである。

この考えを応用すれば、基本的にはこの世の森羅万象すべての実在を否定することが出来る(「空」≒「非実在」≠「」 であることは、これでもうお分かりだろう)。

あらゆる事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在し、そしてその本質は人が理解できない次元に存在する。これが般若心経の本質、「色(現)即是(すなわちこれは) 即是(すなわちこれは)色(現)」である。この世の本質も実体も、実は概念上の物でしかないのである。

その上、ブッダはこの「空」の考えを流用し、最終的には当時信じられていたの存在さえも否定するに至った。詳しい説明は省くが、ブッダ瞑想の末に、この世において輪廻転生を繰り返しているのはや霊ではなく、「自分」という潜在意識・記憶そのものにしがみつこうとする人の意志そのものであると看破した(法相宗の考え方がこれに近い)。この「自分という存在そのものへの執着」を捨てることが出来れば、転生するはずの「自意識」そのものが消失するため、人間は二度と生まれ変わることはなくなり、輪廻転生の輪から解脱し、何度も生まれ変わって苦しみ、傷つくことはなくなる……というわけである。つまり仏陀想した原始仏教は、「二度と生まれ変わらないこと」を的として生まれたのである。

悟り」とはつまりこのことである。ブッダは、人間転生する仕組みと転生を信じる理由、そしてその転生の仕組みを生み出している人間の深層心理の構造そのものを「悟った」のである。

……と、このような考え方を会得する過程までが『悟りを得る修行』なのであって、悟った後はこの悟りを具・抽ひっくるめた万物に適用し、それを単なる知識をえて感得しなくてはならないのであるから、大乗仏教とはいえ上の正しい涯に至るは決してなだらかな訳ではない。つまり、「悟り」はすごろくの『上がり』ではなく、悟っただけではどうにもならないのである。そういうわけで、人は悟った後、今度はどのようにその理論に即して煩悩や執着を捨てていくか、という問題にぶち当たることになる。

そういうわけで、以後この「悟り」を得るための方法論は枝分かれし、その方法論の違いは本邦に多数の仏教を生んだ。「個人の中に大宇宙再現し、その中に涅槃寂静の地を発見する」とする真言宗、「悟り人間しもの中に最初から備わっているのだから、それを修業によって引き出す」ことを的とした曹洞宗、臨済宗などの宗などがその好例である。

この記事を熟読された皆様は今、まさに悟りの入り口に立ったことになるのだ。者たちよ、悟りと共にあれ。

ちなみに…

ちなみにどの宗でも唱えてもいいと思われがちだが、浄土真宗(全宗)は「本願他如来は信じる者を全員を救ってくださる(その如来に報いるために「南」とひたすら唱えよ)」として浄土三部経を最重視する立場であり、日蓮宗日蓮正宗創価学会なども含む)は「法華経を第一にせよ(つまり般若心経を唱える暇があったら法華経を唱えなさい)」として妙法蓮華経を最重視する立場である。このため、これらの宗では読む(黙読する)ことはあったとしても唱えることはしない。(なので、浄土真宗日蓮宗のお寺や行事で唱えることはしないように…)もっとも、これらの宗はあくまで(自分たちの宗としては)もっと大切なお経があるから般若心経を唱える必要はないとしているだけであり、教義として般若心経の内容を否定したり敵視してるわけではないので誤解しないように。これらの宗のお坊さんが般若心経の注釈本を書いたり解説したりすることは、普通に行なわれている。

また、般若心経は大乗仏教の経典であるので、上座仏教寺院日本では希少だが、タイなどでは上座仏教流)で唱えるのも大変な失礼になるのでしないように。

一方、ネット界では

くからこれの聞を録音した音ファイルを利用したMADムービーが作られたりしていた。
ニコニコ動画でも例外ではなく、「ここに菩提を植えよう」的なカオスムービーも作られている。

また、その潮流とは別に様々なミュージシャンが般若心経をカヴァーしている。

関連動画

   

 他言語版

関連商品

関連項目

関連リンク

【スポンサーリンク】

  • 59
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

般若心経

299 ななしのよっしん
2019/06/02(日) 12:55:26 ID: mEQ2TeRMxq
たぶん偽経とか偽史のを侮っているのだと思う。歴史を紐解いていくと
定期的に偽史が生じていて、何らかの的を持って作成される。
うっかり外すと問題を引き起こす事が多い。

有名なのがガリレオ・ガリレイ文対話に関わる一件でしょう。真実を書いたのは
良いけど真実を知った民衆は教会の言うことを聞かなくなり大混乱に陥った。
きっと般若心経もなにか作成したくなるような理由があったのではないかな。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
300 ななしのよっしん
2019/06/03(月) 00:29:35 ID: SeZrj1z7Wv
大乗仏教が成立する前の初期仏教の教えは実は結構厳しくて
「この世は苦しみばかりだが、その事実は変えることは出来ない
特別な修行をして自己を変えるしかない。努して苦しみに打ち勝て。」
って感じだった。
こういうとあれだが、現代の自己啓発本みたいで言ってることはカッコよくてもっともなんだけど、これで救われるのはエリートだけ。
それを大乗仏教
日常生活において善い行いをするなど功徳を積むめばみんなになれるよ」
毎日念仏唱えたり、写経したりすることも功徳になるから、これをすれば皆救われるよ」
でもできることにどんどん置き換えていった。
キリスト教の「信じれば神様が救ってくれるよ」に近くなって、宗教らしい宗教になったとも言える。
般若心経が成立したのもその過程で「普通の人でもみんな救われる宗教められていたってことだろうね。

まあ、近代になるとガリレオの例みたいに宗教科学の関わり方の問題が発生してきて、今度は逆に義が嫌われる傾向が生まれるんだけどね。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
301 ななしのよっしん
2019/06/19(水) 23:01:11 ID: e31ykajIi2
釈迦の四諦すら否定するって凄いわ
👍
高評価
0
👎
低評価
0
302 ななしのよっしん
2019/09/28(土) 16:18:55 ID: vyDUZ3Ildv
仏法は筏みたいなものってアーガマにあるし、ま、多少はね?
👍
高評価
1
👎
低評価
0
303 ななしのよっしん
2020/03/02(月) 23:28:46 ID: 0q2RFTgxLU
太古の昔に人間がこんな思想に至ったってのがすげーよな。「空」概念とか。
👍
高評価
1
👎
低評価
0
304 ななしのよっしん
2020/04/26(日) 11:50:37 ID: pJuFw6I8oy
曹洞宗が重視しているのは『性』(関連項目山川木悉有性)であって、『お悟り(心身脱落)』は重要性が減少します。
悟り性の関係性及び、お悟り自体が「何らかの標であるか結果に過ぎないか」という観点は、管打坐の意義にも繋がる教的な問題でもあります(一般的には、義に伴う勤行自体をめていますが)。
謹んで訂正を提案します。

>>303
数学概念の『0』にせよ、0との対としての『』にせよ、0やとは別個の概念である『』にせよ、古代インド人の智恵は全世界を照らしている様に思う…
👍
高評価
1
👎
低評価
0
305 ななしのよっしん
2020/04/27(月) 09:22:44 ID: nDG9eACjN+
偽経説は、たしか、

今まで、般若心経は、
他のもっともっと長い般若系の経典(サンスクリット語)を編集して短くした般若心経サンスクリット語
訳したもの

と考えられていたのが、実は、

他のもっともっと長い般若系の経典(サンスクリット語)が訳されたものを、編集して短くした般若心経漢語)が、
サンスクリットに訳し戻されて本場に逆輸出されたもの

みたいなことだったような気がする。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
306 ななしのよっしん
2020/04/27(月) 09:48:35 ID: nDG9eACjN+
つまり、インド映画が長いからと言って他で勝手に短く編集しなおしたら、
それは果たしてインド映画なのか、みたいなこと
👍
高評価
0
👎
低評価
0
307 ななしのよっしん
2022/03/02(水) 23:29:18 ID: i3g6yZVtIa
>>sm40110860exit_nicovideo
👍
高評価
0
👎
低評価
0
308 ななしのよっしん
2023/07/09(日) 09:13:59 ID: tUgvoa+eJI
>>305
サンスクリット語の文法がね…
ネイティブじゃなくて外国人翻訳したのでは?ってレベルだから
👍
高評価
0
👎
低評価
0